黒き結晶ネグルと、港町《ソラ》
《ソラ》
〈おい、形代。聞こえてんだろ。〉
夢の中で、火の精霊が呼びかける。しかし、俺はセオドアの一件で疲れているので、聞こえないフリをした。
〈フリでも分かるぜ。俺はお前の内側にいるんだからよ。〉
そう言われ、観念するように目を覚ます。とは言え、夢の中でだが。
「なんだい?俺は疲れてんだ。」
〈あれを見ろよ。〉
火の精霊があれ、と言う。精霊の姿は目に見えないので、指などが差されているわけではない。しかし、不思議なことに、どこを指しているかは分かるのだ。
「な、なんだ、ありゃ…。」
俺は驚いた。俺の内側、それが頭の中なのか、心の中なのかは分からないので、俺は内側と呼んでいるが…。そんな、俺の内側には今、泉が広がっている。それは、雨の精霊が俺に宿ったときに見えた泉だ。
その上に、黒い結晶が浮かんでいる。縦に細長い、六角形の結晶だ。突然の訪問者に戸惑いつつも、俺には心当たりがある。
「…氷の精霊かい?」
俺が生まれながらに持つ、氷の力。俺の感情に合わせて、黒い氷柱を立てたこともあった。火と雨の精霊とは、この内側で会話したことがあった。しかし、氷の精霊はまるで存在感が無いのだ。
「なぁ、答えてくれよ。氷の精霊なんだろ?」
俺が再度問うと、結晶は一瞬だけ鋭く煌めき、返事をする。
〈俺はまだ、何者でもないさ。〉
「なんだい、返事できるじゃねぇか。返事ができて、そこに浮かんでいるということは、存在しているということじゃないのかい?」
〈あんたがどう考えようと構わない。勝手にしてくれ。〉
「なんだか生意気なヤツだな…。」
俺は異様な存在感を放つ割に、手応えのないその結晶にイラだってきた。
「なんだって、突然現れたんだい?」
〈…生まれちまったんだよ。〉
「てぇことは、あんたも驚いてるってことかい?」
〈いや、俺は宿命によって生まれた。俺が生まれるのは決まっていたことさ。〉
「宿命?それ、銀の糸の世界でも、あの憎たらしい声が言ってたな。」
〈お前は、ある宿命を持って生まれてきた。〉
「…悲しい記憶を見て、それを繰り返させないってヤツか?」
〈俺は、説明をするために生まれたわけじゃないからよ、それはお前が見つけてくれよ。〉
「お前らは秘密が好きだな。じゃあ、あんたはなんで生まれたんだい?」
淀みのない問答に、少しの沈黙が漂い、結晶が答える。
〈それはソラ、お前の敵となるためさ。〉
「敵?」
意外な言葉に、イラ立ちを通り越して、鋭い敵意を抱く。なぜ自分の内側ですら、敵が存在するんだ。
〈まあ、俺のことはネグルとでも呼んでくれ。古い言葉で黒って意味さ。よろしくな。〉
「俺の嫌いな色が増えたぜ。一つは足の水色。そして、二つ目は黒だ。よろしくな。」
〈俺たちは気が合うと思うぜ。〉
結晶の下の泉が、波紋を広げる。
〈さっそく敵として、お前に問いかけるぜ。〉
「おう、なんだい?」
〈最近のお前、矛盾してないかい?〉
「ムジュン?」
俺が問い返すと、結晶の下の泉に複数の波紋が立った。
〈浮浪児として一匹狼ぶって、女王を刺そうとしたお前。正しいことや綺麗事を受け入れない自分。奪う側に回るために、強さを求めた自分。周囲の大人も自分をも疑う自分。世界や差別を憎む自分。〉
ネグルの言葉に、あらゆる自分が浮かぶ。かつての俺は貧民街で、悪態をついて一人で生きていた。
〈銀の糸の人物に同情する自分。五人で旅することの楽しさを感じている自分。傷つく人を助けたいと思う自分。風瓏の民の女を守ると言い、強く生きようと呼びかけた自分。希望教を拒んだ自分。〉
