雨の後、新しい夜明け《ソラ》
《ソラ》
夜が明けるとともに、雨も止んだ。
俺たちは着替えもせずに村長の家を訪ね、ローズの死を伝えた。ローズとダフィの死体の側には、マキがついている。
村長は昨夜の出来事を説明しても、俺たちのことを不審がり、早く村を去るように言ってきた。しかし、ローズの最後の言葉を確かめたいことは伝えた。すると、村長は勝手にしろ、と吐き捨てた。
「あの、せめて、ローズとダフィを、彼女の家族の墓とできるだけ近く埋葬してください。神海で共に過ごせるように。」
カイが、彼にしては強く願うと、村長は埋葬くらいはする、と突き放すように言った。
村長は数人の村人を連れ、ローズとダフィの埋葬を始めようとしたが、その死体の様子を見て、それぞれが顔を青ざめた。本当に人間の仕業なのか、と呟く村人もいた。
村人たちは、恐れながらも穴を掘り始めた。そして、ローズの死体を穴へ入れた。しかし、ぐちゃぐちゃになったダフィの死体を、誰も触りたがらなかった。やがて、押し付け合いが始まった。
俺たちは痺れを切らし、まずはマキが死体の一部を持ち上げ、穴へ入れた。俺たち四人も続いた。村人たちは俺たちを、汚いもののように見てきた。
本当は、俺だって触れるのをためらった。貧民街で死体漁りをした俺だって、臓物の類いは持ったことが無い。それでも、俺たちは手を止めなかった。元気だったローズとダフィの姿を思い浮かべながら、必死に気持ちを保った。
ローズとダフィの死体に土を被せ、村人たちは去ろうとした。
「待って、司祭様のお祈りとかは無いの?」
マキが呼び止めるが、村長はこう言い捨てた。
「形代だろ?精霊とやらが導いてくれるんじゃないか?」
村人たちはそう吐き捨てて去って行った。
俺たちは悔しさだとか怒りだとか、いろいろな感情がない混ぜになっていたが、もう疲れ切ってしまって、追いかけることができなかった。
俺たちは五人で、まだ埋められたばかりだと分かる地面に向かって、祈りを捧げた。
俺たちは井戸で手を洗い、村長が言っていたローズの家へ向かった。
彼女の家は質素で、女らしい服が少しかかっている以外は、最低限の家具があるだけだった。ただ、ダフィが寝床にしていたであろう茶色い毛がついた毛布と、その近くに噛み跡の残ったぬいぐるみが目に入った。それを見ると、ローズの笑顔とダフィの人懐こさを思い出して、胸が痛んだ。
写真、下、てが。ローズの最後の言葉を頼りに部屋を見ると、すぐにその意味が分かった。物の少ない家の、片隅の棚に写真が飾ってあったのだ。白黒の家族写真。ユイミヤにもてあそばれた、あの家族と、ローズらしき赤ん坊が写っている。
「これじゃろうか。」
カスガが写真立ての下に置いてあった、封筒を手にした。
「クルエルに住んでいる、クリスという人宛てだね。」
カイが宛名を読み上げた。クリスだと、男とも女とも受け取れる。封筒には一度出そうと思ったのか、切手を貼って、剥がしたあとがあった。
「クルエルなら俺たちも目指してるわけだし、このクリスって人に届けようぜ。ローズのことも伝えたほうがいいと思うし。」
俺がそう言うと、四人は無言で頷いた。
そして、俺たちは宿で着替え、キーエール村を去った。村人たちは、最後まで冷たい視線を送っていた。
俺たちは、何だか心が削られてしまっていた。
アルデールを旅立ってから、五人で行く道はどこか楽しいものになっていた。少なくとも俺はだが。
道を歩くときはあれこれ話をし、食事はともに楽しんだ。盗賊や影に襲われることはあっても四人が助けてくれたし、知らないことがあっても馬鹿にせず教えてくれた。
職業や生まれた国がバラバラの五人で進む旅路は、新鮮な発見が多かったし、性格もそれぞれ違うところがあり、日を重ねるごとに笑顔が増えたように思う。
でも、キーエール村での出来事は、そんな俺たちに雷のような鋭い衝撃を与えたし、それだけでなく、いつまでも染みる苦味を残した。
