十一話 両替商と武器屋にて
正志はふと思い出したように、ローブの懐から一枚の硬貨を取り出した。指先で弾かれたそれは、鈍い銀光を放ちながら空中で弧を描き、再びその掌に吸い込まれた。
「……アイシャ、これを見てくれ。この街で使えるか?」
差し出されたのは、異世界の通貨――ギル銀貨だ。
アイシャはその銀貨を手に取ると、目を丸くしてまじまじと観察し始めた。
「……凄い。こんなに混じり気のない純銀、見たことがありません。マサス様、これならそのまま払うよりも、両替商に持ち込んだ方がずっと価値がつくはずです」
「両替、か。面倒だが、砂を噛むよりはマシなレートで頼みたいもんだ」
正志がぼやくと、隣でまだ興奮冷めやらぬ様子だったライラが、パッと顔を輝かせて身を乗り出した。
「それなら、私の叔父さんの店に行ってください! このすぐ近くで両替商をやってるんです。身内の紹介なら、変な手数料も取らせませんから!」
「……ほう。ライラの叔父か。なら、信用して良さそうだな」
一行はライラの案内で、市場の喧騒から少し外れた、重厚な石造りの店へと向かった。
看板には天秤の紋章。暖簾を潜れば、そこには数々の秤と帳簿に囲まれた、眼鏡越しの鋭い眼差しを持つ初老の男が座っていた。
「叔父さん、ハキム叔父さん! お客様を連れてきたわ!」
ライラの声に、男――ハキムは帳簿から顔を上げた。
「おやおや、ライラか。それにアイシャお嬢様まで……。して、そちらの黒衣の御仁は?」
正志は黙ってギル銀貨をカウンターに置いた。
ハキムはそれを手に取った瞬間、表情を一変させた。ルーペを取り出し、銀貨の縁、刻印、そしてその純度を確かめる。
「……これは。マサス殿、と言ったかな。あんた、一体どこの国の宝物庫を空けてきたんだ? これほどの純度は、西の王国の祝賀記念貨幣でもお目にかかれんぞ」
ハキムの鑑定眼が、正志の顔と銀貨を往復する。
正志はルーンブレイドの柄に手をかけたまま、不敵に口角を上げた。
「ただの旅費だ。あんたの店がこの街で一番誠実なら、相応の紙幣か現地の貨幣に変えてもらいたい。……どうだ、ハキム殿」
ハキムは、カウンターに次々と現れる銀貨の山を前に、眼鏡をずり落としそうになりながら硬直した。
「……ひ、百枚だと!? 正気か、マサス殿。これだけの純銀を一度に市場に流せば、この街の銀の相場がひっくり返りかねんぞ」
ハキムは震える手で天秤と算盤を弾き、額の汗を拭った。提示された交換レートは、現地の銀貨にして1200枚。ただの旅費としては、ちょっとした小国の騎士団を雇えるほどの、暴力的なまでの資産だ。
「……マサス様、それ、どこから出したんですか?」
アイシャが不思議そうに、正志の何もない手元と空中に目を凝らす。ライラも「手品……じゃないですよね?」と目を白黒させていた。
正志は、重みを増した袋を無造作に手に取ると、事も無げに吐き捨てた。
「ああ、これか。……空間魔法の応用だ。自分専用の『隙間』に荷物を放り込んであるだけさ。砂漠で重い荷物を背負い続けるのは、俺の性分じゃなくてな」
「空間魔法の応用……? そんな失われた秘術を、事も無げに……」
ハキムは畏怖の念を込めて正志を見つめた。この世界において、物品を亜空間に収納する技術など伝説の類だ。それを「荷物持ちが嫌だから」という理由で平然と使う男の底知れなさに、両替商の老人は背筋に冷たいものを感じていた。
「ハキム、手間をかけたな。釣りはいらねえ……と言いたいが、それだとお嬢様方に美味いもんを食わせてやれなくなる。端数はライラへの紹介料として取っておけ」
「あ、ありがとうございますっ! マサス様!」
ライラが飛び上がらんばかりに喜ぶ。正志は1200枚の銀貨を再びストレージへ放り込むと、腰のルーンブレイドを軽く叩いた。
「さて、懐も温まったことだ。次は本命の武器屋だな。……ナジーム坊っちゃん、案内してくれ。この街で一番『まともな鉄』を置いてる店を頼む」
職人街の熱気に混じり、鋼を打つ乾いた音が響く。辿り着いた武器屋は、店構えこそ古びていたが、並ぶ業物の放つ気配は一級品だった。
正志が店内に足を踏み入れた瞬間、その鋭い視線がある一点で止まった。
壁の最上段、まるで持ち主を選ぶかのように鎮座していたのは、漆黒の騎士剣だ。
「……ほう。磨き抜かれた闇を打ったような刃だな」
正志がその剣を手に取ると、ずっしりとした手応えが腕に伝わる。ルーンブレイドとはまた違う、純粋な破壊を目的とした剛剣。その黒光りする刀身は、市場の灯りを吸い込み、冷徹な光を放っていた。
「目利きがいいな。それは異国の隕鉄を混ぜて打った業物だ。並の鎧なら紙のように切り裂く」
店主の言葉を待たず、正志はハキムから受け取ったばかりの銀貨を無造作にカウンターへ置いた。
「これをもらう。……それと、そこのガキ共にも『最高の木剣』を二本用意しな」
「えっ、僕たちにも!?」
目を輝かせるナジームとアザラに、正志はルーンブレイドを腰に差し直しながら、ぶっきらぼうに続けた。
