愛(2)
どれくらい眠っていたのだろうか。部屋は真っ暗になっていた。ストーブの灯りだけがほんのりと輝いている。
気が付くと吹雪の音は止んでいた。やれやれと白いベッドから立ち上がり、青いカーテンを閉める。灯りを点けると、殺風景な部屋が広がっていた。
大きく伸びをする。うん、だいぶ調子が戻ってきた感じがする。明日行けるかどうか……と思い体温計を使ってみたが、まだ三十八度近くあり、青木は閉口した。かなり楽にはなったが、こんな調子では明日の出勤も微妙だろう。
とりあえず……と、冷蔵庫から軽食を出し、白い電子レンジで温めて、作り置きの麦茶を準備した。コップに揺れる麦茶を見て、何となく「一人は退屈だ」と呟いてみた。
あまり食欲はなかったが、簡単な食事を済ませて処方された薬を飲んだ。きっとこれが自分の風邪を良くしてくれるはずだと思った。
テレビを点けるとバラエティ番組が放送されていた。そうか、もうゴールデンタイムかと思い、時計を見ると十九時半だった。
(梨恵は、どうしているんだろう)
青木は思った。恐らく自分のことを駅で待つなんて行為はしていないはずだ。小樽出張と言ってあるし、弁当箱の受け渡しだってしないのなら、彼女が駅に来る理由がない。
そう思っていると、ベッドの枕元に置いていた電話が鳴った。誰かと思うと柴原だった。
「もしもし? なした?」
青木は電話に出た。少し鼻声になっているのを感じたが、仕方ない。まだ鼻水は止まっていないし、咳こそ収まったが熱だって残っている。
『もしもし智ちゃん? 今、駅にいるんだけど、何時くらいになるの?』
「え?」
意外な言葉が返ってきた。そっとスマホを耳元から離すと、彼女からのメッセージが未読のまま残っていた。「何時くらいに帰るの?」という内容だった。
『既読も付かないし、遅くなるのかなって。まだ小樽なの? お弁当は作らないにしても、お迎えはしようかなって思ったんだけど……』
なんとこの寒い中、彼女は一人で駅に来て、自分を待っていると言うのだ。それも、自分が適当に言った小樽出張を信じて、小樽方面から来る列車をきっと待っているのだろう。
青木は無性に申し訳なくなった。どんな形であれ、こんなにも自分のことを想ってくれる人を騙し、自分は家で眠りこけていたと思うと、情けない気持ちと自分への怒りが生じた。
『もしもし? 大丈夫?』
柴原が不思議そうに続ける。電話越しにもハープの声がはっきりと判った。
「あ、ああ……大丈夫だよ。あのな、梨恵……その、ごめん」
『え? 何が?』
電話の向こうに駅の雑踏を感じた。きっとあの薄ら寒い発寒中央駅の、いつものパン屋さんの前のベンチで彼女は電話を掛けているのだろう。
「実は、小樽出張は嘘なんだ。昨日の夜から風邪引いちゃってさ……君にうつすとまずいし、適当に小樽にでも行ったことにすれば、君に弁当を作ってもらう必要もなくなると思ったんだ。だから、今は家にいる。ごめんな」
『え! 風邪!? 大丈夫なの? 小樽じゃないのは別にいいんだけど、智ちゃんが心配だよ』
ああ、言うんじゃなかった。帰りが遅くなるから、自分を待たずに帰れと嘘を重ねれば良かったかもしれない。
だが、何かこんなに一途に自分に尽くしてくれる彼女に対して、これ以上嘘を吐くのは気が引けたので、青木は素直に話してしまった。
「うん。病院に行って風邪薬ももらったし、だいぶ症状も落ち着いたんだけど、まだちょっと鼻が詰まってるのと、熱っぽいかな」
『大変じゃない! ちょっと待ってて、智ちゃん。これから行くから!』
「ダメだよ、うつっちゃうから!」
『ううん、そうじゃなくて。会えなくても良いんだけど、私、あなたに渡そうと思ってた物があるから、お家のドアノブに掛けさせて』
そう言うと電話は切れてしまった。何だろうか、渡したい物って。別に誕生日でも何でもないし、風邪を引いているのを知らなかった自分に、何かを差し入れする理由もないはずなのに。
そんなことを思っていると、メッセージが着た。
