???、命の価値《ソラ》
《ソラ》
落ちて行く感覚。塗り潰された黒いペンキ。散りばめられた星空。
そして、見えた。
エルコトルでヒューを通して見た、黒い髪に青い瞳の男。立派な身なりの男だ。
視界はザラザラとし、不鮮明だ。雑音だらけで、音すらも不明瞭だ。しかし、エルコトルの時よりも、男の声が聞こえる。
「ヒュー、誇らしい我が子よ。」
男の声を頼りに不鮮明な視界を動かすと、少年が立っていた。男と同じ、黒髪に青い瞳の少年だ。上品で清潔そうな、水色のシャツを着ている。
「父上、聞いてくださいっ。また新たな殉教の教えを学びました。僕は必ずや、ソクアヴェスタに勝利をもたらしますっ。」
ヒューと呼ばれた少年は、生き生きと父に告げる。今の薄紫の髪と、血のような赤い瞳とはまるで違う。そして弾むような明るい声は、ヒューから邪気を抜いたような、純粋なものだった。
「ヒュー。」
「母上っ。」
声のほうを向くと、黒い髪に紫色の目をした、優しそうな女が立っていた。女も身なりが良く、胸元に大きな青い宝石を着けている。
「母上っ。未来の英雄が現れましたよっ。」
ヒューは腰に手を当てて、茶目っ気たっぷりに笑う。
「ふふっ。あなたは永遠神様の加護を受けた、特別な子。ソクアヴェスタの、そして、希望教における、まさしく希望となるでしょう。」
母はそう言って、ヒューの両目の中央に指を当てた。
「母上、今のは?」
「あなたが世界一幸せになれる、おまじないですよ。」
それを聞いたヒューは、照れたように笑って、廊下を走り出す。そんなヒューを、父と母は微笑んで見守っている。
しかし、ヒューが廊下の角に姿を消すと、二人の顔から微笑みが消えた。
「あなた、ヒューの刺青は完成しております。」
妻からの言葉を受け、男は頷く。
「ああ、いつでも【放てる】な。」
男の意味深な言葉のあと、視界は暗転した。
次に視界が明るくなると、ヒューは三人の子どもと輪になって座っていた。視界や音は、相変わらず不明瞭だ。
ヒューは世界地図を指差して言う。
「さあ、問題です。トール大陸のここと、ここと、ここの名前はなーんだ?」
「はい、お兄様。」
「はい、ゲイル。」
ゲイルと呼ばれた少年は、青い瞳を輝かせて答える。
「ここはクルエルですっ。」
「素晴らしいっ。褒めてつかわそう。」
ヒューは手を叩いて、大げさに褒める。
「はい、お兄様。」
「はい、クオレ。」
今度はクオレと呼ばれた少女が、微笑んで答える。
「ここはジオリダムですっ。」
「いいぞっ。頭を撫でてやろう。」
ヒューはニコニコ笑い、クオレを撫でる。
「あい、おにーたま。」
「はい、メルノ。」
一番幼なげな、メルノと呼ばれた少女が舌足らずで答える。
「ここは、ぐらんでぃえです。」
「素晴らしい。なんて優秀な弟と妹たちなんだ。」
ヒューは大きく腕を広げ、三人の子どもを抱きしめた。四人の兄弟は、声を上げてはしゃいでいる。
「ちなみに、もう一つ。ここは何と言う国かな?クオレ。」
「はい、レシオです。」
「いいぞいいぞーっ。」
ヒューは妹の頬をムニムニといじる。クオレはニコニコと笑っている。
「さあ、最後は難問だ、ゲイル。この四つの国に共通していることは何だ?」
「はい、人も物も大量に出入り出来るような、大きな港があることです。」
「素晴らしいっ。すごいぞっ。なんて優秀な弟と妹なんだ。ソクアヴェスタ王家の未来は明るいぞ。」
ヒューは弟や妹の頭を、髪の毛が乱れるほど掻き撫でた。子どもたちはキャッキャと声を上げる。
「ちなみに、なぜ僕がこの問題を出したかと言うとだよ。ソクアヴェスタが世界を支配するとき、港が拠点となるからだ。」
弟や妹は、兄の言葉に真剣に耳を傾けている。
「グランディエもアリアレジスも所詮、悪しき姫神教会の傀儡さ。僕たち希望教の国の者が、世界を正しい未来へ導くんだ。」
