悪夢〜後奏曲〜《ソラ》
《ソラ》
それは、質素な木の小屋だった。
おそらく過去だろう。しかし、銀の糸の不可思議な空間とも、マキの悪夢のような奇妙な空間とも違う。まっさらで、清潔な、温かい空間だと、肌で感じる。
あまりの眩しさに、目を開けられない。
そこに、歌声が聞こえてきた。
母さんが 聞かせる 四つの歌を
坊や 聞いてごらん みちしるべの歌
冬の山をこえ 春の風を受けて
母さんは 願う ただ一つだけ
坊や あなたにあげる 四つの歌を
夏の雨をこえ 秋の恵みを受けて
坊や あなたが 幸せをつかむため
母さんは 歌うわ 四季を歩む歌
俺は、この歌を知っている。
耳だとか、頭だとかではなく、俺の奥底に、マッチのように灯る歌声だ。ようやく目を開けられるようになり、その景色を見た。
ボロボロの小屋だった。
黒い長い髪と青い瞳の若い女が、赤ん坊を抱いて歌っている。痩せた体で細い腕で、赤ん坊を抱いている。しかし、その痩せた表情は、どんな金持ちよりもふっくらと、優しく見えた。
歌ううちに、男が小屋に入ってくる。男は金髪で、紅い瞳をしていた。女は男を見ると、顔をパッと輝かせて、赤ん坊を見せた。
ソラ、私たちの宝物
ソラ、僕たちの夜明け
ソラ。俺なのか?あの赤ん坊は、俺なのか?
女と男は、さらに言う。
《ソラ、あなたがいつか、ヴァルクシェンナとソクアヴェスタの架け橋になりますように》
赤ん坊が泣き始めた。女は赤ん坊を粗末なベッドに寝かせ、おしめをかえる。男は面白おかしい顔で赤ん坊をあやす。
その空間は、あまりにも優しかった。俺の知らない、家族というものがそこにあった。目を離せない。その赤ん坊が俺なのか分からないけれど、もしそうなら、その女と男をもう少し見ていたい。
しかし、戸惑う俺に、俺の内側から誰かが問いかける。
〈お前の留まるところはここかい?〉
「…俺には、感傷にひたる暇もないのかい?」
俺の目の前に、つつましい家族がいる。そして、俺の内側には得体の知れない精霊たちがいる。
〈君なら分かるだろう?これが夢だってことは。〉
「分かってる。…分かってるさ。」
〈それなら、目覚めないといけないよ。〉
おしめをかえた赤ん坊は、男の明るい表情に、すっかり笑顔になっていた。女は、赤ん坊の小さな手を包んでいる。
〈あんたのために言う。この夫婦と親子は、この後すぐ、戦争で引き裂かれる。〉
「なに…っ。」
俺は驚いた。それは、他の精霊と違い、少し幼い声だったのもあるが、何だか他の説教くさい精霊と違うように感じた。
〈悪いことは言わない。今のうちに目を覚ますんだ。愛情が湧く前に。〉
「愛情…?」
俺の知らない言葉が現れた。何となくは耳にしたことはあるが、幸せなどと同じく、実態の掴めない言葉。
〈早く、目を覚ませ。〉
俺の内側から、精霊の急かす声がする。
しかし、俺は目の前の、高い高いをする男と笑う赤ん坊から目が離せなくなっていた。
そのとき。
《見つけたぞ、異端者。》
質素な小屋のボロボロな扉を、複数の武装した男が破ってきた。武装した男たちは粗末な鎧を身にまといながら、手には槍を構えている。
《敵国どうしで、子どもまで作りやがって。》
女は赤ん坊を抱き、その前に男が二人を守るように立つ。そして、男は叫ぶ。
《姫神教と希望教、道は違えど、元は同じ願いを持つ宗教。僕たち家族を裂く理由にはならない。》
赤ん坊は泣き叫び、女が懸命にあやす。
しかし、武装した男が何も抵抗しない男を槍で突き刺す。男の体から、血が滝のように溢れる。女は悲鳴を上げた。
《異端者め、忌々しい。》
武装した男は女と赤ん坊を見て、こう言った。
《おや、なかなか美しい女だ。俺たちのものになるか?赤ん坊はともかく、お前の命は救おう。》
そう言って武装した男たちは、下品な笑い声を一斉に上げた。
しかし、女はきっぱりと言う。
《私はあなたたちのものにならない。私は私の、この子はこの子の人生を生きるから。》
おそらく夫と思われる男の死に、青い瞳に涙を滲ませながら答えた。すると、女の態度が気に食わない男たちが、女の美しい髪を切り落とし、体を蹴った。
女は赤ん坊を、必死に守る。
そして、紙芝居が一枚めくれたように、場面が変わった。ギザギザに髪を短く切られた女が、赤ん坊を抱いたまま、地面に押し出された。
