???、陰に堕ちる《ソラ》
《ソラ》
相変わらず真っ暗な廊下を歩き、ようやく俺たちは風を感じた。
「外だ。」
壁の一部がアーチの形となっており、扉も無い。俺たちは期待感で足を速め、そのアーチをくぐる。足元に、草の感触がする。
「中庭だね…。」
オルハが分かりやすく、落胆する。中庭は白い壁でグルリと囲まれ、雑草が生え散らかっている。庭用のテーブルや椅子、小さな像が倒れ、草に隠れそうだ。
「ソラ、いるよ。」
オルハが短剣を抜く。彼女の言うほうを見ると、黒づくめの者が四人いた。
「探検ごっこは楽しんでいるかい?」
体格と声から察するに、男の一人が槍を構える。
「ああ、なかなか見所が多いぜ。」
「そりゃ良かった。」
男が槍を走らせる。俺とオルハは反対側に飛び避ける。エルコトルでソロたちが槍の男と戦ったのを思い出すが、短剣ではとても分が悪い。
ここで、俺は覚悟を決める。
「走るぜ、ルークっ。」
俺の声に応え、獅子が降り注ぐ雷とともに現れた。大きな口で、雄々しく吠える。
「召喚獣だとっ。」
敵側の四人の声に、焦りが見える。
〈よく呼んでくれたな、ソラ坊。こいつらを痺れさせてやるぜ。〉
「頼むぜ。」
そう言って、俺たちは駆け出した。ルークが及び腰になった槍の男を押し倒し、槍を豪快に噛み砕く。男は怯えるような声を上げる。
「ルーク、殺しはやめろ。」
〈なんだと?〉
「ルークっ。」
〈ちっ、分かったよ。〉
ルークが大きな前足をどけると、男は逃げ出した。
「お前らの相手は俺だ。轟けっ、グロームっ。」
ルークを召喚した俺は、雷の精霊の加護を受けている。雷の魔道は簡単に扱えた。
俺が放った雷は、後衛の魔道士たちの足元を貫いた。魔道士たちがたじろぐ。それを煽るように、ルークが咆哮する。魔道士たちは、圧倒的なルークの迫力に押され、散るように逃げ出した。
やがて、中庭はルークが放つ静電気のバチバチと鳴る音以外、静けさを取り戻す。
「ルーク、助かったぜ。ありがとよ。」
〈お前、覚悟が出来てんのか?〉
ルークの鋭い瞳が俺を捉える。俺は敵を退けた安心感で、油断を伴って礼を言ったところを、意表を突かれてしまう。
「覚悟…。」
〈ソラ坊よ、お前は言ったな。カイが不幸になるときは自分も不幸になると、カイが傷付いたら一緒に悩むとよ。〉
ルークの言葉に、俺は目を逸らしてしまう。
〈それってよ、煉獄に堕ちる覚悟じゃねえのか?戦士として生きる友人と共に不幸になるって、人を殺して煉獄に堕ちることも厭わねえってことじゃないのかい?〉
俺は何も言えず、瞬きを繰り返してしまう。
〈…一度、契約をした以上、力は貸すさ。だがよ、もしもカイが、戦友の子が傷付くのを黙って見ているだけの腰抜けのようなら、俺は力を貸さねえぜ。ナイフを持っている以上、いずれは覚悟を決めるんだな、坊主。〉
ルークはそう言って、俺の内側へ戻っていった。
「そ、ソラ…?大丈夫?」
敵を退けたと言うのに、俺の表情が曇っているのを、オルハが心配そうに声をかけて来た。
「大丈夫さ。」
俺は、本当はブレにブレている胸のうちを、誰かに明かして、自分の弱さを撫でて欲しい、そんな甘えを押し込めて言った。
「…ソラ、ここに、金の糸があるの。見てもいい?」
「ああ、ちょっと待ってくれ。」
俺はプロクスを唱え、ナイフの切先に火を灯し、オルハに渡した。
すると、中庭はかつての美しい様相を取り戻した。花壇には花が植えられ、日差しや風を受けて、気持ち良さそうに揺れている。
