十話 市場へ
扉を開けた瞬間、そこにはまるで待ち構えていたかのような二つの影があった。
一人は、朝陽を浴びて瑞々しく輝くアイシャ。そしてもう一人は、昨夜、正志の騎士然とした佇まいに骨抜きにされた、あの顔の赤い使用人の娘だ。
正志は、新調されたばかりの洒落た黒地のローブを無造作に纏っていた。漆黒の生地が、彼の引き締まった肢体と、隠しきれない修羅の気配をより一層際立たせている。
「……おはよう。二人とも、朝から精が出るな」
低く、心地よい掠れを含んだ声。
正志が至近距離で放った「おはよう」の一言は、使用人の娘にとって、どんな大魔法の詠唱よりも強烈な一撃となった。彼女は「お、おはようございますっ!」と裏返った声を上げ、熟れた果実のように顔を真っ赤にして、逃げるように廊下の奥へと消えていった。
アイシャは、そんな彼女の背中を可笑しそうに見送ってから、いたずらっぽく正志を見上げた。
「マサス様、罪な人ですね。彼女、昨夜からあなたの話で持ちきりだったんですよ?」
「……勘弁してくれ。俺はただの、砂にまみれた流れ者だ」
正志は苦笑混じりに肩をすくめたが、その足取りは軽い。熟睡がもたらした活力と、この穏やかな空気が、鋼のように強張っていた彼の心を、少しずつ解きほぐしていく。
二人が連れ立って階段を降り、広々とした食卓へ向かうと、そこにはすでにザルカーン一家が勢揃いしていた。
香ばしいパンの匂いと、淹れたてのコーヒーの香りが、正志の「生」を強く肯定するように漂っている。
「おお、マサス殿! 似合っているじゃないか、その黒のローブ。……まるで、影を味方につけた死神のようだ!」
ザルカーンが豪快に笑いながら、自分の隣の席を叩いた。
ナジームとアザラも、朝から元気いっぱいの声を上げる。
「マサス様、おはよう! 今日は、街の面白いところ、僕たちが案内してあげるね!」
正志は席に着き、温かいスープの湯気越しに、この「仮初めの家族」を見渡した。
湯気の向こう側で、ナジームとアザラが期待に満ちた眼差しを向けてくる。正志はスープを一口啜り、短く頷いた。
「わかった。……飯が終わったら、あんたたちの『戦場』へ案内してもらおうか。ただし、迷子にならないでくれよ」
子供たちの歓声が食卓に響く。ザルカーンはそれを見て満足げに目を細め、上質なオリーブオイルをパンに垂らした。
食後、正志は自室に戻り、旅の相棒を手に取った。
洒落た黒地のローブの上から、使い込まれた無骨な革ベルトを無造作に締める。その左腰には、静かに魔力を宿す一振りの業物、ルーンブレイドが、主の意思を待つかのように収まった。
鏡に映るのは、優雅な都の装いと、死線を潜り抜けてきた剣士の殺気が同居する、何とも言えない凄みを纏った男の姿だ。
「……ふん、ここからは俺の流儀で行かせてもらう」
玄関へ降りると、アイシャと子供たち、そして昨夜から顔を赤らめていた使用人の娘が待っていた。
「マサス様、お待たせしました! こちら、私の手伝いをしてくれているライラです。今日は荷物持ちとして同行させますね」
アイシャの紹介に、ライラは「よ、よろしくお願いしますっ!」と、壊れた玩具のように何度も頭を下げた。正志がその様子に「ああ、ライラ。よろしくな」と低く名を呼ぶと、彼女の頬はまたしても沸騰せんばかりに赤く染まった。
一行は、ラズ・ミナールの心臓部、市場へと足を踏み出した。
石畳の路地の両側には、色とりどりの布地、山積みの香辛料、そして鈍く光る金細工が所狭しと並んでいる。
「見て、マサス様! あそこの焼き菓子、この街で一番なんだよ!」
ナジームが正志の手を引き、迷路のような人混みをかき分けていく。
正志の鋭い視線は、賑わいの裏側――屋根の上で目を光らせる見張りや、路地裏に身を潜める浮浪児たちの動きを、無意識のうちにトレースしていた。
平和な市場の活気。だが、この熱気の中には、必ず何かしらの毒が混じっている。
「……賑やかだな。だが、あまりはしゃぎすぎるなよ。羊の群れには、必ず狼が紛れ込むものだ」
正志はそう釘を刺しながらも、どこか楽しげなアイシャと子供たちの背中を守るように、ルーンブレイドの柄に軽く手を添えた。
そんな時、通りかかった男達にナジームとアザラがぶつかった。
