国境の街ヴェーゼン、反抗する者《ソラ》
《ソラ》
「…完成だな。」
レノールが、静かに筆を置いた。
そして大きくため息をつくと、座りながら姿勢を大きく崩した。俺は待ちに待った瞬間を迎え、椅子から飛び出すようにレノールの隣へ行った。
「…これ、俺かい?」
その絵は緻密で美しかった。でも、煌びやかだった十二星座の乙女とは違い、どこか陰のある絵だった。
部屋は暗い。窓から差す陽射しだけが王子を照らす。しかし、その光は強く、王子の顔や白いシャツには影が生まれ、そのまま闇に溶けてしまいそうだ。
「ああ、ソラ君。君をモデルにした僕の目に、間違いは無かった。この青い瞳は、ソクアヴェスタを悲しく見つめる、だが、美しい瞳だ。」
俺はソクアヴェスタに良い印象なんて無いので、美しいと言われても複雑だった。しかし、見れば見るほど、何か訴えかけてくる絵に思えた。
「なぜ、この王子は裸足なのか、分かるかい?」
レノールがそう問いかけてきて、俺は頭を抱える。
「うーん…、分からねぇけど、なんかさ、王子にしてはシャツもズボンも地味に感じたんだよな。処刑されるヤツに、豪華な服や靴は必要ないってことかな?」
俺が苦しみながら答えると、レノールは穏やかな口調のまま続ける。
「ソラ君は姫神教徒かい?希望教徒かい?まぁ、どちらにしても、死者は神海にたどり着くと教わっているはずだ。神海は、その名のとおり海だとされている。」
そう言われて、俺は工場から流れてくる鉄クズを探して、川に潜ったときのことを想像した。そして、一つの結論を出した。
「…あぁ、そうか。水に潜っていくなら、靴は邪魔になりそうだな。」
「そう。神海を自由に豊かに泳げるよう、僕なりの願いを込めたんだ。」
願い。それはレノールの、この王子への優しさだった。一つ、俺は気になったことを聞いてみる。
「なぁ、なんで短剣だけ、こんなに豪華なんだい?部屋は暗いし服装も地味だし、何よりも処刑前だっていうのにさ。」
俺が抱いた疑問は、きっと多くの人が感じるはずだ。暗い部屋で、王子の青い瞳と短剣だけが煌めいている。
「この短剣にも、僕なりの願いを込めているのさ。」
そう言われると、俺は考えたくなる。描かれているモデルは俺だが、もうこの少年はソクアヴェスタ最後の王子だ。この後、大人の勝手な欲望によって処刑される。
もし、俺ならば。
「俺だったら、ただで処刑されたくない。」
そう、自分の意志でもないのに、無駄死になんてごめんだ。戦争のための殉教だとか、そんなの関係ない。
「俺だったら、死ぬくらいなら誰か一人くらい道連れにしてやる。何だったら、神だって一緒に神海に沈めてやるさ。」
俺が、今までに俺を雑に扱ったヤツを思い浮かべて言う。すると、助手の女の小さな悲鳴が聞こえた。しかし、レノールは手を叩いて笑った。
「いい、とてもいいね、ソラ君。」
そう言うと、絵を指して、さらに話を続けた。
「そう。この美しい短剣は、この王子の、そして僕なりの世界への反抗さ。」
反抗。その言葉は、どこか俺のなかに、しっくりとハマる心地よさがあった。
「戦争中、芸術は何の価値も無かった。価値があるのは武器や魔道ばかり。音楽でさえ、魔道や、戦争を讃える勇ましいものとなってしまった。僕だって、食べるために戦争を讃える絵画を描いてしまった…。でも、それでも僕はあえて、美しい短剣で、そんな戦争に反抗しようと思ったんだ。切れ味なんてなくともね。」
そう早口で語ったあと、レノールは分かってくれたかい?と聞いてきた。
「ああ、分からねぇけど、すげぇ分かったぜ。」
俺がそう言うと、俺とレノールは固く握手した。
「ソラ君。君が思い描く、美しい大人になってくれ。そして青年となったとき、また僕のモデルとなってくれ。それまで、互いに美しく生きよう。」