庭用の白いテーブルと椅子はキチンと置かれ、可愛らしい少女を模った像や、ウサギ型の像が庭を飾っている。
椅子にはリヤが座っており、テーブルには紅茶や菓子が置かれている。リヤが微笑んで見つめる先に、五歳くらいのソロと一人の男がいる。
「えいっ。」
ソロと男は、模造刀で剣の稽古をしているようだ。ソロの一振りを、男は軽やかにいなす。
「いいぞ、ソロ。心臓側を守るのは忘れるな。」
その声を聞き、俺は気づく。
ディーン皇王だ。俺たちが会った頃よりもかなり若く、おそらくカイくらいの年頃だろうか。今よりも声が少し高く、だいぶ柔らかい表情をしている。
「やあっ。」
ソロは華麗な連続攻撃を見せる。まだ幼いと言うのに、その剣筋は正確だ。
「上手いぞ、ソロ。」
その時、リヤがパンパンと手を鳴らした。ソロとディーン皇王は動きを止め、リヤを見る。リヤは立ち上がり、椅子を手で指し示す。
「よし、休憩にしよう。ソロ。」
「うん、ありがとう。お兄ちゃん。」
ソロはディーン皇王を見上げて身を寄せて、皇王もソロの頭を撫でる。一見すると、年の離れた仲の良い兄弟だ。
三人で椅子に座り、紅茶を飲む。ソロはクッキーを美味しそうに頬張る。
リヤがソロの肩を、指でトントンと突く。ソロは母を見て、その手の動きに注目した。そして、ディーン皇王に伝言をする。
「お母様が、許嫁とはどうですかって。」
それを聞いたディーン皇王は、顔を赤らめた。俺たちの見たことの無い、若者らしい表情だ。
「ああ、まあ、この前、食事を共にしましたが、とても教養のある、話していて楽しい方でしたと伝えてくれ。」
「キョーヨー?」
ソロが首を傾げる。
「ソロには少し難しいな。まあ、一言、素敵な方だと伝えてくれ。」
ソロはそれを聞き、リヤに手で伝言した。すると、リヤは嬉しそうに微笑んで、ディーン皇王に拍手する。
「いや、どうも照れ臭いな。」
ディーン皇王が額を掻く。
「お兄ちゃんがその人と結婚したら、僕のお姉ちゃんになるんだね。」
ソロがニコニコ笑って言う。そして、続ける。
「お兄ちゃんが次のアリアレジス皇王で、僕はお兄ちゃんたちを守る騎士になるんだ。ソクアヴェスタに絶対負けない、強い国にしようね。」
それを聞いたディーン皇王の顔が曇る。
「ソロ、それは絶対に、リヤ様に伝えてはいけない。」
「どうして?」
ソロとディーン皇王の会話を、聴力の無いリヤはキョトンとして眺めている。
「リヤ様は、ソクアヴェスタの王女として生まれ、アリアレジス王家に嫁いでいらした方だ。ソクアヴェスタが世界に宣戦布告している現在、複雑な立場にいらっしゃるのだ。」
「…僕は、半分敵の人間なんだよね。」
「そうではない。精霊戦争が終わったら、ヴァルクシェンナもソクアヴェスタも、再び一つの国として歴史を続けることになる。ソロ、君はその歴史を担い、アリアレジスとの架け橋になるんだ。」
「そんな難しい話、僕には分からないよっ。」
ソロはそう言うと、模造刀を持って椅子から走り出し、素振りを始めた。
リヤは何かを察したのか息子を悲しげに見つめ、ディーン皇王はそんな親子に、何と声をかけるべきか迷っている様子だった。
またも、中庭は荒れた現在の姿となった。オルハが中庭を見渡し、呟く。
「おじ様とお兄ちゃん。たぶん、いわゆる腹違いなんだろうけれど、あんなに仲の良い兄弟だったんだ…。」
「今は?仲は良くないのかい?」