俺はネグルの言葉を一つ一つ受け止めながら、それぞれの自分がいることを認めた。
ネグルは続ける。
〈ソクアヴェスタと希望教を憎む自分。〉
それを言うと、ネグルがまた、鋭く煌めいた。
〈しかし、ソクアヴェスタと希望教を差別する世界を疑う自分。〉
俺は目を閉じて、それらの言葉を静かに受け止めた。
〈ソラ、お前はいったい何なんだい?結局はどうしたいんだい?〉
ネグルのたたみかけに、俺は自身を見失っており、目を閉じたまま言葉が見つからない。
〈大人の思惑通りになりたくないと思っていたくせに、何も考えずアリアレジスへ向かっている。本当にそれでいいのかい?〉
俺は言葉を受け止めるのに必死で、目線を泳がせる。額には汗が流れる。
〈本当に、姫神教会を目指していいのかい?形代が差別されるきっかけを作ったかもしれない集団なのに?〉
そこまで言われて、俺は大きく息を吸って、目を開けた。しかし、何を頼りにして良いか分からないせいか、まばたきを繰り返してしまう。そして、ようやく声を絞り出す。
「あんた、本当に嫌な敵だぜ。心底、シャクに触る。」
〈図星だからだろう?〉
「ああ、そうだ。それに、無神経で腹立つ。」
俺がそう認めると、ネグルはあざ笑うように煌めく。
〈矛盾の無い人間のほうがいないけどよ。それにしてもソラ、お前は一貫性が無さすぎないかい?〉
一貫性。確かに、俺のなかにはたくさんの迷いが生まれている。
〈まあ、せいぜい頑張れよ。夜明けへ進むんだろ?〉
「ああ?」
俺の名前と決意を馬鹿にされた気分で、思わず悪態をつく。
〈そろそろ目覚めだ。俺の攻撃はここまでさ。でもよ、最後に一ついいかい?〉
ネグルが鈍く煌めく。
〈お前、あの四人を信じて旅していいのかい?四人が差別をしていないと…。〉
「信じる。あの四人をどうこう言うのは許さねぇぜ、ネグル。」
ネグルのかすかな笑い声とともに、俺の視界が明るくなっていった。
気づいたら、俺は宿のベッドで目を覚ましていた。部屋には誰もいない。俺は着替えて、宿のロビーへ行った。
「あ、おはよう、ソラ。」
四人はもう起きて着替えも済ませて、ロビーのソファに座っていた。時計を見ると、もう昼を過ぎていた。挨拶をして、俺もソファに座る。
四人は俺に、クルエルの状況を教えてくれた。主に、早起きのユフィとカスガが集めた情報だが。
まず、踊り狂っていた人々は正気に戻り、ぼんやりとだが、会話もできるらしい。
一方で、タランテラの末に廃人となってしまった人は、まだそのままだと言う。俺は改めて、精霊の力や殉教の魔道士の恐ろしさを思い知った。
そして、港。セーラの去り際の言葉通り、封鎖されたままのようだ。国民、特に貿易業を生業としている者たちが城へ押しかけ、封鎖の解除を求めているが、国王が一切受け入れない姿勢らしい。
「セーラという魔道士は、そんなにジオリダムでは有名なのかい?」
カイの問いに、ユフィは頷いて話す。
「昨夜も言ったように、セーラ=ケルペアは国立魔道学院で、百年に一人の天才と言われていた。どの魔道にも高い適性を示し、年齢に見合わない段階の魔道を次々と習得していったと聞く。」
それだけ聞いても、セーラのすごさは充分に伝わる。そして、ユフィは続けた。
「だが、学院の発表いわく、禁忌を犯したという。」
「キンキ?」
俺が聞くと、マキが絶対にやってはいけないこと、と説明してくれた。
「どのような禁忌かは明かされていない。しかし、セーラの魔道によって百人弱、植物人間状態になったという。あまりの罪深さに学院の手に追いきれず、国の裁判にかけられることになった。しかし、突然影も形もなく牢から消えた…、とまでしか知らない。」
