水色の浮浪児と幸せ《ソラ》
《ソラ》
「ずいぶんな大怪我じゃないか、大丈夫か?」
アンディが俺の体を起こして問う。
「へっ、このくらい大した怪我じゃないさ。」
本当は体中が鈍く痛む。しかし、それを誰かに伝えたところで怪我が治るわけではない。
「まぁ、これでも食えよ。お前は俺の恩人だからな。」
アンディはそう言うと、丸いパンを半分割って渡してきた。少しカビているが、そんなのは気にしない。俺は夢中でかぶりついた。小さなパンは一瞬で無くなった。
「腹減ってたんだな。」
「まぁな、ありがとよ。」
「それよりソラ、悪い噂を聞いたんだ。」
柔らかなアンディの顔が、一変して険しくなった。
「悪い噂?」
「あぁ、どうやら明日あたり、【形代狩り】が行われるらしい。」
形代狩り。俺が恐れるもののうち一つだ。誰が、どんな目的かは知らないが、俺たち精霊の形代を狩るヤツらがこの世にはいるのだ。
俺は形代狩りから何度も逃げてきたが、ヤツらはかなりしつこい。俺がもっと幼い頃は、他にも何人か形代がいたものの、気づいたらいなくなっていた。
「ちくしょう、どこかに隠れないと…。」
「それがな、ソラ。明日の形代狩りは、どうやら騎士団がやるらしい。」
「騎士団?」
思いもよらない展開に驚く。そして、なぜか分からないが、俺の頭にあのナヨナヨした金色の騎士が浮かんだ。
「つまり、国として大々的に行うもんだから、市民も俺たちの情報を騎士団に流すわけだ。どこにも逃げも隠れもできない。」
再び、俺の中に絶望感が広がる。いくら俺が力を得たって、大人を、しかも騎士相手に逃げられるはずが無い。…でも。
「それ、本当の話かい?」
俺は騙されない。今までだって都合のいい話や悪い話をエサに、何度も騙されそうになってきた。俺はギリギリのところで、何人もの人売り商人たちから逃げてきた。
「まぁ、疑うのも無理はないよな、俺たちはそういう星の元に生まれているもんな。」
アンディが少し物悲しげに言うが、俺は揺らがない。
「太陽物語って知ってるかい?」
「太陽、物語?」
俺は唐突な単語に、思わずおうむ返しをしてしまった。
「そうさ、姫神教の秘伝の書物らしいんだ。」
「それが何だって言うんだい。」
俺は疑う気持ちを緩めない。
「それには、形代の力を利用する方法が書かれているらしい。」
「…は?」
形代の力を利用?それこそ嘘くさい。
「こんなの利用できるはずがないだろ。上手く利用できてりゃ、今ごろもっと偉く生きてるさ。」
「知らないのか、ソラ。この精霊の形代ってのは、おまじないなのさ。」
「…オマジナイ?」
とことん、うさんくささしか感じられない。俺に親切にしてくれたアンディは嘘だったのかもしれない。
「昔、ソクアヴェスタっていう国があったんだけどよ、その国はえらく強くて、戦争ばかりして世界中を侵略しようとしていたらしい。」
何だか今日ジジイ先生から聞いた、アリアレジスみたいだ。俺は少し興味が湧いた。
「特にソクアヴェスタは魔道に優れていたらしい。魔道と言ったら、俺たち形代だろ?」
「まぁ…。」
確かに、俺は黒い氷柱を出してしまった。
「ソクアヴェスタはもっと強い兵士を育てるために、兵士におまじないをかけたのさ。そうして生まれたのが、俺たち精霊の形代だ。」
「初めて知った。」
「まぁ、お前が生まれる、ずっと昔の話だからな。」
強い国が作った、強い兵士。俺には何だか、魅力的な言葉に聞こえてしまった。
「しかしソクアヴェスタは結局、姫神教に滅ぼされてしまったのさ。それが十年前。」
「けっこう最近なんだな。」
