報告
十二月六日。いつものバーに十九時頃、柴原は辿り着いた。自宅から十五分くらいの距離である。
雪が積もり、若干歩きづらくなった歩道に足を取られ、黒いブーツを濡らしてひいひい言いながら、発寒中央駅の南口からすぐの片隅のバーへ飛び込んだ。
暖かい店内が冷えた身体を慰めてくれる。飾りっ気のない薄暗い雰囲気が柴原は好きだったし、不思議と安心感を得られた。
「いらっしゃいませ。雪が少し積もりましたね」
眼鏡を掛けた細い枯れ木のようなマスターが、いつも通りにこやかに迎えてくれる。
亜麻色の髪を輝かせながら、柴原は「こんばんは」と笑顔で返し、コートをハンガーに掛け、指定席となっている五つ並んだカウンター席の一番奥に座った。
「いつもの順番でよろしいでしょうか?」
笑みを浮かべながらマスターは尋ねる。柴原は笑顔で頷いた。定番になっている順番でお酒を飲もうと思った。
店内には静かなジャズが流れており、相変わらず小さな液晶テレビには欧州辺りのサッカーの試合……恐らく録画したものであろう。それが流れていた。
マスターは多分、サッカーが好きというよりも、何となくオシャレな感じがするから流しているだけだろう。特別気にしている様子がないし、詳しそうな様子も感じなかった。
今日はコートの下に白いシャツを着て、ラベンダー色のニットベストを重ね着し、チェック柄のパンツを履いていた。十月の誕生日に青木からもらった深い青の肩掛け鞄は、もう愛用品となっている。
温かいおしぼりで手を拭いていると、マスターが作ったお酒を持ってきた。
「はいどうぞ。カンパリ・ソーダでございます」
タンブラーグラスに入った赤い酒を差し出す。小さな手で受け取り、グイっと飲む。
(うん、美味しい)
少し苦い風味があり、食前酒としても有名らしいが、あいにく柴原にしても青木にしても、ここに訪れる際は既に夕食を済ましているので、このバーにある食事と呼べるメニューを頼んだのは、通い始めて間もない頃だけだった。
マスターも「お料理はいかがでしょうか」なんて言ってこないし、柴原はお酒さえ飲めれば良かったのだ。
グイグイと飲む柴原。堪らない。このところ少し飲み過ぎている気もするのだが、飲みたくなる理由があった。飲まなきゃやってられないなどという自暴自棄な理由ではなく、もっと嬉しい理由が。IFを青木に読ませただけではない。
因みにIFのデータはつい先日、青木の家にお邪魔した際、彼が「ああ、テキストファイルならUSBメモリでコピーすれば簡単だよ」と一瞬で終わったので、柴原は愛用のラヴィを家に持って帰ることができた。
鮮やかな手付きでデータを移す姿を見て「智ちゃん、魔法使いみたい……」と感想をこぼすと彼は大笑いしていた。
「マスター、お代わり!」
「ふふ。今日はずいぶんと早いですね」
マスターは笑みを浮かべ、同じくカンパリ・ソーダを作り始める。「そんなに早く飲んで大丈夫?」なんて無粋なことは聞かない。
ここのマスターはいつだって、彼女が頼めば淡々と酒を準備してくれる。
柴原は店内を見渡した。狭く薄暗い空間に、自分とマスターが二人だけ。青木が来てくれないと何か物足りなさすら感じる。
去年の十二月、彼がやってくるまではマスターと二人きりだったし、それが当たり前だったのに、いつの間にか彼が来ないと成り立たないような空間と化していた。
「はい、どうぞ」
マスターは空いたグラスと交換して、新しいカンパリ・ソーダをくれた。
早速グイっと飲む。マスターは少し目を見開く。「早いですねえ」とその顔が言っていた。この人と自分は背丈がそんなに変わらないな……と平均的な女性の身長である柴原は思った。
「何かありましたか? 青木さんと喧嘩された……とかではなさそうですね。もっと嬉しいことでしょう」
マスターがにこやかに言う。
確かに何かがないと、こんなに早いペースで二杯目を飲まないだろう。柴原はいつも通り、「次のを、お願いします」と空いたグラスを片手に言った。マスターは頷き、次の酒……ルジェストロベリー・ソーダを作り始める。
「智ちゃんとは仲良くやってますよ」
柴原は自分に酒が入るのを感じていた。
身体がポカポカと暖かくなってくる。きっと頬も紅潮しているのだろう。そして彼女自身も絶好調である。びっくりするくらい、心も身体も元気だ。
