銀の糸《ソラ》
《ソラ》
女王の話が終わるころには、夕日が沈み夜となっていた。空は、アンディが死んでしまった日と同じような、瞬い星空だった。
話の終わりに、女王がランプに火を点けようとしていた。見たこともないくらい細かな装飾をされたランプはとても綺麗で、俺は思わずそのランプに手を伸ばしてしまった。
女王が灯してみる?というので、俺は生まれて初めてマッチを手にした。俺の指よりも小さく細い、こんな棒で火が点くなんて。俺はワクワクしながら、箱の横側を棒で擦った。しかし、なかなか火が点かない。数十秒くらいは格闘しただろうか。カイが丁度いい角度を教えてくれたので、その通りにして何度か擦ったら、棒の先に火が点いた。驚いた。
「すげぇ、魔道みてぇだ。」
俺が感心して呟くと、部屋にいる大人たちがくすりと笑った。
「なんだよ、何かおかしいかよ。」
「いや、純粋でいいなって。」
カイが微笑んで言った。心なしか子ども扱いされた気はするが、棒がどんどん燃えていくので、俺は急いでランプを灯した。
「私の精霊戦争の話は分かりやすかったですか?」
ランプに見惚れている俺に、女王が問う。
「ああ、分かりやすかったよ。街のジジイ先生よりも説明が上手いぜ。女王様。」
名前の知らない騎士が失礼だぞ、と怒鳴ってきたが、女王はクスクス笑った。
「でもよ、俺はソクアヴェスタってのが心底憎たらしいぜ。」
ランプから目を離し、女王の目を見る。女王は茶色い目をしている。灯りに照らされた目尻にシワが見えた。俺が思うより、この女王は年が上なのかもしれない。
「ソクアヴェスタのせいで形代が生まれて、俺は馬鹿にされて生きて来たんだ。俺は今からでもソクアヴェスタとやらに復讐してやりたいぜ。」
俺は十二年分の憎しみを込めて、その国の名を口にした。
ソクアヴェスタ。もしも俺が過去に生まれていたなら、必ず戦場に出て、その国を滅ぼしてやったのに。
「世界は精霊戦争の終結から十年、大きな変化を迎えています。」
「変化?」
「はい、一つめは世界各地で多発する自然災害。この一年で、地震や豪雨、日照りなど、災害の発生率がどの国でも上がっているのです。これは、三十年近く前のソクアヴェスタによる世界への宣戦布告の前後とよく似ています。」
そう言われると、妙に恐ろしい気がしてきた。ずっと路上で生活していた俺にとって、自然は強敵だ。
「ん?三十年前のこと知ってるって、女王様、あんた何歳だい?」
自然と湧き上がる疑問を口にして、言い切る前にカイが俺の頭にチョップを入れた。忘れかけていた首の激痛が走る。
「いってぇーっ。」
「ソラ、女性に年齢は尋ねないものだよ。」
女王は変わらず優雅に微笑んでいる。
「そしてこの数ヶ月、姫神教会への被害が多発しています。盗みや器物の小さな破損…、それはよくある悪事に思われていましたが、あまりにも多いのです。大きな被害ですと建物への放火、死者も出ています。」
そう言われて、シスター・メイの顔が頭に浮かんだ。説教くさいシスターだが、そんな被害に遭ってしまったら後味が悪い。まぁ、盗みには入ってしまったが。
「そして先ほど申したように、この一ヶ月ほどで形代狩りが頻発しています。大人も子どもも、突然姿を消しているというのです。影も形もなく。」
「影…。」
確かに、あの影が生み出した真っ暗な渦に飲み込まれたら、そのままどこかへ消えてしまいそうだ。
「この世界の状況を受け動き出したのが、姫神教会、そしてアリアレジスです。」
「アリアレジス?」
「ええ、このグランディエの同盟国で、姫神教会の本部がある国です。ご存知ですか?」
もちろん知っている。ジジイ先生から聞いて、俺が今憧れている国だ。俺は女王の質問に何度も頷いた。
「あなたたち精霊の形代を、アリアレジスが国として、そして姫神教会がその総力を持って保護しようとしています。」
それは何だか嬉しいような、頼もしいような気もしたが、俺はやはり疑心暗鬼が癖になっている。
「それはなんでだい?なんで形代なんかを保護するんだよ?」
生まれてからずっと馬鹿にされてきた、爪弾きにされてきた俺たちを、今さら保護するなんて妙な話だ。
「それは、やはりあなたたち形代が、特別な力を持っているからです。」
特別。あの黒い氷柱とかのことだろうか。