俺は、あんなに生々しい死が初めてだった。貧民街で飢えや寒さで死ぬ者はたくさんいたし、アンディの死に顔だって、今でも思い出せる。
ロンソ村での惨劇はまだ記憶に新しく、悲鳴や鉄の音はまだ耳にこびりついている。それに、銀の糸で目にした記憶の者たちの死だって、過去のものとはいえ、まるで目の前のことのように感じられたものだった。
それも、知ったつもり、感じたつもりだったのかもしれない。
人の命はあっけなく終わる。
あとで学んだ言葉を当てはめると、儚い。そう、水の泡や風の前の砂と同じくらい、儚い。あんなに笑っていた者が、あっけなく過去のものとなってしまう。
そして、人間を儚いものにしてしまう残酷な者たちが、当たり前にいる。俺は、本当に何も知らなかった。命をもてあそぶように、簡単に奪う者たちがいたんだ。
俺は無力だった。ナイフを手にしたり、魔道を少し学んだりしただけではあっけなく終わってしまうほどに、俺は弱い。
キーエールを旅立って、二日目の夜。俺は決意をして、五人の間に漂う沈黙を破った。
「頼みがあるんだ。」
焚き火に照らされた四人が、俺の顔を見る。やはり、キーエールの前と後とで表情は全然違う。しかし、俺は続けた。
「俺は、もっと強くなりたい。アリアレジスへ着くまで、足手まといになりたくないっていうのはもちろん。それに、もうローズのときみたいに見てるだけなんて嫌だ。俺も四人のように、誰かを守る力が欲しい。」
ここでいつもなら、ユフィ以外の三人がいいね、とか言ってくれるのがほとんどだ。
しかし、このときはしばらく沈黙が続いた。四人とも、何かを考えるように焚き火を見つめている。でも、俺は続けた。
「俺は、強くなりたかった。貧民街でずっと、形代だとか浮浪児だとか馬鹿にされてきたから。」
俺の言葉で、四人が再びこちらを見た。
「見返したかった。奪う側になりたかった。脅されても、脅し返したかった。」
取り留めなく言葉が溢れ、俺はナイフを手にした。
「このナイフ、日課だった死体漁りで手に入れたヤツなんだ。」
俺がそう言うと、四人は少し驚くか、顔を強張らせるかした。
「今ならダメなことだって分かってる。でも、何もない俺は、このナイフを見つけたとき、自分が最強になった気さえしたんだ。」
俺の中心が震える。あの、アルデールで自分の思いが溢れたときと似ている。
「今なら分かる。俺は弱い。守られてばかりだ。殉教の魔道士相手に、ほとんど何もできなかった。悔しくて、情けなくて、やっぱり自分が嫌だ。」
話しているうちに、涙が出そうな気がした。でも、俺は喉にグッと力を入れてこらえた。
「ローズを助けたかった。同じ形代だし、優しかったし。ダフィもすごく可愛かった。でも、ダメだった。俺がもっと強かったら、守れたかもしれない。」
俺は大きく息を吐いて、さらに決意を固めて言う。
「頼む。俺は強くなりたい。人を守れるくらい、強くなりたい。ユフィから魔道を教わるのは、これからももちろんで、カイの剣とか、カスガの身のこなしとか、あと、あまり向いてないけど、マキの結界魔道や補助魔道とか…。全部、全部教えてほしいんだ。頼む。」
沈黙のなか、焚き火の音だけが聞こえる。
やがて、カイが考えを言った。
「正直、僕は迷う。」
そして、焚き火の光を受けて輝く金色の瞳が、俺をまっすぐ見つめる。
「僕は、ソラを狙う者たちがあんなにも強いなんて思わなかった。君をアリアレジスまで守ることは誓ったけれども、何が起きるか不安な気持ちも強いんだ。」
「俺も同感だ。」
ユフィが話に続く。
「まさか希望教が、殉教の魔道士がここまで関わって来るなんて思わなかった。お前が半端に力をつけることが、仇になりかねない。」
「どういうことだい?」
俺の心を挫くような答えに少しの反発を覚えながら問うと、ユフィが答える。
「もしも今後、希望教に属する殉教の魔道士と対立するとして、今回よりも大人数で強力な魔道士相手になったとき、お前は迷わず降伏するべきだ。」
