七話 キャラバンとの旅 2
砂煙を上げる荒野を抜け、一行はオアシスの街ラズ・ミナールへと歩を進めていた。ワイルドウルフとの戦いから二日。迫るホームタウンの影に、キャラバンの面々にも安堵の笑顔が戻っている。
アイシャの乗るラクダの横を、愛鳥ゲイルの背に跨った正志が並走していた。少し砕けた雰囲気の中で、アイシャが尋ねる。
「昔の職場は、そんなに……こう、ハードな場所だったのですか?」
正志はゲイルの首を軽く撫でながら、ニヒルな笑みを浮かべ、ハードボイルド小説の主人公のように煙草(に見立てた枝)をくわえる仕草をした。
「ハード? 冗談じゃねぇ。俺のいた職場は、コンクリートジャングルっていう名の地獄さ。上の連中ってのは、砂漠のオアシスを見つけたと思ったら、次の瞬間には砂嵐の中に突っ込めって言うような御仁たちでな」
正志は大袈裟に肩をすくめ、かつての「宮仕え」の日々を語り出す。
「『右に行け』と言われて右の崖を駆け下りれば、『なぜ左の谷底に行かなかった! 結果が出ないのはやる気がないからだ!』と詰められる。で、渋々左に行けば『右が正解だったのになぜ待てなかった!』だ。まさに砂の城を築いては波にさらわれる虚無のループ。心の中で俺は何度、その砂の城を爆破したことか」
「フフッ……アハハッ! マサス様、たとえが面白すぎます! まるで砂漠の悪霊に呪われているみたい」
アイシャが鈴を転がすような笑い声を上げ、体を揺らして笑う。正志の言葉に隠された、あまりに理不尽な「ブラック職場」の現実が、彼女の笑いのツボに入ったらしい。
「笑い事じゃねぇんだ、これが。この砂漠に来て、化け物相手の方がよっぽど話が通じるって知った時は、涙が出そうになったよ。少なくとも化け物は、『右に行け』なんて曖昧な命令じゃなくて、ダイレクトに殺しに来るからな。分かりやすくていい。……おっと、愚痴はここまでだ。ゲイルも砂埃でイラついてる」
正志がそう言ってオッサンらしい苦笑いを浮かべると、アイシャは涙を拭いながら、なおも楽しげな表情で正志を見つめていた。
「ふふ、でもそのお陰で、今のマサス様はどんな強敵にも物怖じしないのですね。……明日、街に着いたら我が家の料理を食べてください。嫌な思い出も消し飛ぶくらい、美味しいですよ」
「そいつはありがてぇ。明日の夜が、今のところ俺の人生で一番楽しみな『報酬』だ」
ゲイルが鳴き、二人の会話を風がさらっていく。砂漠の夕暮れは近い。
夜の静寂を切り裂くように、焚き火の爆ぜる音が響く。オレンジ色の炎が、キャラバン隊の面々の顔を赤々と照らしていた。
つい数時間前まで、彼らは正志を「得体の知れない怪物」を見るような目で遠巻きにしていた。だが今、正志とザルカーンの娘アイシャが交わす軽妙で飾らないやり取りを目の当たりにし、張り詰めていた空気は砂が零れ落ちるように解けていた。
沈黙を破ったのは、髭面の年嵩の男だった。
「しかし……マサス殿のような御仁に暇を出した連中、今頃は腰を抜かして慌てているでしょうな」
周囲の男たちが、酒杯を片手に深く頷く。その顔には、正志を不当に扱った「どこかの誰か」への嘲笑と、彼を味方に引き入れた優越感が混じっていた。
正志は揺らめく炎を見つめたまま、自嘲気味に口角を上げた。その瞳には、去ってきた場所への未練など微塵もない。
「……だといいがね。組織ってのは案外非情なもんだ。俺の席には、もう別の誰かが座って、何食わぬ顔で茶を啜っているかもしれないさ」
乾いた声が夜風に溶ける。その「黄昏」を纏った背中に、若者が興奮を抑えきれずに割り込んだ。
「いや、そりゃねえよ!あの砂漠のハゲタカどもを、騎獣を駆りながら一閃で仕留めたあの太刀筋……!首が飛ぶのを見たときは、正直、寿命が縮まったが……いやあ、スカッとしたね!女神マアトが俺たちに遣わしてくれた守護神に違いない!」
「全くだ!」「あのハゲタカどもに目にもの見せてやった!」
野太い笑い声が輪の中に広がる。