「いつまでも俺の後ろで震えてるつもりか? 自分の身は自分で守れるようになれ。……木剣なら、自分の頭を叩いても死にはしねえだろうよ」
ハードボイルドな正志なりの激励に、ナジームは贈られた木剣を宝物のように抱きしめ、アザラはさっそく空を斬って「えいっ!」とはしゃいでいる。
「マサス様……どこまでお優しいんですか」
アイシャが感極まったように呟き、ライラもまた、正志の太っ腹な騎士道精神に、頬を赤く染めて溜息をついた。
新しい「黒の騎士剣」を背負い、木剣を携えた小さな弟子たちを引き連れて店を出る。
「……やはり、こいつをぶら下げて歩くのは性分に合わん」
正志は買ったばかりの黒光りする騎士剣を眺め、短く呟くと、それを事も無げに虚空へと差し込んだ。波紋のように揺れた空間が業物を飲み込み、再び何事もなかったかのように閉じる。
「さあ、次は胃袋の注文を聞いてやる。……ライラ、この辺りで一番、脂の乗った肉を焼いてる店はどこだ?」
正志が懐の銀貨を鳴らせば、市場はたちまち最高の社交場に変わる。
香辛料の香りに誘われて辿り着いた屋台で、正志は人数分の肉串を買い込んだ。滴る脂と、炭火で焼かれた肉の香ばしい匂い。正志は一本を豪快に頬張り、熱い肉汁を喉で受け止めた。
「……悪くない。砂漠の乾きには、これくらいの毒が必要だ」
アイシャやライラ、そして子供たちにも串を配り、一行は食べ歩きの贅沢を謳歌する。市場の喧騒、見知らぬ果実の彩り、そして正志の隣という特等席。
だが、太陽が天頂に差し掛かる頃、はしゃぎすぎた代償が子供たちを襲った。
「うう……マサス様、足が動かないよ……」
「眠い……」
ナジームとアザラの足取りが、まるで重い砂を引くように鈍くなる。正志はそれを見て、困ったように眉根を寄せたが、すぐに深く溜息を吐いて背中を向けた。
「……やれやれ。これじゃあ、騎士の背中が泣くぜ。ほら、掴まってろ」
正志は無造作に二人を背負い上げた。
黒地のローブ越しに伝わる子供たちの体温。騎士剣の代わりに背負った「生」の重みに、正志の表情は心なしか緩んでいた。
「マサス様、すみません。私が代わります!」
慌てるアイシャを、正志は一瞥して制した。
「よせ。お嬢様の細い腕を折るわけにはいかねえ。……それに、こいつらは将来の『弟子』だ。今のうちに、俺の背中の広さを叩き込んでおくのも悪くない」
その台詞に、ライラはもう言葉にならず、ただただ熱い溜息を漏らす。アイシャもまた、荷物を持つのを手伝う名目で、さりげなく正志の隣を歩き、その逞しい横顔を盗み見ていた。
ザルカーンの邸宅へ辿り着く頃には、子供たちは正志の背中で幸せそうに寝息を立てていた。
一行を出迎えた使用人たちは、異国の騎士が子供たちを背負って帰還するその微笑ましい――いや、あまりに画になる光景に、またしても頬を赤らめてざわつき始める。
屋敷の重厚な扉が開くと、そこには眉間に深い皺を刻んだザルカーンが立っていた。
市場での「ハゲタカ」との小競り合い、そして正志が男たちを路地裏へ誘い込んだという噂は、すでに商人のネットワークを通じて彼の耳に届いていたのだ。
「マサス殿! 無事だったか。市場で不穏な連中に絡まれたと聞いて、今まさに自警団を動かそうとしていたところだ!」
ザルカーンの声には、隠しきれない焦燥と、家族を想う切実な響きがあった。だが、その視線の先に映ったのは、血生臭い戦闘の痕跡など微塵もない、あまりに穏やかな光景だった。
黒地のローブを颯爽と翻し、背中には満足げな寝息を立てる子供たち。その隣には、夢見心地で頬を染めたアイシャとライラが並んでいる。
「……心配しすぎだ、ザルカーン。砂漠のハエが数匹、羽音を立てていただけさ。今頃はどこか遠くへ飛んでいっただろうよ」
正志は子供たちを起こさないよう静かな声で告げると、手際よく二人を使用人たちへ預けた。ザルカーンはその様子を見て、ようやく肺の中の熱い空気を吐き出した。
「ハエ、か……。あんたがそう言うなら、そういうことなんだろうな。だが、奴らはしつこいぞ。まさか、あそこで『消した』わけじゃあるまい?」
「さあな。蜃気楼にでも化かされたんだろ。それより……」
正志は話を逸らすように、懐から溢れんばかりの銀貨の入った袋を取り出し、テーブルに置いた。ズシリとした金属音が響く。
「ハキムの店で少しばかり両替してきた。居候の身でタダ飯を食うのは、俺の美学に反するんでな。……これで、しばらくは上等な酒が飲めるだろう?」
ザルカーンは呆気にとられたように銀貨の山と正志を交互に見たが、やがて観念したように豪快な笑い声を上げた。
「ははは! 道理でライラがあんなに浮足立っているわけだ。……わかった、ありがたく預かろう。だがマサス殿、今夜は覚悟しておけよ。この銀貨に見合うだけの、とびきりの宴を用意してやるからな!」
正志は「ほどほどにしろ」と短く応え、窓の外の砂丘を見つめていた。




