レシオ、下の街の希望《ソラ》
《ソラ》
「なあ、カイ。まだぁ?」
階段を下り、結構な時間が経った。最初は会話のあった俺たちも、段々と口数が減り、ついには誰も話さなくなった。カイの鼻歌と、ユフィのぜぇぜぇと苦しそうな息遣いしか聞こえない。
幸い、階段を下りながら見る景色は美しい。外壁同様、古い建物が多いのだが、ツタや植物が壁を覆っていたり、窓ガラスが個性的な形をしていたりと、目は飽きることが無い。
しかし、階段から伸びる路地には、浮浪者らしき者も多く見られる。
「あと少しだよ。」
「そりゃ、さっきも聞いたぞ。」
カイの言葉にカスガが返す。このやり取りも何回目か分からない。
「着いたよ。」
カイが階段を下り終えると、そこは市場や武闘大会のあった広場とは雰囲気が違った。広場は、つまり、ここに比べて【上の方】は、古くとも整然としていた。それを思うと、この辺りは日当たりが悪く、元の建物に別の材料を後付けしたような壁や屋根で、不恰好な街並みにすら思える。教会ですら、元の壁と、補修したであろう壁とで全く違う材料を使っている。
「…ここからは、あの姫神像が見えないのね。」
マキが呟く。俺はその言葉の意図が分からず、彼女をえっ?と見る。すると、カイが言う。
「この辺りがブルート制度のあるとき、下層階級にいた人たちが造った地域だよ。ブルート制度廃止のあとは、階級に関係なく貧しい人が住むようになったけれど。」
それは、つまりは貧民街だと言うことか。俺はそれを察しても、口にはしなかった。
カイの頼みで、雑貨店へ寄ることにした。何か菓子類を買って行きたいらしい。
雑貨店は古びた外観だったが、品揃えは良かった。カイはいくつかの菓子を選び、カウンターへ行き、初老くらいの女性店員が勘定する。
「はいはい、全部で三百ルピーね。」
「こんにちは。おばさん、僕のこと覚えてますか?」
カイが紙袋を受け取りながら微笑む。店員はメガネのズレを直し、カイを見つめた。すると、特に表情の無かった店員が、目を丸くした。
「え?アストール?カイ?どっち?」
「いやだなあ。お父さんは死んじゃったじゃないですか。僕はカイですよ。元気そうで良かった、おばさん。」
おばさん店員は声を上げて立ち上がり、嬉しそうにはしゃいでカイの両腕を叩いた。
「ちょっと、聞いてないわよ。エレンは知ってるの?」
「いや、いろいろ事情があって、連絡はできてないんです。」
「もう、お金なんていらないわよ。ちょっと、ほら、外へ来なさいって。」
おばさん店員はそう言って三百ルピーを返すと、カウンターから出て来た。そのままの勢いでカイを雑貨店の外へ引っ張る。そして、大声で叫ぶ。
「みんなっ、カイだよ。帰って来たよ。私たちの希望の星の、グランディエの騎士様が帰って来たよっ。」
カイは照れ臭そうに体を小さくして、やめてよ、と言う。しかし、元気なおばさん店員の声で、人はぞろぞろと集まる。壁だと思っていたところがバンと開き、人が出て来る。どうやら扉だったようだ。
「なに、おばちゃん、なんだって?」
「えっ、おい、アストール?生きてたのか?」
「違うわよ、カイよ。息子のほう。」
二、三十人の人々がワッと盛り上がる。
「えーっ、カイっ?お帰りっ。」
「すごいわ、騎士様のお帰りね。」
「見違えたなぁ。何年ぶりだい?」
それぞれが声をかけて来るなか、カイが顔を赤くして、九年ぶりです、と答えた。
「なんじゃ、すごい人気じゃのう。」
「希望の星ですって。すごいわね。」
カスガが驚いていると、マキが微笑んで言う。カイはたくさんの人にもみくちゃにされ、少しして解放されて、俺たちのところへ戻ってきた。その両腕には、持ちきれないほどの菓子や食料を抱えている。