「ひゃ、百人…っ?まあ、殉教の魔道士を見とると、脱獄くらい朝飯前に思えてしまうのう。」
俺たちはセーラの力を恐れながら、カスガの意見に確かに、と頷く。俺は一つ、疑問を聞いてみた。
「なぁ、あの耳がとがっているのはなんなんだい?初めて見たぜ。」
「ああ、あの耳はエクラ種の特徴だね。」
カイが言う、エクラ種について聞き返す。
「生まれつき強い魔力を持つとされる人種さ。昔はもっと、多く暮らしていたと聞くけれど…。」
「迫害と兵器化。」
カイの説明に、ユフィが短く入る。そして、続けた。
「その強大な魔力のために恐れられ、エクラの血を引くだけで大量虐殺されたという歴史がある。さらに、あらゆる戦争で人間兵器扱いされて、次々と戦死したともいう。」
俺はゾッとした。どこか、形代である自分と他人事と思えなかったからだ。
しかし、何よりもそれを説明するユフィの冷たい目。ユフィの説明はいつも無駄がなく淡々としているが、このときはどこか、敵意のような、冷たい鋭さを感じた。
「まあ、エクラと考えると、魔道の天才というのも疑問に思わない。」
そう言って、ユフィは話を打ち切った。
俺たちは、クルエルで旅の支度を整えた。今は貿易が滞っているとは言え、大きな港がある王都だ。食料や薬などの消耗品を難なく調達した。
道の途中で、マキが突然、立ち止まる。
「私、思うんだけど、ソラ、背が伸びたんじゃない?」
マキがそう言って、俺は他の三人を見た。
「え?そうかい?俺よ、背、高くなりてぇんだ。」
「そりゃ、いいことじゃ。」
俺とカスガは笑い合う。
「背もそうなんだけど、足の大きさは?靴とか…。服も、なんだか袖が足りない感じするわよ。」
言われてみると、爪先が窮屈な気はする。なんと言っても、靴を履いたのが記憶においては初めてなので、大きさの基準が分からない。
「ちょうどいい機会じゃない?服は火の精霊に焼かれちゃったところを応急処置しただけだし、ソラの靴と服、新調しちゃわない?」
マキがそう言うと、カイとカスガがいいね、と賛同した。
「ありがたいけどよ、金は大丈夫なのかい?」
「お前が絵のモデルをして稼いだ分が、まだある。」
俺の心配に、ユフィが答える。
「ああ、あのユフィが好きな女の子を描いた…。」
カイはそう言いかけて、ユフィに蹴られた。
マキの提案で、俺たちは服屋へ行った。服屋なんて、初めて入る。いろいろ並んでいて、どれが男物でどれが女物かさえ分からない。
「俺は自分のを見てもいいか。」
ユフィが尋ねてきた。そう言えば、服や装飾品にこだわりがあると言っていた。きっと興味があるのだろう。俺たちはどうぞ、と軽く答えた。
「ソラ、好きな色とか服の形とかある?」
マキにそう聞かれるが、全く分からない。
「まあ、水色と黒は好まないぜ。」
俺はネグルとのやり取りから、そう答えた。
「えー、もったいない。せっかく綺麗な黒髪だから、その二色は似合いそうなのに。」
「着れれば何でもいいさ。」
マキはいろいろ考えてくれるが、本当に、寒くなければ何でもいい。
「これとかどう?二人はどう思う?」
マキは次々と俺の体に服を当ててくる。そして、カイとカスガに意見を求めるが、二人は。
「いいと思うよ。」
「いいんじゃなかろうか。」
しか言わない。
しばらくして、マキが俺の服を上から下まで決めてくれた。
「どう?ソラ。」
鏡に映る自分を見る。温かいし、荷物を入れる隠しもある。それに、ナイフを下げるためのベルトもある。いいね、と俺が言っていると、カイが気づく。
「あ、ユフィ。」
