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【太陽物語】 夜明けへ進む少年は  作者: 立花ハル
《第七章 ドレスレア大陸、目指した国》
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???、陰に堕ちる《ソラ》

《ソラ》


 相変わらず真っ暗な廊下を歩き、ようやく俺たちは風を感じた。

「外だ。」

 壁の一部がアーチの形となっており、扉も無い。俺たちは期待感で足を速め、そのアーチをくぐる。足元に、草の感触がする。

「中庭だね…。」

 オルハが分かりやすく、落胆する。中庭は白い壁でグルリと囲まれ、雑草が生え散らかっている。庭用のテーブルや椅子、小さな像が倒れ、草に隠れそうだ。

「ソラ、いるよ。」

 オルハが短剣を抜く。彼女の言うほうを見ると、黒づくめの者が四人いた。

「探検ごっこは楽しんでいるかい?」

 体格と声から察するに、男の一人が槍を構える。

「ああ、なかなか見所が多いぜ。」

「そりゃ良かった。」

 男が槍を走らせる。俺とオルハは反対側に飛び避ける。エルコトルでソロたちが槍の男と戦ったのを思い出すが、短剣ではとても分が悪い。

 ここで、俺は覚悟を決める。

「走るぜ、ルークっ。」

 俺の声に応え、獅子が降り注ぐ雷とともに現れた。大きな口で、雄々(おお)しく吠える。

「召喚獣だとっ。」

 敵側の四人の声に、焦りが見える。

〈よく呼んでくれたな、ソラ坊。こいつらを痺(しび)れさせてやるぜ。〉

「頼むぜ。」

 そう言って、俺たちは駆け出した。ルークが及び腰になった槍の男を押し倒し、槍を豪快に噛み砕く。男は怯えるような声を上げる。

「ルーク、殺しはやめろ。」

〈なんだと?〉

「ルークっ。」

〈ちっ、分かったよ。〉

 ルークが大きな前足をどけると、男は逃げ出した。

「お前らの相手は俺だ。轟けっ、グロームっ。」

 ルークを召喚した俺は、雷の精霊の加護を受けている。雷の魔道は簡単に扱えた。

 俺が放った雷は、後衛の魔道士たちの足元を貫いた。魔道士たちがたじろぐ。それを煽(あお)るように、ルークが咆哮(ほうこう)する。魔道士たちは、圧倒的なルークの迫力に押され、散るように逃げ出した。

 やがて、中庭はルークが放つ静電気のバチバチと鳴る音以外、静けさを取り戻す。

「ルーク、助かったぜ。ありがとよ。」

〈お前、覚悟が出来てんのか?〉

 ルークの鋭い瞳が俺を捉(とら)える。俺は敵を退(しりぞ)けた安心感で、油断を伴って礼を言ったところを、意表を突かれてしまう。

「覚悟…。」

〈ソラ坊よ、お前は言ったな。カイが不幸になるときは自分も不幸になると、カイが傷付いたら一緒に悩むとよ。〉

 ルークの言葉に、俺は目を逸(そ)らしてしまう。

〈それってよ、煉獄に堕ちる覚悟じゃねえのか?戦士として生きる友人と共に不幸になるって、人を殺して煉獄に堕ちることも厭(いと)わねえってことじゃないのかい?〉

 俺は何も言えず、瞬きを繰り返してしまう。

〈…一度、契約をした以上、力は貸すさ。だがよ、もしもカイが、戦友の子が傷付くのを黙って見ているだけの腰抜けのようなら、俺は力を貸さねえぜ。ナイフを持っている以上、いずれは覚悟を決めるんだな、坊主。〉