なんとなく、俺の勘だけれど、アンディのソクアヴェスタ辺りの説明に嘘は無い気がする。
じゃあ俺の故郷は実は、そのソクアヴェスタなのか?など、少し疑問が湧いたが、やはり体が痛いので、話を手短に済ませたい。
「それで、わざわざそんな話をするってことは、お互いにうまい話なんだろ?」
「ああ、やっぱりお前は賢いな。」
アンディの話はこうだ。
姫神教はソクアヴェスタを滅ぼした。そして、その力が伝わっている精霊の形代を恐れている。だから、形代の力の説明書である太陽物語を隠している。
姫神教会に行くのは俺だ。アンディは盗みの常習者で、教会に顔を知られているらしい。それに、怪我を負った子どもを、教会が拒むはずはない。俺は隙を見て太陽物語を盗む。
アンディと落ち合うのは、街の西と東を繋ぐ門だ。そこであれば、見張りの兵がいる。俺が心配する人売り商人との怪しい取り引きがされるはずはない。
「…ところでよ。」
「どうした?ソラ。」
「俺、実は字なんて読めないんだ。その太陽なんたらを盗んでも、俺ぁ読めやしないよ。」
正直に白状して、やはり恥ずかしくなった。ジジイ先生に無知だと言われても仕方ない。俺には簡単な絵本すら読めないのだ。
「心配するな、ソラ。これでも俺は孤児院出身でよ、そこで文字の読み書きは習った。俺が読んでやるさ。」
アンディは明るく笑い、俺の肩に手を置いた。
「一緒に太陽物語を読んで強くなってよ、形代狩りから逃げてやろうぜ。頼んだぜ、ソラ。」
頼むと言われたら、悪い気はしない。それでも、注意深くいかなくては。俺は騙されるのも、奪われるのも嫌だ。
たとえどんなことがあっても、何があっても生き延びてやる。
夕日が沈み、月が空に見えた。今日はよく晴れていて、星がキラキラと瞬いている。
俺は姫神教会へと近づく。炊き出しの際などによく立ち寄るところだが、盗みを働くとなると、正直少しの後ろめたさがある。
本当に形代狩りはあるのか、太陽物語なんてあるのか、この力の使い方なんて分かるのか。疑念が湧いては消えてを繰り返す。
でも、あの黒い氷柱を使いこなせれば。
俺は、自分ですら恐ろしいと感じたあの力をモノにしたい。そうすればもっと強くなれるし、瓶を取り返せるし、俺を馬鹿にするヤツらを見返せると思った。
教会の扉は鍵がされていなかった。扉は重く、俺は全身を使って開けた。相変わらず、体中は痛い。
中はとても静かだった。思えば、教会の中に入るのは初めてだ。
たくさんの椅子が並んでいるのを見て、何年か前に、この教会で行われていた結婚式を遠くの木陰から眺めたのを思い出した。
天井は高く、奥の壁には何色ものガラスがはめられている。これが話に聞くステンドグラスか。そして、その前には女の形をした像。晴れた夜の月明かりが、かすかにステンドグラスから教会内に注がれている。
俺は神なんて信じない。でも確かに、こんな空間だったら何か良いことがあるかもしれない。貧民街よりも少し空気が良い気がして、俺は深く息を吸った。
「ソラ…?」
暗い教会内で、おれを呼ぶ声がした。
「よ、よぅ、シスター・メイ。」
シスターがランプを片手に、教会と繋がっている、聖職者が寝泊まりする部屋から現れた。
「こんな遅くにどうしたのです?」
「見ての通りさ。」
俺は袖をまくって、大げさに両腕を広げた。
「その怪我はどうしたのですか?」
「ヘマしちまってね。」
驚いたシスターが俺に駆け寄る。
「誰かに殴られたのですか?」
「そんなところさ。」
するとシスターが、ランプを床に置いて祈る姿勢となった。