「説明は…。」
「その前に、一回、実家で休みたいよ。」
ユフィは問うが、カイはヘトヘトになって答える。しかしその表情は困ったようで、照れながらも嬉しそうだった。
俺たちは手分けして菓子などを持ち、カイに着いて行く。その間も、カイはよく呼び止められた。そのときも、アストールと何度か呼ばれた。
「アストールは、もしかして父親か?」
ユフィが尋ねると、カイが頷く。
「うん。子どもの頃、写真で見た記憶しか無いけれど、自分でも似ていると思うよ。」
そうして、実家にたどり着いた。俺は看板を読む。
「マルティン工房?」
「ここが僕の実家。祖父のマルティンが営む鍛冶屋でもあるんだよ。」
カイはそう言いながら、扉を開けた。入り口からは大量の煙が溢れ出し、俺たちはつい咳き込む。金属を叩く鋭い音も響いている。
「おじいちゃんっ。カイですっ。いますか?」
煙で真っ白な工房に向かって、カイが大声を張り上げる。やがて工房に足を踏み入れ、繰り返し祖父を呼ぶ。
「なんだ、客か?」
煙にまみれた工房の、金床の側に立つ老人が大声を上げる。この老人がマルティンだろう。マルティンは手を止め、カイを見つめる。
「こりゃたまげた…。カイか?カイなのかい?」
マルティンは金髪がだいぶ抜けて、シワだらけの顔をしている。しかし、腕はたくましい筋肉が付いており、現役の鍛冶士であることが分かる。
「はい、お久しぶりです。おじいちゃん。」
カイが微笑むと、じっくりと時間をかけ、マルティンの目から涙が溢れた。
「立派になったなぁ…。おっといけねぇ。」
マルティンは泣きながら手元の鉄を叩いた。そして、鉄を叩きながら涙声で話す。
「奥に、エレンが、いるっ。セシルは、まだ、学校だ。俺は、手が、離せねえっ。また、後でなっ。」
「分かりました。じゃあまた後で。」
俺たちは職人の迫力に圧倒されながら、カイの後に着いて行く。すぐに、煙の向こうに扉が見えた。カイが扉をノックし返事を聞こうとするが、鍛治の音で聞こえない。カイが失礼します、と言って扉を開けた。
扉の向こうは、普通の住居だった。鉄を叩く音は聞こえるが、それ以外は静かだ。テーブルや椅子など最低限の家具は置かれているが、無駄なものはなくスッキリとした部屋だ。
部屋の奥のソファに金髪の女が座っていた。女は目を瞑りながら、指で編み物をしているようだ。
「セシル?…では、なさそうですね。どちら様?」
女は目を瞑ったまま、不安定に顔を上げた。カイが近づき、目線を合わせて声をかけた。
「お母さん、お久しぶりです。カイです。ただいま帰りました。」
「え…、カイ?」
母と言われた女は、なおも目を瞑ったまま、指に巻いた毛糸を外し、手を宙に浮かせた。カイはお母さん、と呼び、その手を握る。母は言う。
「カイ、お帰りなさい。声が変わって…。驚きました。アストールさんにそっくり。」
「声もですか?顔は、街の人にたくさん言われましたけれど。」
カイは嬉しそうに微笑む。
「カイ、ちょっと立たせてちょうだい。あなたの身長が知りたいわ。」
母に言われ、カイはその手を取りながらゆっくりと立ち上がる。そして、母の手を自分の肩に置いた。次に、母の片手を頭に乗せた。
「こんなに身長が伸びて…。九年も経つものね。あなたもきっと、立派に頑張っているのでしょう。養子に出たときは、私よりも小さかったのに。」
母は目を瞑ったままだが、嬉しそうに微笑んでいるのが分かる。
「お母さん、僕は今、女王陛下の命で旅をしているんです。一緒に旅をしている仲間を紹介させてください。」