「力は恐ろしいものです。良き者が使えば良い結果をもたらしますし、悪き者が使えば悪い結果をもたらします。」
「つまり、俺が【良き者】になるようにってことかい?」
「ええ、あなたは理解が早いですね。」
事態はなかなか単純だ。自然災害だとか影だとか、不可解なことは多いようだ。しかし、俺としては今より良い暮らしになれるなら、それに越したことはない。
「でもよ、俺はあんたを殺そうとしたんだぜ?俺を無罪放免にしてもいいのかい?」
俺がそれを問うと、女王の表情は一段と真剣味を帯びた。
「あなたの行動は、確かに看過できるものではありません。ですが精霊戦争後、混乱する世界を治めてきた姫神教会の決定ですから、仕方ありません。」
「なんだい、女王様だってのに、姫神教会に敵わないのかい。情けねえ。」
俺が吐き捨てるように言うと、騎士たちが諌めるような声を上げる。しかし、女王はそれを制して言う。
「ただ、一人の人間としては、あなたのような子どもをあのような行為に走らせてしまったこと、そして、孤児として過ごさせてしまっていたこと…。そのような国にしてしまっていたことを、反省しているのが本音です。申し訳ありません。」
女王はそう言うと、オレに向けて頭を深く下げた。カイを含めた三人の騎士が慌てている。俺にも状況が理解できない。
「やめろよ。女王様が俺みたいなものに頭を下げていいのかい。」
「子どもが安心して育ち、教育を受けて健やかに育つ。それは全ての大人の責任です。その大人を代表して私が謝りました。」
曇りのない茶色の瞳が、ランプに照らされる。その瞳は、嘘のないまっすぐな目をしていると感じた。
「今日の大通りでのパレードを、あなたはご覧になりましたね。」
「ああ、あんたは銀色の鎧で、マント姿だった。」
「あれは隣国との戦争が始まる前の、戦勝祈願パレードです。」
「センショー…?」
「戦争に勝ちますように、というパレードです。」
戦争。俺はジジイ先生との話で、アリアレジスの戦争の話を聞いていた。
それは遠い国の話で、そして精霊戦争のような過去の話だと思っていた。その戦争が、身近で起こるというのだ。
「あんた、戦争するのかい?」
「ええ、先日、隣国のブランジェが宣戦布告をしてきました。どうやら自然災害によって食糧危機に陥っているようです。そこで、我が国の領土と資源を得ようという目的でしょう。」
この国で戦争が始まる。それは奪う者と奪われる者が生まれるということだ。この部屋はこんなに清潔で綺麗なのに。女王から話を聞いても、まだ現実のものとは思えない。
「戦争が始まる前に、あなたをアリアレジスへ連れて行く必要があります。戦争が始まれば、国境に位置する港町が機能しなくなる恐れがあります。その前に、あなたをアリアレジスへ送りたいのです。」
「戦争は、いつ始まるんだい?」
「ほんの予想に過ぎませんが、数週間、早ければ一週間のうちに。」
予想外の展開に、俺は戸惑うばかりだった。人を殺そうとして、その相手に謝られて、そして戦争が近づいている。裏路地でただ生きるだけだった俺に、信じられないことが起きている。
「そろそろ時間です。」
「時間?なんのだい?」
「グランディエの領内に、アリアレジスの姫神教会本部から送られた使者が来ています。その者たちに、あなたを引き渡します。」
急な話についていけないばかりだった。
「待てよ、俺の意志は無視かい?」
戸惑う俺に、女王が鋭い視線を向ける。
「そうです。戦争が起きれば、あなたの形代としての力を利用しようとする悪人がどこからか現れます。形代狩りだけではありません。あなたは狙われているのです。そして、私たちはあなたを守る責任があります。」
不思議だ。先ほど単純に思えた事態が、複雑になっている。そして、俺の意志とは別に、いろいろな大人の思惑が動いているのを感じて抵抗感を覚えた。しかし、女王の強い口調と視線に、俺の反論する隙はない。
「使者との待ち合わせ場所までは、カイが同行します。」
そう女王が言うと、カイが優しく微笑んだ。
「えーっ?こいつで大丈夫かよ?」
「心配ありませんよ。カイはまだ若いですが、騎士団の歴史を塗り替えた才能ある若者です。」
「歴史?」
疑念たっぷりにカイを見つめる。