「姫神様、迷えるこの少年に、幸福の加護を…。」
恭しいとはこれのことか。馬鹿馬鹿しい。
祈り一つで幸せになれるなら、俺は毎分毎秒祈りを捧げる。パン一つ、コイン一枚にすらならない祈りに、何の意味があるんだ。さっき教会に感じた空気の良さが、妙に恥ずかしい。
とっさに俺は、悪意を表に出してしまう。
「シスター、俺が迷ってるように見えるかい?」
しまった。馬鹿馬鹿しさのあまり、思わず嫌味を口にしてしまった。シスターが一瞬戸惑って、しかし、すぐに表情を引き締めた。
「はい、見えます。現にそうやって、強がって自分を偽っているではないですか。」
「イツワッテ…?」
「嘘をついているということです。」
確かにそうだ。俺は強がっているし、自分のためなら平気で嘘もつける。
「それの何が悪いって言うんだい?強くなって嘘をついて、そうやって人に勝って、俺は生きてるのさ。形代で、孤児で、誰も味方しない。死なないために、そうやって生きることに、俺は迷いなんて無いぜ。」
そう、迷いなんて無い。死なないために、俺は強くなった。そして、これからも強くなる。そんな考えに間違いなんてないはずだ。
しかし、シスターは悲しそうな目で俺を見つめる。
「あなたは、可哀想な子です。」
瞬間的に怒りが湧いてくる。
騙されかけても殴られても、ここまでの怒りが湧いたことは無い。どうやら俺は、その言葉が一番、頭にくるらしい。そんな感情を向けられることが、心底腹立つのだ。
「あなたは強さを履き違えているようです。本当に強ければ、人に強がる必要も嘘をつくこともありません。」
「違う、俺は今日だって殴ってきたヤツらを返り討ちにした。」
「その人たちも、あなたも、本当に強くはありません。」
シスターの言葉と、今日起きた、俺の運の悪い出来事がバタバタと頭を駆け巡る。
「じゃあ、強いってなんだよっ。」
腹の底から湧いた怒りが、声となって教会に響いた。しかし、天井に響いて返ってきた俺の声は、とても細く弱い。やがて、その声は静けさに溶けた。
そして、シスターは言った。
「ソラ、強さとは、優しさです。」
「はぁ?」
本当に、意味が分からない。優しければ俺は殴られないのか、馬鹿にされないのか?どんなに単純な言葉でも、俺にはシスターの考えが理解できない。
「じゃあ、優しければ生きていけるのかよ?昨日の炊き出しじゃ、俺にスープをくれたのはあんただけだったぜ。」
不意に、あのナヨナヨした騎士が差し出したハンカチが頭に浮かんだが、何だか都合が悪くて、すぐに頭から追い出した。
「この世界全体が、弱く悲しくなっているのです。十年前に終結した精霊戦争で。」
シスターがさらに、眉の下がった悲しげな顔をした。そして、さっきアンディから聞いた話に繋がった。アンディの話は、本当だったんだ。
「じゃあ俺が成り上がるのにちょうどいいじゃねぇか。俺は強くなって、誰よりも偉くなるぜ。この形代の力で。」
「ダメです。そうして生きても、あなたは一人になるだけです。幸せにはなれません。」
「なれるっ。」
「なれません。」
こんなに強気なシスターは初めてだった。
でも俺は、心のどこかで感じている。シスターは本気で俺に向き合っている。感覚で分かる。シスターの目や言葉から、何かを誤魔化そうという目論見は感じられない。
本当は、俺なんて弱い。弱くてちっぽけなんだ。そんな姿を、無性に見せたい気持ちで揺らぐ。
「人は誰かに優しくすることで、幸せを得られるのです。ときには自分を犠牲にしてでも。」
「自分を犠牲にして、幸せにだって?そんなの、なれるもんかよ。」
「なれます。」