《ここは紫の紛争地帯だ。生き延びられるといいな。》
武装した男はそう吐き捨てると、立ち去って行った。
そこからの女の生活は、酷いものだった。
雨をしのげない屋根の下、生活費を稼ぐために体を売るのは当たり前。一日に何人もの男を相手にした。さらには健康な歯を、痛みを耐えて抜いて売った。伸びた髪はすぐに切って売った。そしてなけなしの金で、赤ん坊の命を何とか繋いだ。
女はボロボロだった。質素な小屋でふっくらと笑っていたのが嘘のように、干からびたように痩せ細っていた。
やがて、女は病に冒された。
〈だから、目を覚ました方がいいって言ったんだ。〉
精霊の呆れるような声が聞こえた。
「でも、俺以外に誰が見届けるんだよ。この女の生涯を…。」
女は病を紛らわすために飲んだ薬によって震える手で、十字架を作った。粗末な木で作る、不恰好な希望教の十字架。そして、文字を刻んだ。
ソラ=セルカナデ。二千二十六年、冬の生まれ。
女は重い足取りで歩く。たどり着いたのは、アルデールの街だった。夜の闇のなか、孤児院ツキアカリが、唯一灯りが点いていた。
《すみません、すみません…。》
孤児院の扉が、乱暴に開く。
《なんだい?》
《この子を、預かっていただけませんか…。》
孤児院のあのおばさんが、少し若い見た目をしている。そして、女の様子をなめるように見つめる。
《あんた、病気?》
おばさんが無遠慮に問う。
《はい、おそらく死にます。ですが、この子だけは、助けてほしいのです。》
女はそう言って、赤ん坊と不恰好な十字架をおばさんに差し出した。
《ふーん、形代かい。これなら補助金も出るしね。預かろうか。》
おばさんはぶんどるように、赤ん坊を取り上げた。
《あ、あの…。》
《なんだい?》
《その子はソラ。暑さに弱くて、すぐにくらくらしてしまうんです。脇の下とかに濡れたタオルを挟んであげて…》
《そうかい。じゃあね。》
孤児院の扉は、容赦なく閉められた。
やがて、冬になり、紫の紛争地帯が雪景色に染まる。女はボロボロの服装で、路地裏で震えていた。
《ソラ…、エルト…、ソラ…、エルト…》
女はうわ言のように同じ言葉を繰り返し呟き、やがて、息絶えた。艶やかで黒かった髪は、白髪混じりでくすんでいた。
真っ白な静寂が、辺りを包んだ。人は、あっけなく死ぬ。また思い知ってしまった。この女が俺の母なのかは分からない。
しかし、たとえ過酷だろうとその最期を見届けなければいけないと、強く思ったのだ。
〈見なきゃ良かった…。〉
「え?」
〈見なければ、この母親は美しい思い出のままでいられたのに。〉
やっぱり母親だった。それでは、死の間際に口にしたエルトは、父の名だろうか。
〈優しく歌って抱きしめてくれる、美しい母のままでいたかっただろうに。〉
「…この母親の名前は?」
〈知らないよ。〉
俺のなかの精霊が、冷たく吐き捨てる。
〈名前なんて知ってどうするのさ。〉
「…覚えていく。」
ユージーンやキイナたちのように、悲しい運命に翻弄された人々を覚える。そして、思い出す。その瞬間は、まるで今、生きているかのように、その人たちが存在すると信じるのだ。
〈覚えたところで、誰も気に留めない。その生き様を広めるわけでもない。あんたが覚えても意味があるのかい?〉
「正直、分からない。」
俺の一言に、精霊のため息が聞こえた。
「本音としては、悲しい記憶ばかりを見て参ってる。でも、俺が覚えていないと、その人たちが本当に消えてしまう。綺麗事や正しいことを拒んだ俺の、精一杯のできることなんだ。」
俺がそう言うと、俺の内側が騒がしくなる。あらゆる精霊の声が交錯する。そして、一人の精霊が静かに話し始める。
〈見ものだね。あんたがどんな答えにたどり着くか、俺らは見ているよ。〉
答え。コーダ国で謎の声も口にしていた言葉。俺はその言葉の意味を聞く前に、あるものが目に入ってしまった。
銀の糸だ。それは、遠く細く伸びている。
〈早くその糸の先に行かないと、一人いなくなっちゃうよ。〉
俺はその言葉に危機感を覚え、銀の糸が伸びるほうへ駆け出した。
銀の糸の先は、真っ白な空間だった。
「お母さん、この指遣いが難しいの。」
幼いマキと、紫の瞳の母がいた。マキは楽団で怒られたのと、同じ年頃だと思われる。
「これはね、繰り返し練習が必要ね。でも、この音符を意識して準備しておくと、少し違うわよ。」