そう言うと、ヒューはハモニア大陸を指差して言う。
「まあ、まずは姫神教会を盾に戦う、同じ大陸のヴァルクシェンナに勝たないとね。ここさえ落とせば、姫神教会も勢いを失う。希望教会をヴァルクシェンナ、そしてアリアレジスと、大国を中心にジワジワと浸透させるんだ。」
そんな話をしていると、一番幼い妹のメルノが、ヒューの膝の上にちょこんと座る。
「んー?ちょっと難しい話だったかい?」
ヒューはメルノの頬を、ムニムニといじる。
「まあ、何を言いたいかと言うと、父上と母上、そして、希望教を信じている限り、このソクアヴェスタが揺らぐことは無い。何よりも、このお兄様を信じるといいさっ。」
それを聞いたゲイルとクオレはニコッと笑って頷く。
「何と言っても、このヒュー様は永遠神様の加護を生まれながらに受けた、ソクアヴェスタの次期国王だからね。ゲイルもクオレも、それにメルノも、僕がずーっと守ってあげるさ。」
ヒューは誇らしげに、高らかに言う。その青い瞳に迷いは無い。
そして、視界は暗転した。
次は、視界が開ける前に、激しい武器の音と、猛々しい声が耳に飛び込んできた。
目を開けると、それは戦場の光景だった。不明瞭な視界だが、その迫力に飲み込まれそうになる。
視界いっぱいに、騎馬や兵どうしがぶつかり合い、魔道兵による一撃が派手に弾け、人が吹き飛ぶ。
「父上、あそこの騎馬隊が、部隊の横腹を狙っています。」
ヒューが鎧を着て、戦場の高台で叫ぶ。父であるソクアヴェスタ国王も、武装姿でそちらに注目する。
「よく気付いた、ヒュー。殉教の魔道兵の力を、あそこへ。」
国王の指示を受け、兵が手を斬る。手の平から血が流れ、その血が目にも止まらない速さで、殉教の魔道兵の一人に届く。
すると、フードを深く被った殉教の魔道兵たちが一斉に手を挙げる。手を挙げたことで袖が落ち、その腕には、刺々しい刺青が見える。妖しく黒い渦が、魔道兵の頭上に広がる。
「いいぞっ。いけっ。」
ヒューが叫ぶと同時に、魔道兵が手を振り下ろす。そして、魔道兵の頭上から泥のような影が降り注ぎ、敵の騎馬隊を飲み込む。
「よしっ。」
ヒューが拳を握る。相手の軍勢は異変を察したのか、踵を返して退散していく。
「いいぞ、ヒュー。お前は魔道だけでなく、戦況を読む力にも優れているようだ。」
国王がヒューの頭に手を乗せる。
「そりゃあ、父上。僕は父上の長男ですよ。そして、ソクアヴェスタの次期国王です。このくらい朝飯前です。」
ヒューは胸を張って笑う。
「お前がいれば、ヴァルクシェンナはもちろん、世界の全てをソクアヴェスタのものとする日も近いだろう。頼りにしているぞ。」
父にそう言われたヒューは、一層の笑顔を表して、照れ臭そうに笑う。
そして、視界は暗転した。
次に視界が開けるには、時間がかかった。どこか居心地が悪く、足元からゾワゾワと、虫でも這い上がるような、強い嫌悪感に襲われる。
少しずつ、聴覚が何かを捉える。
「ソクアヴェスタに永遠を。」
「ソクアヴェスタに永遠を。」
「ソクアヴェスタに永遠を。」
何人もの、老若男女を問わない声が、同じことを呟いている。それは囁くような、呟くような、低い唸りだった。
頭がクラクラして目を開くと、真夜中だと言うのに、一面に人だかりが出来ていた。その視線の先には、一段高い木製の台があり、その上にヒューが立っていた。裸足で、白いシャツ姿だ。
「ソクアヴェスタに永遠を。」
その言葉を注がれるヒューの瞳は、何も映していない。青い目は暗く、頬には涙の痕が見える。
そして、ようやく俺は、ヒューの隣の物体を認識した。
断頭台だ。鋭いギロチンの刃が、鈍く光る。
ヒューの隣には、ソクアヴェスタ国王が立っている。国王は背筋を伸ばし、威厳を保っている。
「父上…。」
ヒューは暗い瞳で父を見る。しかし、国王は目を合わせず、ジッと前だけを見据えて言う。