俺は今までにないシスターの強気に、たじたじとなっている。シスターは決意を秘めた瞳のまま、ほんの数秒、二人とも無言となってしまった。
「ソラ、人は幸せになるために生まれたのです。その頑なな心を解いて、周りへと目を向けてください。」
清らかな教会の静けさと、シスターの一言。シスターはずっと美しいことを言っているが、俺が生きる世界に、それは通用しない。綺麗なだけじゃいられない。
「幸せになるために生まれてきた?じゃあ、幸せにならなきゃ死ぬんだな。生きる意味なんてないんだな。」
我ながら、可哀想だと言われても仕方ない、貧しい人間の嫌味だと思う。しかしこれが、弱くてちっぽけな俺の精一杯の反抗だった。
シスターはまた悲しそうな顔をしてためらう。
「クソ喰らえだっ。」
俺はそう言って床に置かれたランプを蹴った。さすがに頭に血が昇りすぎた。火事になる様子はないまま、ランプが空っぽの音を響かせて転がった。その音はカラカラと、教会に似合わない伽藍堂の音に聞こえた。
シスター・メイがランプをそっと持ち、移動する。
「ランプに火を点けてきます…。それと、怪我に塗る軟膏を持ってきます。少し待っていてください。」
シスターは、さっきまでの強気が嘘のような、か細い声で部屋へ戻って行った。
俺は、何を話していたのだろう。カッカして嫌味を言って…。何だか自分がとてもかっこ悪く、情けない気がしてきた。
しかし、俺はやるべきことを思い出した。教会の奥、女の像の横には見慣れない壁のような楽器がある。オルガンというやつらしい。それと反対側には、何冊かの本が並ぶ棚があった。俺は本棚を見る。
だがここで、俺は自分の甘さを知る。俺は字が読めない。本を手に取って表紙などを見ても、どれが太陽物語か分からない。上塗りされてばかりの自分の無力さ、無知さが嫌になる。恥ずかしい。そして、心細い。
俺は何冊か雑に取り出して、表紙に太陽らしい絵が描かれた本を手にして取った。これしかない。
俺は勘を頼りに、その本をぶかぶかの上着の懐へ入れた。そして、重い扉を開けて外へ飛び出した。
盗みなんて慣れているのに、こんな星空なのに。俺は幼いころ、人混みをかき分けてようやく目にしたときの、見っともない道化師のようだ。こんなにも情けない姿を、全て月の光に明かしている気分だ。笑えない、泣けてくる。
ぐちゃぐちゃの思いと厚い本を抱えたまま、俺は夢中で約束の門へ走った。
門の近くになって、俺は息が切れて立ち止まってしまった。シスターとの長い問答で時間が経ってしまい、辺りはすっかり暗闇に包まれている。
俺はアンディの姿を探した。周囲は静けさで沈んでいる。
おかしい。いつもなら見張りの兵が立っているはずの小高い上がりに、誰もいない。
騙された。騙された、誰に?どこから?俺は嫌な予感がして、すぐさま寝ぐらへ帰ろうとした。そのとき。
「形代ぉ、待てよ。」
甲高く人を小馬鹿にするような男のような、少年のような声がした。
そして、月明かりにわずかに照らされた、俺の影が揺らいだ。得体の知れない恐怖を感じ取ると、人間は身動きが取れないのだ。
「偉いなぁ、ちゃんと約束守ってよぉ。」
まだ幼いような声は不気味に響き、影はすぐに人の形となった。そして、不気味な影と俺の影とは切り離れた。
影は大きく夜空に向かって伸びると、ユラリと奇妙な反動をつけて、俺の前に立ちはだかった。
「ソラっていうんだって?迎えに来たぜぇ。」
目の前の光景が理解できず、足がすくんだ。影が一人揺らいで、俺の名を呼んでいる。まるで路上でタダ同然に見せている、怪しい紙芝居のようだ。
