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九話 ザルカーンの家への居候

食器が触れ合う音が止み、宴の余韻が部屋に溶けていく。

正志は最後の一口を飲み干すと、椅子の背に預けていた革のマントを引き寄せた。

「……馳走になった。砂を噛むような日々を忘れさせてくれる、極上の夜だったよ」

腰を上げ、出口へと向かおうとする正志の背中に、ザルカーンの太い声が投げかけられる。

「待て、マサス殿。……この後はどうするつもりだ? このラズ・ミナールに、腰を落ち着けるあてはあるのか?」

正志は足を止め、窓の外、異国の夜の帳が降りた街並みを一瞥した。

「いいや。とりあえずは、どこか適当な宿の隅っこを借りるさ。砂丘よりはマシな寝床が見つかるだろうよ」

乾いた、どこか突き放すような物言い。だが、ザルカーンの家族は、その言葉の裏にある「漂流者」の孤独を見逃さなかった。

「適当な宿? 冗談はやめてくれ!」

ザルカーンが椅子を鳴らして立ち上がる。

「あんたは我が家の恩人だ。そんな男を、どこの馬の骨とも知れん連中が雑魚寝する安宿へ放り出せると思うか? アイシャも、ナジュマも許しゃあしない」

アイシャが弾かれたように立ち上がり、正志の前に回り込んだ。その瞳には、夜の静寂を揺らすほどの熱が宿っている。

「マサス様、お願いです……。ここに、私たちの家に居候してください。地下には冷えた水も、柔らかいベッドもあります。……ゲイルだって、うちの厩舎きゅうしゃなら最高の寝床やご飯も保証しますから」

ナジームとアザラの小さな手も、正志のマントの裾を掴んだ。まるで、ここで放せば伝説の騎士が陽炎の中に消えてしまうとでも言うように。

正志は一度天を仰ぎ、短く吐息を漏らした。

「……やれやれ。戦場なら背後を突かれる隙だらけの布陣だな」

そう呟きながらも、その口元には自嘲気味な、それでいてどこか柔らかな笑みが浮かんでいた。鋼の剣を振るい、死線を越えてきた男にとって、この「温もりという名の包囲網」は、どんな大魔法よりも逃れがたいものだった。

「わかった。……しばらく居候させてもらう。ただし、居心地が良すぎて剣や魔法が鈍ったら、あんたのせいだぞ、ザルカーン」


そんな感じに、正志が観念したように肩をすくめると、食卓には弾けるような歓声が上がった。ナジームとアザラは勝利の勝ち鬨を上げる騎士見習いのように飛び跳ね、ザルカーンは豪快にその太い腕で正志の肩を叩いた。

「決まりだ! おい、誰かある! 特等席の客室を開けろ。今すぐだ!」

主人の号令に応じ、控えていた数人の若い使用人の娘たちが、慌ただしく、それでいてどこか浮足立った様子で部屋に滑り込んできた。

彼女たちの視線は、部屋の隅で静かに佇む正志へと、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように引き寄せられる。

彫りの深い横顔、戦場を渡り歩いてきた者だけが纏う、剃刀のような鋭利な気配。それでいて、アイシャや子供たちに向ける眼差しには、砂漠の夜霧のような静かな憂いがある。

使い古された革のマントとミスリル鋼の鎧兜、その奥に秘められた強靭な肉体。

「……あ、あの、マサス様。お荷物をお運びします」

一人の娘が、上気した顔で歩み寄る。正志と視線が合うと、彼女はまるで熱い砂に触れたかのように弾けて、耳の裏まで真っ赤に染め上げた。

「いい、自分でやる。……これ以上、若い娘を惑わせるのは俺の流儀じゃない」

正志は短く、低く響く声で断りを入れた。そのぶっきらぼうな優しさが、かえって彼女たちの胸の鼓動を早めさせていることには、当の本人は気づく由もない。

アイシャは、そんな光景を少し複雑そうな、だがどこか誇らしげな微笑みを浮かべて見つめていた。

「マサス様、お部屋は二階の、一番風通しの良い場所です。……今夜は、ゆっくりとお休みくださいね」

正志は頷き、アイシャに導かれて階段を上がる。

背後からは、使用人たちの忍び笑いと、ザルカーンの満足げな笑い声が追いかけてきた。

アイシャは部屋まで案内すると戻って行った。

正志は部屋に入り、重厚な扉を閉める。ようやく「英雄」の仮面を剥がせる時間が来た。

愛用のルーンブレイドを、抜いた時と同じ冷徹な手つきで壁に立て掛ける。軋む鎧を一つずつ剥ぎ取ると、肌に馴染んだ血の匂いが部屋に広がった。正志は呪文を唱え、浄化の魔法エスナを起動させる。淡い光が全身を撫で、こびりついた戦場の汚れを無機質な塵へと変えた。

清潔なローブに袖を通し、吸い殻の残っていない灰皿を横目に、シルクのシーツへ身を投じる。

上等すぎる寝床の柔らかさは、かえって死の淵を思い出させた。だが、意識の糸が切れるのは一瞬だった。正志は深い闇の底へと、石が沈むように墜ちていった。



シルクのシーツが肌を滑る。

正志が意識の底から這い上がってきたとき、視界に飛び込んできたのは、石造りの天井に揺れる柔らかな朝の光だった。

砂漠の夜は、常に死の影が付きまとう。耳を研ぎ澄ませ、砂を噛む風の音に化け物の足音を聴き、剣の柄を握ったまま微睡む。それがこれまでの「日常」だった。

だが、このラズ・ミナールの屋敷で迎えた目覚めは、驚くほど静かで、そして――温かかった。

「……ふん、死に損ないにしては、贅沢な朝だ」

正志は重い体を起こし、軽く肩を回した。節々の軋みが、深い眠りという最高の潤滑油によって消し飛んでいる。

窓の外からは、活気づき始めた市場の喧騒と、どこか遠くで鳴り響く鐘の音が聞こえてきた。乾燥した空気の中に混じる、焼きたてのパンとスパイスの香りが、漂流者の胃袋を容赦なく刺激する。

新しくショップで購入したローブを身に纏い、鏡に映る自分の顔を一瞥する。

昨夜までの刺すような殺気は、心なしか影を潜め、代わりに一人の男としての「生」の輪郭が戻ってきているようだった。

「さて、この『偽りの平穏』が、いつまで持つか……。まずは、胃袋を満たしにいくとするか」


廊下に出れば、またあの赤くなった使用人たちの視線か、あるいは待ち構えていたアイシャの笑顔が待っているはずだと思いながら、扉を開いた。


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