紫の国カルデア、迷子の過去《ソラ》
《ソラ》
俺たちは、コーダの国を足早に出発した。居心地の悪い国では無かった。むしろ、祭の最中で友好的な雰囲気は、楽しいくらいだった。
しかし、民が抱えた底の知れない怒り。そして、過去を焼き払うような凶暴さ。それらを思うと、長居をして良いところには感じられずに、早めに旅支度を終えて、次の国カルデアへ出発した。
カルデアの国境までは数日ほど歩いた。俺たちは旅人たちと交流しながら、街道の無い道を歩いた。コーダへの道中で見た旅人たちと同じように、旅人は武装し、商人は屈強な男を連れていた。
理由はやはり、治安の悪さだ。
確かに、グランディエを出てコーダへ入ってから、つまり、紫の紛争地帯に入ってから、襲ってくる盗賊は増えたように感じる。それも、一人一人が凶悪なように感じた。
こちらの所持品だけでなく、明らかに命まで狙うような、ネジの外れたヤツが多かった。
カイは剣の技術に優れながらも、下手に人の命を奪うことは無い。命乞いをする盗賊は、何も言わずに逃がした。
ロンソ村で槍の男を切ったのは、想定外の出来事でよほど余裕が無かったのだろう。それと同じことが、紫の紛争地帯に入ってから増えたのだ。
カイは見るからに消耗していた。休息のときは、いつもの笑顔で穏やかに話すが、どこかその善良な心をすり減らしている様子を感じた。
カスガは、命を奪うことにためらいが見られた。手にした両刀で盗賊の首に刃を当てるが、その刃を引ききれずに、逃がしてしまうことばかりだった。しかし、それを誰も責められはしない。
カイが正しいわけでも、カスガが正しいわけでもない。とは言え、どちらが間違っているわけでもない。
これに対する正解なんて誰も出せないし、出すことなんて誰も許されない。
守られている俺には、どちらも強い男に見えた。俺は未だに何もできない子どものままだ。
ユフィは、割り切った様子で魔道を操った。森羅魔道は多彩な力を持ち、今までに見た光や炎、それだけでなく、疾風や雷、それに俺が使う氷の魔道も使っていた。魔道によって精霊の力を借りるには詠唱時間が必要だったが、カイやカスガが前線で足止めをしている間に詠唱を終え、盗賊たちに大打撃を与えた。
しかし、ユフィも命を奪うことは無かった。炎や雷で、いわゆる後遺症を相手に残すことはあっても、命を奪うまでには至らなかった。
マキは笛を演奏して、結界魔道を操った。さらにマキは、新しい音楽を奏でた。
補助魔道だ。盗賊のなかにはカイでさえも苦戦する強者がいて、その両者が向き合う際に、カイが苦戦することが何回かあった。そのときにマキが補助魔道の音楽を奏でると、カイに加護が与えられ、力が増幅し、敵を返り討ちにできたのだ。
見る者によってはズルだと思うかもしれないが、俺たちは、生き延びるのに必死だった。
そんな戦いの途中、俺たちは紛争地帯の現実と対面する。
盗賊が、子どもを盾にして戦って来たのだ。
盗賊は子どもの後ろで武器を構え、ニヤけている。そして、子どもも武器をこちらに向けている。しかし、子どもは敵意と恐怖を、その目に宿している。
「人間としての誇りは無いのか。」
カイが、静かな怒りを宿して言う。
「誇り?最後に生きてりゃいいんだ。有り金や武器をよこしな。」
皮肉にも、その盗賊の言葉は、ヴェーゼンで俺がカイにぶつけた言葉と重なっていた。俺のなかに、誰にぶつけるでもない嫌悪感が湧いてくる。
盗賊の要求をカイたちが断ると、盗賊は子どもを走らせた。子どもは恐れながら、不恰好な構えで突撃してくる。
もちろん、カイは簡単にそれをねじ伏せる。しかし。