母はそこで初めて、俺たちがいることに気づいたようだ。俺たちは手に持った菓子や食料をテーブルに置き、母の元へ寄る。母はカイの手を借りながら、ソファに座った。
「カイに旅のお仲間がいらっしゃるなんて、ありがたいことです。母のエレンと申します。皆さん、カイがお世話になっております。」
エレンは目を瞑ったまま、誰のほうを向くこともなく名乗った。
まずはカスガが、カイと同じように目線を合わせて、膝に置いた母の手を取って名乗る。
「カスガさん、あなた、メウィティカの方?」
「そうです。やはり、訛りで分かりますかのう。」
「それもそうですが、薬品の匂いがしますね。それに、目の不自由な私を気遣って、すぐに目線を合わせて手を取ってくださって…。きっと、素敵なお医者様になられるのね。」
エレンの言葉に、カスガが照れ臭そうに笑う。
次にユフィが、目線を合わせて手を取って名乗る。
「ユフィさん、あなた学生さん?大きなペンダコが、手に出来ていらっしゃるわ。」
「はい、先日までジオリダムの学院に在籍していました。」
「それはすごいわ。私の娘、カイの妹のセシルも、今学生なんです。身分も関係なく学問を身につけて生きていける、良い時代になりましたね。」
次にマキが、カスガやユフィと同じようにして名乗る。
「まあ、女性で旅をしているといろいろ不便でしょう?」
「いえ、劇団の巡業で旅には慣れているので。」
「劇団?」
「はい。グランディエを拠点にしている、劇団ブロタールです。私は笛を担当しています。」
「素敵ですね。よく娘が演奏会に連れて行ってくれるのだけれど、音楽は心を豊かにしてくれますね。」
「マキはね、笛以外も演奏できるし、歌も上手なんですよ。」
カイが付け加えると、エレンは感心の声を上げた。
「マキさん、良ければぜひ、演奏を聞かせていただきたいわ。一人前の方に、こんなお願いは失礼ですけれど。」
エレンがそう言うと、マキはぜひ、と微笑んだ。
次は俺の番だ。俺も先程の三人のように目線を合わせ、エレンの手を取る。人の手を取ることなんてなかなか無いので、少し恥ずかしい。
「えっと、俺はソラ。カイと一緒に、アリアレジスを目指しているんだ。」
「ソラ君?まだ年若そうですね?」
「ああ、十三歳だよ。」
「そう…。でも、苦労した方の手をしていらっしゃるわ。旅は大変でしょう?」
エレンはそう言うと、俺の手を優しく撫でる。俺は、傷やささくれだらけの手がみっともない。でも、撫でてくれたその手が温かくて、心の奥底で何かがじわりと滲む。
「でもよ、カイたちがいつも守ってくれるから、俺はここまで来れたんだ。エレン、カイは強くて、すごくいいヤツだぜ。」
俺は自分のことのように、胸を張って言う。
「お前…、もう少し口の利き方を教えないとな。」
ユフィがあきれたように言う。エレンは嬉しそうに笑っていた。
「ただいま帰りました。」
そのとき、扉が開いた。扉が開いた瞬間、鍛治の大きな音が部屋に響き、その音とともに、金髪の少女が入って来た。
「え?えっと、どちら様…?」
少女は困惑した様子で、部屋を見渡す。
「セシル、お帰りなさい。カイが帰って来たのですよ。」
セシルと呼ばれた少女はえっ、と声を上げて、俺たち一人一人を見た。そして、何かを思い出すように、カイをじっと見つめる。
「えっと、お、お兄ちゃん?」
「そうだよ。大きくなったね、セシル。」
セシルと呼ばれた少女は、目を丸くして口を開けた。そして、急に頭を下げた。
「いつも生活費や学費を援助してくれて、ありがとうございますっ。」