母の助言通り笛を吹くと、マキの顔がパッと明るくなった。
「本当だ。お母さん、すごい。」
優しい夢。セオドアはそう言っていた。
マキは、自分の生まれで苦しんで生きていた。周りの悪意に怯えて生きていた。そんなマキに寄り添う、優しい母。これがマキの理想なのだろう。
なんて優しく、残酷な魔道だろう。こんな夢、抜け出せなくなるに決まっている。
しかし、俺はマキに声をかける。
「マキ、迎えに来たぜ。」
「ソラっ。」
不思議なことに、俺を見た途端にマキは十六歳のマキになった。そして、俺に駆け寄る。
「ソラ、今お母さんから新しい曲を教わっていたの。この曲で、もっとみんなの役に立つわ。」
マキは明るく、ハキハキと話す。
「マキ、早く戻ろうぜ。目を覚まそう。」
「どういうこと?まだ曲の途中よ。」
「これは、殉教の魔道士が作った夢なんだ。」
「夢…。」
マキは俯いてしまった。
「マキ。」
「お母さん。」
母に呼ばれ、走り出すマキはまた幼い姿になってしまった。
「ダメだ、マキ。」
俺はマキの小さな手を掴み、呼び止める。
「離して、ソラ。」
「お前まで夢から覚められなくなっちまう。街の人のように、踊り狂うことになっちまうぞ。」
「タランテラ…。」
「そうだ、マキ、俺はお前にああなってほしくない。」
マキは立ち止まったまま、迷っている。
「マキ。」
母親は、マキを優しく呼ぶ。俺は叫ぶ。
「やめてくれ、マキを思うなら、こいつを呼ばないでくれ。」
そうしていると、幼いマキは、泣きながら膝をついてしまった。
「止めないで、ソラ…。私、本当は生きるのが怖いの…。」
俺は、マキの目線に合わせて、顔を覗き込む。
「お母さんは風瓏の民と言ってね、死者の魂を送る、特別な力を持つ民族の人なの。そのために、私も差別を受けてきたわ。」
ローズとダフィの魂を送った、あの不思議な音色を覚えている。そして、セオドアの悪夢のなかで、異端扱いを受けたマキのことも。
「リベリアの国では、異端とか、愛人の子とか罵られて、居場所が無かったわ。結局はお父様に捨てられて、劇団ブロタールへ入って…。」
マキの目から、涙が溢れる。
「劇団の人は、みんないい人よ。でも、私、必死だった。もう嫌われないように、差別されないように、一人で泣きたいときも無理して笑ったわ。」
俯いていたマキが、ゆっくりと顔を上げ、俺の目をとらえた。
「ソラ、私、あなたに偉そうなことを随分言ったけれど、本当は卑しい生まれの弱い人間なの。あんなに苦しい世界で生きていく自信なんて無いの。」
マキの紫の瞳が、涙で光る。
どんなときも、マキの目はまっすぐだ。そして言葉は、俺の奥底にある弱い部分に、素直な音楽のようにスッと響き渡る。
俺は、覚悟を固めてマキと向き合う。
「マキ、俺は強くなる。強くなって、お前を守る。」
そう言って、マキの小さな手を握る。
「マキはアルデールで俺に言った。みんな弱いって。俺もそう思う。だから、差別があるんだ。」
俺は、考えるよりも先に、言葉が声となっている。
「俺も、世界が嫌いだ。差別する人間が嫌いだ。でも、そういうのを本当は怖がっている自分のことも嫌いだ。でも、マキはこうも言った。」
俺の中心が震える。俺の奥底にある感情が湧き出て、喉を震わせる。
「俺を大好きだって、大切だって。それに、俺の決めたことを、背中を押してくれた。正直言って、今までそんな人いなかったから、俺はまだ、マキのそういう気持ちを、ちゃんと理解できていないんだ。なんでこんな俺なんかを好きなんだろうって。」
俺は、自分の言うことの説得力を少し疑いながら、それでも必死に続ける。
「でも、知りたいって思う。そうやってぶつかってくれたマキの気持ちを、ちゃんと知りたい。だから、今は生きようと思う。苦しい世界でも。」
俺は息を吸って、言葉を搾り出した。
「その旅に、マキ、お前がいなきゃ意味ないだろう。大好きとか、大切とか、そういう感情を教えたのはマキだろう。俺たちは弱い。だから、一緒に強く生きていこう。」
俺がそこまで言うと、空間にヒビが入り、白い蜘蛛の糸が空高くを目指し、縮んでいった。空間は真っ暗となった。
その周囲を見渡し、もう一度マキに視線を戻すと、マキは十六歳に戻り、泣いていた。
「ソラ…。」
「マキ、帰ろうぜ。」
マキは涙で頬を濡らしながら、小さく頷いた。
