自由の国コーダ、怒りと花《ソラ》
《ソラ》
黒いペンキと散りばめられた星空の空間。また誰かの悲しい記憶を見るのだ。
しかし俺は、ドーラの微笑みを思い出した。知られることで救われる心が、世界にあるのだ。
そんなことを考えていると、目の前に女がいた。女は膝をつき、俯いて目を閉じて祈っている。その横顔だけでも美しいのが分かる。
手にはあの十字架が、真新しそうに金色に光っている。やがて、祈りを終えた女が顔を上げた。
「きゅ、キュリア。」
神父らしき服装の男がオロオロと声をかける。キュリア。ドーラがシスター・キュリアと言っていた。
どうやら、キュリアの記憶らしい。キュリアは笑顔で男に振り返る。
「あなた。」
「探したよ。朝起きたらいなかったから、心配したよ。」
「ごめんなさい。でも、いてもたっても居られなくて、あなたが起きる前に教会に来たの。」
「え、何か事件かい?」
男がますます心配そうにすると、キュリアが笑顔で呟いた。
「ええ、大事件よ。」
そしてキュリアは、お腹をさすりながら男へ言った。
「姫神様から、宝物を授かったわ。」
キュリアがそう言うと、男は大粒の涙を流し、キュリアを抱きしめた。
「わぁ、やったーっ。ありがとうございます。イヴ様。」
二人は泣きながら、しかし、幸せに満ちた笑顔で抱き合った。
そして、また落ちる感覚がした。
次に足元が確かになると、キュリアは赤ん坊を抱いていた。隣にはあの夫らしき男と、小さな女の子。小さな女の子が、赤ん坊を見つめて笑う。
「うふふ、かわいいなぁ、小さいなぁ。」
「あら、ドーラだって、赤ちゃんくらい小さいときがあったのよ。」
キュリアが女の子をドーラと呼んだ。
ドーラ、俺たちを案内してくれた、眼帯のドーラ?しかし、彼女と目の前の女の子は全く似ていない。
「ねえ、あなた。まだ名前は決まらないの?もうずっと、坊やって呼んでいるのよ。」
キュリアはそう言って、夫を見上げた。夫はまた、オロオロとした様子だ。
「もう三日三晩考えているんだけど、なかなか思いつかないんだ。困ったよ。」
この夫は優しそうだが、頼りなさそうだ。何となく、カスガを思い出す。
「困ったパパねぇ。ねえ、あなたはどんな名前が良いと思う?」
家族三人が、俺を見つめてきた。キイナのときと同じだ。
「えっ、俺かい?名前なんか、考えたことねぇからなぁ…。」
俺は頭を掻いて、しかし、思ったことを口にした。
「でもよ、そのドーラって子さ、すげぇいい名前だと思うぜ。」
すると、キュリアも夫も顔をパッと明るくした。
「そうだろう、この子が生まれたときもね四日間悩んだんだ。でも、ドーラという名前が急に浮かんでね、この子の顔を見て、ぴったりだと思ったんだ。」
夫がドーラの頭を撫でながら言う。
「名前は宝物にあげる、最初のプレゼントだもの。大切にしないとね。」
キュリアが優しく微笑んで、俺に語りかけた。
宝物につける、最初のプレゼント。俺は名前なんて、ただの単語だと思っていた。でも、キュリアたちにとっては大切なものなんだなと、新しい驚きを感じた。
そして、また落ちる感覚がした。
次に足元が確かになると、周囲の景色は荒れ果てていた。建物がほとんど崩れている。
「あなた、ドーラ、ルーチェっ。」
引き裂かれそうなほど、悲しい叫び声がする。
キュリアが、崩れた建物の前で泣き叫んでいる。
「キュリア、残念だが、亡くなったのはあんたの家族だけじゃない。早く立ち直って、瓦礫を片付けよう。」
男が声をかけるが、キュリアは地面に伏せて泣いたままだ。あの頼りなさそうな夫とドーラ、そして赤ん坊につけられた名前はルーチェだろうか。
三人とも、死んでしまったようだ。キュリアは宝物を失ってしまったのだ。