その勢いに俺たちは驚く。カイも驚いた様子で、すぐにセシルの肩に手を添えて言う。
「よしてよ、家族なんだから。」
セシルは顔を上げるが、困り眉でどう振る舞って良いか分からない様子だ。よく見ると、タレ目がカイとそっくりだ。
「それよりも、学校でも一番の成績だって前の手紙で書いてあったね。すごいじゃないか。」
カイが微笑んで言うが、セシルは困り眉のまま言う。
「それも、お兄ちゃんが援助してくれるおかげです。」
「セシル、兄妹で敬語はいらないよ。」
「はい。じゃなくて、うん。」
そこで二人の顔が綻ぶ。ようやく緊張が解け、兄妹らしい笑顔を取り戻したようだ。そして、セシルは俺たちの方を見た。
「お兄ちゃん、この方たちは?」
「僕の旅の仲間だよ。」
そう言って、カイが俺たちを紹介してくれたので、軽く挨拶を交わす。困惑や緊張の取れたセシルの微笑みは、ますますカイとそっくりだ。
簡単な挨拶を済ませたところで、セシルに席に着くよう促される。しかし、椅子が足りないため、カイが酒樽をキッチンから転がして来て座った。セシルは母に寄り添うように、ソファにかけた。
「カスガとマキは、セシルと同じ年だよ。」
カイがそう説明すると、セシルは目を輝かせた。
「嬉しい。私、同じ学年に同い年の子がいないから…。」
「ふーん、学校ってそういうもんなのかい?」
俺が問うと、セシルが少し気まずそうに首をひねる。
「飛び級か?」
ユフィが問うと、セシルが頷いた。
「トビキュー?」
「成績が優秀で、上の学年に所属することだ。」
俺の問いにユフィがそう答えたので、マキがすごいわ、と明るく声をかける。セシルは照れ臭そうに頬に手を当てた。ユフィはさらに続ける。
「まあ、俺は四つや五つ上のヤツと学習していたけどな。」
「ユフィって、実は自慢好きだよな。」
俺が突っ込むと、ユフィは口の端を上げて事実だ、と言う。そのやり取りで、部屋にいる者は笑ってしまった。なんとなくだが、ジオリダム以来、ユフィは軽い冗談を言うようになった気がする。
「どんな学校に通っているんじゃ?」
「いろいろな職業の訓練校みたいなものでね、私は街にあるような、幼い年齢の子が通う学校の先生を目指しているの。」
カスガの問いに、セシルが微笑んで答えた。
「素敵な夢ね。私の学校は少し怖そうな男性の先生ばかりだったから、セシルみたいに優しそうな先生がいたら、子どもたちも嬉しいと思うわ。」
マキが笑顔で言う。確かに、グランディエの街の学校は男の教員ばかりだった。浮浪児の俺を厄介そうに追い払い、唯一ジジイ先生だけが相手をしてくれたのを思い出す。それに、ジオリダムでリサに会ったときに感じた柔らかい雰囲気は、幼い子どもも安心するだろう。
「そうね、優しい先生もそうだけれど、やっぱりこの国はまだ階級意識が残っていてね。元上層、元中層、元下層…。そういう、いろいろな家庭の子が街の学校に通っているの。私はそういう意識を取り払って、みんなが安心して学べる場所を作りたいの。」
セシルが真剣な眼差しで語る。その翡翠色の瞳は色こそ違うが、戦いに臨むカイの眼差しを思い出させる。
「いいな、俺もセシルみたいな先生のところで勉強してみたいよ。」
「お前みたいなやんちゃなガキ、俺が教員だったら願い下げだな。」
俺の素直な感想にユフィが水を差し、俺は怒って立ち上がる。それを見て、またみんなが笑った。
「おーい、今日は上がりにするぞ。飯を食べよう。」
扉が豪快に開き、カイの祖父マルティンが入って来た。その顔や服は真っ黒だ。
「お?なんだ?カイ以外にもたくさんいるじゃないか。どういうことだ?」