「お前は、世界のためにその命を捧げるのだ。」
「王子殿下、失礼いたします。」
そう言って、兵はヒューの両腕を抱える。そして、強引に彼の頭を断頭台に抑え込む。
「嫌だっ。僕は、ソクアヴェスタの次期国王だ。こんな、死ぬなんて嫌だっ。」
ヒューは涙を流し叫ぶ。
「ソクアヴェスタに永遠を。」
「ソクアヴェスタに永遠を。」
断頭台を囲む民衆は、それだけを、からくり人形のように呟く。
そして、ソクアヴェスタ国王が手を挙げる。
「嫌だっ。死にたくない。父上っ。」
ヒューの懇願を聞かず、国王は眉一つ動かさずに手を振り下ろす。同時に、勢いよくギロチンの刃が落ちる。
…ヒューの頭は、首が断たれ、体から切り離されて転がった。
ヒューの目は見開いたまま、溢れ出る血を受けて、髪も目も、赤く染まっていく。頬には変わらず涙の痕があるが、血が吹き溢れ、涙と血が混ざっている。
「ソクアヴェスタに永遠を。」
「ソクアヴェスタに永遠を。」
まるで呪いのような声が重なるとともに、記憶は暗転し、音も途切れた。
すぐに、上に引っ張られる感覚がした。過去からどこかへと吸い上げられる。
「…っ。」
強い頭痛がして、つい、しゃがみ込む。視界は鮮明で、どうやら俺は、現代に戻ってきたようだ。
「ソラ、大丈夫…?」
オルハが俺の肩に手を添えるが、俺は顔を上げられない。俺は、ナイフを持っていない手で顔を覆う。
「ソラ、何を見たんだい?」
ヒューの小馬鹿にしたような、しかし、冷たい声が、俺の頭に降る。でも俺は、しばらく動けなかった。息を整えるのに必死だった。
少しして、ようやく声を発する。
「ヒュー、お前、本当は、黒い髪で青い瞳をしていたんだな…。」
俺は声を振り絞って言う。なぜか、目の前の床が濡れていく。涙だ。俺は、理由も分からずに涙を落としている。
「父親、母親、ゲイル、クオレ、メルノ…。お前は、王家に生まれ、優しい家族と暮らしていた。」
そう言って顔を上げると、ヒューは見たことの無い表情を浮かべていた。小馬鹿にする、いつもの様子は一切無い。弟たちに向けた明るい表情でもない。断頭台の横にいた、空っぽの表情でもない。
それは、勘でしか無いが、俺だけが分かる感情な気がした。しかし、俺はその感情の名前が分からない。ヒューも、言葉に出来ない何かを赤い瞳にたたえていた。
「ソラ、どうして君が泣いているんだい?」
ヒューが首をひねり、問いかける。
「分からねえ、分からねえけど、涙が出る…。」
俺はしゃくり上げて泣く。涙は次々と頬を濡らす。
「僕はヒュー=ソクアヴェスタ。ソクアヴェスタ、最後の王位継承者さ。」
そう言って、ヒューは厚く黒い衣装を引っ張り、布で隠された首を見せてきた。首には、頭と体を縫い合わせたような糸の跡が、首を一周するのが見えた。その生々しさに、オルハが小さく声を上げる。
「僕は生まれた時から、殉教の教えを体に、脳に刻まれた。希望教が最高神とする、永遠神の申し子としてね。僕は世界で一番の、殉教の魔道士さ。」
ヒューの顔には、いつもの歪んだ笑みが戻っている。しかしそれは、今までで一番の、何もかもを寄せ付けない暗く深い歪み、深淵を思わせる笑みだった。
「どうして、お前がギロチンにかけられたんだ?」
泣きながら、息継ぎをしながら、俺は問う。
「オディオを滅ぼすためさ。」
ヒューは冷たい眼差しで答える。
「殉教の教えは、自分の何かを捧げて、相手の何かを侵す魔道だ。僕は、オディオを滅ぼすために捧げられたのさ。」
その説明に、俺の涙は引き、息も止まる。
「すごいでしょう?僕一人の力で、大国が一つ、一夜で滅んだんだ。しかも、二十年近く経った今でも、草一本生えない呪われた大地となっている。僕にはそれだけの力があったんだ。」