「キュリアさん、あなたは悪くないわ。全部ソクアヴェスタのせいよ。あいつらが、この地震を起こしたのよ。」
女がそう憎らしげに、キュリアに声をかけた。
ソクアヴェスタ。そう言えば、ティアが言っていた。ソクアヴェスタが世界へ宣戦布告したとき、自然災害が多く起きたと。
キュリアは、金色の十字架を両手に包み泣いた。
「姫神様…。どうか、どうか、家族を美しい神海へお連れください…。」
そして、また落ちる感覚がした。
次に足元が確かになると、俺は馬車の荷台にいた。荷台からは夕焼けが見え、辺り一面は草原だが、夕焼けによって燃えるように照らされて、煌めいている。
「あの山の向こうに。」
荷台に乗った老婆が山を指差す。
「姫神様が作った、楽園がある。」
「ラクエン?」
俺は驚いて、荷台から落ちそうになった。子どもの俺だ。まだ何も知らない、小さな俺。小さな俺は、老婆に問いかけている。
老婆の胸には、あの金色の十字架が下げられていた。どうやら、この老婆がキュリアらしい。
「何の苦しみも無く、誰もが幸せに暮らせるところのことだよ。」
「へー、そりゃいいや。」
小さな俺は真に受けて、ニコニコ笑う。
「僕、楽園に行ったら、いっぱいご飯食べたい。あと、勉強したい。絵本を読みたい。それで友達と遊んで、ふかふかのベッドで寝るんだ。」
こうしてキュリアの記憶として目にしているということは、この小さな俺は確かにいたし、キュリアと会話をしていたようだ。
「お婆ちゃんは?」
「私?そうだね…。もう一度、家族と暮らすよ。」
キュリアは優しく微笑んで答えた。
「カゾクって何?」
「うーん、難しいね。」
小さな俺の問いに、キュリアが真剣に悩む。
「いろいろ説明はできるけど、私にとっては宝物だね。」
「えーっ、じゃあ見つけようよ、宝物。」
「私の宝は、もう見つからないよ。」
キュリアが俯いて呟く。
「なんで?洞窟の奥にあるの?ドラゴンが守ってるの?」
「いや、【神海】にいるからさ。」
「シンカイ?」
「坊やなら、これからいくらでも見つけられるよ。家族も、宝物も。」
「よく分からないけど、すごいや。」
小さな俺はニコニコ笑って、キュリアと微笑み合っている。
やがて、馬車が停まった。
それはコーダの国で、眼帯をつけたドーラが案内してくれた、あの鉱山だった。
「奴隷ども、降りろ。」
重そうな木の棒を持った男たちによって、キュリアと小さな俺は下ろされる。
「今日からお前たちに名前はない。ただの道具で、奴隷だ。分かったか?」
大きく威圧的な男を前に、小さな俺が怯えている。そして、男たちが、その細い腕を掴んだ。
「痛い、離してっ。」
抵抗する小さな俺に、男が一本の針を向ける。
「これで、本当の奴隷にしてやるよ。」
針が、俺の目に近づく。ドーラの眼帯の理由だ。俺が止めようと一歩踏み出した、その瞬間。
「嫌だーっ。」
小さな俺の周りに、あの黒い氷が広がった。男たちは発生した氷によって身動きが取れなくなっている。唯一、氷から足元を逃れた男が、小さな俺を捕まえようとしてきた。
「逃げなさいっ。」
キュリアが男に体当たりをした。
「離せっ、婆あ。」
キュリアが男に必死にしがみつく。
「早く、遠くへ、逃げて。」
小さな俺は、状況を理解できないまま、無我夢中で走り出した。夕日で燃えるように煌めく草原へ。
キュリアは男によって、体を蹴られていた。
そして、また落ちる感覚がした。
次に落ちたのは、あの真っ白な空間だった。どうやら、キュリアの最期の場面を見届けるようだ。
「シスター、死なないで。」
「シスター…。」
片目を潰された、多くの奴隷にキュリアは囲まれていた。キュリアも片目を潰され、痩せ細っている。