 ルークはそう言って、俺の内側へ戻っていった。

「そ、ソラ…?大丈夫?」

 敵を退けたと言うのに、俺の表情が曇っているのを、オルハが心配そうに声をかけて来た。

「大丈夫さ。」

 俺は、本当はブレにブレている胸のうちを、誰かに明かして、自分の弱さを撫でて欲しい、そんな甘えを押し込めて言った。

「…ソラ、ここに、金の糸があるの。見てもいい?」

「ああ、ちょっと待ってくれ。」

 俺はプロクスを唱え、ナイフの切先(きっさき)に火を灯(とも)し、オルハに渡した。


 すると、中庭はかつての美しい様相を取り戻した。花壇には花が植えられ、日差しや風を受けて、気持ち良さそうに揺れている。

 庭用の白いテーブルと椅子はキチンと置かれ、可愛らしい少女を模(かたど)った像や、ウサギ型の像が庭を飾っている。

 椅子にはリヤが座っており、テーブルには紅茶や菓子が置かれている。リヤが微笑(ほほえ)んで見つめる先に、五歳くらいのソロと一人の男がいる。

「えいっ。」

 ソロと男は、模造刀で剣の稽古をしているようだ。ソロの一振りを、男は軽やかにいなす。

「いいぞ、ソロ。心臓側を守るのは忘れるな。」

 その声を聞き、俺は気づく。

 ディーン皇王(こうおう)だ。俺たちが会った頃よりもかなり若く、おそらくカイくらいの年頃だろうか。今よりも声が少し高く、だいぶ柔らかい表情をしている。

「やあっ。」

 ソロは華麗な連続攻撃を見せる。まだ幼いと言うのに、その剣筋は正確だ。

「上手(うま)いぞ、ソロ。」

 その時、リヤがパンパンと手を鳴らした。ソロとディーン皇王は動きを止め、リヤを見る。リヤは立ち上がり、椅子を手で指し示す。

「よし、休憩にしよう。ソロ。」

「うん、ありがとう。お兄ちゃん。」

 ソロはディーン皇王を見上げて身を寄せて、皇王もソロの頭を撫でる。一見すると、年の離れた仲の良い兄弟だ。

 三人で椅子に座り、紅茶を飲む。ソロはクッキーを美味しそうに頬張る。

 リヤがソロの肩を、指でトントンと突く。ソロは母を見て、その手の動きに注目した。そして、ディーン皇王に伝言をする。

「お母様が、許嫁(いいなずけ)とはどうですかって。」

 それを聞いたディーン皇王は、顔を赤らめた。俺たちの見たことの無い、若者らしい表情だ。

「ああ、まあ、この前、食事を共にしましたが、とても教養のある、話していて楽しい方でしたと伝えてくれ。」

「キョーヨー?」

 ソロが首を傾げる。

「ソロには少し難しいな。まあ、一言、素敵な方だと伝えてくれ。」

 ソロはそれを聞き、リヤに手で伝言した。すると、リヤは嬉しそうに微笑んで、ディーン皇王に拍手する。

「いや、どうも照れ臭いな。」

 ディーン皇王が額を掻(か)く。

「お兄ちゃんがその人と結婚したら、僕のお姉ちゃんになるんだね。」

 ソロがニコニコ笑って言う。そして、続ける。

「お兄ちゃんが次のアリアレジス皇王で、僕はお兄ちゃんたちを守る騎士になるんだ。ソクアヴェスタに絶対負けない、強い国にしようね。」

 それを聞いたディーン皇王の顔が曇る。

「ソロ、それは絶対に、リヤ様に伝えてはいけない。」

「どうして?」

 ソロとディーン皇王の会話を、聴力の無いリヤはキョトンとして眺めている。

「リヤ様は、ソクアヴェスタの王女として生まれ、アリアレジス王家に嫁(とつ)いでいらした方だ。ソクアヴェスタが世界に宣戦布告している現在、複雑な立場にいらっしゃるのだ。」

「…僕は、半分敵の人間なんだよね。」

「そうではない。精霊戦争が終わったら、ヴァルクシェンナもソクアヴェスタも、再び一つの国として歴史を続けることになる。ソロ、君はその歴史を担(にな)い、アリアレジスとの架け橋になるんだ。」