「お前は、なんだ。生き物か?」
俺は恐怖のなか、声を振り絞った。
「そうさなぁ、強いて言えば、僕は希望さ。」
希望?もうそんな言葉に期待を抱くのはごめんだ。しかも、そう言う影は馬鹿にするようにグルリと夜空に円を描いた。
「こっちへ来いよ、ソラ。」
小馬鹿にするような、少年のような声が、俺の名を呼ぶ。レンガの石畳が境界線となって、俺とヤツを隔てる。あっちに行ってはいけない。俺は本能でそう感じた。
俺は叫ぶ。
「その前に、本だ。これを持ってくる約束だった。」
「本?そんなのさぁ、口実だよ。」
俺が懐にしまった本を抱えながら言うと、影は笑うように揺らめいた。
「それより、早く来いって、ソラ。」
「行かない。お前は正体が分からない。アンディは?アンディはどうした。」
俺がそう言うと、小さな笑い声が聞こえてきた。
「あいつなら殺したよ。あっけなく死んだね。」
それはまったく温度の変わらない口調だった。知り合いの元気な様子を気軽に伝えるように、ヤツはアンディの死を告げた。
「し、死んだ…。」
「ああ、本当にあっけなかった。太陽物語が本当にあると思ったんだねぇ。コロリと騙されたさ。」
ユラユラと愉快そうに揺らめく影を目の当たりにし、俺はアンディの言葉を思い出した。
「この世の中、馬鹿は死ぬだけだ。生き延びようぜ、ソラ。」
馬鹿野郎。馬鹿はお前じゃないか。何で死んでやがんだ。騙されやがって。ちくしょう。
俺は声にならない感情が込み上げてきて、体が熱くなった。
「ぼくの本当の標的は君さ、ソラ。さぁ、一緒に世界へ復讐しよう。」
復讐という言葉が、魅力的に、そしていたずらに俺に響く。月明かりに照らされて、もはや一つの生き物のようになった影は、やけに立体的に見えた。
そして、その足元は鮮やかな水色に染まっており、黒い影と溶け合っている。
「お前も、精霊の形代か?」
俺は生き物なのか定かではない影に問う。
「…内緒。でも、世界から仲間はずれにされた同志さ。だからソラの悲しみはよく分かるよ。さぁ、おいで。」
影はガニ股をするように、足元が二つに割れた。その先には果てのない真っ黒な暗闇が広がっていた。暗闇を除くと、わずかに渦を巻いているように見える。
この影に飛び込んだらどうなるだろう。あんなに騙されることに慎重になっていたはずなのに、その影は何だか懐かしささえ感じた。
どうせ死体漁りも盗みもした、汚い俺だ。今さらどうなっても何も変わらない。この影は、嘘だとしても俺を必要として、復讐だなんて甘い言葉さえ使っている。
俺は暗闇の渦へ一歩踏み出そうとした。そのとき。
「止まれっ、ソラっ。」
裏路地から、アンディの声がした。すぐに状況は理解できなかったが、アンディの額に血が流れているのは見えた。
「あれ、生きてたの?」
そう言うと、影は小馬鹿にする声のままユラリと笑い、腕のような動きが見えた。すると、その腕のような影がキラリと光り、宙に鋭い氷の針が浮かんだ。
「やめろっ。」
俺はとっさに叫んだが、その針はまっすぐに目標を貫いた。針が刺さると同時に、アンディが苦しげに転がる。
「やめろ、アンディが死んじまう。」
俺は昔、金持ちの屋敷へ盗みに入ってタコ殴りにされたときのように、必死に許しを願った。
「やめないよ、こいつは別に必要ないしね。」
表情のないはずの影に、残酷な瞳が煌めいたような気がした。
「ちなみにこの氷は、ソラの真似だよ。よく出来てるでしょお?」
そう言って、影はあざ笑うようにユラユラと揺らめいた。確かに俺は氷柱を作れる。でもあんな、矢のような武器としては利用できない。