「なんでだい?俺ぁ希望教なんか、殉教の魔道士なんか大嫌いだ。」
「死ぬよりもいいだろう。」
少し声を荒げる俺に対し、ユフィは淡々と答える。
「二人の魔道士と、一体の人形、それを相手に、俺たちはあのザマだ。形代として生き延びることができるなら、それがいいだろう。」
「でも…っ。」
「僕はね、ソラ。」
カイが強い語調で話に入ってきた。思わず彼を見ると、先ほどと変わらないまっすぐな瞳で言った。
「僕たちが関わらなければ、ローズが生きてたんじゃないかって思ってしまうんだ。」
予想外の言葉に、俺はたじろぐ。ユフィは深く頷いた。
しかし、俺は言い返す。
「でも、ローズはあいつらの魔道を拒否した。希望教に従うはずがない。」
「それは、もしもの話だ。」
ユフィが短く言い切る。そして、続けた。
「もちろん、全てもしもの話だ。もしも、俺たちが関わらなかったら、ローズは生きて希望教に従ったかもしれない。だがそれは、もう誰にも分からないことだ。」
ここでユフィが初めて、俺の目を見た。銀色の瞳が、焚き火の輝きを映す。
「もう、過ぎてしまったことはどうにもできない。だが、これからのことは考えて対処できる。」
「ユフィは、悔しくないのかい?ローズとダフィがあんな目に遭ってしまったことが。」
「悔しいに決まっているだろう。」
俺の問いに、ユフィが即答し、さらに言う。
「俺の魔道がもっと早く完成していれば、あるいは、お前のように雨といった状況を活用できていたら…。そんな、答えの出ない仮定で頭がいっぱいなんだ。」
俺はここで、思い知った。
そう、カイとユフィは苦しんでいる。自分の無力さと、それによって生まれる罪の意識に、彼らも打ちのめされている。
カスガとマキの顔を見ると、俯いていて、表情はよく見えない。しかし、沈んでいるのは分かる。
カイが俺に説く。
「もしも今後、殉教の魔道士と対立して僕たちが力尽きてしまったときは、ソラ、君は希望教に従うほうがいい。」
「嫌だ、だったら死んだほうがマシだ。」
「そんなこと軽々しく言うなっ。」
俺は言葉を無くした。
カイのこんな怒った顔も、強い言葉の言い方も、初めてだった。ヴェーゼンでの静かな怒りとは違う。圧倒されてしまった。
誰もが言葉を、そして、この問答の行方を見失っていた。
焚き火の音が、小さく響く。
「声を荒げてしまって、ごめん。でも…。」
カイが言葉を落ち着けて言った。
「生きてほしい。ローズの悲しい最期を目にして、僕はそう思ったんだ。ソラはもちろん、僕の関わる人全てに、幸せに生きてほしいんだ。」
この夜、俺たちは正直な気持ちを言葉にしている。
なかには、少し前の俺なら綺麗事だと突っぱねたような言葉も、今なら俺の芯に届く。
だから、俺も芯から言葉を発しようと思うのだ。
「前に、グランディエの姫神教のシスターが言ってたよ。人は、幸せになるために生まれたってよ。」
四人が、静かに俺を見る。
「俺は生意気な浮浪児だったからよ、言い返したよ。幸せにならなきゃ死ぬんだな、生きる意味なんてないんだなって。」
俺は、改めて四人の顔を見た。四人とも、真剣な眼差しで俺を見ている。
「正直、今でもそう思っている。幸せなんて、なんのことか分からない。生きる意味なんて分からない。今までの俺は、ただ死ぬのが怖いだけだった。でも、今は思う。もっと知りたいし、もっと強くなりたい。」
焚き火の木が、パキッと弾ける音がした。そして、俺は続ける。
「できるなら、ローズのように傷つく人を助けたい。そのために、俺はみんなから学びたい。絶対に後悔はしない。」
俺が再度、決意を固めて言うと、マキが言う。
「…ソラは、そう生きることを決めたのね。」
「ああ、ずっと憎かった形代の力を、誰かを守る力にする。」
俺がそう答えると、マキは決意をしたように話す。
「ソラが、そう生きることを決めたのなら、それは誰にも止められないんじゃないかしら。」