「爆弾じゃっ。」
カスガの嗅覚が働く。子どもが、小さな爆弾を背中に縛り付けていたのだ。カイが焦りをあらわに、それを外そうとするが、その縄は何重にも縛られ、もう爆発しそうだ。
「…すまないっ。」
カイはそう呟いて、爆弾と少年を剣で貫いた。少年は鈍い声を上げて、血を吐く。そして、しばらく痙攣した後、力が抜けた。
盗賊たちは、それをゲラゲラとひとしきり笑った後、去って行った。
ヤツらは、荒んだ国で、子どもや若者が苦しむ姿で何かを満たしている。それは、ただただ醜い悪意の固まりだった。
俺たちは少年を協力して埋葬したが、その日のカイは何も話さず、食事も摂れなかった。
そんななかでも、数日の間、俺はまだヴェーゼンでの出来事の尾を引いていた。コーダ国の、狂気を感じるほどの熱に、その日のうちに謝る機会を逃がしてしまったのだ。
本当は、ひどいことを言ってしまったカイに謝らなくてはいけない。また疑問に感じたことを、すぐに口にしたい。ユフィの作った、美味い料理に美味いと言いたい。しかし、俺は完全に機を逃がしていた。
その数日の間も、四人は時間を見つけて、俺に字を教えてくれた。カルデアまでの数日に、俺は字を読めるようになっていた。書けるのは、まだ自分の名前だけだが。カスガやマキは覚えるのが早いと褒めたが、素直になれない俺は別に、と顔を背けた。
「字を読めるようになったなら、魔道の勉強だ。」
ある日の夜、ユフィが俺に言った。俺はヴェーゼンの気まずさで頑なになっていたので、口を尖らせたままだった。
「あの小屋で渡した、入門用の魔道書を出せ。」
ユフィがそう言うので、俺は少し沈黙して、キイナの小屋でもらった本を、渋々リュックから取り出した。
「いつまでも甘ったれるなよ。」
ユフィの口調に、鋭さが増した。
「前も言ったが、お前がどう生まれようと、もう関係ない。アリアレジスを目指すうえで、少しでも戦力になれるように学べ。」
ユフィの言うことや、状況は理解できている。本音を言えば、俺だって力になりたい。守られるだけなんて嫌だ。ユフィから学べるなら学びたい。
そんな思いがあるのに、自分の心なのに、自分で理解して上手く抑えることができない。悔しい。
ユフィが言うように、ページを開いた。
「ここに書いてある五つの魔道を読み上げろ。」
ユフィが指差したところを、口を尖らせながら読み上げる。
「シンラ、ケッカイ、ホジョ、チユ、ショウカン。」
「そうだ。これが姫神教会によって許されている五つの魔道だ。」
ユフィはそう言うと、それぞれの特徴を説明した。
【森羅魔道】は、自然に宿る精霊の力を借りる魔道。光や炎、雷や氷…。あらゆる精霊がいるため、その分野は多岐に渡り、極めるためには人生を何周もする必要があるという。
【結界魔道】は、空気中に漂う精霊の力を借りる魔道。魔道士に応えて盾を作ってくれるが、物理的な攻撃、火、雷など、敵の攻撃に応じた結界を展開させる必要がある。
【補助魔道】は、人体に宿る精霊の、眠れる力を呼び覚ますことができる魔道。上手く力を借りられれば、非力な老人が大きな岩を投げられるような、強力な加護を得られるという。
【治癒魔道】は、人体に宿る傷ついた精霊に人間が力を与え、傷や病を癒す魔道。便利な魔道だが才能がある者は限られ、戦場で重宝される。ただし、大きな傷や病を治すには相応に魔道士の力量が求められ、寿命は伸ばすことはできない。
【召喚魔道】は、召喚獣に認められた者だけが使える特殊な魔道。ずば抜けた才能を持つ魔道士や戦士が命を落としたときに、その無念な思いを、獣などの姿を借りてこの世に残すという。そして、彼らに認められた者が、その並外れた力を従えるというのだ。
