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亜麻色の彼女  作者: 藍月ゆう
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愛(1)

 風邪を引いた。

 はっきりとそう分かったのは、十二月十八日の夜で、悪寒がして喉が痛み鼻水が止まらなくなった。いつもの、風邪の引き始めの状態だった。

(最悪だな……)

 上下ブラックのスウェット姿の青木は風邪を引いた己を呪った。

 十二月十九日、木曜日。大した枚数ではないが、面倒な年賀状は既に出し終わっていた。

 念のため内科に行ったが「インフルではありませんね。単なる風邪です」と診断を受けて一安心だったものの、昨日は既に風邪の症状が出ていたため、柴原に「急な飲みで遅くなる。お弁当はまた今度作って。お迎えも要らないよ」と言い、弁当箱を渡さなかった。

 今日と明日は朝から終日小樽出張ということにしてあり、外食するため弁当は必要ないという理由で彼女に悟られないように気を付けていた。

 それにしても、すっかり雪化粧をしてしまった札幌の街と同じく、自分も白い顔をしている。早く治さないと……と気ばかりが焦るが、焦ったところで風邪は治ってくれないので、青木は大人しく横になり、テレビを点けた。

(思えば、平日のこんなお昼に家で過ごすのなんて久しぶりだな……。梨恵はいっつも退屈なんだろうな)

 青木は想像した。柴原は来月中旬からの復職が決まったから、ようやく休職期間からの脱出が決まったが、彼女が一年半ほど過ごしたであろう空白の期間は、恐らく退屈なんてものじゃないだろうと思ったのだ。

 何もすることがなかった、秋の日を思い出した。あの日は本当に退屈だった。新型サーバーと新型監視端末を見るだけで、和室で高取と男二人、特に何をするでもなく、淡々と過ごすだけの時間。あんなのが毎日続くなら心を病むのではないかと思うくらい退屈だったし、きっと高取もそう思ったから「明日からはもう放っておこう」という結論に達したのだろう。実際、二人とも居眠りしてしまったし。

 そんな「何もすることがない」時間を、柴原は一年半という途方もなく長い期間過ごしていたのだ。自分と知り合い、付き合うようになってから、確かに少しは「どこかへ出掛ける」だとか「恋人と会う」といった、意味のある時間に変えることができたかもしれないが、自分だって四六時中彼女と一緒に過ごしているわけではないし、彼女だってそれは多分息が詰まるだろうし、何となく話題に出した「ドラゴンボール」という単語に反応し、愛用のラヴィを使って小説を書くという趣味を持つようになり、時間潰しみたいなのはできるようになったのかもしれないが、執筆がどんな労力を使うのかは不明にせよ、ずっとパソコンに向かっているはずもない。

 柴原が先日持って来たラヴィから、USBメモリで自分のパソコンにコピーした「IF」と名付けられた小説は青木を感心させた。あの野球嫌いと言うか、野球音痴だった柴原が、どんな小説を書いてくるかと思えば、ワタルという野球少年が小学五年生から少年野球を経て、中学の弱い部活に入り、そこで活躍して、弱い西野高校に入り、全国大会への切符を目指して猛練習に励むという内容だった。まだ全ては読み切れていないが、柴原は「一段落したから……」と言っていたし、続きもきっと書いているのだろう。

(でも、何が「IF」なんだろう? もしも西野にこんな少年がいたら……って意味だろうか?)

 熱で回らない頭を回しながら青木は思った。

 そうなのだ。例えば「野球少年ワタル」とか、そんな無難なタイトルで良さそうなのに、なぜか「IF」と名付けられている。ワタルには三つ下の妹であるミカが存在しているが、こんな兄妹がいたら楽しそうだねって意味だろうか。

(ううん、梨恵の考えることって分かんないんだよなあ……。もう結構長く付き合ってるけど、なんか天然というか、抜けてるというか、わけが分からないことをたまに言い始めたりするし、ドラゴンボールにしたってやたら詳しいし、こう女の子!って感じではないんだよな)