「そんな難しい話、僕には分からないよっ。」

 ソロはそう言うと、模造刀を持って椅子から走り出し、素振りを始めた。

 リヤは何かを察したのか息子を悲しげに見つめ、ディーン皇王はそんな親子に、何と声をかけるべきか迷っている様子だった。


 またも、中庭は荒れた現在の姿となった。オルハが中庭を見渡し、呟く。

「おじ様とお兄ちゃん。たぶん、いわゆる腹違いなんだろうけれど、あんなに仲の良い兄弟だったんだ…。」

「今は?仲は良くないのかい?」

「ううん。ただ、今はお兄ちゃんがああ言う雰囲気でしょ。秘密ばかりで、他人を寄せ付けないというか…。お兄ちゃんが誰かと親しみ深く話す様子なんて、見たことないの。」

「…ソロに、何があったんだろうな。」

 オルハは頷(うなず)き、俺たちは入って来たのと反対側のアーチを通り、また屋敷内に入った。


 埃臭い廊下は続く。今は一体、何時なんだろう。夜はいつ明けるんだろう。

 その時、頭に激しい痛みが走った。一枚の扉の前だ。

「ここから、銀の糸の予感がする。しかも、かなり強い。」

「ソラ、入れる?」

「ああ、大丈夫さ。行こう。」


 扉を開けると、広く調度品の揃った部屋だった。リヤがいた大きなベッドのある部屋と比べても、見劣りしない。さらには、積み木や木馬といったおもちゃも置かれている。

「もしかしたら、お兄ちゃんの部屋なのかも。」

 オルハが呟く。俺は銀の糸の予感に強く惹かれ、ベッドの横へ行く。

「痛ぇ…。かなり強く、語りかけてきやがる。」

 俺はナイフを持つのと反対の手で頭を抑える。

「ソラ、大丈夫?」

「ああ、それだけ、ここに根深い記憶があるってことだよな。見てみようぜ。」

 俺はナイフをベッドに近づけた。


 部屋は、これまでと同様に、その時を戻した。調度品に積もった埃は無い。しかし、カーテンを閉め切っており、ベッド横のランプの灯りだけが頼りなく輝く。

 ベッドを見ると、六歳か七歳くらいのソロがうつ伏せていた。上半身をさらし、そのあらわとなった背中に、刺青(いれずみ)を彫られている。

 それは、殉教の教えの媒介となる刺青だった。刺々(とげとげ)しい刺青が、背中に広がっていく。マスクで顔を隠した男が、ソロの背中に針を入れるのを、俺とオルハは顔を歪めて見る。彫り師の男の横には、リヤが無表情で立っていた。

「うっ…、ぐ…、うぅ…。」

 針が入るごとに、ソロがシーツを握りしめて呻(うめ)く。あまりに痛々しい姿に、オルハは口元を手で押さえている。

 母親であるリヤは、何の感情も無く、空っぽの目で、息子が苦しむ姿を見下ろしている。

 一瞬、暗転する。

 次に目の前が明るくなると、彫り師は立ち去り、ソロは体を起こし、リヤがベッドに腰掛けていた。リヤは労(いたわ)るように、ソロの頭を撫でる。ソロは両手で目を覆っていた。

 やがて、力無く手を動かし、リヤに問う。

「お母様、この力が、人を守る力になるのですね…?」

 リヤは頷き、ソロの額に口付けをした。そして立ち上がり、テーブルに置いてあるシャツを、ソロの膝上に置いた。それだけをして、リヤは部屋から出て行った。

「僕は、どこの国の人間なんだ…。誰を守ると言うんだ…。」

 ソロは手元のシャツを引き裂かんばかりに握りしめ、絞り出すような声で呟く。しかしそれは、答えを求めているわけでもなく、涙を流すわけでもない。独りぼっちの少年の、痛ましい姿だった。