厳密に言うと、精霊の力を借りる魔道とは異なるが、召喚獣一体を扱えば兵士百人分に匹敵するというほどに強力な力であるという。
ユフィの説明を聞き、ささくれ立った俺の心に好奇心が湧く。正直、ワクワクしている。
しかし、頑ななままの俺は説明に対して素直に返事ができず、表情はきっと、ぶっきらぼうに見えただろう。
「ここまでの説明で、気になる魔道はあったか?」
ユフィが問うので、俺は気まずいながらも、しかし、迷いなく二つの魔道を指差した。
「森羅魔道と召喚魔道か。なぜだ?」
ユフィは淡々と問いかける。俺は相変わらず、口を尖らせながら答えた。
「この二つなら、一人でも生きていけるから。」
俺の答えに、ユフィが鋭く切り返す。
「確かに、形代として生まれたお前なら、氷の魔道であれば詠唱無しで戦えるだろう。使いこなせればな。その原理は不明だが。しかし、俺の戦いを見ていて分かっただろう。魔道を使うには、精霊の力を借りるには、詠唱が必要だ。詠唱中、魔道士は無防備だ。一人でなど生きていけない。」
「じゃあ、氷の魔道だけで戦うさ。のし上がってやる。敵は氷で全て倒す。それでいいだろ。」
俺の言葉を聞いて、ユフィは入門用の魔道書を静かに閉じた。
「お前は魔道に対する感性はありそうだが、どうにも世間知らずだ。今日はこれでお終いだ。寝るぞ。」
ユフィはそう言うと、寝支度を始めた。俺はユフィの丁寧な説明を、頭では理解していた。しかし、やはり頑なな心をどうして良いか分からない。
その晩の見張りは、カイとカスガが交代で行った。俺はマキの隣で、草っ原に寝っ転がっていた。野宿には慣れているのに、妙に寝付けない俺に、マキが小さくささやく。
「ねえ、ソラ。いつか、カイに謝れたらいいね。それに、ユフィの教えにも、素直に返事できるといいね。大丈夫。みんな、ソラが素直で優しい子だって分かってるよ。」
マキはそう言うと、おやすみ、と目を閉じた。
俺が素直?優しい?理解ができない。浮浪児のころはそんなの必要なかった。大人から食糧を分け与えてもらえる愛嬌は武器になったが、それは俺の表面に纏った、別の俺だ。
素直だとか、優しいだとか、そんな生やさしい性質に、興味はない。俺はヴェーゼンの出来事以来、そして紫の紛争地帯に入って以来、より強さを求めるようになっていた。
次の日の朝、俺は四人におはよう、とも言えずに身支度を済ませた。完全に、引き際を見失っている。自分で自分を苦しめている。
人と深く関わると、こんな苦しみもあるのだと、そんな実感が日々強くなっている。
それぞれが身支度を済ませ、歩き出した。どうやらコーダ国の首都イニングは、グランディエとの国境にだいぶ近いところにあったために、国境を越えてすぐに首都にたどり着けたようだった。
「よし、これで、カルデアに入った。」
ユフィが呟くと、他の四人は気が抜けたように息を吐いた。長かったわね、とマキが言う。
「ここで、念の為の確認なんだけど。」
改まった様子でカイが言う。
「紫の紛争地帯が、なぜ紫色なのかソラ、分かるかい?」
突然聞かれても見当もつかず、俺は首を傾げた。
「それは、紫の紛争地帯が、姫神教も希望教も混在する、宗教対立が頻繁に起きる地域だからだよ。」
また出て来やがった。俺は神なんて信じない。それなのに世界は、神だとか教会だとかに振り回されている。
カイは説明を続ける。