「シスター、あなたが死んだら、私の名前の書き方は誰が教えてくれるの?」
片目を潰された少女が、泣きながらキュリアに呼びかける。ドーラだ。痩せていて幼いが、俺たちを案内してくれた眼帯のドーラだ。
「孤児で名前もない私に、あなたがドーラってつけたのよ。死なないで、シスター。」
ドーラ以外にも、痩せた奴隷が、片方の目から涙を流している。
「悪いけれど、少し先に、私は逝くよ。神海へ…。」
キュリアは、静かにそう呟いた。周囲の奴隷たちは、口々にシスターと呼びかけるが、キュリアの顔は穏やかだった。
「待たせているからね、大切な、宝物を…。」
キュリアの腕が体から落ち、金色が剥げた十字架が地面に落ちた。誰もがみな、シスターと叫び、泣いていた。
「ソラ、ランプを消して…。」
脳内にあの声が響く。
「…またあんたか。」
無駄とは思いつつ、声の主を探す。
「だんだん分かってきたぜ、あんたの魂胆が。あんた、悲しい記憶を見せて、俺にソクアヴェスタを憎ませようって狙いだな?」
少しの沈黙が続いたので、俺が畳み掛ける。
「あんた、姫神教の人間か。悲しい記憶を繰り返さないとか大それたことを言って、結局はソクアヴェスタへの憎しみを強めようとしてないかい。」
「…ソクアヴェスタだけですか?」
「あぁ?」
声の主が、静かに問いかける。
「あなたが憎いのは、ソクアヴェスタだけですか?」
そう問われて、俺は固まってしまった。
形代を作ったのはソクアヴェスタ、キュリアの家族を奪った地震を起こしたのも、ソクアヴェスタ。
しかし、キイナたちを死に追いやった人間、奴隷たちの片目と自由を奪った人間。きっと世界には、俺が知らないだけで、残酷な人間がもっと多くいるのだろう。
「最後に答えを決めるのはあなたです。」
「答え?何の答えだい?」
「それはまだ、言えません。」
「へっ、秘密ばっかじゃねぇか。」
声の主は、また沈黙した。
「いいぜ、見つけてやるよ。銀の糸も、記憶も、そして、その答えとやらも。最後には、あんたの正体も暴いてやるさ。」
じゃあな、と言って、ユフィの指輪に灯った火を吹き消した。
戻るときはまた、あの感覚がした。深い川の底から、水面へ一気に浮き上がる感覚だ。
「見つけて…。」
またあの、鈴のような声が聞こえた。
「私を、見つけて…。」
なぁ、あんた、どこにいるんだい?
実はさ、今回は俺、かなりしんどかったんだ。キュリアも奴隷たちも可哀想だけど、小さな俺がいたからさ。形代に生まれちまったのは憎いけど、まさかその力のお陰で奴隷にならずに済んだなんてさ。
頭の中がぐちゃぐちゃなんだ。出会えたときにはさ、その辺の話も聞いてくれよ。
ハッと大きく息を吸って、俺は世界に戻った。目の前にはキュリアの墓があり、あの十字架の金色は全て剥がれてしまっている。
「あっちぃ。」
俺は手にしていたユフィの指輪を落としてしまった。灯っていた炎が消える。ユフィは指輪をソッと拾って指にはめた。
「ソラ、今回は…?」
カイが心配そうに見つめる。まだ頭は混乱しているが、少し息を整えて、眼帯のドーラのほうを向いた。
「ドーラ、あんたの名前はキュリアがつけたんだろう?」
俺がそう言うと、ドーラはかなり驚いた。
「そ、そうだけど、なんでそれを?」
「改めて思うけど、いい名前だな。」
俺は立ち上がり、ドーラに一歩近づいて話す。
「キュリアは昔、子どもが二人いた。その子たちは、ドーラとルーチェ。地震で夫も子どもも、死んでしまったけど。」
そして、キュリアと夫の顔を頭に浮かべ、話を続ける。
「キュリアと夫は、子どもを、家族を宝物だって言ってた。名前は宝物にあげる、最初のプレゼントだとも。だから、大切にしてくれよ。その名前をもらった、あんた自身を。」