「おう、俺は絶対偉くなってやるからよ、そんときは頼むぜ。レノール。」
ポーズをとっていた体はバキバキに固まっていたが、心は晴れやかで、軽やかなくらいだった。
絵は小さな絵はがきとなって売られるし、実物はそのうち、世界を渡り歩いた後に、アリアレジスの美術館にたどり着くという。
しかし、レノールはこう呟いた。
「モデルがソラ君であることは公表しないよ。その方が神秘的だしね。それに、この少年がソクアヴェスタの王子であることも明かさないよ。…と言うよりも、明かせない。絵が焼かれるわけにはいかないからね。」
ブランジェの侵攻や、城下町で壊されていた希望教の教会、それにキイナ…。絵が焼かれてしまう理由に、俺は心当たりが充分にある。そして、少年の正体を明かさないこともまた、レノールの優しさなのだろうと感じた。
俺は仕事をやり遂げた。盗みやスリを成功させたときも、いわゆる達成感はあったが、それとは比べものにならないくらい、俺は自分を大きく感じた。
そして、その達成感のまま定食屋へたどり着いた。いつもより少し早い時間なので、ユフィやカスガはまだいない。
カイが客と腕相撲をしていた。周りを屈強な観客たちが盛り上げ、試合は白熱していた。マキも、あの十二本の糸を張った楽器で、生き生きと演奏をして試合を盛り上げている。
相手の男は、顔を真っ赤にしている。カイも苦しそうな顔をしていて、どうやらいい勝負のようだ。俺もその様子を、ツバを飲んで見守った。
すると、突然カイがニコッと笑った。その瞬間、一気にカイが、相手の拳をテーブルに沈めた。客たちの落胆や歓喜が入り混じった声が轟く。
「あーっ、何なんだ、こいつのこの強さはっ。」
「お前、この体のどこにそんな体力があるんだ?」
屈強な客たちが、カイに対して次々と疑問を漏らす。
「いやー、でも、さすがに疲れてきたなぁ。そろそろ負けてしまうかもなぁ。」
カイがのんきな声で妙に上手い演技を見せた。それを見て、客たちは言った。微笑みの悪魔と。
やがて、カスガとユフィも戻り、夕食を取ることにした。
マキが楽器を弾きながら歌を披露する。
さようなら 今宵は良い星空なのに
明日に旅立つ 海辺は見えない
さようなら わたしは去ってゆきます
あなたはあなたの 新たな道を
わたしはわたしの 故郷を目指し
さようなら 黒い波の彼方を見つめ
道は あるのではなく 作るもの
さようなら いつかこの歌も
あなたとわたしの 懐かしい歌となる
定食屋で歌う、最後の曲が終わった。すっかりマキのファンとなった客たちが、涙まじりにチップを渡していく。マキも客たちと握手を交わし、別れを惜しむようだった。
俺は城下町を旅立ってから、知らないことを知っていった。なかには知らずに生きていたかったことも、正直ある。
しかし、旅立たなければ、こんな歌や、レノールの絵にも出会えなかった。自分で真っ当に稼いで、美味い飯を食べることも知らなかった。
改めて、俺は無知だ。そして、弱い人間だ。それでも俺は、感じ取って学んでいこうと思った。レノールの言う美しい大人が、どんなものなのかは分からないが、いくつもある問題や疑問に向き合っていかなければと思ったヴェーゼンでの日々だった。
宿に戻り、テーブルの上にユフィが広げた地図を見る。次に俺たちが目指すのは、アリアレジスへ人を乗せられる船が出航するクルエル国。
それまでには、少なくとも三つの国を越えなければならない。
コーダ、カルデア、ルグレシア。どれも【紫の紛争地帯】と呼ばれる、危険な地域だという。
「紫の紛争地帯に街道は無いと聞く。各地に旅籠はあるらしいが、それぞれの国が姫神教に力を入れているとは限らない。」
「盗賊や影に襲われる可能性が高くなりそうね。」