市場の喧騒が、一瞬にして刺すような静寂に包まれた。
「おっと……どこ見て歩いてやがる、ガキども」
ナジームたちが角でぶつかったのは、不吉な刺青と安物の香水の匂いを漂わせた、見るからに質の悪い連中だった。男たちは怯える子供たちを突き退けると、その濁った視線をアイシャとライラへと這わせた。
「おや……こいつはいい。砂漠の砂利を洗ったら、最高級の真珠が出てきやがった」
「ねえちゃん達、そんな騎士ごっこのお守りじゃ退屈だろ? 俺たちが砂漠の楽しみ方を教えてやるよ」
一人が下卑た笑いを浮かべ、ライラの震える肩に汚れた手を伸ばそうとする。恐怖で硬直する彼女たちの前に、死神のような影が音もなく割り込んだ。
「その汚ねえ枝を引っ込めな。さもなきゃ、二度と飯が食えねえ体にしてやる」
正志の声は低く、そして驚くほど冷徹だった。
黒地のローブが風に翻り、腰に下げたルーンブレイドの鞘が、鈍い光を放って男たちの視界を射抜く。
「あぁ? 何だてめえ、やんのか――」
男が罵声を浴びせようと拳を振り上げた瞬間だった。
正志の動きは、もはや肉眼では捉えられない。
「……ガッ!?」
次の瞬間、主犯格の男は自分の拳が正志の掌に容易く受け止められ、鉄万力のように握り潰されていることに気づいた。骨の軋む嫌な音が路地に響く。
間髪入れず、正志は最短距離で残りの男たちの急所を叩いた。
鳩尾への一撃、膝裏への鋭い蹴り。無駄な動きは一つもない。ただ淡々と、害獣を駆除するような手際で、男たちは石畳の上に無様に転がされた。
「……あ、あがっ……」
地面に這いつくばる男の髪を掴み、正志はその耳元で、地獄の底から響くような声で囁いた。
「この街のルールは知らんが、俺のルールは単純だ。俺の連れに触れる奴は、等しく『ゴミ』として扱う。……消えろ。三秒やる」
正志が手を放した瞬間、男たちは自分が相手にしたのが、ただの用心棒ではなく、本物の「怪物」であることを理解した。
「ひ、ひぃぃっ! す、すまねえ!」
「覚えとけよ!」なんていうお決まりの捨て台詞を吐く余裕すらなく、男たちは脱兎のごとく、尻尾を巻いて雑踏の彼方へと消え去った。
正志は乱れたローブを無造作に整えると、ルーンブレイドの柄から手を離した。
「……やれやれ。どこに行っても、ハエがたかるのは変わり映えがしねえな」
振り返った正志の目には、先ほどまでの冷徹な光は消え、いつものぶっきらぼうな静けさが戻っていた。
だが、隣でそれを見ていたライラとアイシャの瞳には、恐怖ではなく、さらに深い熱が灯っていた。
「マサス様……凄いです……」
ライラは顔を赤らめるのを通り越し、もはや魂を抜かれたように見惚れている。
「怪我はないか、お嬢様達。……せっかくの市場だ、気を取り直して行こうぜ」
正志はそう言いながらも、足元で興奮を抑えきれないナジームとアザラの頭を、大きな手で無造作に撫で回した。
「いいか。運が良かっただけだ。次はぶつかる前に相手の目を見ろ。だが……」
正志はふっと、口角を僅かに上げた。
「あの状況で腰を抜かさず、逃げなかったことだけは褒めてやる。いい面構えだ」
「へへっ、マサス様に褒められた!」
ナジームが鼻の下を擦り、アザラも嬉しそうにその場を跳ねる。
一方、背後に控えるアイシャとライラは、もはや言葉を失っていた。
ライラに至っては、正志の指先が子供たちの髪を解く仕草にさえ、自分まで熱に浮かされたような溜息を漏らしている。アイシャもまた、鋼のような強さと、子供に向ける不器用な優しさのギャップに、胸の鼓動を宥めるので精一杯といった様子だ。
「さあ、いつまでもここに突っ立ってると、また変なのが湧いてくる。……ライラ、お嬢様を頼む。案内を続けてくれ」
正志に名を呼ばれたライラは、「は、はいっ! 喜んで!」と裏返った声で応じ、浮き足立ちながらも一行を先導し始めた。
一行は、さらに市場の奥深くへと潜り込んでいく。
そこは、先ほどまでの入り口付近とはまた違う、濃密な熱気と怪しげな香気に満ちたエリアだった。天井を覆う色とりどりの天幕が陽光を複雑な色彩に変え、商人たちのダミ声が空気を震わせている。
「次はあそこの装飾品店に行きましょう! マサス様に似合うもの、あるかな……」
「僕はあっちの武器屋を見てみたい!」