不可思議で、でも危機的な事態に、おれは何をして良いか分からない。今日だけでも何度も上塗りされた無力さが、さらに厚くなった。
「ソラがこちらへ来たら、こいつは見逃そうかなぁ。」
影が俺を試すように、ユラユラと揺れた。
「さっきも言った通り、僕は希望さ。いろいろな意味でね。君にとっても。さぁ、安心しておいで。」
そう言うと、影は再び暗闇の渦を作った。
俺の直感が、悪くないと言っている気がして、再び渦へと踏み出そうとした、そのとき。
強すぎるわけではない、しかしほの明るい光が、影と俺を照らした。すぐ近くの家の窓が、砕けて光を漏らしている。
「あー、まいったなぁ、消えてっちゃうなぁ。」
光を浴びた影は、立体的に見えたのが嘘だったように、少しずつ溶けるように、地面へ同化していく。
「僕の声は覚えたかい?ソラ。また迎えにくるねぇ。生き延びてねぇ。」
消える間際も小馬鹿にするような口調は崩さず、影は光に溶けていった。
長い夜は、終わっていたようだ。城下町を囲む壁の向こうの、そのまた向こうの山に、わずかだが朝日が見えた。
小高い上がりにいるはずの兵が、姿を見せた。どうやら眠っていたらしい。裏路地の隣りの、窓が砕けた家の住人が混乱する声が、屋内から聞こえる。
俺とアンディは裏路地にいた。裏路地に朝日は届かない。
「窓を破ったのはあんたかい?アンディ。」
ぜーっぜーっと苦しそうに息をするアンディに、問う。アンディの目は、何も映していない。
「まぁ、ね。最後の、かっこつけ、さ。」
上手くいって良かったと、アンディは呟く。そして、ごほっと血を吐いた。
「な、なんで…俺のために、そんな…。」
俺には信じられなかった。俺のために、力を使ってくれる人がいるなんて。
「俺、約束、守れなくて…。」
アンディがか細い声で話す。俺は必死に耳を傾けた。
「相棒が、太陽物語を、盗むって…。でも、俺は嘘だって、思った…。」
昨日言っていた、炎の加護を得た、ヘマをしたという相棒のことだ。
「落ち合う場所で…、あいつ、一人、死んでた…。」
アンディが過去を思い出すように、遠くの空を見て呟いた。
「あぁ、ランド…、ごめん…、ごめん…。」
アンディが再び血を吐いた。
「アンディ、これ、これが太陽物語じゃないかっ。なぁっ。」
俺は懐にしまっていた、分厚い本を見せる。傷ついたアンディの、せめてもの救いになればと、俺も必死だった。すると、アンディはかすかに微笑んだ。
「こりゃ、歴史…の、教科書…。いい本…だ…。」
そう言うと、アンディの目からは光が消え、腕が力無く地面へ落ちた。
死んでしまった。見知った人間が死んでしまうことはこれまでもあったが、この瞬間に限っては、俺はとても心細く、何よりもそう、苦しかった。
昨日出会ったばかりの、形代の男にすぎないのに。俺はとても喉が熱い。胸が苦しかった。なぜかは分からない。
俺はいつもなら、このまま死体漁りをする。でも、そんな気持ちにはなれなかった。ただ一つ、アンディの懐に魔道弾が入っているのだけ確認した。相棒が力を込めた、炎の魔道弾。それは相棒が死んでもなお、温かかった。俺はその魔道弾をアンディの両手に包ませ、死体を仰向けにした。
死者へ捧げる祈りの形式なんて知らない。それでもこれは、俺にとって精一杯の祈りだった。
「なぁ、そこの見張りの兵。」
俺は先ほどまで寝ていた見張りの兵に声をかけた。兵は眠そうな声ではい?と返事をした。
「ここに死者がいる。浮浪者に身ぐるみ剥がれる前に連れて行ってやってくれよ。」