「それは良かったです。お二人が仲良く話されているのを見るのが、私も楽しみでして」
マスターは優しい笑みを浮かべていた。
柴原が心を許す、数少ない人物の内の一人である。うつ病の自分だって彼は快く受け入れてくれる。
「はいどうぞ。ルジェストロベリー・ソーダでございます」
赤い美しい酒が出てきた。柴原はそれをまたグイっと飲む。イチゴの甘酸っぱさを感じた。爽やかな味わいだった。
いつものコース……と言うよりも、柴原が頼む酒の順番をマスターは既に心得ており、そしてその酒はほぼ全てが赤いのだった。
「マスター。今日はとても良い報告があるの」
頬を紅潮させながら柴原は笑みを浮かべて言う。マスターもそれに釣られて笑顔を見せる。
還暦を迎えた彼にとって柴原など恋愛対象になり得ないが、美しい笑顔だと感じた。
「どうかなさいましたか?」
グラスを洗いながら静かに返す。カラン……と、柴原の持っているグラスに入っている氷が溶ける音がした。
暖かい店内で楽しむ、冷たく爽やかなお酒。最高だなあ……と柴原は思った。
「来月の半ばから復職が決まったんです! お正月とかはいろいろ、なんか分からないけど事務整理の関係があるから難しいけど、一月十三日の月曜からなら、復帰しても良いって!」
「ほう。それはそれは、良かったですねえ。すっかりお元気になられて、私も嬉しいです」
マスターは本当に嬉しそうに笑ってくれた。柴原はそんな姿勢が嬉しかった。そしてこの話は青木にもまだ内緒にしていた。今日、このバーで話そうと思っていたのだ。
去る十二月二日の月曜日、月一になっている伊藤心療内科での診察で「この分なら来月から行けますね」と診断を受けた柴原は、それはそれは喜んだ。伊藤先生に「ありがとうございます!」と握手を求め、伊藤先生も「あまり無理をなさらないように」と言いながら、笑顔で頷いてくれた。
そしてその日の夕刻、いつものように発寒中央駅で青木を待っていた際、たまたま琴似工業高校の生徒たちと会った。また自分を捜していたと知った彼女は何だか嬉しくなり、「ありがとう」と返してそのまま彼らが立ち去るのを待とうとも思ったが、少し時間にも余裕があったし、わざわざ自分を探して、駅舎の中で待っていてくれたんだから……と世間話に乗ったのだった。
(あの博樹くんって子も、松岡くんって子も、とっても良い子だったな……。私なんかを待っていてくれて、まっすぐに向き合ってくれて、ありがたかった。いい年して泣いちゃって恥ずかしかったけど、嬉しかった……)
柴原は高校生二人の顔を思い浮かべた。超サイヤ人みたいな頭になっていた博樹くんと、いつもの短髪の松岡くん。
二人は何だかちょっと変わっているけど、良いコンビだなあと思った。卒業したら博樹くんは東京へ行くと言っていたし、松岡くんは札幌に残るらしいけど、この辺りには用事がなくなるみたいだし、私が二人と会えるのも今の内なんだなあ……なんてぼんやり考えていた。
「柴原さん」
「はい?」
珍しくマスターから話し掛けて来た。柴原はそこで初めて、自分がずいぶん長い間ぼんやりしていたのに気付き、照れ笑いを浮かべた。
「あなたは、お美しいですね」
淀みなく、眼鏡越しの瞳に笑みを浮かべてマスターは言った。柴原は一瞬、言葉を失った。
マスターがこんなことを言ってくるとは思わず、智ちゃんみたい……と思ったのだった。
「ありがとうございます」
お酒も入り、良い気分になっていた柴原は、満面の笑みで返した。
「いえいえ。あなたが初めてここへいらした時のことを思い出しましてね」
マスターは洗ったグラスを拭きながら続けた。初めてここに来た時……去年の秋くらいだっただろうか。
確か自分の誕生日近くだった気がする。あの時は誰も会う人がいなくて、世間から切り離されてしまったことが寂しく、何となくぎんなん通りを歩いていたら目に付いたここへ飛び込んだ。
何を思ったわけでもなかった。気が向くまま足を運んだら辿り着いたのが、この名も無きバーであった。
マスターはその時も、静かに「いらっしゃいませ」としか言わなかったはずだ。