自分の買い物を終えたユフィが合流した。どうやら何か購入したらしく、手のひらの大きさの紙袋を持っている。
「どう?ユフィ。」
マキが聞くと、ユフィが俺をジッと見る。
「悪くないが…。」
そう言うと、ユフィは一枚のシャツを手にして言った。
「こいつの髪や瞳の色には、こっちの白の方が合う。」
「ああ、確かに。」
ユフィの提案に、マキは頷きながら納得する。しかし、ユフィが差し出したのは、同じ形の同じ色のシャツだった。
「なんじゃ、どっちも白じゃろうよ。」
カスガが俺と同じ疑問を口にすると、ユフィは違う、と言って続ける。
「今ソラが着ているのは黄色寄りの白だ。俺は青みの強い白を提案した。」
言っている意味が分からず、俺とカスガとカイは顔を見合わせる。
「確かに、こっちの白のほうが肌なじみがいいわね。」
マキは手を合わせて感心する。俺の知らない世界はまだまだある。マキの濃い茶髪と、カスガの薄い茶髪があるように、一言で白と言っても、いろいろな白があるということか。
服を全て着替えて、会計を済ませる。
「お客さん、古い服は誰かに譲る予定はある?」
俺は聞かれるが、見当もつかない。どう答えるべきかと、マキの顔を見上げる。マキは言う。
「こちらのお店では、寄付とかはしてますか?」
「ああ、孤児院とかに送っているよ。」
「では、そちらに…、で、いいかしら?ソラ。」
マキは念のため、俺に聞く。なるほど、服は残しても道中で荷物になるし、一番の使い道だ。
「ああ、じゃあ、孤児院とかで役立ててくれよ。」
俺がそう言うと、若い男性店員はニッコリ笑った。
次に、靴屋へ行った。ここも服屋と同じく初めての場所で、俺はなんだか所在ない気分だ。マキとユフィが棚に並ぶ靴を見ている。カイとカスガはと言うと、自分に役割が無いのを自覚してか、窓越しに店の外を眺めている。
「のう、カイ、今の子、なかなか美人でねぇか?」
「うん?見てなかったや。」
「港町は垢抜けた美人が多いのぅ。」
「港町はいろいろな武器を持った人が多いね。」
全く噛み合わない二人を、俺は頭を掻きながら見ていた。そのうちに、マキとユフィが三足の靴を持ってきて床に置いた。
「ソラ、この辺りなんか、値段の割にいい皮で縫われているわよ。雨にも強そうだし。」
「底もしっかりしていて、長旅に向いている靴だ。」
二人はそう言って靴を薦めてきた。靴なんて履ければいいと思っていたけれど、確かに立ったり歩いたりしている限り、使いっぱなしのものだ。服よりも慎重に選ばなくてはいけなさそうだ。
「ほら、履いてみて?」
「え、でもよ…。」
マキに促されるものの、店には他にも客がいる。俺は靴を脱ぐのに抵抗があった。
「ソラ、明日には旅立つ街よ。すぐ他人になる人たちじゃない。気にすることないわ。」
マキが、そう小さく耳元で言って笑った。確かにそうだ。俺は昔から、自分を見る他人の目を気にしていたのかもしれない。
少し周りを気にしながら、靴を脱ぐ。水色の足がむき出しになる。やはり、他の客は俺の足を見てコソコソと耳打ちしている。気にならないかと言うと、気になる。しかし、今は目の前にいる、俺の反応を期待するマキとユフィのほうが大事だ。
試し履きをし、二足目が一番足にしっくり来た。ユージーンの館で、初めて靴を履いたときの感動を思い出す。
この店でも、会計の際に寄付を提案されたので、俺はこれまで履いてきた靴を店員に渡した。グランディエからずっと履いてきた、人生初の靴。本音としては少し名残惜しいが、次の誰かの足を温めてくれれば、と思った。
そして俺たちは、この日の本題に入る。