そう言うと、ヒューはネジが外れたように、高く乾いた笑いを天井まで響かせる。笑い声は、広い空間で虚しく落ちる。そして急に、笑いを止め、糸がプツンと切れたように、声を低くして言う。
「全てが馬鹿馬鹿しい。結局、ソクアヴェスタもヴァルクシェンナも滅んで…。何もかも、人間全てが愚かしくて仕方ない。」
俺は、ヒューの考えと情緒に振り回される。しかし、食らいついて問いかける。
「なんで、生き返ったんだ?そして、どうして今、希望教の人間となっているんだ?」
俺の問いに、ヒューはゆっくりと目を向けて答える。
「一つ目は内緒さ。二つ目は、やはり、姫神教会が、頭がおかしいからさ。」
ヒューの口元は、歪んだ笑みを浮かべる。
「勝てば官軍、と言う言葉を知っているかい?姫神教会は、何かしらの卑怯な手段を使って、精霊戦争に勝利した。そして、今や世界を支配している。アリアレジスの内部を操るほどにね。」
「何かしらの、卑怯な手段…?」
俺が問うと、ヒューは一瞬、乾いた笑いを漏らして、言う。
「アリアレジスの皇王でさえ、姫神教会の言いなりさ。ソクアヴェスタがそう簡単に、ヴァルクシェンナに負けるはずが無い。絶対に、姫神教会とヴァルクシェンナが、卑怯な手を使ったんだ。」
ヒューの赤い瞳に、俺は負けじと問いかける。
「ヒュー、お前は、ソクアヴェスタを、父親を恨んでいないのかい?オディオを滅ぼすために、捧げられるなんて…。」
「正直、もはや何の感情も無いね。」
俺の問いを半ば遮るように、ヒューは答える。そして、続ける。
「もうね、僕は未来だけを見ているんだ。僕が描く未来は、姫神教会の呪縛から解き放たれて、希望教の元、どんな弱者も当たり前に生きられる未来さ。」
ヒューの口元は、変わらずに歪んでいる。しかし、赤い瞳はまっすぐで、俺の反論する余地は無い。そして、ヒューは呟く。
「悪しき姫神教会を滅ぼすために、君たちの力が必要なのさ…。」
「それは、どういう意味なんだい。」
俺が問うと、ヒューはゆっくり視線を合わせてくる。そしてまたも、これまでと違う、弟や妹に向けていたような柔らかい表情で言う。
「ずっと言っているだろう。僕は君の希望になる。君も、僕の希望になってくれよ。」
俺は、言葉を無くす。ヒューは小馬鹿にして試すような口調はとるが、嘘はついていない。今の彼の話し振りには、か細い希望を求める、らしくない色がうかがえた。
「朝だ。眠くなったし、僕は退散するよ。」
ヒューは背を向けて、歩き出す。
「ヒュー…。」
俺はアルデールのときのように、見通しもなく声をかける。ヒューがこちらに振り返る。
「ソラぁ、僕の記憶をここまで見るなんて、成長したじゃないか。」
ヒューが背後の扉を開けながら言う。扉からは、朝日が暗い屋敷に入り込む。
「でもね、まだまだ成長した君の力が必要なんだ。生き延びて、また会おうね。」
ヒューは、じゃあね、と言って、朝日に溶けていく。
残された俺とオルハは、しばらく立ち上がる力を失っていたが、踏ん切りをつけて、やがて扉へと足を運ぶ。
外だ。ようやく、屋敷の外へ脱出出来た。
「あ、あそこ。アリアレジスの城下町…。」
オルハが指を差す。その方向へ目を向けると、大きく立派な外壁と、王城を中心とした城下町が見えた。街は、朝日を受けてクッキリとした陰影を生み出している。
「行こうぜ、オルハ。」
俺とオルハは、草原へと足を踏み出した。草原は、地平線の彼方から顔を出す太陽に照らされて、キラキラと煌めいている。
俺たちは無言のまま城下町を目指して、ひたすらに歩いた。とは言え、頭のなかはぐちゃぐちゃだ。ソロの過去、ヒューの過去、そして、人を殺した事実。
どれも言葉にしたら、また涙が溢れそうで、しかし、どちらにしても正気でいられる気もしない。
ふとその瞬間、俺は歩きながら、足元が泥道のように重いのを感じた。一歩を地面から離すごとに、何かがまとわりついて来る。