ユフィの言葉にマキが頷くと、一気に緊張感が高まった。
なんだかんだ、俺は大人に守られる安全圏にいたのだ。明日には、その安全圏を抜けることになる。
「僕は以前、コーダの政変の鎮圧に関わった先輩の話を聞いたんだけど…。」
カイの話に、俺はセーヘン?と疑問を持った。
「政変はね、政治が大きく変化することさ。たとえばコーダでは、昔から王族が政治を行なっていたんだけれども、それが奴隷制度など、人権を無視した政治だったんだ。」
奴隷。その言葉がやけに引っかかるが、カイの説明の続きを聞くことにした。
「やがて、コーダの市民が王族に反抗し、政治の主役は市民へと変わった。奴隷も解放された。そういうことを政変というんだ。それだけ聞くと、コーダは平和になったように思うけれど、不安定な政治のもと、あまりにも犯罪が横行してしまってね。姫神教会の要請で、グランディエが騎士や兵士を派遣せざるを得なくなったんだ。」
そこまで言うと、カイは一口、水を飲んで話を続けた。
「派遣された騎士の先輩が言っていたよ。紫の紛争地帯では、犯罪者が子どもの皮すら被っているってね。」
紫の紛争地帯が、ますます得体の知れないものとなった。つまりは、子どもだろうが疑えということだろう。そんなのは貧民街でも同じだった。
しかし俺は、自分が持つ常識とか基準を、取り払うことにした。
世界は俺の予想を簡単に越えてくる。明日からは、さらに俺の知らない世界へ、足を踏み入れることになる。俺には自分が無力である自覚と、知らない世界への覚悟が必要だった。
その日の夜は、明日の出発へ向けて早めにベッドに入った。俺は正直、ドキドキして眠れない。それは楽しみなんかではなく、真っ暗で底の見えない川を前に、どう泳いでいけばいいか迷う心細さだ。
翌朝は、少しの曇り空だった。俺は路上生活が長かったので、天気の移り変わりには敏感だった。それに、どことなく天気が自分のその日の調子を予知しているようで、嫌な気分だった。
定食屋の朝飯は、相変わらず美味かった。俺たちは滞在中、世話になった店主たちと挨拶をした。特に、演奏者と用心棒として働いたマキとカイは、時間をかけて挨拶をしていた。
出発をして気づく。俺は店主たちの名前を一人も知らない。あんなに世話になったのに。でも、旅って、大人ってこんなものなのか、とも感じていた。
「お兄ちゃん。」
出発のため、街の門を目指す俺たちを幼い声が呼び止めた。しかし、声の主は見つからない。気のせいかと思い、歩き出そうとしたその時。
「チョコレートのお兄ちゃん。」
確かに声がして、ひっそりとした裏路地を見た。
すると、俺がチョコレートを盗んで渡した、あの兄妹が呼んでいたのだ。
「お、お前ら、こんな大通りに顔出したら、金持ちにいじめられるぞ。」
俺が焦って駆け寄ると、四人も着いてきた。初めて会ったときの眼光や泣き顔が嘘のように、兄妹は柔らかい顔をしていた。
「見かけない顔だから、旅の人かなって思って探してたんだ。会えて良かった。」
兄が大人びた落ち着きで話す。
「あのときはありがとー。」
妹は無邪気に笑って礼を言う。
「分かったから、早く帰れよ。二人とも元気でな。」
俺がそう急かすと、兄妹はこちらを振り向きながら貧民街へ帰って行った。
俺は、視線を感じたが、四人の方を振り向けなかった。いや、本当はどこかで、自分のしたことが間違っていることだと分かっていたから、四人を見れなかったんだ。
「ソラ。」
カイの、聞いたことのない鋭い声が後ろからした。俺はすぐに振り向けなかったが、小さく息を吐いて、ようやく振り返った。顔は下げていないが、俺は四人の顔を見ていない。
「ソラ、僕たちに話さなくてはいけないことがあるね?」