 青木は首を傾げ、小さく唸った。柴原と付き合って九ヶ月になるが、彼女の全てを知っているわけではないし、プライベート……それこそ、たった今彼女は何をしているかなんて、想像も付かなかった。

 彼女は恐らく自分の言った「小樽出張」を信じて、今週はもう弁当不要なんだと思っているだろうし、きっと今頃、例えば家に籠って、このIFの続きでも書いているのだろう。外は吹雪いているし、こんな日に外に出るなんて無謀はしないだろう。

 本当にこれからが冬本番である。この時期に吹雪くのなら、完全に根雪になる。

 病院からの帰り道、近所とはいえ吹雪いているのを見て青木はがっくりとうなだれた。ブーツで行ったが、それでも寒かった。「今日は真冬日になりそうです」と朝の天気予報で言っていたのを思い出した。

 今は部屋を備え付けのFF式石油ストーブが暖めてくれているが、それでも少し寒いのでグレーのパーカーを着ることにした。これでもまだ寒気がするが、何もないよりマシである。

 テレビではワイドショーをやっていた。よく頭に入らないが、来年のマラソンのコースなんかを説明していた。札幌でマラソンをするなんてねえ……と青木はひっそりと呟いた。別に札幌でマラソンをすることに反対はしないが、東京オリンピックなのに札幌で開催しちゃって良いんだろうか?なんて思っていた。

(あーあ。それにしても退屈だ。ご飯も適当にコンビニで買ってきたから、あとは熱が下がるまで大人しくしてるしかないんだけど、眠いわけでもないんだよなあ……。本なんか読んだら逆にダメな気がするし、黙って寝るのが一番良いんだろうけど)

 柴原と違い、休み慣れていない青木は本当に退屈だった。何もすることがない。IFの続きを読もうにも、まずは風邪を治さないことには明日会社に行けるかどうかも怪しくなってくる。

 今朝、職場に電話した時は、普段は電話なんか取らないくせして高取が出て、『え、熱あんの? お前、彼女とラブラブ過ぎるんでねえのか? へへへ。いいよ、休め休め。社長にも言っとくから』と、呆気なく冷やかされたのであった。

 柴原と自分がラブラブ過ぎるのかは不明だが、関係は良好のはずだ。近頃は喧嘩もしなくなっているし、いつだって朝は「智ちゃん、おはよう」と発寒中央駅で迎えてくれるし、帰りだって寒いのに「智ちゃん、お帰りなさい」と、亜麻色の髪を輝かせながらベンチに座って待っていてくれる。そんな柴原が愛おしかった。そして、感謝していた。

(梨恵に会いたいけど、こんな姿を見せるわけにはいかないな)

 青木は苦笑した。別に服装は問題ないかもしれないが、風邪で熱を出していると知れば必ず彼女は心配するだろうし、ここに来て料理したり看病したりと尽くしてくれるだろう。

 だが、甘えるわけにもいかない。既に十分、毎日弁当を作ってもらうという形で甘えているのだから。

 青木は横になってスマホを眺めた。退屈だ。本当にすることがない。ネットニュースを読むが別に頭に入ってこない。ウェブ漫画もちょっと読んでみたが、ふう……とため息をついて枕元にスマホを置いた。時間を持て余すとはこういう様を言うのだろうと思った。


「あー……会社ではみんな何をしてるんだろ」


 意味もなく呟いてみる。会社で誰が何をしていようが、そんなことはどうだっていいのだが、生産的なことを何もしていない自分が情けなく思えた。風邪を引いたのは仕方ないにせよ、自己管理が甘かったのは事実だろう。

(高取さんは例の店を作るアプリを制作しているだろうし、井上社長はいつも通り仕事をしているだろうし、梨恵は……梨恵は、何をしてるんだろう……?)