 記憶はそこで途切れ、元の埃臭い部屋に戻る。それと同時に、オルハがしゃがみ込み、顔を両手で覆う。

「大丈夫かい?オルハ。」

「うん。ちょっと、苦しくなっただけ。」

 オルハは目を閉じ、眉根を寄せていた。本当に苦しそうだが、あんなにも哀れな兄の姿を前に、泣くわけにはいかない様子だった。

 しかし、俺のなかには、まだ残っている。

 銀の糸が、まだ語りかけてくるのだ。

「オルハ、まだ、銀の糸の予感があるんだ。しかも、さっきよりも強く、痛いくらい響いている。」

 俺がそう言うと、オルハはより苦々しい顔を向けた。

「俺は見る。オルハは辛いなら廊下に…」

「ううん。私も見る。お兄ちゃんはこれまでの旅で、私をずっと守ってくれた。私も、お兄ちゃんを守れるように、ちゃんとお兄ちゃんを知りたい。」

 オルハは気丈にそう言うと、ナイフを持つ俺の手に、自身の手を重ねた。

 俺とオルハは、互いの視線を交わし、そして、ナイフをベッドに近づけた。


 部屋は再び、時を戻した。しかし、今回は夜らしく、外は暗い。ベッド横のランプと、暖炉の火が燃えている。

 ベッドには、刺青の頃と同じ年頃のソロが体を起こしていた。しかし、その紅い瞳は暗い陰をたたえている。表情も生気が無く、俺たちが知る今のソロに近いように思う。

 ベッド横の椅子に、リヤが座っている。リヤはソロの膝上に本を開き、指を滑らせる。

「血を飲ませて、自供を迫る教え…。」

 リヤがたどった文字を、ソロが読み上げているようだ。それはエルコトルで、ソロが殉教の魔道士に使った魔道だと思われる。どうやらリヤは、ソロに殉教の教えを伝えているらしい。

 その時だ。大きな音を立てて、扉が開く。ソロはすぐに反応する。聴覚の無いリヤは、息子の様子を見て、扉へと目をやる。

 扉を開いたのは、年齢を重ねた女中だった。ランプを片手に、肩で息をしている。

「ど、どうしたの?」

 ただ事で無い様子の女中に、ソロが尋ねる。女中はなんとか冷静さを保とうと、しかし隠しきれない緊張感を持って、親子に近づく。そして、ランプをテーブルに置いて、手を動かして告げる。

「オディオが、滅びました。」

 女中の声と手による告白に、リヤが立ち上がって驚く。ソロはそんな母を、目を丸くして見上げた。女中は続ける。

「我らが祖国、ソクアヴェスタの魔道によるものです…。」

 それを聞き、ソロは声を上げて驚く。リヤは呼吸も瞬きも忘れるほど、平静さを失っている。

「ついに、この時が来てしまいました…。リヤ様、ソロ様、私は先に神海(しんかい)へ参ります。お二人にお仕えできて、幸せでした。」

 女中は声と手でそう語りかけると、二人から離れ、壁を背に立った。そして、懐(ふところ)から短剣を出して、首元に当てた。

「それでは、神海で…。」

「待って…」

 ソロの声は届かず、女中は首を一気に斬った。鮮血が吹き出し、壁を染める。

「そ、そんな…、なんで…、お母様…。」

 ソロは目の前の光景を受け止められず、母を見上げる。リヤは大きな目から涙を滝のように流している。そして、布団をはぎ、ソロを抱き上げる。

「お、お母様っ。」

 届くはずの無い声で、ソロが叫ぶ。リヤはソロを抱いたまま、部屋を飛び出した。

 廊下を始め、屋敷のあちこちで女中たちが自ら命を絶っていた。なかには一思いにいけず、泣き喚(わめ)く者もいた。しかし、リヤは誰にも構わず、寝巻き用のドレスの裾などにも構わずに、ただ走る。