先ほど顔を合わせたと思うのだが、職人の集中する視野に、俺たちは入っていなかったらしい。カイは俺たちを紹介し、マキ以外は豪快に肩を叩かれた。その手のひらは分厚く、かなり痛い。
夕方の鐘が鳴り、俺たちは夕飯を取ることにした。懐はカイが勝ち取った賞金のおかげで、かなり温かい。俺たちはセシルの提案で、近所の食堂へ行くことにした。
目の不自由なエレンが、セシルの肩を掴み、空いた手には杖を持つ。この家に無駄なものがなく、スッキリとしている理由が分かった。エレンが杖を頼りに歩きやすくするためだ。
近所の食堂に着き、そこの店長夫婦は大人数の来客に驚いた。何より、他の者と同じように、カイが帰って来たことに、店の客も一緒になって歓声を上げた。
席に着き、食事を注文する。すると、店長夫婦や他の客からかなりのサービスを受けた。頼んでいない料理も次々と運ばれて来る。俺たちは自分の胃袋が心配になった。
食堂は質素で、壁の至るところに外観と同じような補修した後が見えた。しかし、値段以上の美味さに、俺たちは食べる手が止まらない。胃袋の心配もいらなそうだ。
マルティンは上機嫌で酒を何杯も飲み干し、カイの肩を組んで聞く。
「カイ、酒はまだか?」
「おじいちゃん、僕は成人まで、まだあと一年ですよ。」
マルティンはそれを聞き、また上機嫌で笑う。今は何を聞いてもゲラゲラと笑いそうだ。
「しかし、めでたいなあ。グランディエ騎士様ご来店なんて看板を下げようか。」
店長が冗談っぽく、しかし本気のようにも取れる口調で言う。
「皆さん大げさですよ。僕は養子先に恵まれただけです。」
カイは照れ臭そうに、顔を赤くして言う。
「いーや、私たち下層階級の出からしたらね、カイ君は希望の星だよ。」
店長の妻が、マルティンに酒を注ぎながら言う。
「ブルート制度が廃止されてからも、私たちは辛酸を舐め続けたものよ。うちの食堂だって、食料危機があったときは仕入れを後回しにされたしね。」
「俺も雇われ鍛冶士だったときは下層のくせにって何度も馬鹿にされたよ。ブルート制度廃止の後もな。まあ、それも過去のことだがなっ。」
マルティンはそう言って、ガハハと笑い、隣のカイの背中を叩いた。
「そんななかでね、カイ君がグランディエに養子に行く話が出たのよね。」
店長の妻が、その気さくな笑顔をカイに向ける。カイは頷いて言う。
「たまたまですよ。武闘大会で戦っている僕を、クアロラルシュの養父母が見つけてくれたからです。」
「でも、それだってカイの才能を見抜いたからだろ?」
俺が言うと、カイ以外はうんうんと頷く。
「エレンさんは、寂しかっただろうけどね。」
店長の妻がエレンの手をとり、その手の中にお茶を持たせる。
「そうですね…、そのとき、カイはまだ八歳でしたから…。でも、やっぱりアストールさんの、戦士としての血を継いでいるのだと誇らしく思いましたよ。…あら、ちょっと言い過ぎたかしら。」
エレンは口元に手をやり、恐縮そうにした。その顔は真っ赤だ。
「いや、言い過ぎじゃないさ。アストールも素晴らしい騎士だったからな。なんたって、赫灼なんて異名を持っていたくらいだもんな。」
すぐ近くの客が誇らしげに言う。俺は問う。
「カクシャク?」
「アストールさんはね、燃えるような赤い髪をしていらしたの。その髪を風に揺らしながら、馬にまたがって戦う姿から、赫灼と呼ばれたのです。」
エレンが目を瞑ったまま、夫の姿を思い描いて言う。
「お母さんはお父さんの話をするの、好きですよね。お父さんの話をするとき、いつも少女みたいですもの。」