 疑問に思った。彼女はこの吹雪の中、恐らく外には出ていないとして、何をしているんだろう。IFを書いているのだろうか。眠っているのだろうか。あのペンギンだらけの部屋で、一人で何をしているんだろう。

 読書? 料理? 掃除? なにも想像できない。何もしていないってことはないだろうけど、ラヴィに向かって「うーん」と腕組みをしているのだろうか。だとしたら、ちょっと可愛い。例えば上下スウェットを着ているとして……何か上着でも羽織っているのだろう。きっと。寒いし。まさか半纏ってことはないだろうけど。半纏姿……それはそれで、可愛いかもな。

 柴原が何をしているかなんて知る由もないのだが、青木はいろいろと空想してみた。彼女がペンギンだらけの部屋で何をしているのか。小説の続きを書いているのか、それともホットコーヒーでも飲みながら「雪が降って嫌ね」なんて呟いているのか、昼寝でもしているのか。青木は想像を膨らませた。

 何だか酷く孤独になった気がした。彼女はいつもこんな感じに過ごしているんだろうか。たった一人で、あの広いとは言えない部屋で、ペンギンに囲まれながら、一人で何かをしている。無限にある時間を遣って、小説を書いたり、ご飯を作ったり、掃除をしたり、そんな感じに過ごしているとして、こんな孤独感を味わっているんだろうかと思うと、青木は何だか彼女のことがとても気の毒に感じた。

 別に柴原は柴原で一人を満喫しているし、一人だから「智ちゃんがいないと寂しい……」なんて乙女なことは言わないのだが、青木は無性に柴原に会いたくなった。風邪を引いて弱った自分を見て、恐らく気持ちまで弱くなってしまっているんだと思った。

(情けないな……僕は。こんなつまらない風邪で、梨恵に会いたいだとか、寂しいだとか、きっと無意識の内に思っている。情けない。いい年した大人が、たかが風邪の一つで誰かに縋りたく……いや、梨恵に縋りたくなっている。情けない。ああ情けない。情けない)

 青木は心の俳句を詠み、自分の弱さを思い知った。普段はうつ病を抱えている彼女を支えているつもりだったが、何のことはない、支えられているのは自分ではないかと思った。

 実際には柴原も青木に支えられていて、青木も柴原に支えられていた。そしてそれが持ちつ持たれつであり、恋人同士であり、やがて夫婦になるとすれば理想的な形に違いないのだが、彼らはまだその自覚はなかった。いずれ夫婦になりたいと青木は思っていたし、きっと柴原も同じであって欲しいとは思っているのだが、まだお互いがそれを直接口にしたことはなかった。

(寝るとするか……あんまり眠くないけど。横になって暖かくしていれば眠くもなるさ……)

 そう言い聞かせて布団に籠る。気持ちいいが、悪寒は消えない。薬が効いたのか熱は下がっている気がするのだが、まだ具合はあまり良くない。

 テレビは相変わらずワイドショーが続いていた。どこそこの国の紛争だとか、日本との関係だとか、青木にとってはあまり興味のない内容だった。青木は世界地図を眺めるのは好きだが、その国が日本にどんな影響を与え、どういう関係にあるかまでは興味を示しておらず、「ああ、シンガポールって赤道近くにあるんだな」だとか、「モーリシャスって、あんな端っこなのにアフリカ扱いなのか」と思う程度だった。

 テレビを消した。何だか耳障りだったからだ。眠るのにテレビは必要ない。よくテレビを点けっぱなしにしておく人がいるが、青木には理解し難かった。風呂に入る時や昼寝する時に、テレビなんか点けっぱなしにしたら単なる電気の無駄遣いだし、電気代がかさむだけだと思っていた。

 青木は知らないが、柴原なんかはその「点けっぱなしにしておく人」なので、恐らく両者が一緒に暮らすようになったりすれば、そんな些細な内容で「必要ないでしょ」とか青木が言って、「なにさ、智ちゃんのケチ!」と柴原は怒るだろう。こういう微妙な価値観の違いは絶対にある。

 もしも彼らが夫婦になったとしても、所詮は他人同士である。考え方や価値観の違いを、どう受け入れ合うかなのだ。夫婦仲というのは、双方の妥協により決まる。どちらか片方が無理をすれば、必ず歪みが生じる。捻じれる。