『もうちょっとで着くけど、ドアノブに掛けておくね。お大事にね』
青木は急いで玄関へ行った。そのままスルーするなんてことはできなかった。
ドア越しに彼女の気配を感じた。そして、何かが下げられた音がした。
「梨恵」
聞こえるかどうか分からない。だが、青木は鼻声で彼女の名を呼んだ。
「なあに?」
ドア越しに返事が来た。電話越しよりもずっと美しい、ハープのような音色だった。
「ごめんな。ありがとう」
心を込めて謝罪した。自分が嘘を吐いていた事実は変わらない。例えそれが彼女を守るためであったとしても、嘘は嘘なのだ。素直に詫び、そしてここまで来てくれた事実に感謝した。
「いいの。智ちゃん、明日には治してバーに来てね。寒いから帰るね。またね」
そう言うと、柴原は去って行ったようだった。雪を踏む音が聞こえる。やがて音は小さくなり、遠くなっていくのを感じた。
青木はそっとドアを開けた。彼の住む一〇一号室の前は、一面の銀世界だった。ずいぶん雪が積もってしまったらしい。玄関の前に、柴原の小さな足跡が残っていた。
ドアの外側……ドアノブに、何かが下げられていた。ペンギンのイラストが描かれた手提げ鞄だった。
家に入り、居間の白いテーブルの上に鞄を乗せ、中を開けた。
ペンギンのイラストが描かれたタッパーに入れられたカットされたリンゴ、梅干し、キュウリのお漬物、みかん、カットされていないリンゴが二つ、たった今買ってきたであろうカロリーメイト、スポーツドリンク、ゼリーが入っていた。
そして、小さな手紙を見つけた。ペンギンの柄の、いつか彼女に誕生日プレゼントを贈った時と同じようだ……と青木は思った。可愛らしい文字で、彼女からの手紙が書かれていた。
『智ちゃんへ。
お父さんとお母さんが、なんか沢山リンゴとか送ってくれたから、お裾分けするね。
小樽に出張に行くの大変だと思うけど、はっちゃきこいて頑張ってね。
小樽のお土産なんか欲しいなあ……なんて図々しいかな(笑)
いつか、二人で小樽に行こうね。私、もう何年も行ってないし、あたたかくなったら小樽を歩くのも良いかなあって思うの。
身体に気を付けてお仕事してね。私は何も出来ないけど、智ちゃんのことをずっと応援してるから。
大好きだよ。 梨恵より』
バカ。
青木は小さく笑った。なんて一途な子なんだろうかと思った。目が充血しているのを感じた。自分が涙目なのは熱のせいだと思い込んだ。
彼女がきっと、このリンゴを切ったのだろう。不揃いな大きさが、不器用な柴原らしかった。一つ齧ってみた。甘くて美味しかった。
そして、明日は金曜日だということを思い出した。そうだ。明日には治して、あのバーに行かないと。あの名も無きバーへ行き、彼女に直接感謝の言葉を述べなければならない。
青木は心から自分を愛してくれる人がいる奇跡に感謝した。
きっと彼女はさっきの電話に出なければ、小樽出張を信じて、青木を待ち続けていただろう。あの肌寒い発寒中央駅のベンチで、じーっと改札を見つめて待ち続けていただろう。正しい選択肢を選び、良かったと思った。
彼女のそんな姿勢が青木を泣かせた。自分のことを想ってくれているのは、もう間違いなかった。そして自分も同じく、彼女のことを心から愛しているのだと改めて思った。
愛し合っている。確信を持って言えた。自分たちは愛し合っている。
そして支え合っている。こうやって直接的に、そして間接的にも、支え合っている。
いつか家族を作る日が来るのならば、自分がこの子を守らなければならない。この優しくて、不器用で、どんくさくて、人の話を素直に信じてしまうような、そんな子を、自分が絶対に守り切らなければならない。
青木は少しだけ、自分が成長した気がした。愛し合うとは、こういうことを意味するのだと知った。彼女から教えてもらった気がした。
リンゴ類を冷蔵庫に入れ、青木はスマホを取り出した。彼女に何かメッセージを入れようと思った。
『梨恵へ。いろいろと差し入れしてくれてありがとう。必ず治して明日にはバーに行くからね。愛してるよ。智実より』