正志は、はしゃぐ一行の背後を、油断なく守るように歩く。
ローブの下でルーンブレイドが静かに揺れる。
「……ふん、武器屋か。いい趣味してるじゃねえか、ナジーム坊っちゃん」
正志はそう言いながら、ナジームの視線の先にある、古びた鉄の匂いが漂う店に目を向けた。黒地のローブの裾を揺らしながら、油断のない足取りで一行のしんがりを務める。
市場の奥へと進むにつれ、空気はさらに重く、湿り気を帯びてきた。
天幕を透かして降る光は、まるで万華鏡のように地面を極彩色に染め上げている。周囲の商人たちは、正志が纏う隠しきれない「戦場の血の臭い」と、その腰に鎮座するルーンブレイドのただならぬ気配を察し、強引な客引きを自重して道を開けた。
「マサス様、見てください! このペンダント、砂漠の夜空みたいで……」
ライラが興奮気味に、露店に並ぶ深い青の魔石を指さす。
「ライラ、今は案内が先よ。マサス様をあまり疲れさせないで」
アイシャが苦笑混じりにたしなめるが、彼女自身の頬も、先ほどの成敗劇の興奮が冷めやらぬのか、赤みを帯びたままだった。
正志は、彼女たちの賑やかなやり取りを背中で聞きながら、市場の喧騒の「隙間」を読み取っていた。
商人のダミ声、天幕の羽ばたき、そして――自分たちを追う複数の視線。
先ほどの男たちの残党か、あるいはこの街の治安を司る、より「厄介な連中」か。
「……賑やかで結構なことだが、少しばかり『観客』が多いな」
正志は足を止めず、低い声で独りごちた。
右手は無造作にポケットへ突っ込まれているが、その指先はいつでもルーンブレイドの柄へ、あるいは懐の魔術触媒へと届く位置にある。
「おい、ナジーム坊っちゃん。武器屋へ行く前に、あそこの香辛料の山を曲がれ。……お嬢様方も、俺の側を離れるなよ。市場の迷路ってのは、出口を見失うと厄介だ」
正志は穏やかな口調を崩さずに、さりげなく一行の進路を変えさせ、追っ手を撒くための狭い路地へと誘導し始めた。
「……ちっ、ドブネズミの巣窟に行き当たったか」
正志は行き止まりの壁を見上げ、短く舌打ちした。背後からは、先ほどの男たちの仲間に加え、さらに質の悪そうな連中が十人ほど、路地を塞ぐように現れる。その腕や胸には、不吉な「ハゲタカ」の紋章――砂漠のならず者集団、ハゲタカの構成員どもだ。
「さっきの借りは返させてもらうぜ。砂漠で俺たちの仕事の邪魔をしたこと、後悔させてやる」
正志はため息をつくと、肩の力を抜いた。だが、その瞳からは一切の光が消え、底冷えするような虚無が広がっていく。
「アイシャ、ライラ。子供たちを連れて壁を向け。耳を塞いで、俺が良いと言うまで絶対に振り返るな」
「え、でもマサス様……!」
「命令だ。……これからの光景は、あんたらの綺麗な夢に必要ねえ」
正志の有無を言わさぬ声に、アイシャたちは震えながらも子供たちを抱き寄せ、壁際で目を閉じた。
直後、抜剣。
鞘から解き放たれたルーンブレイドが、狭い路地に青白い魔力の残光を刻んだ。
「……一秒だ。冥土の土産に、自分の不運を呪って逝け」
銀閃が闇を切り裂く。
怒号が悲鳴に変わる暇さえなかった。正志の動きは、舞い散る砂嵐のように速く、そして正確だった。一振りの剣閃が喉を貫き、二振りが心臓を射抜く。狭い路地は、瞬く間に「死の静寂」に支配された。
血の臭いが立ち込める中、正志は冷徹にストレージ(亜空間収納)を起動した。転がる数十の骸と痕跡を、まるで不要な荷物を整理するかのように次々と吸い込んでいく。
「……後日、砂漠の肥やしにでもしてやる。ハゲタカにはお似合いの末路だ」
路地には、返り血一つ浴びていない黒地のローブを纏った正志だけが、何事もなかったかのように立っていた。剣を音もなく鞘に収め、彼は静かに告げる。
「……もういい。目を開けろ」
振り返ったアイシャたちの目に映ったのは、もぬけの殻となった綺麗な路地と、少しだけ退屈そうに首を鳴らす正志の姿だった。
「……マサス様? あの人たちは……?」
「さあな。砂漠の蜃気楼にでも化かされたんだろ。さっさとここを出るぞ、武器屋が閉まっちまう」
正志は震えるライラの肩を軽く叩き、再び一行を先導し始めた。
彼のストレージの中で数十体の死体が冷たくなっていることなど、露ほども感じさせない足取りで歩き始めた。