「僕はこう見えて、騎士団内で開かれる剣術大会、十代の部で最年少優勝なのさ。」
わざとらしく胸を張って、カイが言う。どうにも疑わしいが、今は大人たちに従うしかないらしい。俺は悔しく、しかし、新たな展開にどこかドキドキもしている。
真っ白なシャツから、女王が持ってきた服に着替える。拾い物じゃない、こんなにちゃんとした服を着るなんて初めてだ。背丈も腕や足も、俺にピッタリだ。
「こちらは大きさが合うかな。」
そう言って、カイが床に置いたのは靴だった。
「これも、俺のかい?」
「うん、もちろん。」
貧民街に来てから、靴を履くことなんて初めてだった。俺はワクワクしながら、茶色い革靴に足を入れる。
「すげぇ、これもピッタリだ。」
裸足でなく、靴越しに床や地面を感じる感覚が新しく、俺は何度も足踏みをした。
「これなら、俺が形代だってすぐにはバレねぇな。」
靴はもちろん、これが一番嬉しかった。
「それから、これ。」
カイが俺のナイフを差し出す。
「返してくれるのかい?」
「ずいぶん年季が入っているし、君にとっては大事なものなんだろう?」
年季が入っているのは、数日前に転がっていた死体のものだったからだが、そんなことは言えない。
「でもね、ソラ、君がそのナイフで理由もなく人を傷つけようとするときは、僕は必ず止めるよ。今日の昼のようにね。」
そう言うカイの目は、ランプの灯りを受けて鋭く輝く。この騎士は普段ぽやぽやと微笑んでいるが、譲れないことに対しては獣のような目をする。
出発の支度を終え、部屋を出る。いつの間にかカイも、騎士の服から着替えていた。それは街のそこら辺を歩いている若者のような服装だった。廊下を少し歩くと、階段が見えた。
「ここ、女王様の住んでいる城かい?俺ぁ、もっと広いもんだと思っていたよ。」
「いいえ、ここは王族の別宅です。今は誰も住んでいませんが。」
王族となると、いくつも家を持っているもんだな。しかも誰も住んでいないなんて。今日だけでも未知の贅沢を、浴びるように目にして、今さら嫉妬さえ起きない。
階段の途中に、大きな絵と、美しい銀色の剣が飾られていた。絵には若い男が描かれている。俺はなぜか、思わず足を止めてしまった。
「ソラ、どうしたのです?」
「女王様、この方は…。」
「ええ、私の息子です。その剣は、息子の愛刀でした。」
絵に描かれた男と女王を見比べると、確かによく似ている。キリッとした眉毛や薄い唇あたりが、特にそっくりだ。
俺はなぜだか分からないが、その絵と剣が気になって仕方ない。まるで雨上がりの蜘蛛の糸のように、銀色に煌めいて細く、しかし強い糸で引かれるように、その絵、特に剣に惹き寄せられる。
「息子は亡くなりました。精霊戦争中の、ブランジェとの争いで。まだ十代でした。」
そう悲しげに呟く女王は、女王ではなく、一人の女に見えた。一人の母、ティアという女がそこにいた。
「この別宅は息子が住んでいましたが、主人は永遠に帰って来ません。帰って来たのは、その剣だけでした。」
ティアが持つランプに照らされて、闇の中で剣が煌めく。これはとても人には言えないが、まるで剣が語りかけているような、不思議な感覚がした。
「時間に限りはありますが…。その剣をよく見てみますか?」
ティアがランプを剣に近づける。
「ああ、見たい。」
俺はティアの手から、ランプを受け取った。
その時。
周囲が荒く塗りつぶされた黒いペンキと、その上に煌びやかな星々が散りばめられた、ちぐはぐな空間に落ちた。
これは夢か。いや、夢じゃない。夢にしては、荒い黒も星々も、存在感がある。俺が俺であるという自覚も確かだ。そして、深い穴に落ちている感覚がある。
何も抵抗できないまま、俺は深い黒に沈んでいった。
足元がようやく確かになった。周囲は変わらず、黒いペンキと煌びやかな星々。しかし、息の詰まるような心地の悪さは増している。夢ではないが、まるで夢のような、不可思議な空間。
ふと、目の前で小さな少年が泣いていた。
「よ、よう、どうしたんだい?」
事態が飲み込めないまま、俺は声をかけた。
「ひっく…、剣が、上手く使えないんだ…。」
少年は涙でぐちゃぐちゃの瞳をこちらへ向けた。茶色い瞳だ。ティアと同じ目だと、直感した。
「剣なんか、難しいんだろ?焦るなよ、お前まだチビっ子じゃんか。」