 なので、この青木という男が柴原という女を受け入れられるだけの器を持っているか否か、ここが恐らく大事なのだが、当の青木は「きっと僕は梨恵の全てを愛せる」と信じているから、極めて神経質と言える彼がどうやって、恐ろしくだらしのない柴原を受け入れるか見物である。

 シーンと静まり返った我が部屋。白を基調とした家具や家電が並ぶ。相変わらず、我ながら生活感のない綺麗な部屋だと思う。もしも一緒に暮らしたら、柴原のペンギングッズに溢れることになるだろう。

 部屋に物が多いのはあんまり好きではないんだけど、「そんなの置くなよ」なんて言えば絶対に頬を膨らませて、「智ちゃんの意地悪!」とか言って機嫌を損ねるのが目に見えている。それはそれで可愛いだろうが、そんなつまらない内容で怒らせるのは非常に厄介な気もするので、触らぬ神に祟りなしである。

(ああ……退屈だ)

 青木はふーっとため息をついた。まるで眠気が来てくれない。これでせめて、薬の作用で眠くなるのならありがたいのだが、あいにく自分には通用しないらしく、ちっとも眠くならない。

 時計を見ると十五時を回っていた。そろそろ日が傾き始める頃合いだろう。外からは吹雪の音が聞こえる。こんな悪天候でもJRは安全に運行しているだろうし、自分の列車追跡アプリの試験も順調に進んでいるだろう。

(別に僕がいなくても、会社も日本も全然大丈夫なんじゃないか?)

 青木はふとそんなことを思った。事実、自分がいなくても会社の業務には一切支障ないだろう。青木にできることは高取にもできるわけで、むしろ高取がいないと困ることは多いが、青木がいなくて困ることと言っても特に何もない気がしたのだ。

 一介のサラリーマンと言うのは、こんなもんである。仮に病欠したって、代わりはいるのだ。長いか短いかは別としても、一日や二日休んだくらいで会社は傾かないし、びくともしないし、社会だって動き続ける。

 そしてそれは柴原も同じだ。彼女が一年半に渡って休職したからと言って、彼女の勤める保育園に多大な損失を与えたかと言えば全くそんなことはない。

 代わりの先生を探すのに園長先生は苦労したかもしれないが、代わりが見つかればそれ以上、特に何もないのだ。現実とは非情である。自分がいないと世の中が成り立たない……なんて人間は、世界中にほとんど存在しない。だからこそ日本国民は皆、気楽に生きていけるのだし、柴原のように一年半の休職があってもクビにされることもなく、傷病手当で食い繋げるのだ。

 誰もが皆、それぞれの人生を歩む。それは助け合う場合もあれば、対立し合う場合もある。世の中の人間は皆、考え方や価値観、物の捉え方が異なるから、当然同じ意見で全会一致とは限らず、違う意見だって出てくる。それに対してどう受け入れて対応していき、直接的に、或いは間接的に支え合っていくか。これが人生における一つのポイントとも言えるだろう。

 青木はそんなとりとめのないことを考えていた。頭がぼんやりとしてきた。薬の効果が出てきたのかもしれない。目を瞑った。

(梨恵と僕との違いだって、きっと受け入れられる。対応していける。彼女の仕草や性格、何気ない行動の一つ一つを愛しているから)

 そんな気恥ずかしいことを考える。柴原と青木は全く異なる性格と言えるだろう。神経質で綺麗好きな青木と比べると、柴原はかなりがさつでだらしない。しかし、青木はそんな彼女を愛している。彼女もそうであって欲しいと青木は願っている。

 柴原がどう思っているかなんて想像の域を出ないので、青木には本当に願うしかないのだが、きっと普段見せてくれる態度や仕草、言動からして、自分を嫌ってはいないはずなのだ。そう信じたい。

 吹雪の音が聞こえる。次第に青木は自分の意識が遠のいていくのを感じた。ああ死ぬのかな……なんて思ったが、そんなはずもなく、単に眠気が襲ってきただけである。青木はその眠気に身を任せることにした。

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