「ううん。ただ、今はお兄ちゃんがああ言う雰囲気でしょ。秘密ばかりで、他人を寄せ付けないというか…。お兄ちゃんが誰かと親しみ深く話す様子なんて、見たことないの。」
「…ソロに、何があったんだろうな。」
オルハは頷き、俺たちは入って来たのと反対側のアーチを通り、また屋敷内に入った。
埃臭い廊下は続く。今は一体、何時なんだろう。夜はいつ明けるんだろう。
その時、頭に激しい痛みが走った。一枚の扉の前だ。
「ここから、銀の糸の予感がする。しかも、かなり強い。」
「ソラ、入れる?」
「ああ、大丈夫さ。行こう。」
扉を開けると、広く調度品の揃った部屋だった。リヤがいた大きなベッドのある部屋と比べても、見劣りしない。さらには、積み木や木馬といったおもちゃも置かれている。
「もしかしたら、お兄ちゃんの部屋なのかも。」
オルハが呟く。俺は銀の糸の予感に強く惹かれ、ベッドの横へ行く。
「痛ぇ…。かなり強く、語りかけてきやがる。」
俺はナイフを持つのと反対の手で頭を抑える。
「ソラ、大丈夫?」
「ああ、それだけ、ここに根深い記憶があるってことだよな。見てみようぜ。」
俺はナイフをベッドに近づけた。
部屋は、これまでと同様に、その時を戻した。調度品に積もった埃は無い。しかし、カーテンを閉め切っており、ベッド横のランプの灯りだけが頼りなく輝く。
ベッドを見ると、六歳か七歳くらいのソロがうつ伏せていた。上半身をさらし、そのあらわとなった背中に、刺青を彫られている。
それは、殉教の教えの媒介となる刺青だった。刺々しい刺青が、背中に広がっていく。マスクで顔を隠した男が、ソロの背中に針を入れるのを、俺とオルハは顔を歪めて見る。彫り師の男の横には、リヤが無表情で立っていた。
「うっ…、ぐ…、うぅ…。」
針が入るごとに、ソロがシーツを握りしめて呻く。あまりに痛々しい姿に、オルハは口元を手で押さえている。
母親であるリヤは、何の感情も無く、空っぽの目で、息子が苦しむ姿を見下ろしている。
一瞬、暗転する。
次に目の前が明るくなると、彫り師は立ち去り、ソロは体を起こし、リヤがベッドに腰掛けていた。リヤは労るように、ソロの頭を撫でる。ソロは両手で目を覆っていた。
やがて、力無く手を動かし、リヤに問う。
「お母様、この力が、人を守る力になるのですね…?」
リヤは頷き、ソロの額に口付けをした。そして立ち上がり、テーブルに置いてあるシャツを、ソロの膝上に置いた。それだけをして、リヤは部屋から出て行った。
「僕は、どこの国の人間なんだ…。誰を守ると言うんだ…。」
ソロは手元のシャツを引き裂かんばかりに握りしめ、絞り出すような声で呟く。しかしそれは、答えを求めているわけでもなく、涙を流すわけでもない。独りぼっちの少年の、痛ましい姿だった。
記憶はそこで途切れ、元の埃臭い部屋に戻る。それと同時に、オルハがしゃがみ込み、顔を両手で覆う。
「大丈夫かい?オルハ。」
「うん。ちょっと、苦しくなっただけ。」
オルハは目を閉じ、眉根を寄せていた。本当に苦しそうだが、あんなにも哀れな兄の姿を前に、泣くわけにはいかない様子だった。
しかし、俺のなかには、まだ残っている。
銀の糸が、まだ語りかけてくるのだ。
「オルハ、まだ、銀の糸の予感があるんだ。しかも、さっきよりも強く、痛いくらい響いている。」
俺がそう言うと、オルハはより苦々しい顔を向けた。
「俺は見る。オルハは辛いなら廊下に…」