これが、煉獄なのだろうか。
悪い生き方をした人間が、死後にたどり着く場所。戦争で人を殺したティアの息子ユージーンは、煉獄へと向かうことを恐れていた。
たった一人。しかし、一人。俺は命を奪った。あの瞬間、俺は、俺でなくなった気さえする。
命のやり取りを、俺はどこか他人事のように感じていたのだ。旅の途中、あんなにもカイたちが、自身を擦り減らして戦って、命を奪っていたというのに。
情けない。俺は覚悟も実感も無かった自分が情けなく、また喉が熱く、ギュウっと絞られる感覚になる。でも、絶対に泣かない。泣いたところで、命は戻らないし、煉獄も遠ざからないのだ。
途中、俺たちは川を越えた。きっと、リヤがソロを抱いて飛び込んだ川だろう。しかし、俺もオルハも、何も言わずにただ川を進んだ。
二、三時間、会話も休憩も無く歩き続けて、街の東門にたどり着いた。俺もオルハも、疲労でボロボロだ。
外壁の上の、見張りの兵士が声を張る。そして、数人の兵が、俺たちが何かの被害に遭ったのだと察し、清潔なタオルと水を持って迎えてくれた。
東門を入ってすぐの詰所で、俺とオルハは冷たいスープを飲む。味が濃く、疲れた体に沁みる。
「ソラっ。」
詰所の扉を強く開け、四人が入って来る。マキを先頭に、カイとカスガ、ユフィが続く。マキは、俺がスープ皿を持っているのなどお構いなしに、俺を強く抱きしめる。
「ま、マキ、やめてくれよ。恥ずかしいよ。」
俺はそう言って照れながら、マキを抱き返す。
「無事で良かった…。本当に…。」
マキが噛み締めるように言う。俺とマキは体を離し、俺が照れ隠しで軽口を言う。
「なんだい、舞台の髪型やワンピースじゃないのかい。あれは、なかなか似合ってたんだけどな。」
「もう、何を言っているの。ソラ、あなたを探していたのよ。」
マキはそう言うと、俺の頬を両手で包む。そして、カイが懐から出したハンカチで俺の鼻水を拭く。
「なんじゃい、汚いのう。」
カスガがからかうように、俺の耳をつまむ。ユフィはそんな俺たちを、心なしか微笑んで見ていた。
「オルハ。」
「お兄ちゃん。」
こちらの兄妹は、オルハが一方的に兄の胸に飛び込んだ。ソロはオルハの頭を柔らかく撫でる。しかし、すぐに身を離して、オルハに問いかける。
「オルハ、兵の数は、種類は。場所はどこだい。」
畳み掛けるようなソロの質問に、オルハは分かる範囲で、たじろいで答える。
「やはり希望教か。掃討して来る。」
ソロはそれだけを言うと、ためらいも無く詰所を出ようと一歩踏み出す。
「お兄ちゃん。」
オルハが小さく呼びかける。それはまるで、小さな子どもが親に置いていかれるのを、必死に止めようとする声のようだ。ソロが振り返る。
「お兄ちゃん…。き、気をつけて…。」
オルハは何かの感情を飲み込んだ。ソロは、ああ、と短く返事をする。
「ソロ、一人で行くのかい。」
今度はカイが止める。
「ああ、場所はよく把握している。一人で充分だ。」
「力を貸すぞ。」
一人で行こうとするソロに、ユフィが言う。カイ、カスガ、マキも頷く。
ソロは、彼らの顔を一瞥し、答える。
「いや、問題ない。オルハと共にいてほしい。」
目を逸らしながらそう言って、ソロは誰の意見も聞かない勢いで歩き出した。
ソロは、掃討、という言葉を使った。また彼は、煉獄の道を、深くへと突き進むのだ。
詰所の扉は閉まった。オルハはその扉を、少しの間見つめていた。戦士の勇ましい出立を見守る瞳では無い。たった一人の兄の、暗い旅路を想像しながら、しかしそれに何の口も挟めない、無力な少女の瞳だった。
俺とマキ、ユフィは一度、宿へ戻った。俺の顔や髪、それに服が、あまりにも汚れていたからだ。
顔や髪、それに手は、洗っても洗っても、流れる水が赤く見える。やがて、水が透明になったのに、何も落ちていない、髪の隙間や肌の奥まで、血が入り込んでいる気がした。