俺は励ましのつもりでそう言うが、少年の目から涙はこぼれるばかりだ。
「ダメだよ、僕が強くならないと、この国を、母上たちを守れない。」
少年はそう言うと、不釣り合いな大きさの剣を手に素振りを始めた。
俺は戸惑いながら、右手にランプを持っていることを思い出した。ランプを周囲にかざし、空間を観察しようとする。
すると、またも深い穴へ落ちる感覚がした。
変わらず黒いペンキと星々の空間である。夢でないとしたら、俺はこの空間から出られるのだろうか。そんな不安に襲われていると、今度はカイくらいの若い男がうずくまっていた。しかも、バケツに吐いている。
「お、おい、大丈夫かよ。」
男の背中をさすりながら問いかける。顔を上げた男は先ほどの少年やティアと同じ茶色い瞳で、しかし暗い瞳をしている。
「人を、殺してしまったんだ。」
どことなくティアと似た顔の男が、苦しそうに吐いている。
「母上から頂いた剣で、敵とはいえ四人。切ったり、刺したり、頭を割ったり…。僕は国の為とはいえ、正気でいられない。苦しい。辛い…。」
男は吐くものが無くなるほどに吐き続けた。
男の背をさすろうと右手を大きく振ると、ランプの火が揺らめいた。
すると、またも深い穴へ落ちる感覚がした。
次の空間は、黒いペンキは無かった。真っ白な空間で、どす黒い血だらけの地面のなか、あの男が倒れている。腹には深く剣が刺さっている。
「あんた、死ぬのか?」
俺が意を決して問うと、男はゆっくり目を開いた。やはり、茶色い瞳だ。
「ああ、きっと、死ぬ。」
「何とかならないのか?」
「ならないさ…、僕は何人も殺して来た。このまま【煉獄】へ行くのさ。」
「レンゴク?」
「罪人がたどり着く、死者の国だよ。」
そう言う男の瞳は暗いが、迷いは無い。
「ああ、でも一つ…。せっかく、君に会えたから伝言を頼みたい。」
「なんだい?」
俺が返事をすると、男は天を仰いで呟いた。
「僕は、ユージーン…。最後に、母上の焼いたアップルパイを、家族で食べたかった…なぁ…。」
男は天を見つめたまま、死んでしまった。右手には、あの美しい銀色の剣。きっと、ティアの息子だろう。
母親に似て、優しげで穏やかそうな男だった。
「ソラ、ランプを消して…。」
「だ、誰だ?」
突然、まるでおれの耳元で、それどころか脳みそに直接語りかけるような声がした。女の声だ。どこか懐かしい気配がする。
「ランプの火を消して、世界に戻るのです。」
「やっぱりこれは夢なんだなっ。」
正体の見えない相手に大声を上げるが、その実態は掴めない。
「夢ではありません。現実に起きた出来事の記憶です。この剣に宿ったままの、さまよう悲しい記憶。」
女はそう説明するが、まるで理解できない。でも確かに、目の前の男の死体も銀色の剣も、夢とは思えない強い存在感がある。
「このランプを消したら、俺は元の場所に戻るのかい?」
「はい、戻ります。ですが、あなたにお願いがあります。どうか、どんなに悲しい記憶でも、大切に伝えてください。」
「この男、ユージーンの記憶かい?」
「そうです。そうすれば、たとえ肉体は死しても魂が生きていけます。」
「重いお願いだな。」
ユージーンの死に顔を見つめ、遺言を頭のなかで繰り返した。
「あなただけにできることです。そして、あなたの宿命です。」
「宿命…。」
初めて聞く言葉だが、なぜか逃げられない一本道に立たされたような気持ちだ。
「さぁ、ランプを消して…。」
俺はもう一度ユージーンの顔を見て、ランプの火にフッと息をかけた。
この空間に落ちてきたときとは逆の、体が一気に浮き上がる感覚がした。深い川の底に潜ったあと、そこからどんどん水面を目指すのと同じ感覚だ。
「見つけて…。」
また声がした。今度は鈴のような、少女のような声だ。
「私を、見つけて…。」
お前は誰だと問いかけたいが、理解が追いつかず、声にできない。
でも俺は、その声にいつか出会える気がした。声は遠ざかっていくが、月が沈んだあとは太陽が昇るような、そんな自然な流れのなかで出会えるよう気がした。
「ソラ…。」
「ソラっ。」
ティアとカイが俺を呼ぶ声がする。どうやら《世界》に戻ってきたようだ。辺りは変わらず夜の闇に沈んでおり、手にしたランプは、不思議なことに、吹き消したはずなのに煌々と光っている。