「姫神教を信仰したヴァルクシェンナは赤い国旗。希望教を信仰したソクアヴェスタは青い国旗。赤の絵の具と青の絵の具を混ぜると、紫色になる。紫の紛争地帯は、様々な宗教が対立して混乱する、争いの絶えない地域なんだ。」
俺は頭の中に地図を思い浮かべ、その上で赤や青、様々な色が無理に混ぜ合わされる様子を思い浮かべた。
「自分たちの信じる宗教どうしで、ぐっちゃぐちゃになっているわけか。そりゃあ変な色になるはずだ。下手に宗教の話をしないほうが、身の為だな。」
俺がそう言うと、四人が俺を見た。久しぶりにまともに発言してしまって、小っ恥ずかしい。
「まぁ、その点じゃワシゃ、メウェスティア教の信者だからのぅ。この辺りでくどくど言われることはないじゃろう。」
カスガが余裕そうに話す。姫神教と希望教以外にも宗教があることを、俺は初めて知った。
「特にこのカルデア国は、十年前の精霊戦争終結以降、国内での姫神教と希望教の対立が激しいらしいんだ。」
カイが言うと、ユフィが続いた。
「元々は、多くの少数民族が暮らす地域を、無理に姫神教会に申請して成立した国だからな。まとまるはずがない。」
「この国も、あまり長居をしない方が良さそうね。」
マキが呟くと、道案内の看板が見えた。
「ソラ、これは読めるようになった?」
「キタ、ルーズリー、ニシ、アルデール。」
俺がそう読み上げると、マキは素晴らしい、と褒めてきたが、やはり照れ臭くて俯いてしまう。
しかし、アルデール。俺はこの名前に、どこか覚えがある。
「アルデールのほうが大きそうだし、次に目指すルグレシアにも近づけそうだ。まずは、そこを目指すか。」
道案内をするユフィの後に続いて歩き出す。気づいたら、冬は終わって、春が始まろうとする季節になっていた。周りの木々も、豊かな葉をつけ始めている。
この春の景色に見覚えがある。コーダ国でドーラが案内してくれた鉱山に似た、既視感。グランディエとは少し違う、森深い景色。
俺は嫌な予感がした。しかし、それを誰にも言えず、黙って歩いた。足取りは重い。
「わぁ、あれがアルデール?」
マキが明るい声を上げた。
「すごい、真っ白な家ばかりで綺麗な街ね。」
森に囲まれた道を抜けると、白い家が多く並んでいた。それはレンガではなく木造の建物で、素朴ながら温かみのある美しい街並みだった。
「…ソラ?どうしたんじゃ。」
カスガが俺を見る。俺は白い街並みに、釘付けとなっていた。見惚れているわけではない。
やはり、見覚えがあるのだ。まだ自分でも自分の存在があやふやなくらい、幼い俺の記憶に、ひっそりとこの白い景色が残っている。
不思議そうな顔をしながら歩き出した四人に着いて、俺もアルデールへ歩みを進める。本来なら木造の温かみのある白い家々が、俺には冷たい壁に見える。
アルデールはカルデアの王都から離れているものの、多くの人が暮らす街だった。遠くには広い畑が見える。通りには商店も並び、日々の生活には困らない様子がうかがえる。
見たことのあるような、ないような街並みと、見覚えのある違和感にキョロキョロしていると、カイが小さくささやいた。
「やっぱり、この街は【紫の街】だ。姫神教会もあるし、希望教会もある。」
通りを挟んで対立するように、二つの教会が建っている。姫神教会は赤い旗を、希望教会は青い旗を、それぞれの玄関に掲げている。
今日は日曜日なので、祈りの日なのだろう。ちょうど昼時で、二つの教会から信者が出てくる。
信者たちは、互いをひと睨みして帰っていった。
「なんじゃ、綺麗な街並みじゃが、殺伐としておるのぅ。」
カスガがそう言うと、ユフィが余計なことを言うなと、ひじで突いた。