ローズの手紙だ。クルエルの王都に暮らす、クリスという人物。男か女かさえ分からないが、死の間際、俺たちに託すということは、大切な手紙なのだろう。
方向感覚に信頼のおけるユフィが、迷わず住宅街に進む。
「ここだ。」
それは、豊かでも貧しくもなさそうな、一般的な家屋に見えた。扉を叩こうとしたとき、中から子どもの笑い声が聞こえてきた。気持ちを切り替え、ユフィが扉を叩く。
「はい、どちら様?」
「すみません。キーエール村のローズからの手紙を届けに来ました。」
ユフィがそう言うと、バタバタと大きな足音とともに、バタンと、これまた大きな音を立てて扉が開かれた。現れたのは、ローズと同じ年頃の男だ。
「ろ、ローズの?」
「はい。クリス=バートンさんですか?」
ユフィが手紙を見せながら問うと、男は一瞬だけ懐かしいような瞳を見せた。しかし、すぐに目を逸らして言う。
「確かに、昔はクリス=バートンだった。今は、違う。」
「今は?」
俺が問うと、クリスは気まずそうに話す。
「私は孤児院出身だが、この家に婿入りしてね。まあ、豊かな生活はしていないが、子どもにも恵まれた。」
なんだか動揺した様子のクリスに、カイが問う。
「失礼ですが、ローズとはどのようなご関係ですか?」
「…古い、友人だよ…。」
クリスがそう言うと、家のなかから、あなた、と呼びかける声と、パパ、と呼ぶ声がした。クリスはそれに、今行くと答える。
「待てよ。手紙は。」
扉を閉めようとしたクリスを止め、俺は問い詰める。しかし、クリスはその手を払った。
「もう、過去のことだ。二度と来ないでくれ。」
そして、俺の指を挟まんばかりに、強引に扉は閉められた。残ったのは、ローズの字で書かれたクリスの名前と、一度送ろうと試みて、やはり剥がした切手の跡が残る封筒。
ローズとクリス、二人の関係は何も分からないし、これからも知ることが出来なさそうだ。けれど俺は、ローズが何かを伝えようとした相手がいたことを、覚えていこうと思った。
なんとなく後味が悪く、五人で住宅街を離れた。
俺たちは、クルエルの初日に寄った食堂で夕食をとった。明日出発することを告げると、女将さんは残念そうにしていた。そして、サービスだよ、と刺身の盛り合わせをつけてくれた。俺は初めての生魚の美味さに感動し、どんどん食べてしまった。
「そういや、ユフィよ。お前さん、服屋で何を買うたんじゃ?」
カスガが、好物のシーフードサラダを食べながら聞く。
「関係ないだろ。」
ユフィが素っ気なく答える。しかし、カスガは引かずに聞く。
「いやぁ、洒落っ気のあるユフィじゃからのぅ、気になるんじゃよ。」
「俺が自分の国で、家庭教師の仕事で得た金で買ったものだ。言う必要は無い。」
とりつく島もないユフィの態度に、カスガはほーん、と言って、サラダを平らげた。
「ジオリダムまでは、結構な長旅になりそうだね。」
カイはこの食堂で気に入った、シーフードのパエリアを食べながら言う。
「そうだな。地図を見る限り、スベルニア、エルコトル、バルセールと、国としては三つの国を通ることになるな。」
ユフィがシーフードパスタを巻きながら言うと、クラムチャウダーを口にしながらマキが問う。
「その辺りの国は、どんな感じなの?ユフィは出身のジオリダムが近いわよね。」
「この辺りは少し複雑でな。」
ユフィが少し弱気な声で言う。
「このクルエルに近いスベルニアとエルコトルは、元々一つの国だったのが、戦争の末に分割して、それぞれが一つの国として成立することを主張をしている。二国の間に姫神教会が入って、何とか平衡を保っている状態だ。」
俺たちがなるほど、と聞いていると、ユフィが続ける。