マキとユフィは、何も聞いて来ない。井戸の隣でひたすらに自分を洗い流す俺を、ただ待ってくれていた。
しばらく洗って、俺は諦めがついた。俺から流れる水は、目には透明に見えても、本当には透明になる気がしない。そして、ユフィが用意してくれた、宿の貸しシャツに着替えた。
俺たちは、東門へ向かう。オルハが、ソロの帰りを待つと言って離れないからだ。カイとカスガが、念の為、彼女の側についている。
「オルハ、タオルと紅茶、いる?」
門の横に座り込むオルハに、しゃがんで目線を合わせたマキが問う。オルハは何かを考えて、力無く微笑んで言う。
「うん、ありがとう。マキ。」
マキは水筒からカップに紅茶を注ぎ、オルハに渡した。オルハは一口、少量を口に含んで、瞬きを多くする。
「美味しい。ありがとう。」
「パンも買って来た。食べるか?」
ユフィが紙袋から、シンプルなロールパンを見せる。
「…ごめんね、パンは大丈夫。」
オルハの気持ちは分かる。俺も今は、何かを咀嚼するようなものは食べたくない。
オルハは俯いて言う。
「…私一人で大丈夫だよ。」
「いや、一人には出来ないよ。ソロにも頼まれたしね。」
カイが柔らかい声色で答える。ソロに頼まれたのもあるが、オルハは屋敷から戻って来たままの姿で、髪や衣服が汚れている。顔も、明らかに疲れている。放っておいては、またどこかへさらわれてしまいそうだ。
「オルハ、俺たち一緒に夜を乗り越えたどうしだぜ。」
俺がそう言うと、オルハが暗い瞳をこちらへ向ける。
「もう、他人じゃない。ソロもそうさ。一緒に待とうぜ。」
オルハは泣くのを堪えるように、唇を噛んで頷いた。
少しして、衛兵にここでは邪魔だと言われ、俺たちは門の外に出た。そして、外壁を背に、遠くの屋敷のほうを見た。しかし屋敷は見えず、青々とした草原が広がっているばかりだった。
夏の風が、無言の俺たちを撫ぜる。アリアレジスが北国だからか、湿っぽい暑さは無く、爽やかな風だ。
「少し、私の話をしてもいい?」
しゃがみ込むオルハが俺たちを見上げ、弱々しく尋ねて来た。俺たちは頷く。
「ありがとう。ソラには少し話したんだけれどね、私、子どもの頃はアリアレジスの王城に住んでいたの。ディーン皇王をおじ様だなんて呼んで。」
オルハの声は小さいが、澄んだ声で、俺たちまで通る声をしていた。
「本当の両親は知らない。けれど、ヴァルクシェンナの生まれみたい。どうして、アリアレジスの王城にいたのかは分からないけれど。」
オルハの言葉に、俺は勝手に親近感を抱いた。クルエルの悪夢を信じるならば、俺の父親はヴァルクシェンナの者らしいからだ。
「お兄ちゃんは、ずっと旅をしていたみたい。理由や目的は分からないけれど。そして、王城に来るたびに、詩集だとか装飾品だとか、お土産を持って来てくれたの。私はお兄ちゃんが最初は怖かったけれど、だんだん、本当は優しいお兄ちゃんが大好きになっていた。ディーンおじ様も優しくて、私は幸せに暮らしていたの。」
その瞬間、強い風が吹いた。視界一面の草が、同じ方向へ倒れる。風はすぐに止み、オルハはまた話し始めた。
「ある夜、私が寝る支度をしようとしたとき、希望教の人たちに襲われたの。私を守るために、三人のお手伝いさんが命を落とした…。」
オルハの紅い瞳が、遠くを見つめる。
「すぐに、おじ様が助けてくれて私は無事だった。そして、お兄ちゃんが現れて、その夜のうちに私たちは二人で旅に出たの。希望教から逃げるために。」
オルハがそれを言い終えると、午後五時を告げる鐘が、街から聞こえた。労働者の仕事終わりを告げる鐘だ。オルハは続けていい?と問うので、俺たちは頷いた。
「旅は、なんて言えばいいのか…。うん、辛かった。寂しいし、さらわれるのが怖いし。朝も夜も関係なく、いろいろな手段でさらわれるの。そして、さらわれたら、希望教の人が私に言うの。生きているだけで罪、煉獄が待っているぞって。」