彼女の表情を見て「元気がなさそうですね」とか、そんなことは一切言わず、柴原はメニューから適当に飲みたいと思ったお酒を選んだ。いつの間にか彼女が飲むお酒はパターンが決まっていって、マスターは何も言わなくても「次のですね?」という表情を浮かべるようになり、彼女はそれに従って、両者の間に「柴原コース」とも呼べるルールが出来上がったのだった。
「あの時は……まだ、私も全然元気なかったですよね?」
「ええ。今はあの頃とは比べ物にならないほど、本当にお元気そうで」
マスターの言葉に柴原は苦笑するしかなかった。
きっとそうだろう。本当に元気がなかったし、毎日のように死にたいと思っていた時期だったから、ここに縋るような気持ちで来たのは間違いない。
そんな自分をこの店とマスターは静かに受け入れてくれた。
「うつ病なんです」と切り出しても、マスターは何も特別扱いしなかった。「そうですか」とだけ言って、あとは静かにいつも通りお酒を作ってくれた。
そんな姿勢が嬉しくて、積極的に話し掛けるようになった。彼女以外にこのお店に来る客はいなかった。あの十二月中旬くらい、突然青木がやってきた日までは。
あの時だって、最近具合が良くなくて……とか言いながら、柴原は赤ワインを飲んでいた気がする。話し込んでいる内に突然店の扉が開いて、トレンチコート姿の彼が入ってきた。
曇った眼鏡をハンカチで拭いて、柴原を一瞬見て、マスターが「いらっしゃいませ」と迎え入れて、彼は入って手前から二番目の席に座り、メニューをじっと見て、「ラズール・モヒートをください」と言った。
柴原はそっと横目で彼の様子を窺った。細くて頼りなさそうな人だと思った。マスターとの会話は途絶えて、彼女は単に飲み干したら「次のを、お願いします」とだけ言うようになっていた。
その翌週も青木はやってきた。その次も、その次も……。ずっと彼はやってきた。でも、会話はなかった。
この薄暗くて狭いバーに三人も人間がいるのに、誰一人として会話らしい会話をしない。
正確には青木がやって来るまでは、柴原とマスターは会話していたのだが、青木が来店するとそこで会話は打ち切られた。
どうしてだろう。笑い合っていたとしても、どんなに話の途中でも、彼が来る気配を感じるとそこで二人は黙り、青木も静かに「いつものを」とラズール・モヒートを頼み、それ以外のお酒だって静かに頼むだけだった。
だが柴原はそんな青木に対し、嫌な印象は抱いていなかった。この人はきっと、ここにお酒を飲むだけじゃなくて、この空気を求めているような、そんな感じで来ているのだろうな……と思った。自分と同じだと思っていたのだ。
「マスター」
「次のを、ですか?」
「あ、はい。それもありますけど、あの……」
柴原は照れ臭くてもじもじとしていた。マスターは次の酒……ルジェカシス・ソーダを作り始めている。
尿意を感じたので一度トイレへ行き、戻ると空になったグラスは片付けられ、新しくルジェカシス・ソーダが置かれていた。
「あの、マスター。私、とっても感謝しているんです」
改めて席に座り、柴原は照れ笑いを浮かべながら切り出した。マスターは何か不思議そうな表情を浮かべている。
「何をですか?」
眼鏡を直しながらマスターは尋ねてきた。
本当に「何を仰るのやら?」という表情だったので、柴原は自然な笑顔を見せられた。
「私を受け入れてくれて、こうしてお酒を作ってくれて、元気になれたのも智ちゃんと知り合えたのも、全部ここのお陰だと思うと、何だか嬉しくて……」
言いながら、自分が泣きそうになっていることに気付いた。
なぜだろう。どうしてこんなに胸が一杯なんだろう。これから先も自分はここに来るだろうし、もう少し時間が経てば青木だって来店するだろう。そこでとうとう来月から復職できると話せば、彼もとても喜んでくれるだろう。
こんな時間を与えてくれたこの名も無きバーに心から感謝していた。自分の一年半に及ぶ休職期間は、ここがなければ何も変わらず、もっともっと延びていただろう。そう思うと、感謝の念で胸が熱くなった。
それを聞いたマスターは、珍しく顔をほころばせ、声を上げて笑った。柴原は目に溜まった涙を、ハンカチでそっと拭いた。
「泣かないでください、柴原さん。もう少しで青木さんがいらっしゃいますから、私が怒られてしまいます」