「青いの?」
まだ声変わり前の、少年の声が聞こえた。精霊の形代を蔑む言葉、青いのだなんて、久しぶりに耳にした。俺は最初、無視をした。
「無視するなよ、青いのだろ?ノアだっけ?ノラだっけ?」
肩を掴まれて、振り返る。少年は納得した表情で話を続けた。
「やっぱりそうじゃん。青いの。生きてたんだ。」
少年には、どこか見覚えがあった。しかし、思い出せない。
「俺だよ、ロイズだよ。」
「俺はノアでもノラでもねぇ。ソラだ。」
俺が正しく名乗ると、ごめん、と明るく謝られた。あまり悪気は感じない。
「ソラ、知り合い?」
マキが問いかけるが、俺は首を横に振る。
「なんでさ、知り合いっていうか、友達だろ。同じ孤児院にいたんだからさ。」
孤児院。自分でも知らない過去に驚く。ロイズは調子良く話を進める。
「俺たち、けっこう一緒に遊んでたんだぜ。それなのに突然いなくなっちゃったからさ。心配したぜ。」
そうは言われても、記憶にないものはないのだ。俺はそれを、正直に伝えた。
「悪いけど、覚えてねぇ。この街も、孤児院も。」
そして、あんたも。俺の言葉を受け、ロイズは少し残念そうな顔をした。
「ま、無理もないか。だいぶ子どもだったしな。」
ロイズはそう言うと、希望教会の横の通りを指差した。
「あの奥に、俺たちの孤児院ツキアカリがある。おばさんに一度、顔を見せたら?」
それだけ言うと、ロイズは孤児院に向かって走って行った。建物の位置的に、希望教と関わりのある孤児院な気がする。宗教にはあまり関わらないほうが良いと感じたが、気になって仕方ない。
四人を見上げると、俺を見て頷いてきた。それは、俺の背中を押す一手だった。俺たちは希望教会の横の通りへ歩んで行った。
孤児院ツキアカリは、小さな子どもの泣き声でいっぱいだった。少し年上の子どもたちが懸命にあやすが、泣き声は一向に止まない。
さらに、床の隅に溜まった埃や重なった洗濯物を見て、決して衛生的でないのを感じた。
突然やって来た俺たちを見て、子どもたちが疑わしい目を向ける。子どもたちは、髪も服も汚れて痩せている。ロイズの姿は無かった。
「なんだい、お客さんかい?」
キッチンの奥から、髪の乱れた女が現れた。子どもたちはおばさん、と呼ぶが、女は無視をする。
「悪いけど、新しい孤児を受け入れる余裕はウチにはないよ。寄付金以外の用なら帰ってくれ。」
女は俺たちを見ることもなく、椅子にどかっと座った。手には酒瓶を持っている。話が通じるかは分からないが、勇気を出して話してみた。
「おばさん、俺、ソラ=セルカナデ。ここに何年か前にいたらしいんだけど、覚えはあるかい?」
俺がそう言うと、女はグイッと酒を煽って、俺の顔をジッと見る。
「あぁ、青いの。あー、覚えがあるね。というか、よく覚えているよ。なんだい、可愛い顔になっちゃって。」
俺は自分でも知らない過去に出会い、嬉しいような、いや、やはり嬉しくない。そして、孤児院に充満する不潔さに、さらに嫌悪感が湧く。
「あんた、奴隷商人に売ったんだけど、生きてたの?」
女がそう口にして、背中が硬直する。知られたくない事実を、あっさり口にされてしまった。おれは両手で服を握りしめた。四人が何も言わずに見守っているのを感じる。俺は問う。
「なんで、奴隷商人に売ったの?」
「形代に価値が無くなったからさ。昔は形代を孤児院で面倒見たら、補助金がもらえたんだけどね、国が貧乏になったもんで、それも無し。それに…。」
それに。俺は恐ろしい予感がした。女は酒を流し入れ、語った。