マキのまっすぐな眼差しに、カイとユフィは少し驚いた表情を浮かべる。彼女は続ける。
「生まれる場所や、生まれ持った力は変えられない。ユフィの言う通り、過ぎてしまったことは変えられないわ。でも、そのうえでソラが決めた生き方を変えることもできないと、私は思うの。」
「確かに、そうじゃな。」
マキに続いて、カスガが話す。
「ソラがソラなりに、考えて出した結論じゃろう。ソラは知らんことも多い。ワシも驚くばかりじゃ。じゃが、そのなかでもヤツなりに学んでおるのを、ワシは感じとる。」
カスガはそう言うと、その深緑色の瞳を俺に向けて言う。
「もし、ソラが間違えるようなら、ワシはそれを正したい。ワシが教えられることなら、なんでも教えたい。ワシゃそう思うんじゃ。」
カスガは彼らしい柔らかい表情で、そう言った。俺は心強くて、目をパッと開けた。
「そうは言っても、挨拶も食器の持ち方も、教えるのは俺とマキばかりだろう。」
ユフィの冷静な一言に、カスガはそうじゃな、と笑顔で返す。
そして、マキは言う。
「私もカスガと同じで、私にできることはソラにしてあげたいわ。とは言え、あなたたちにそれを強制できないけれども。」
マキの紫色の瞳は、焚き火の光を受け、神秘的に輝いていた。マキの言葉を受けたカイとユフィは少し考えて、ユフィが俺に語りかける。
「力は手にしたら、使いたくなるのが人の性分だ。お前は魔道を、その傷つく人を助けるために使うことを約束できるか?」
俺は迷いなく答える。
「約束する。」
すると、ユフィは諦めたようにため息をついた。
そして、カイが続く。
「ソラ、そこまでの覚悟があるのなら、約束してほしい。」
焚き火がまた、パキッと音を立てる。そして、カイは言った。
「何があっても、生きることを。」
俺は、体ごとカイに向き合って答える。
「ああ、必ず生きていく。」
そして、再び沈黙の時間が訪れた。
しかし、それは先ほどまでの後悔や悲しみに沈んだ沈黙でなく、新たに自分の決意を固める、旅の支度の時間だった。
ユフィがポケットから懐中時計を出して見つめ、呟いた。
「あと、一分だ。」
その一言で、俺以外の三人がわっ、と声を上げ、立ち上がる。
「え、もう?準備しなくちゃっ。」
マキが急いで、笛を取り出す。
「えっ、なんだい?」
戸惑う俺に、カスガが肩を組んできて答えた。
「新年じゃよ。」
「シンネン?」
他の四人に見せるように、ユフィが懐中時計を五人の中央で持つ。マキは笛を構えている。
「あと、二十秒…。」
カイが呟く。カスガは大きく腕を広げ、俺とユフィの肩を組んでいる。俺はまだ状況が掴めず、戸惑うだけだ
「十、九、八、七…。」
「え、シンネン?」
「四、三、二、一。」
カチっ。懐中時計の長針が、十二を差した。
「新年、おめでとうっ。」
俺以外の四人はそう言って、マキは明るい曲を吹き始めた。
「え?シンネンって、何?」
「なんじゃ、ソラ、知らんのか。新しい年になったんじゃよ。」
「新しい年?」
疑問だらけの俺に、カスガが説明する。
毎年春を迎える時期をプリマヴァラと呼び、各国盛大に祝うのだと言う。その基準は姫神教会本部があるアリアレジスにあり、全世界が一斉に新しい年へと切り替わるそうだ。
「グランディエはまだ少し冬の終わりというころだけど、やっぱりプリマヴァラは特別だね。春は新しく花が開く、特別な季節だから。」
カイが、遠くのグランディエを思うように呟く。
「しかし、まさか新年を紫の紛争地帯で迎えるとは思わなかった。」
ユフィがそう言うと、マキがさらに明るい曲を演奏した。確かに、一年のうちのこのくらいの時期、城下町が妙に浮き足立っているときがあったように思う。
「新年ということは、大切なことがあるね。」
カイが改まった様子で言う。
「僕は十七歳。」
「ワシは十六歳。」カスガが誇らしげに言う。
「私も十六歳。」マキが笑顔で言う。