笑顔を崩さずマスターは言った。本当に可笑しくて笑っているというか、まるで娘が元気になっているのを見守っている父親のような優しさを感じた。
(そうだ。この人は私と智ちゃんにとって、第二の父親みたいな人なんだ)
柴原は思った。マスターがいなければ、この店がなければ、自分は青木と絶対に知り合うことはなかった。
そして二人を常に見守り、直接介入してくることはほとんどなくとも、本当に困った時は助けてくれる。だから安心してここに通えるのだと彼女は思った。
青木と喧嘩をした時は「それくらい自分たちで解決しなさい」って感じだったけれど、あれだってマスターなりの優しさなんだろう。
「柴原さん。あなたが元気になったのは、私の力ではありません。青木さんのおかげでしょうし、あなた自身の努力ですよ」
「いいえマスター。あなたがいなければ、私は智ちゃんと知り合えませんでした。智ちゃんが私を支えてくれているのは事実だと思います。だけど、私……」
マスターは、はらはらと涙を流す柴原に、そっとティッシュの箱を渡した。柴原は礼を言ってティッシュを二枚出した。
「柴原さん。私は、しがないバーのマスターに過ぎません。あなた方の保護者でもなければ、親でもありません。あなた方が元気に楽しそうに、幸せそうにしてくれるのなら、それが何よりも嬉しいのです。この小さいバーを経営していて、あなた方と知り合えて、私こそ感謝しているのですよ。どんな形であれ、あなた方の人生に私が何らかの形でお力添えできているなら、それだけで良かったと思うのです。さあ、もうすぐ青木さんがいらっしゃいますよ。涙を拭いて、元気に迎えましょう。休職が解かれることは、まだお話していないのですか? なら、最高のご報告ができますね」
マスターの言葉には裏表がなく、なんて優しい人なんだろうと柴原を泣かせた。
涙を拭き、鼻水をすすり、柴原は少し赤くなった目でマスターを見た。
「笑ってください、柴原さん。あなたには笑顔がお似合いだ」
柴原はてへっと笑った。マスターは笑顔でうんうんと頷いてくれた。
柴原は残っていたルジェカシス・ソーダをグイっと一気に飲んだ。マスターは少し目を開けた。「そんなに一気に飲んで……」と言いたげだったが、お構いなしだった。
「次のを、お願いします」
「かしこまりました」
スプモーニを作り始めるマスター。やはり赤い酒だ。自分は赤い酒ばかり飲んでいる。
でも、青木から話し掛けられた夜。あの時は白ワインだった。なぜ彼が白ワインを選んだのかは分からない。
だけどそれがなければ絶対に、いつか彼が言っていた「お互い常連」のままで、それ以上でもそれ以下でもない関係で、復職するまでの時間だってもっと掛かっていただろう。きっと縁があったんだと柴原は思った。
「どうぞ」
スプモーニが差し出される。一口飲む。堪らない。グレープフルーツの爽やかな味わいが癒してくれる。
マスターは「よく飲みますねえ」なんて表情を浮かべている。良いのだ。私はよく飲むのだ。それはここの雰囲気もそうだし、マスターの作るお酒が大好きだから飲むのだ。柴原はそう納得していた。
やがて、扉を開く気配がした。
「いらっしゃいませ」
「智ちゃん、お帰りなさい」
青木がやってきた。今日はやっと、最高の報告ができる。お弁当を受け渡しする時にだって話せたけれど、何だかここで打ち明ける方が良い気がして黙っていた。始まりの場所であるここで。
その報告ができる。柴原は嬉しかった。ここ一年、こんなにも喜ばしい気持ちでいたことは無かったと思う。
「ああ、ただいま、梨恵。すっかり遅くなっちゃった」
曇る眼鏡をハンカチで拭いて青木は言う。黒いトレンチコートをハンガーに掛ける。
柴原の隣の席に座り、おしぼりで手を拭いて短く「いつもの」と頼んだ。
「智ちゃん。お疲れさま」
「ありがとう。梨恵、どうかしたの? なんかあったのかい?」
何かを感じたのだろうか。普段は鈍感なくせに、こういう時だけは勘が良いんだから……と柴原は心の中で笑った。
ラズール・モヒートが差し出される。一気に半分も飲んでしまう青木。いつもの彼の姿だった。
「智ちゃん、あのね……」
最高の場所で、最高の報告をする瞬間だった。マスターは静かに微笑んでいた。
「いつだって、あなた方を見守っていますよ」
優しい瞳がそう言っていた。