「ううん。私も見る。お兄ちゃんはこれまでの旅で、私をずっと守ってくれた。私も、お兄ちゃんを守れるように、ちゃんとお兄ちゃんを知りたい。」
オルハは気丈にそう言うと、ナイフを持つ俺の手に、自身の手を重ねた。
俺とオルハは、互いの視線を交わし、そして、ナイフをベッドに近づけた。
部屋は再び、時を戻した。しかし、今回は夜らしく、外は暗い。ベッド横のランプと、暖炉の火が燃えている。
ベッドには、刺青の頃と同じ年頃のソロが体を起こしていた。しかし、その紅い瞳は暗い陰をたたえている。表情も生気が無く、俺たちが知る今のソロに近いように思う。
ベッド横の椅子に、リヤが座っている。リヤはソロの膝上に本を開き、指を滑らせる。
「血を飲ませて、自供を迫る教え…。」
リヤがたどった文字を、ソロが読み上げているようだ。それはエルコトルで、ソロが殉教の魔道士に使った魔道だと思われる。どうやらリヤは、ソロに殉教の教えを伝えているらしい。
その時だ。大きな音を立てて、扉が開く。ソロはすぐに反応する。聴覚の無いリヤは、息子の様子を見て、扉へと目をやる。
扉を開いたのは、年齢を重ねた女中だった。ランプを片手に、肩で息をしている。
「ど、どうしたの?」
ただ事で無い様子の女中に、ソロが尋ねる。女中はなんとか冷静さを保とうと、しかし隠しきれない緊張感を持って、親子に近づく。そして、ランプをテーブルに置いて、手を動かして告げる。
「オディオが、滅びました。」
女中の声と手による告白に、リヤが立ち上がって驚く。ソロはそんな母を、目を丸くして見上げた。女中は続ける。
「我らが祖国、ソクアヴェスタの魔道によるものです…。」
それを聞き、ソロは声を上げて驚く。リヤは呼吸も瞬きも忘れるほど、平静さを失っている。
「ついに、この時が来てしまいました…。リヤ様、ソロ様、私は先に神海へ参ります。お二人にお仕えできて、幸せでした。」
女中は声と手でそう語りかけると、二人から離れ、壁を背に立った。そして、懐から短剣を出して、首元に当てた。
「それでは、神海で…。」
「待って…」
ソロの声は届かず、女中は首を一気に斬った。鮮血が吹き出し、壁を染める。
「そ、そんな…、なんで…、お母様…。」
ソロは目の前の光景を受け止められず、母を見上げる。リヤは大きな目から涙を滝のように流している。そして、布団をはぎ、ソロを抱き上げる。
「お、お母様っ。」
届くはずの無い声で、ソロが叫ぶ。リヤはソロを抱いたまま、部屋を飛び出した。
廊下を始め、屋敷のあちこちで女中たちが自ら命を絶っていた。なかには一思いにいけず、泣き喚く者もいた。しかし、リヤは誰にも構わず、寝巻き用のドレスの裾などにも構わずに、ただ走る。
「お母様っ。みんなが苦しんでいますっ。止まってください。」
ソロの叫びは、母に届かない。
やがて、ソロを抱えたリヤは、屋敷のすぐ外の川を一直線に目指す。辺りは冬なのか、一面、雪で覆われている。
「嫌だっ。お母様っ。止まってっ。お母様っ。」
ソロは狂ったように泣き叫ぶ。
しかし、リヤは少しも迷うことなく、川に飛び込んだ。
川の中なんて、たとえ銀の糸の記憶といえども見えない。ただ、雪原から運ばれる冷たい風が、川の上を通り過ぎるのが、その記憶の最後だった。
冬の風が止むのと同時に、俺たちは目を開けた。そして、しばらくは記憶で見たリヤと同じように、呼吸と瞬きを忘れていた。
ふと、女中が首を斬った辺りを見ると、血の跡は真っ黒な染みとなっている。
