八話 オアシスの町ラズ・ミナール
砂塵に霞むラズ・ミナールの尖塔が見えた頃、キャラバンの空気は、安堵と、遠方の地で稼いだ金をどう使うかという色めきだった。ゲイルの背で揺られながら、俺は砂焼けした顔の若者、カシムの軽口を聞いていた。
「……で、マサスの旦那、ラズ・ミナールに着いたらどうするんです?」
「ああ、まだこれといったアテはねえ。ザルカーンの親父のところで飯を食う、それくらいだ」
昨晩、アイシャに誘われた食事の件だ。カシムは愛嬌のある笑みを浮かべ、締まらない顔でニヤニヤとニヤついてきた。
「なるほど、それはいい。アイシャのお嬢さん、旦那にかなり首ったけですからね」
「おいおい、余計なことは言うな」
俺が軽くあしらうと、カシムは爽やかな笑顔のまま、自分の予定を切り出した。
「俺ですか? 俺は…待たせてる妹の顔を見に、家へ帰りますよ。ラズ・ミナールの片隅に、ちっぽけな穴倉みたいな家ですがね。アイシャお嬢さんの飯には敵いませんが、妹の焼く薄焼きパンは絶品ですよ、旦那」
熱い砂漠の風が吹く中、カシムの話す「妹」という言葉には、夜の町に繰り出す連中とは違う、安らぎの重みがあった。
「そうか、そいつは楽しみだな。……無事に着いたら、顔を出してみるか」
「ええ、是非! 大歓迎ですよ!」
カシムは駄載獣の綱を引き直し、鼻歌混じりにまた歩き始めた。ラズ・ミナールが、すぐそこに迫っていた。
砂丘の分水嶺を越えた瞬間、焼けるような熱気と共に網膜に突き刺さったのは、荒野の幻影ではなく、生々しい「命」の塊だった。
砂の海に座する異形の宝石、ラズ・ミナール。かつてトラベル誌で見たペルーのワカチナなど、この暴力的なまでのオアシスの前では色褪せた砂絵に過ぎない。
見渡す限りの赤茶けた砂漠に、水を湛えた巨大な街が鎮座している。
土埃をかぶった無数の日干しレンガ住居が、数千の欲望と吐息を練り込み、灼熱の陽光の下で混沌と息づいていた。
特に異彩を放っていたのは、街の一角にそびえる青いドームだ。磨き上げられたラピスラズリの如き蒼穹が、この世の果てのような冷ややかな曲線を描き、周囲のくすんだ大地を嘲笑うかのように鋭い陽光を撥ね返している。
蜃気楼の中で幻想的な影を落とすその街は、退屈な旅の果てに現れた、嘘か真か測りかねる異界だった。
「……上等だ」
正志は乾ききった喉を鳴らし、独りごちた。
使い古した革のマントの下で、いい年をした男の心臓が、若造のように騒がしくビートを刻んでいる。正志はゲイルを急かし、砂を噛むような旅に幕を下ろすべく、キャラバンに追いついた。
キャラバンが目的地、青いドームの敷地に入ると、重い積み荷が下ろされ、街の使用人たちが冷たい飲み物を運んできた。
アイシャが人混みを縫って駆け寄ってくる。彼女は使用人から受け取ったカップを、照れ臭そうに、だが確かな笑みを浮かべて差し出した。
「マサス様、地下水で作ったレモン水です。冷えてますよ」
正志はそれを受け取り、喉仏を鳴らして一気に流し込んだ。
酸味と甘み、そして冷気が、地獄のような砂漠でカサカサに乾いた五臓六腑を駆け抜ける。
「……生き返ったな。口の中の砂塵が洗い流されたぜ、お嬢様」
正志はアイシャに短く礼を言い、乾いた唇を綻ばせた。
荷解きを終えたキャラバンの面々は、主であるザルカーンから分け前を受け取り、それぞれの日常へと散っていく。砂塵にまみれた荒くれ者たちも、この瞬間ばかりは家族の待つ家へと急ぐ父親の顔をしていた。
「おい、マサス! 街で見かけたら声をかけろよ。極上のエールを奢ってやる!」
「夜の街に繰り出すなら案内してやるぜ、騎士様!」
カシムたちが下卑た笑いと共に手を振る。正志は「機会があればな」と、煙に巻くような返事で見送った。漂流者に深入りは禁物だが、彼らの無骨な厚意は、熱砂に焼かれた胸に心地よく染みた。
一行が招かれたのは、あの青いドームを頂くザルカーンの屋敷だった。