「あんた、人を殺したんだよ。いたずらしてきた大人に対して、黒い氷で一突き。もうさ、街にいられないでしょ?」
暗転。
目の前が暗くなり、地面がひっくり返りそうな気分だ。息ができない。そして、封印されていた記憶のページがバタバタと、急ぎ足でめくれる。
ある夜、俺は人を殺した。相手の顔も覚えていないが、服を剥ぎ取られそうになり、夢中で抵抗をした。黒い氷が月の光を反射して鋭く光り、小さな俺の上に男が倒れ込んできた。
その後の記憶はない。気づいたら、俺はキュリアとともに馬車の荷台にいた。
体中が冷たい。隙間風だらけの孤児院のせいではない。俺自身が冷たい。俺の体中を巡る血が、俺のものでないような気がした。
「あ、あともう一つ。」
女は空になった酒瓶をドンと置いて口にした。
「あんたの母親教えてあげようか?どうせ、もう会わないだろうし。」
母親。俺には縁の無い、遠くの暖炉を窓越しに見つめるような存在だった。知りたい気持ちとともに、もう何も知りたくない気持ちに揺れる。しかし、女は酔いに任せて話した。
「あんたの母親はね、身なりからして娼婦だよ。たぶん、ソクアヴェスタ人。ソクアヴェスタの敗戦が濃厚になって、この国に流れ着いて、体を売ることでしか生きられない娼婦だったんじゃない?まるで女神の遣いのように可愛かったけどね。」
娼婦。貧民街で暮らしていたときに何人も目にした女たちだ。彼女らは愛情深かったが、どこか虚しそうだった。女は続ける。
「たぶん病気だったんだろうね。痩せこけてたよ、この孤児院にあんたを預けたときにはさ。あんた、今もあの木の十字架持ってるのかい?」
女にそう言われて、震える手で懐から取り出す。
「それね、あんたの母親が死にそうになりながら作ったやつだから、大事にしな。」
形の悪い希望教の十字架。俺の生まれた年と、名前が彫られている。俺が貧民街に流れ着いたとき、唯一持っていたものだ。
「俺の、母親の名前は…?」
俺は期待せずに、しかし縋る思いで聞く。
「知らないよ。子どもを預けて死ぬ娼婦なんか、いくらでもいたからね。」
女は今度は、タバコに火を点けた。
「もういいだろ?あたしゃ忙しいんだ。」
半ば追い出される形で、孤児院を後にした。俺はあまりに分厚く重なった情報に、頭の整理が追いつかず、今にも走りたくなった。
孤児院を出て大通りに戻ると、俺は立ち止まった。
「一人に、なりたい。」
頭も胸も知らない感情でいっぱいで、一言だけそう言うので精一杯だった。形代狩りを警戒しなくてはいけないのは分かっているが、それよりももう、静かに一人で考えに沈みたかった。
ユフィが俺の視界に入り、建物を指差した。
「この街の宿はあそこだけのようだ。俺たちは先に宿へ行く。夕方の鐘までには来い。いいな?」
ユフィの言葉に、俺は目を下に向けたまま頷いた。四人が宿に向かおうとしたとき、マキが俺の目線に立ち、自分の指輪を外し、俺の手に握らせた。
「これね、私のお母さんがくれた、導きのお守り。」
手を開いて見てみると、銀の指輪に、マキの瞳のような紫色の石がはめ込まれていた。
「いろいろ考えて、迷っても、ソラが私たちのところに戻ってきますように。それじゃ、あとでね。」
マキも、先に宿へ向かった三人に続いた。
俺はフラリと、一歩踏み出した。足取りは不確かだが、やはり俺はこの街を知っている。目指すところに、迷いはなかった。
数分歩くと、俺は街から少し離れた、何も無い、小さな野原にたどり着いた。少し小高い丘になっており、下にはこれから咲くであろう花の蕾が並んでおり、見晴らしが良い。
俺は野原に座り、風を感じた。