ナイフを持つ俺の手に重ねた、オルハの手が震えているのに気づく。
「オルハ…。」
「ソラはいつも、こんなに辛い記憶を見ているんだね…。」
オルハは顔を伏せたまま呟く。
「ああ、こういう記憶を見て、悲しみを繰り返さないのが俺の宿命だって言われた。」
オルハは顔を上げて俺を見る。その瞳は、涙に滲んでいる。
「私は喜びの記憶を見て、人々の栄光の記憶を伝える宿命だって言われた。」
「真逆だな。でも、お互い難儀な宿命を抱えちまったな。」
俺は笑いながら言う。それは皮肉でも、オルハを励まそうというわけでもなく、真逆でも、同じ宿命の人間を見つけた喜びからだった。
オルハは目を細めて頷く。その拍子に、大きな紅い瞳から、涙が溢れそうだった。
「楽しそうじゃねえか。」
急に、恨めしそうな声がして、反射的に振り返る。すぐ後ろに、黒づくめの男が立っていた。オルハの治癒魔道で苦しんだ、あの剣士だ。
俺たちはすっかり油断してしまい、驚きのあまり後ろへとたじろいでしまった。
「お前らは殺すなって命令だけどよ…。今も傷からジワジワと痛みが広がるぜ。ぶっ殺してやるっ。」
オルハは短剣を構えようとするが、手が震えているうえに、体勢を立て直せない。男はオルハ目がけて、剣を振り上げる。
俺が、やらなければ。
〈ソラ坊。覚悟を決めるか?〉
瞬間的に、時間の流れが遅くなる。
ルークが俺に問いかける。
「決める。俺がやる。」
〈よし、力を貸すぜ。〉
次の瞬間。
俺のナイフは、男の横腹を刺していた。
雷の加護を受けた俺は迅速さを得て、男までの距離を一瞬で詰めた。男が苦しげな声を上げて倒れ、俺はその上に乗る。
あとは、無我夢中だった。
何度ナイフを振り上げ、何度ナイフを突き刺したか分からない。数秒なのか、数分なのかも分からない。
最初に男の横腹を刺したときに感じた、肉に刃が埋まる感覚以外、俺には何も無かった。
「ソラっ、ソラっ…。」
オルハが全身を使って、俺を止める。
「もう、もう死んでいるから…。」
オルハの声で、ようやく呼吸を取り戻す。俺は目を見開いて、肩で息をしていた。
「う、うわぁっ。」
俺は、真っ赤になった男から、後ろへと飛び退いた。男はもはや肉塊と化し、ぐちゃぐちゃになっている。こうしたのは、俺だ。俺は目を、両手の平でゴシゴシとこすってしまう。
しかし、顔に生温さを感じる。血だ。両手が血でドロドロで、顔に血を塗りたくってしまった。
「あ、あ…。」
信じられない。信じたくない。覚悟を決めると言ったが、いざ殺してしまうと、何もかもが違う。自分も、視界も、全て真っ赤だ。頭がぐらぐらする。
「ソラ…。ごめんね…。」
オルハが俺を抱きしめるように肩に手を添えて、懐から出したハンカチで、俺の顔や手を拭く。
「私が、殺さなかったから…。殺すのが怖くて、中途半端にしてしまったから…。ごめん、ごめんね…。」
オルハが震えている。ソロの悲しい過去を目にしても気丈さを保っていた彼女が、明らかに動揺している。
オルハは何も悪くない。この男も、俺も、たぶん悪くない。いや、本当は、もう分からない。
俺は空っぽの感情のまま、オルハが顔や手を拭いてくれるのを感じていた。
「行こう、オルハ…。」
オルハが俺の血を拭いて、真っ赤に染まったハンカチを持ったまま、しばらく二人で呆然としてしまっていた。
頭のなかは、そして喉を焼くような苦しみは、何も整理できていない。しかし、このままでもいられない。俺はこんがらがった頭の片隅で、四人が呼んでいる気がして立ち上がる。