「お母様っ。みんなが苦しんでいますっ。止まってください。」

 ソロの叫びは、母に届かない。

 やがて、ソロを抱えたリヤは、屋敷のすぐ外の川を一直線に目指す。辺りは冬なのか、一面、雪で覆われている。

「嫌だっ。お母様っ。止まってっ。お母様っ。」

 ソロは狂ったように泣き叫ぶ。

 しかし、リヤは少しも迷うことなく、川に飛び込んだ。

 川の中なんて、たとえ銀の糸の記憶といえども見えない。ただ、雪原から運ばれる冷たい風が、川の上を通り過ぎるのが、その記憶の最後だった。


 冬の風が止むのと同時に、俺たちは目を開けた。そして、しばらくは記憶で見たリヤと同じように、呼吸と瞬きを忘れていた。

 ふと、女中が首を斬った辺りを見ると、血の跡は真っ黒な染みとなっている。

 ナイフを持つ俺の手に重ねた、オルハの手が震えているのに気づく。

「オルハ…。」

「ソラはいつも、こんなに辛い記憶を見ているんだね…。」

 オルハは顔を伏せたまま呟(つぶや)く。

「ああ、こういう記憶を見て、悲しみを繰り返さないのが俺の宿命だって言われた。」

 オルハは顔を上げて俺を見る。その瞳は、涙に滲んでいる。

「私は喜びの記憶を見て、人々の栄光の記憶を伝える宿命だって言われた。」

「真逆だな。でも、お互い難儀な宿命を抱えちまったな。」

 俺は笑いながら言う。それは皮肉でも、オルハを励まそうというわけでもなく、真逆でも、同じ宿命の人間を見つけた喜びからだった。

 オルハは目を細めて頷く。その拍子に、大きな紅い瞳から、涙が溢れそうだった。


「楽しそうじゃねえか。」

 急に、恨めしそうな声がして、反射的に振り返る。すぐ後ろに、黒づくめの男が立っていた。オルハの治癒魔道で苦しんだ、あの剣士だ。

 俺たちはすっかり油断してしまい、驚きのあまり後ろへとたじろいでしまった。

「お前らは殺すなって命令だけどよ…。今も傷からジワジワと痛みが広がるぜ。ぶっ殺してやるっ。」

 オルハは短剣を構えようとするが、手が震えているうえに、体勢を立て直せない。男はオルハ目がけて、剣を振り上げる。

 俺が、やらなければ。

〈ソラ坊。覚悟を決めるか?〉

 瞬間的に、時間の流れが遅くなる。

 ルークが俺に問いかける。

「決める。俺がやる。」

〈よし、力を貸すぜ。〉

 次の瞬間。

 俺のナイフは、男の横腹を刺していた。

 雷の加護を受けた俺は迅速さを得て、男までの距離を一瞬で詰めた。男が苦しげな声を上げて倒れ、俺はその上に乗る。

 あとは、無我夢中だった。

 何度ナイフを振り上げ、何度ナイフを突き刺したか分からない。数秒なのか、数分なのかも分からない。

 最初に男の横腹を刺したときに感じた、肉に刃(やいば)が埋まる感覚以外、俺には何も無かった。

「ソラっ、ソラっ…。」

 オルハが全身を使って、俺を止める。

「もう、もう死んでいるから…。」

 オルハの声で、ようやく呼吸を取り戻す。俺は目を見開いて、肩で息をしていた。

「う、うわぁっ。」

 俺は、真っ赤になった男から、後ろへと飛び退(の)いた。男はもはや肉塊と化し、ぐちゃぐちゃになっている。こうしたのは、俺だ。俺は目を、両手の平でゴシゴシとこすってしまう。

 しかし、顔に生温(なまぬる)さを感じる。血だ。両手が血でドロドロで、顔に血を塗りたくってしまった。

「あ、あ…。」

 信じられない。信じたくない。覚悟を決めると言ったが、いざ殺してしまうと、何もかもが違う。自分も、視界も、全て真っ赤だ。頭がぐらぐらする。

「ソラ…。ごめんね…。」

 オルハが俺を抱きしめるように肩に手を添えて、懐から出したハンカチで、俺の顔や手を拭く。

「私が、殺さなかったから…。殺すのが怖くて、中途半端にしてしまったから…。ごめん、ごめんね…。」

 オルハが震えている。ソロの悲しい過去を目にしても気丈さを保っていた彼女が、明らかに動揺している。

 オルハは何も悪くない。この男も、俺も、たぶん悪くない。いや、本当は、もう分からない。

 俺は空っぽの感情のまま、オルハが顔や手を拭いてくれるのを感じていた。


「行こう、オルハ…。」

 オルハが俺の血を拭いて、真っ赤に染まったハンカチを持ったまま、しばらく二人で呆然としてしまっていた。

 頭のなかは、そして喉を焼くような苦しみは、何も整理できていない。しかし、このままでもいられない。俺はこんがらがった頭の片隅で、四人が呼んでいる気がして立ち上がる。