「マサス殿、紹介させてくれ。私の魂の拠り所、自慢の家族だ」
豪奢なエントランスで待っていたのは、慈愛に満ちた眼差しの妻ナジュマ、そして好奇心の塊のような息子ナジームと末娘のアザラだった。
正志は使い古した革のマントを払い、剣士としての矜持を込めて、一分の隙もない騎士の礼を取った。
「私はマサス。砂漠の女神マアトの導きか、あるいは奇妙な縁か……。お招きに預かり光栄です、奥方。そして若き紳士と淑女も」
本物の「騎士」を目の当たりにした子供たちの瞳が、夜空の星のように輝き出す。ナジュマもまた、この寡黙な異邦人の振る舞いに、安堵と敬意の混じった微笑を返した。
ほどなくして、使用人たちが下がった私室には、異国の香気を孕んだ豪華な晩餐が並べられた。
香辛料の刺激的な香りを纏った子羊のロースト。湯気を立てるタジン鍋。そして、それらを包み込む焼きたての薄焼きパン。
正志にとって、それは未知という名のスパイスが効いた、あまりに鮮烈な「生」の味だった。
食卓を囲むのは、ザルカーン、アイシャ、そして正志。それに母ナジュマと幼い二人の兄弟。
外界の喧騒を遮断した静謐な空間で、家族の温もりが、正志の凍てついていた芯の部分を僅かに溶かしていく。
「……悪くない。剣を握る腕が鈍りそうなほどにな」
正志は銀の食器を置き、揺れる灯火を見つめた。
砂の海を渡り、地獄の淵を覗いてきた男にとって、この慎やかで贅沢な団欒は、何よりも毒に似た甘美さを秘めていた。
湯気の立ち込める食卓。
子羊の脂が弾ける音をBGMに、主であるザルカーンは上機嫌で銀杯を掲げた。男の武勇伝を語らせるには、上等なワインと家族の笑顔があれば十分だった。
「いいか、ナジーム、アザラ。マサス殿の戦いぶりは、そこいらの酔いどれ兵士とはワケが違う。あれは……そう、砂嵐そのものだった!」
ザルカーンは身振り手振りを交え、講談師さながらに語り始めた。
愛鳥ゲイルを駆り、地を這う盗賊どもの包囲網を嘲笑うかのように切り裂く騎乗戦闘。鋼の剣閃が月光を撥ね飛ばし、魔法の一撃が砂丘を揺らす。
「極めつけは、あの飢えたワイルドウルフの大群だ。奴らに囲まれりゃ、並のキャラバンなら骨も残らん。だがマサス殿が指を弾けば、天から神の怒りのような大魔法が降り注いだ。……ドォォォォン! とな。一瞬で、群れは塵も残さず消し飛んだのさ」
子供たちの瞳は、すでに食事を忘れて釘付けになっていた。
話はそれだけでは終わらない。ザルカーンは声を潜め、奇跡を目の当たりにした時の畏怖を語る。
「さらに驚くべきは、その慈悲の深さだ。傷ついた者たちに彼が手をかざせば、まばゆい光と共に傷が塞がっていく。死神の鎌を、その魔法一つで叩き落としたんだ。……なぁ、アイシャも感じただろう?」
振られたアイシャは、顔を赤らめながらも深く頷く。
ナジームとアザラの視線が、再び正志へと注がれた。そこにあるのは、もはや単なる「客」への興味ではない。古の英雄譚から抜け出してきた、本物の「聖騎士」を仰ぎ見るような、純粋で、痛いほどの熱を帯びた崇拝の念だった。
正志はといえば、そんな喧騒を余所に、静かに薄焼きのパンを引きちぎっていた。
「……話半分に聞いておけ。俺はただ、自分の首が繋がっている方が都合が良かっただけだ」
ハードボイルドを気取って短く吐き捨てたが、内心ではこの居心地の悪さに、胃のあたりがむず痒くなっていた。剣を振るうことより、子供たちのキラキラした視線を受け止める方が、よほど高度な防御技術を要するらしい。
「マサス様! 僕もゲイルに乗せてくれますか!?」
「マサス様、魔法見たいです……見せて、見せて!」
矢継ぎ早に飛んでくる無邪気な弾丸。俺はそれを、口角をわずかに上げただけの冷ややかな笑みで受け流す。
――やれやれ、この毒にも薬にもならない賑やかさが、意外と嫌いじゃない自分に嫌気がさす。
正志は、冷めかけた飯を食い、内心の照れ隠しを喉の奥へ流し込んだ。