カイ、カスガ、マキ、ユフィ。俺は、なぜだか四人に無性に会いたい。何を話すかも、受け止められるかも分からない。けれども、四人に会いたい。
「うん、ソラ。一緒に行こう。」
オルハの声は少し弱々しく、しかし何とか気丈さを保とうと、彼女も立ち上がった。
入った時よりも力無く扉を開き、廊下に出る。心なしか、窓から薄明るい夜明けを感じる。
二人で無言のまま歩くと、天井の高そうな空間にたどり着いた。
暗闇のなかから、景気良く手を叩く音が聞こえる。
「いやー、待ちくたびれたよ。」
あの、やけに明るい声が聞こえる。
「ヒュー…。」
パチン。指を弾く音で、ヤツの手に光が灯る。あの血のように赤い瞳が見える。
「元気ないね、ソラ。どうしたの?」
「言うかよ。」
「なんだい、本当に元気ないじゃん。」
俺の返答に、ヒューは目を丸くして驚く。そのわざとらしい表情に、今は苛立ちすら湧かない。
「でもね、僕は嬉しいよ、ソラ。ようやく、僕と同じところに堕ちて来てくれたね。」
その言葉とともに、ヒューは歪んだ笑みを浮かべる。
「同じところ…?」
「そうさ。ようこそ。人殺しが堕ちる煉獄へ。」
俺は顔をしかめる。溢れ出る感情を抑えようと、ほとんど目を瞑ってしまう。
「そんな酷いこと言うなんて、許さない。」
オルハが一歩前へ出る。ヒューの高笑いが聞こえた。しかし、俺は何も言えず、唇を噛み締める。
「なんだい、これでもカッカしないの?せっかく色々と種明かししようと思ったのにさ。」
ヒューの意味深な言葉に、俺はようやく睨みを効かせる。
「無言のまま、食らいつかないソラなんて面白くないなぁ。」
「お前の都合で動くかよ。」
「これでも?」
パチン。ヒューは再び指を弾く。
すると、暗闇から影が伸び、俺とオルハをグルリと囲む。オルハは少し、怖気づく。
「ジャーン。影の正体は僕でした。驚いた?」
俺は無言のまま、ヒューを睨む。
「え?驚かないの?」
「なんとなく、勘でお前だと思っていた。」
俺がそう言うと、ヒューはなんだぁ、と言って、影を暗闇に溶かす。
「グランディエでは、ソラの友達を殺したって言うのに。そんな反応つまらないや。」
アンディのことだ。友達と言うと、よく分からないが、俺にとって衝撃があったのは間違いない。
「あなた、エルコトルにもいたよね。いつも私をさらうのは、あなたなの?」
オルハが先ほど湧き上がった怒りを抑えて、年下を相手にするように問いかける。
「そうだよ。僕たち希望教さ。いつも君の禁術や、あの剣士のせいで逃げられちゃうけれど。」
意外にも、ヒューはあっさりと答える。
「どうして、私をさらうの?」
「それは言えないなぁ。」
ヒューは演技がかった様子で、口元に指を当てる。
「たまに、わざと逃すときもあるよね。どうして?」
「ごめんよ。それも内緒さ。」
オルハのまっすぐな視線をかわすように、ヒューは顎を上げて、歪んだ笑いを口元に浮かべる。
「今度は僕の番だ。」
ヒューはそう言うと、俺たちに歩み寄り、手の平をこちらへ向けて来た。エルコトルで、手を合わせたことを思い出す。俺は呟く。
「銀の糸だ…。」
「やっぱり?感じる?さあ、僕の記憶を開いてよ。」
俺は手を、ゆっくりと上げる。
「ソラ…。」
オルハが心配そうに声をかけて来たので、彼女を見て、静かに頷く。
そして、ヒューの手の平に、自分の手の平を合わせた。