セシルがイタズラっぽく言う。すると、エレンは先ほど以上に顔を赤くする。周りの客も、少しからかうように笑う。
「そうそう、そのアストールの息子で、下層階級の出のカイが、グランディエに行ったわけね。そして騎士を目指すと。それだけでも、私たち【元下層】の人間からしたら胸が熱い話なのよ。」
そう話す店長の妻に、マルティンが少し泣きそうになりながら大きく頷く。そして、言う。
「それで、カイが十四歳のときだよな。クアロラルシュ様の家から、カイが騎士の試験に合格したって手紙が来て…。俺はあのとき泣いてよ、ついその手紙で鼻をかみそうになっちまったよ。」
マルティンはついに大泣きして、鼻をずいっと吸った。セシルが懐からハンカチを渡す。
「マルティンさんだけじゃないさ。私ら元下層の人間は、お祭り騒ぎだったよ。」
店長の妻が笑顔で言う。周囲の客もそれぞれ頷いた。
「なるほどな、いわゆる成り上がりってヤツだろ?すげえかっこいいじゃんっ。」
俺まで興奮して、つい立ち上がって言う。それを、両隣のマキとユフィに肘で突かれる。
「なんだよ?」
「成り上がりは、言葉が悪い。」
顔をしかめる俺の顔を、ユフィがわし掴むようにして注意する。
「でも、とても伝わりました。カイが、みなさんの希望の星だと言う気持ちが。」
マキが言うと、店長夫婦や周りの客がそうそうと頷く。
「素晴らしいっ。カイが生まれ持った資質ももちろんあるじゃろうが、きっと努力もあったじゃろうの。カイ、お前はすごいっ。」
カスガが大声を上げて立ち上がった。その顔は、首まで赤い。
「おい、カスガの水、酒だぞ。」
カスガのカップの水を一口含んだユフィが、顔を歪ませて言う。ユフィはそのカップを、マルティンの前に置いた。
「マキ、カイを称える一曲は無いかのう。」
「お前、さては酔うとめんどくさいヤツだな。」
声が大きくなるカスガの前に、ユフィは水を置く。
「あるわよ。英雄の帰還を祝う、凱旋曲がね。」
マキはニッコリ笑って笛を出す。
「えっ、マキ、笛を吹けるの?」
「ああ、マキはね、劇団ブロタールの人なんだよ。」
驚くセシルに、カイが言う。周囲の客は手を叩いて喜び、店長夫婦は弦楽器と打楽器を持って来た。
「劇団の人についていけるかな。」
「こういうのはね、ノリよ。ノリ。」
そう言って、店長夫婦は互いに笑みを交わす。
そして、マキのエルターニャ笛が高らかな音で早いリズムを奏でる。それは行進曲のような背中を押す勇ましさがありつつも、戦いを乗り越えた英雄を称える華やかさもあった。店長夫婦も負けじと楽器を奏で、他の客も手拍子で盛り上げる。
カイは恥ずかしさで身を縮めながらも、マルティンに応えて肩を組んだ。カスガを始め、酒の入った者は手拍子だけでなく指笛も鳴らした。ユフィでさえ、手拍子をしていたのに俺は驚いた。
エレンは目を瞑りながら、その長いまつ毛を濡らして、凱旋曲に聴き入っていた。
こうして、レシオ滞在の一日が終わった。なかなか濃い一日となったが、みんなが笑顔に包まれた、良い夜となった。食堂の賑わいは寝静まる時間まで続き、俺たちはカイの実家へと帰ろうとする。会計はあまりにも安く、その値段を提示する店長夫妻に冷静なユフィは食い下がる。しかし、店長が言う。
「カイ君にはたくさん夢を見させてもらっているからね、ほんの恩返しさ。」
カイは酔っ払ったマルティンを背負ったまま、深く頭を下げて言う。
「ありがとうございます。これからも頑張ります。」
俺たちは重いマルティンを背負うカイと、エレンを導くセシルの歩幅に合わせて、暗い夜道を歩いた。酔っ払ったカスガが明るく歌うので、ユフィが何度も頭を小突いた。