アンディの死体を指差しながら俺が言うと、兵はいかにもめんどくさそうな顔をした。
「頼んだぜ、国から金もらってんだろ。」
俺がそう言って念押しすると、若い兵や警察が何人か来て、アンディをどこかへ運んで行った。
その日の午前、俺はボロボロのまま貧民街へ帰り着いた。何だか、何も考えられない。
アンディは信じていた。死んでしまった相棒のこと、自分が生きる未来を信じていた。そして死んだ。でも俺も、疑いながら、やはりどこかで、今よりも少しでも明るい未来を信じていた。
しかし結局、騙す者がいた。そしてヤツらは得体の知れない存在で、慣れた様子で人の命を奪って去って行った。
迎えに来ると言われても、俺はもうどこにも行きたくない。甘い言葉も強い力も、どうにも信じられない。周りを見返してやるとか、偉くなるとか、そんな野心を支える何かを見失ってしまった。
少しだけ休みたい。本当はパンを盗みに行ったりスリをしたり、あとは瓶を取り返したり、やらなくてはいけないことはたくさんあるのだけど、一度全てをやめたい。
俺は寝ぐらのゴミ捨て場の陰で、丸くなって寝ようとした。
「やぁ、君。」
丸まっている俺の空っぽになった脳みそに、大人の声が響いた。すぐに体を起こすと、それは騎士団の男たちだった。三人だけだけど、体が大きく、分厚い壁のようだ。
「君、精霊の形代だね。」
そう言われて、背筋が痺れた。騎士団による精霊の形代狩りが、本当に行われているのか。
「保護しよう。こちらへおいで。」
茶髪の騎士は優しげに声をかけるが、俺には何が正しいか、もう分からない。こんなに優しげでも、俺を騙しているように見える。俺は力強く手を振り払い、裏路地の向こうへ走り出した。
「待つんだ。」
騎士は追いかけて来たが、俺は夢中で腕を振った。すると、まるで壁のような氷が地面から生えて来たのだ。
「なんだ、これはっ。」
騎士が慌てふためいている間に、俺は別の寝ぐらへ駆けて行った。
少しして、希望教の教会跡へとたどり着いた。裏手に発生させた黒い氷は、さすがに溶けている。
この廃墟は朽ち果てており今にも崩れそうだが、秘密の部屋がある。昔、十字架らしきものが置いてあったであろう台座をずらすと、地下が隠れ家になっているのだ。
これが何のためにあるのかは知らない。だが、今の俺には好都合だ。
もしも地下に隠れている間に廃墟が崩れて、出入り口が埋まってしまったとしたら…。俺の運命はそれまでのことだったということだ。
こんな思考になるほどに、今の俺にはあらゆる力が無い。
俺は地下へと潜り、ジッと身を潜めた。
身を潜めて、おそらく三日が経った。
遠くから俺を探す男の声が聞こえて、眠ろうにも眠れなかった。体中は痛いし、腹も減った。排泄物も垂れ流しで、匂いが充満する。
この三日間、俺は退屈でいろいろと考えた。
俺を形代と馬鹿にするヤツや、浮浪児として生きている現状。盗みやスリをしないと生きていけない現実。
なんでこんな世界で生きようとするのか?
なんで今、逃げているのか?
なんであのとき、暗闇の渦に行かなかったのか?
あらゆる問いに、答えが出ない。答えの出ない自問自答ほど、無駄な時間はない。やがて、外が少し賑やかになった。
外の様子を見ると、まだ昼の明るさである。しかし、遠くの大通りから賑やかな声が聞こえる。
「女王様、ばんざーい。」
「女王様ーっ。」
なるほど、どうやらこのグランディエ王国のお偉いさんが、大通りにいるらしい。
俺のなかに、理由のない暗い感情が燃え上がった。俺は地下室から這い出て、大通りへゆっくりと歩いた。