「待って、ソラ。」
マキは、母を見つめる。
しかし、その顔に迷いや甘えは無かった。母が何かを口ずさんでいる。歌だ。
マキは、その歌を高らかに歌った。
生きよ 我は持たざる者 弱き者
しかし 胸に抱くは 愛の花
壊せ 持てる者の 金の盾
ただ手には 同胞の腕 銀の剣
声上げよ 弱き者の 勇気の歌を
やがて見えるは 歓喜の夜明け
生きよ 進め 新たな夜明け
歌が終わると、俺とマキの足元から強い光が放たれた。マキは、母を見て言う。
「さようなら、お母さん。」
そして、夢から覚めた。
もう少しで朝を迎える教会は、東から日が差してきている。
周囲を確認すると、カイ、カスガ、ユフィも起き上がる。どうやら、みんな夢を見ていたようだ。
「俺の夢を破るなんて…。」
セオドアが驚いて、クマの濃い目を丸くしている。俺たちは、まだ重い体を無理やり起こして、武器を構える。
「まぁ、こうなっては、こちらの分が悪いですね。」
セーラはそう言うと、片腕を優雅に上げた。
「セオドアさん、退きましょう。大丈夫。あなたはこのまま、希望教へ導きます。」
「待てっ。」
俺が声を上げると、セーラとセオドアがこちらを見た。そして、俺は問う。
「セオドア、あんた本当にいいのかい?」
セオドアは、俺を睨み、言う。
「言っただろう?俺は、俺の意志で希望教を選んだ。そして、世界へ復讐して、弱者を助ける。」
もう分かった。セオドアは、あちら側へ行ってしまった。俺は言葉を続けなかった。
「あ、ちなみにですが…。」
セーラとセオドアの体が影に染まっていく。セーラが微笑んで言う。
「クルエルの国王陛下の心は、私が奪いました。港は当分、封鎖させます。」
二人の体が、完全に影となって消える。去り際に、セーラのごきげんよう、という声が聞こえた。
俺たちは、一斉に大きく息を吐いた。体中から一気に力が抜ける。
「俺たち、生きてるよな?」
「ああ、どうやら現実に戻っている。」
半信半疑で問う俺に、ユフィが手の甲をつねりながら答えた。
「残酷な夢だった…。」
カイが暗く呟く。そして、続けた。
「死んだ父が、夢に出た。家族で一緒に暮らしていたよ。」
「ワシもじゃ。」
カスガはどこか泣きそうな、迷子のような顔で呟く。
「母上様がいらっしゃったんじゃ。もう、ずっと昔に神海へ旅立たれたはずじゃのに…。」
「そうなんだ。カスガ、君も…。」
カイが悲しげに、カスガを見て言った。
「しかし、マキの歌声が聞こえて、目が覚めた。」
ユフィがそう言って、俺たちはマキを見た。
「そうだね、マキのお陰で助かった。」
カイが微笑むと、マキが首を横に振る。
「そんなことないわ。迷惑をかけて、ごめんなさい…。」
「なんも、迷惑じゃなかろう。」
「そうだよ、すげぇよ。殉教の魔道士をやっつけたぜ。」
カスガと俺がそう言うと、かえってマキは縮こまった様子だった。
「ちなみに、僕たちを救ったあの歌に、題名はあるのかい?」
カイが問いかけると、マキが顔を上げて言った。
「デゼスプワールの行進曲。絶望からの行進曲という意味よ。」
「なるほど。ぴったりだ。」
ユフィが頷いて言った。
俺たちは教会を出て、宿へ向かった。街のあちこちに倒れている人がいる。
「踊っていた者たちの、魔道が解けたようだな。」
ユフィの一言に、俺たちは笑顔で顔を合わせる。
しかし、俺は納得のいかないことが一つあった。
「しかしよ、なんでマキの悪夢で、俺は黒猫だったんだい?」
それを言うと、カスガとユフィが吹き出すように笑ったので、俺は睨みつけた。
「え?私の悪夢には、素敵な騎士様と可愛い黒猫が出たけれど…。あれ、ソラだったの?」
「え?ワシらは?」
俺は小馬鹿にするように、カスガとユフィをひじでつついた。
「いやぁ、照れるなぁ。」
「素敵な騎士様がお前とは限らないがな。」
のんきなカイに、ユフィが悔しげに言う。
「あ、見て。」
マキが明るい声を上げ、指を差す。
その先には海が見えた。
「すげぇ、太陽が道みたいだ。」
水平線から顔を出した太陽が海に映り、煌めく道となっていた。港は封鎖され船は出ないが、俺はこれからの旅に、光る兆しが見えた気がした。
とは言え、俺たちはとにかく疲れていた。
宿に戻ると、昼まで眠った。耳に残る波の音が、優しく残って響くのを感じた。