「俺は十五歳。」ユフィが懐中時計をしまい言う。
四人の視線が俺に集まる。
「ってこたぁ、俺は十三歳ってことかい?」
驚いて言うと、カスガがそうじゃ、と頭を撫でてきた。
新しい年を迎え、年を重ねる俺たち。不思議なことに、自然と気持ちが一新される。
しかし、頭のどこかでローズとダフィのことは、やはり忘れられない。ローズはもう年齢を重ねない。それが死だということを、こんな形でも思い知った。
「明日には紫の紛争地帯を抜け、クルエル国の領土に入るだろう。紛争地帯を抜けたとしても、クルエルでも何が起こるか、気は抜けない。」
ユフィが浮かれた雰囲気に釘を刺すように言った。その言葉に、マキが続く。
「そうね。でも、私たちはローズやダフィのことは忘れずに進みましょうよ。」
「ああ、クルエルには手紙のこともあるしな。それに、俺は強くなってアリアレジスへたどり着く。」
そう言った俺の肩に、カスガとカイが手を置いた。
新年とは不思議だ。あんなに重く沈んでいた俺たちの視線を、旅路の先へと向けてくれた。まるで良いことも悪いことも、様々な色で散らかった心が整理された気分だ。
だが、繰り返し確認するが、ローズたちのことは忘れない。新しい年を迎えても、それは今までの俺たちの人生の、延長線でしかないのだ。どんな痛みも悲しみも、俺は乗り越えられるだろうか。
気づいたら、夜も遅くなっていたので眠ることにした。しかし、俺とカスガは新年に浮かれてしまってなかなか寝付けない。ユフィとマキに鋭く蹴られて、ようやく寝る体勢となった。
夢の中で、精霊が喧嘩をしている。どうやら、火の精霊が、雨の精霊に不満があるようだ。
〈お前はよう、俺の敵となる精霊ばっか集めてやがる。なんの嫌がらせだい?〉
火の精霊の、の太い声が俺を責め立てる。
〈私は火に興味はありません。人に危害を加えるのであれば、鎮火しますが。〉
雨の精霊がそう言うと、火の精霊がさらに燃え上がる。
〈ソラとやらよぉ、手当たり次第、精霊に手を出しても良い一手じゃねぇぜ?俺たちの相性を考えて力を使うんだな。まぁ、お子様なりにな。〉
火の精霊の言葉を受け、俺は気になっていたことを問う。
「なぁ、氷の精霊は話さないのかい?ずっと長い付き合いなのに、何も話さないじゃないか。」
俺の言葉に、氷の精霊がわずかに反応する。しかし、それは俺の心に広がる静かな泉を、かすかに震わせるだけの反応だった。
〈精霊にも、性格がありますから。この粗暴な火の精霊のように。〉
〈あんだと?水を降らすしか能がないくせによ。〉
俺はそんな、雨と火の精霊の喧嘩を聞きながら、深い眠りについた。
「せーの、で乗り越えよう。せーのっ。」
カイの声で、一歩踏み出す。
「よしっ、紫の紛争地帯を越えたのぅ。」
「なんだかんだ長かったわね。」
カスガとマキが安心したかのように、大きく息を吐いた。
もちろん、地面に線が書いてあるわけではない。しかし、俺たちは危険な紛争地帯を越えた。新年を迎えた初日、なんだか達成感めいたものに満ち溢れていたのだ。
「昨日も言ったが、クルエルの領土に入ったからと言え油断はするなよ。」
ユフィの冷静な一言に、俺たちははーい、と返事をした。ユフィは呆れたようにため息をついた。
しばらく歩くと、大きな建物が見えた。
「旅籠だっ。」
俺は思わず声にした。
ロンソ村を出て、夜の闇のなか、温かな灯りを目にしたときの安心感を思い出す。
「ちょうどいいね。旅籠で旅の支度を整えつつ、クルエルの情報を集めよう。」
俺たちは、風が背中を押してくれるような、良い流れを掴んだ気がしていた。
しかし、旅籠の商人が放った言葉で、一気に雲行きは怪しくなったのだ。
「クルエルの王都?よしときな。奇病が流行っていて、港も封鎖している。」
俺たち商売人も参っているんだ、と愚痴を吐いて、商人は煙草を吸った。
奇病、港の封鎖。俺たちの旅は、まだ嵐のなかにあるようだ。