「バルセールは、精霊戦争中にジオリダムから独立した国だ。まあ、複雑とは言ったが、紫の紛争地帯のように宗教の対立も無いし、治安が悪い心配も無いだろう。」
「なぁんだ、じゃあよ、俺はもっとみんなからいろいろ教えてもらう時間が増えるなっ。」
ユフィの説明を受け、俺が前のめりにそう言うと、四人が一斉に大笑いした。
「な、なんだよ?」
戸惑う俺に、カイが笑いながら窓を指差す。窓に映る俺は、口の周りが真っ黒になっていた。
「な、なんだい、これっ。」
「イカ墨のパスタを夢中になって食べるから…、もう、おかしいわ。」
マキが笑いながら、ナプキンで俺の口を拭く。女将さんが勧めてくれて食べたら美味いもんだから、夢中になっていた。
「あははっ、えっと、何の話だっけ?」
「ふふっ、まあ、次の国スベルニアまでは街道が続いているから、心配いらない。」
カイが目に涙を浮かべて聞く。ユフィまで、笑って答える。そんなこんなで、クルエルでの最後の夜は過ぎていった。
宿に戻り、波の音を子守唄にして眠る。明日には街道に出て、次の国へ向かう。新しい服と靴を手に入れた俺は、ますます心強くなっていた。
また、俺の内側に俺はいる。
〈よう、楽しい一日を過ごしたようだな。〉
「おう、ネグル。新しい服と靴を手にしたソラ様さ。うらやましいかい?」
泉の上に浮かぶ、黒い結晶に問いかける。ついでに周囲を見てみるが、それら以外は何もない、まっさらな空間だった。
〈このまま行けるかな?〉
ネグルが意味深に煌めく。
「一つ、学んでいるうちは世界一の未熟者と思い、扱うときは世界一の熟練者だと思うこと。」
俺が大声でそう言うと、ネグルははぁ?と声を漏らした。
「俺は弱い。まだまだ未熟者さ。世界のことも、知らないことのほうが多い。」
〈そうだ。無力で無知な故に、間違える恐ろしさがあるだろう?〉
ネグルの黒い結晶が、あざ笑うように震える。
「まあな、そりゃ怖いさ。でも、俺は生きている。生きていかなきゃいけない。そのために、強くならなきゃいけない。マキにも約束したしな。」
俺がそう言うと、ネグルは少し黙り、言った。
〈もしもの話をするぜ。〉
「なんだい?」
〈もしも、あんたが信頼する四人が裏切ったら、見捨ててきたら…。ソラ、本当はそんな不安を抱えているだろう?〉
ネグルのその問いは、俺の中心の奥底の、もっと深くに刺さった。反論しない俺に、ネグルはさらに問う。
〈ソラ、一人で生きる生活に戻ったらどうだい?貧しくても孤独でも、余計な不安が無い、一人の世界へ戻ったらどうだい?〉
俺は、俺の内面をジッと見つめる。
孤独。学の無い俺に聞き馴染みのない言葉だが、妙にしっくりと来る。
「ネグルよぉ、あんたの言う通り、俺は弱くて矛盾とやらばかりだ。でも、確かなことを宣言する。」
俺はナイフの切先をネグルに向けた。
「この、弱さも不安も矛盾も孤独も、いいこと悪いこと全て、俺のものだ。俺だけのものだ。間違える恐ろしさもある。でも、それを正しくするために生きる覚悟を固めてきた。」
〈その覚悟は、確かなものかい?〉
ネグルの問いに、俺は口の端を上げて笑う。
「いいぜ、ネグル。何度だってそう喧嘩を売ってくれよ。俺は、俺の答えを出していくからよ。」
俺がそう言うと、視界が明るくなってきた。どうやら夜明けのようだ。
〈またな、ソラ。俺は何度も現れるぜ。〉
どうにも俺は、厄介なものを抱えてしまった。それでも俺は、生きるしかない。
夢の片隅に、海鳴りが聞こえる。重く内臓に響く音は、旅の新たな波乱の兆しだと、俺たちはまだ気づいていなかった。