エルコトルで殉教の魔道士が、同じようなことを言っていたのを思い出す。しかし、それらの言葉は、ずっとオルハにそぐわない気がする。
「一番は、お兄ちゃんが、たくさん人の命を奪ってしまうことが辛い。お兄ちゃんは、私をさらった人を、何の躊躇いも無く殺すことが出来るの。普段は寝付けない私に、昔話や詩を暗唱してくれる、優しいお兄ちゃんなのに。」
俺はそこで、あの屋敷で見た無邪気な少年だったソロを思い出す。一体、何が彼を、そうしたのだろう。母と川に飛び込んだことで、心を凍らせてしまったのだろうか。
「いつの頃からか、私、消えてしまいたかった。」
オルハは、特別な変化の無い口調で呟く。俺たちは動揺し、五人で顔を見合う。
「私が消えれば、お兄ちゃんは明るい道を生きて行けるんじゃないか、一人の優しい人間でいられるんじゃないか。こんなこと、おじ様にもお兄ちゃんにも、とてもじゃないけれど言えない。」
俺は、オルハの目線にしゃがみ、問いかける。
「どうして、俺たちには話せたんだい?」
すると、オルハは俺を見て言う。
「ソラが、私と同じ、糸の記憶を見る人だったから。」
「糸?オルハも、銀の糸を?」
ユフィが驚いて問う。オルハは顔を横に振って答える。
「ううん。私は金の糸。喜びの記憶を見て、人々の栄光の記憶を伝えるのが宿命だって言われているの。」
「そりゃあ、ソラと正反対じゃな。」
カスガの言葉に、俺が頷く。
「金の糸の記憶には、少し救われたかな。精霊戦争や紛争に翻弄されながら、助け合って生きていく人々や、困難を乗り越える人々の姿に、私は励まされたの。お兄ちゃんに話すと、少し悲しげな顔をすることもあったけれど…。」
オルハが俯いて話す。彼女はやはり兄に対して、引け目や、埋め難い隔たりを感じているようだ。
「ソロの生まれや、オルハと出会うまでのことは、何も分からないのかい?」
カイが問いかける。オルハは一瞬、躊躇って答える。
「昨晩までは、知らなかった。」
「それは、どういう…」
「お兄ちゃんっ。」
カイの問いを遮って、オルハが大きな声で立ち上がる。声のほうを見ると、ソロがこちらへ向かって来ていた。
気づいたら、草原は夕映えに染まり、ソロも夕日の光を受けて、己の持つ陰鬱さを増していた。ソロの服は、遠目にも返り血に染まっているのが分かる。しかし、詰所を出たときと、表情に変化は一切見られない。
ソロにとって、人の命を奪うことは、日常の出来事なのだ。
近くに来たソロに、オルハが駆け寄る。しかし、ソロは手を前に出し、オルハを止める。
「オルハ、待つんだ。今身を寄せると、君にも血がつく。」
ソロの声は冷静そのものだった。オルハは抱きつこうと宙に上げた腕を下ろし、両手を胸の前で組んで聞く。
「お兄ちゃん、怪我は…?」
「心配ない。敵は全員、仕留めた。」
まるで工場仕事の、単純作業でも終えたかのような言い方だ。しかし、俺たちはもう彼に恐れを抱いていない。むしろ、オルハを守るために自ら茨の道を選ぶ、危うい一人の男に見える。
「君たちも、オルハの側にいてくれてありがとう。」
表情の変化は無いが、律儀にソロが礼を言う。
「…なあ、ソロ。聞きたいことがたくさんあるんだ。」
俺がそう言うと、ソロは一瞬だけ目を伏せて、すぐに俺を見て答える。
「ああ。でもまずは、宿へ帰ろう。僕も、それからオルハも、着替えたい。」
俺たちは、宿を目指して歩き始めた。衣類の汚れたオルハと、返り血で汚れたソロは、すれ違う人の視線を集めた。しかし、兄妹はそれを気にすることなく歩く。
この兄妹は、こうして二人、今まで歩いて来たのだろう。日陰へ追いやられて二人で、もしくは兄が手を引っ張って。
俺は、今の自分では及ばない想像を繰り返すだけだった。