 カイ、カスガ、マキ、ユフィ。俺は、なぜだか四人に無性に会いたい。何を話すかも、受け止められるかも分からない。けれども、四人に会いたい。

「うん、ソラ。一緒に行こう。」

 オルハの声は少し弱々しく、しかし何とか気丈さを保とうと、彼女も立ち上がった。


 入った時よりも力無く扉を開き、廊下に出る。心なしか、窓から薄明るい夜明けを感じる。

 二人で無言のまま歩くと、天井の高そうな空間にたどり着いた。

 暗闇のなかから、景気良く手を叩く音が聞こえる。

「いやー、待ちくたびれたよ。」

 あの、やけに明るい声が聞こえる。

「ヒュー…。」

 パチン。指を弾く音で、ヤツの手に光が灯る。あの血のように赤い瞳が見える。

「元気ないね、ソラ。どうしたの?」

「言うかよ。」

「なんだい、本当に元気ないじゃん。」

 俺の返答に、ヒューは目を丸くして驚く。そのわざとらしい表情に、今は苛立(いらだ)ちすら湧(わ)かない。

「でもね、僕は嬉しいよ、ソラ。ようやく、僕と同じところに堕ちて来てくれたね。」

 その言葉とともに、ヒューは歪んだ笑みを浮かべる。

「同じところ…?」

「そうさ。ようこそ。人殺しが堕ちる煉獄へ。」

 俺は顔をしかめる。溢れ出る感情を抑えようと、ほとんど目を瞑(つむ)ってしまう。

「そんな酷いこと言うなんて、許さない。」

 オルハが一歩前へ出る。ヒューの高笑いが聞こえた。しかし、俺は何も言えず、唇を噛み締める。

「なんだい、これでもカッカしないの?せっかく色々と種明かししようと思ったのにさ。」

 ヒューの意味深な言葉に、俺はようやく睨みを効かせる。

「無言のまま、食らいつかないソラなんて面白くないなぁ。」

「お前の都合で動くかよ。」

「これでも?」

 パチン。ヒューは再び指を弾く。

 すると、暗闇から影が伸び、俺とオルハをグルリと囲む。オルハは少し、怖気(おじけ)づく。

「ジャーン。影の正体は僕でした。驚いた?」

 俺は無言のまま、ヒューを睨む。

「え?驚かないの?」

「なんとなく、勘でお前だと思っていた。」

 俺がそう言うと、ヒューはなんだぁ、と言って、影を暗闇に溶かす。

「グランディエでは、ソラの友達を殺したって言うのに。そんな反応つまらないや。」

 アンディのことだ。友達と言うと、よく分からないが、俺にとって衝撃があったのは間違いない。

「あなた、エルコトルにもいたよね。いつも私をさらうのは、あなたなの?」

 オルハが先ほど湧き上がった怒りを抑えて、年下を相手にするように問いかける。

「そうだよ。僕たち希望教さ。いつも君の禁術や、あの剣士のせいで逃げられちゃうけれど。」

 意外にも、ヒューはあっさりと答える。

「どうして、私をさらうの?」

「それは言えないなぁ。」

 ヒューは演技がかった様子で、口元に指を当てる。

「たまに、わざと逃すときもあるよね。どうして?」

「ごめんよ。それも内緒さ。」

 オルハのまっすぐな視線をかわすように、ヒューは顎(あご)を上げて、歪んだ笑いを口元に浮かべる。

「今度は僕の番だ。」

 ヒューはそう言うと、俺たちに歩み寄り、手の平をこちらへ向けて来た。エルコトルで、手を合わせたことを思い出す。俺は呟く。

「銀の糸だ…。」

「やっぱり?感じる?さあ、僕の記憶を開いてよ。」

 俺は手を、ゆっくりと上げる。

「ソラ…。」

 オルハが心配そうに声をかけて来たので、彼女を見て、静かに頷く。

 そして、ヒューの手の平に、自分の手の平を合わせた。

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