「突然ボーッとして、どうしたいんだい?」
カイが心配そうに問いかけて来たが、俺はあの約束を優先した。
「ティア。」
いきなり名前を呼ばれたティアが驚いていた。お構いなしに俺は続けた。
「ユージーンの伝言だ。」
「なぜ、息子の名前を…。」
「最後に母上の焼いたアップルパイを、家族で食べたかったってさ。」
俺がそう言ったあと、少しの間、沈黙に包まれた。それはそうだ。こんな身元不明な浮浪児が、突然死者の言葉を語ったのだ。おかしく思われても仕方ない。
しかし、ティアの頬に一筋の涙が流れた。
「そうですか…。ユージーンがそんなことを…。」
「信じるのかい?」
「ええ、アップルパイを家族でだなんて、平和を愛したあの子らしい言葉だわ。」
そう言うと、ティアは肖像画に描かれたユージーンの穏やかな横顔を少しの時間見つめ、懐から出したハンカチで涙を拭いた。そして、ユージーンと同じ、優しい茶色の目を俺に向けて言った。
「ありがとう、ソラ。」
不思議な夢を見て、死者の声を伝えた。ユージーンは【煉獄】へ行くと言っていたが、今この瞬間は母親の元へ戻って来ているのではないか。
俺は悪事に手を貸したとき以外で初めての《ありがとう》が、何だかむず痒くて、口を尖らせて俯いてしまった。
ユージーンの屋敷の裏口は、城下町の外へ繋がっていた。俺は貧民街に来てから初めて城下町を出る。思えば、城下町に来る以前の記憶なんて無いくらい、俺は幼い頃から貧民街にいた気がする。
少し歩くと、質素な馬車が待機していた。
「この馬車でロンソ村へ行き、新しい馬車に乗り換えます。そして港町ハーリーへ行き、姫神教の使者にあなたを任せます。そこから船でアリアレジスへ向かうのです。」
ロンソ村、港町ハーリー、船、アリアレジス、どれも俺が見たことないものばかりで、つい気持ちが高まってしまう。
「それにしても、地味な馬車だなぁ。王族の馬車ってもっと豪華だと思ったぜ。」
「先ほど伝えた旅路は、隣国ブランジェがそう遠くありません。それに、豪華な馬車だなんて盗賊の格好の標的になりますよ。」
俺は軽口の冗談のつもりで言ったのだが、どうやら外の世界は危険も多いらしい。
俺は馬車の荷台に乗った。馬を操る御者も、地味な服装をしている。
「カイ、ソラ、お気をつけて。姫神様のご加護があらんことを。」
ティアが恭しくお辞儀をした。
「ティア、そんな堅苦しい言葉じゃなくて、もっとあんたらしい言葉で送り出してくれよ。」
俺がそう生意気なことを言うと、ティアはクスリと笑った。
「そうね、では。カイ、ソラ、行ってらっしゃい。無事で帰って来てね。」
「ティアも元気でな。」
「女王様、行って参ります。」
カイはそう言って女王に深く礼をして、荷台に乗った。
御者の指示で馬が走り出す。それは俺の想像よりも早く、ティアと騎士二人はすぐに小さくなってしまった。
そして城下町が遠ざかっていく。俺は記憶では初めて、城下町を外から見た。それは立派な城壁で囲まれており、小さな建物がたくさん集まって大きな城になっているようだった。見慣れた汚い貧民街なんて、少しも見えない。
城下町から目を外し周囲を見渡すと、辺り一面は草原だった。夜の闇ではっきりとしないが、遠くに大きな山の影が見えた。
何だか、怖い。俺は、俺の知らない世界へ飛び出したのだ。転々とした寝ぐらも、しょっちゅう盗みを働いたパン屋も、スリをした商店街もない。大人の思惑で乗せられている馬車が、俺の知らない場所へ向かっている。
今はもう見えない貧民街で、俺は強くなった気でいた。しかし、世界は広く、大きい。俺の知らない人々や国があるのだ。こんなに質素な馬車の荷台ですら広く感じ、自分が小さく見えた。
星空を見上げ、俺はあの不思議な空間、そしてユージーンの死に顔を思い出した。世界には俺が知らないだけで、あんなにも悲しい人がいるのだ。
その現実に当てはまる言葉を、今の俺はまだ知らない。恐ろしい、怖い、悲しい…。どれも当てはまるようで、でもどこかしっくりと来ない。
俺は知りたい。いろいろな世界を。知らないことについて、知っていきたい。
そんなことを考えながら俺は眠りに落ちた。馬車の揺れが心地いい。
明日への不安と、そして不思議な期待が俺の胸に生まれていた。