カイが俺に目線を合わせて、静かに言う。さらに、カイの両手は俺の両腕に、心なしか強く添えられている。
俺はこのときのカイの目を見ていないが、きっと強い目をしていたに違いない。そんな目に嘘はつけないと思い、正直に言った。
「店に、入って盗んだ。」
「なぜ、何をだい。」
カイの口調は、変わらない。
「あいつらが腹を空かせてたから、チョコレートを。」
顔は見れないが、カイ以外の誰かが小さくため息をついたのが聞こえた。俺は意を決して、カイの目を見て言った。
「でも、バレてない。」
「違うっ。」
出会ってから、こんなに強い口調になったカイは初めてだ。俺は一瞬驚いて怯んだが、しかし、俺は引けなかった。
「二つだけだ。俺の取り分はない。」
「そうじゃない。」
ユフィかカスガが、取り分、と小さく呟くのが聞こえた。きっと、俺の卑しい育ちが醜く映ったのだろう。俺は、見つかるはずがない逃げ道を求める気持ちでいっぱいだった。
「いいかい、ソラ。」
カイが少しだけ、声を落ち着けて語りかける。
「あの子たちに必要なのは、与えられることでも、盗むことでもないんだよ。」
俺は、喉が苦しい。カイは丁寧に、言葉を選ぶように続けた。
「本当に必要なのは、自分たちで真っ当に食糧とか、欲しいものを手に入れる、誰も損をしないように、互いに協力して生きていく力なんだ。」
そんなこと、分かっている。喉がヒリヒリと熱い。俺の内側の、何かが爆発した。
俺は芯から叫び声を上げる。
「うるせぇっ。そんなこたぁ分かってるんだっ。」
思った以上の声が出てしまい、他の人々が振り向く。しかし、俺が息を整えている間に、その視線は戻っていった。息を整え、少し声は落ち着くが気持ちは止まらない。
「お前らに何が分かるんだよ、どうやって飯を食えばいいんだよ。損をするとかしないなんざ知らねぇ、協力なんざクソ喰らえだ。最後に自分が死ななきゃいいんだ。」
マキが俺の名を呼び、肩に手を置くが強く振り払った。
「俺ぁ、そういう正しい綺麗なだけの言葉が大嫌いだっ。それだけじゃ野垂れ死ぬだけだ。綺麗なだけで生きていけんのかよ。カイだって人を殺してるくせにっ。」
口に出して、一瞬で後悔した。俺を守ってくれたカイに対して、何てことを言ってしまったんだろう。
その瞬間、俺の左頬が叩かれた。
「カスガっ。」
カイが驚いて、カスガを見上げる。
俺は、あの気弱で温厚なカスガに叩かれたことが信じられず、静止してしまった。そして、カスガは俺の肩を掴み、顔をまっすぐに見て語りかけた。
「そうじゃ、ワシゃ、ヌシの苦しみは知らん。じゃが、知っていきたいと思っておる。その気持ちを知っておいてくれ。それと同時に、カイにはカイの苦しみがきっとあることも、知ってほしいんじゃ。頼む。」
カスガの深緑色の瞳に、濁りは無かった。
俺はあの夜、アンディと太陽物語を盗もうとして入った教会での、シスター・メイの真剣な目を思い出した。俺を一人の人間として見て、まっすぐに向き合う心が宿った目。
でも俺は、こんな気持ちを向けられることなんて、今まで無かった。向けられたところで、自分に湧き上がる感情の正体が分からない。
怒り、悲しみ、憎しみ、でも打ち捨てたくない感情。ごちゃごちゃで頭がむず痒くなるばかりだ。
全部嫌になって、カスガの手を振り払い、門へと歩き出した。ちくしょう。俺は、何度も悪態をつきながら歩く。四人は何も言わずに、俺の隣や後ろを歩く。
俺たちは無言のまま、門を出て国境を目指した。数十分歩いたところで、ユフィが呟く。
「国境を越えた。俺たちは、コーダに入った。」
いよいよ恐れていた、紫の紛争地帯に入った。
しかし、誰もが先ほどの気まずさを引きずったまま、何の感想もなく、淡々と歩みを進めた。