うまくまとめられたかは分からない。でも、大切なことは伝えた。すると、ドーラは眼帯をつけていない目から、静かに涙を流した。
「…信じられないけれど、信じるわ。シスター・キュリアは、私たちの支えだった。辛い労働の後に、シスターが話してくれるお話が、私の楽しみだった。特に私は、姫神イヴの話が大好きだったわ。」
姫神、イヴ。キュリアと夫が口にしていた気がする。
「どんなに苦しくても生き抜けば、必ず幸せになれる。困難を乗り越える姫神イヴの話を、シスターは何度もしてくれた。それに、神海の話も。」
ドーラは溢れる涙を拭いて、続けた。
「長く生きられないとか、子どもを持たないとか、いかにも不幸そうに話してごめんなさい。でも私、本当に幸せに生きているの。それに、死んだとしても美しい神海が待っている。夫と一緒に、神海で幸せな家庭を築くわ。」
ドーラがそう言うと、街の方から鐘の音が聞こえた。夕方を告げる鐘のようだ。
ドーラはありがとう、というと、帰り道を一緒に歩いてくれた。
俺は、夕焼けに染まっていく草原を見て、奴隷になりそうだった自分の運命を思い出した。でも、何だか今は、誰にもその事実を話せない。話したくない。気まずさではなく、何となく俺のちっぽけな誇りを守りたい気持ちがあったのだ。
少し歩くと、またあのピアンの花畑が広がっていた。紫色の花は夕焼けに照らされて、昼とは少し違う表情を見せている。
「やっぱりピアンの花って綺麗ね。」
マキがそう呟くと、ドーラが問いかける。
「紫のピアンの花言葉を、皆さん知ってる?」
誰も知らないので、それぞれがいや、と首を横に振った。すると、ドーラが説明する。
「紫のピアンの花言葉は、怒り、憤怒。紫のピアンはね、王族の命令で奴隷や市民がタダ同然の賃金で管理させられていたの。でも王族は、一人残らず奴隷や市民に殺されたわ。その紫のピアンが今や、自由の象徴なのよ。」
ドーラは良くできた話でしょ、と笑ったが、俺たちは誰も笑っていなかった。夕日は少しずつ沈んでいく。一日が終わりへ向かっているのだ。それはコーダがかつて迎えた、王族の終わりを想像させる落日だった。
街へ戻り、ドーラは夫が待つ家へ帰って行った。
もう暗くなるのに、街はまだまだ祭の騒ぎが止んでいない。しかし、昼間の陽気な雰囲気とは違う種類の騒がしさだった。
「早く宿へ戻ろう。」
ユフィが余裕の無い様子で呟き、俺以外が妙な緊張感を漂わせた。
街の人々が声を上げながら、時には歌いながら、何かを燃やしている。それは、絵や国旗だった。それも一ヶ所だけでなく、街の至るところでその炎は上がっている。俺はみんなが焦る理由や炎の正体を聞きたかったが、四人の雰囲気に、そんな余裕は無かった。
俺たちは異様な騒がしさを避けるようにして、宿へたどり着いた。女将さんが明るく、おらお帰り、と迎えてくれた。
街の騒がしさは部屋にまで届いた。しかし四人は、その騒音にいら立つ様子がない。ただただ、緊張感がある。俺は外の様子を見ようと窓へ近づこうとした。
「ダメっ、見なくていい。」
マキが俺の腕を強く引いて止めた。驚いて、四人の顔をキョロキョロと見つめる。
「あれはね、たぶんだけど、一人残らず殺されてしまった王族たちの肖像画や、その王族たちの時代の国旗だよ。」
カイが沈んだ声で説明した。そして続けた。
「この国では終わっていないんだろうね、王族に対する怒りが。」
部屋に飾られた紫のピアンの花は、そこに静かに生けられているだけだ。しかし、問いかけている。
怒りとは、自由とは、ドーラが語った幸せとは、何か?
市民の騒ぎ声や歌声は、一晩中止まなかった。