誰かが鼻歌で、砂漠の民に伝わる調べ「ヒダーウ」を口ずさみ始めた。戦いと死の影が去った後の、男たちの安堵と連帯。
そんなロマンチックで、どこかセンチメンタルな喧騒の中。
不意に、隣の砂が微かに沈んだ。
ふわりと漂う、夜の風とわずかな香料の匂い。アイシャが、肩が触れんばかりの距離に座っていた。彼女は炎を見つめたまま何も言わない。だが、その黙ったままの距離感が、正志の孤独な輪郭を優しく塗りつぶしていくようだった。
炎の爆ぜる音が、ふたりの間の静寂を心地よく埋めていた。
アイシャは膝を抱え、いたずらっぽく、それでいて慈しむような屈託のない笑みを正志に向けた。
「皆、いい人達でしょ?」
その言葉は、鋭利な剣を振るい、血の臭いのなかを歩んできた正志の荒んだ心に、砂漠の夜露のように染み込んでいった。
正志はすぐには答えず、ゆっくりと視線を上げた。焚き火を囲み、酒を酌み交わし、不器用な歌声で明日への活力を分かち合う男たち。昼間の凄惨な戦いなど、まるで遠い異世界の出来事であったかのように、彼らの笑顔は無垢で、力強い。
「……ああ。騒がしくて、お節介で。少しばかり、命の重さを忘れさせてくれる連中だ」
正志の言葉には、自嘲を通り越した、静かな愛着が混じっていた。ハードボイルドな世界に身を置く者にとって、こうした「日常の暖かさ」は毒にもなれば、薬にもなる。
「砂漠の風は冷たいけれど、人の体温までは奪えないの。マサス……あなたは、あんな風に笑う人たちを、守ってくれたのよ」
アイシャの声は鈴を転がすように清らかで、しかしその奥には、彼が背負う「暇を出された過去」への気遣いが見え隠れした。彼女の瞳には、炎の光が小さな星のように宿っている。
正志はふっと、わずかに口角を上げた。それは戦場で見せる冷徹な笑みではなく、一人の男として、守るべきものを見出した者の表情だった。
「女神マアトの思し召しか……。だとしたら、その女神様はずいぶんと趣味が悪いな。俺みたいな男を、こんな温かい輪の中に放り込むなんて」
そう言いながら、正志は腰の剣に触れた。鉄の冷たさが、今の自分の居場所を確かめさせてくれる。
焚き火の爆ぜる音を切り裂くように、豪快な足音が砂を踏みしめた。
「がはは! 何を湿っぽい顔をしておる、マサス殿!」
不意に、鉄の丸太のような太い腕が二人の肩を左右から抱き込んだ。キャラバン隊の長、ザルカーンだ。その熊のような巨躯からは、乾燥した砂と強い酒、そして長年修羅場を潜り抜けてきた男特有の、むせ返るような生命の匂いが立ち昇っている。
正志の肩にずっしりとかかる重み。それは単なる肉体の重さではない。一族の命を預かる長の、無骨で情の厚い信頼の証だった。
「見ていろ、うちの娘は一度懐くと離れんぞ? 砂漠の毒サソリよりも執念深いんだ、覚悟しておくことだな!」
「ちょっと、お父様! 変な例えはやめてちょうだい!」
アイシャが頬を膨らませて抗議するが、ザルカーンの笑い声は止まらない。彼は正志の顔を覗き込み、わずかに声を落として続けた。
「……マサス殿。あんたを追い出した連中のことは知らんが、この砂漠じゃあ『見たもの』がすべてだ。あんたの剣、あんたの立ち居振る舞い……俺の目は、あんたがただの人殺しじゃないと告げている。あんたがここに居たいなら、この焚き火の火が絶えるまで、いや、砂に還るまでいつまでだっていたらいい」
ザルカーンの分厚い掌が、正志の肩をボフンと叩く。ハードボイルドに生きてきた正志にとって、これほど直球で、損得勘定のない「居場所」の提示は、どんな報酬よりも胸に突き刺さった。
「……あんたの隊は、雇い人を甘やかしすぎるな、ザルカーン」
正志は視線を逸らし、手元の酒を煽った。だが、その横顔には、夜の寒さを忘れたような微かな赤みが差していた。
夜も更け、宴の喧騒が落ち着きを見せ始めた頃。
正志はゲイルに身を預け、目を閉じた。冷徹な砂漠の夜が、彼を静かに包み込んでいた。




