IF(2)
「あーあ。お兄ちゃんまで回んなかったかあ」
三塁側内野席で両親と応援していた中学三年生のミカはため息をついた。
そんなミカを両親は「まあまあ」と宥める。無理もない。兄であるワタルはこの大会で打率五割台と大活躍を見せており、彼まで回せば得点のチャンスは広がるからだ。
試合は五回表が終わり未だに〇対〇。試合展開は互角だが、応援では北洋高校の方が遥かに圧倒しており、西野高校はブラスバンド部が一生懸命頑張っているが相手の声援に負けている。球場の雰囲気は北洋の勝ちだろう。
五回の裏、北洋の攻撃を迎える。先頭打者をエースのリョウタくんが三振に切って取り、吠える。ミカはロングヘアを靡かせ、キュンとした。リョウタくんは兄の同級生で憧れの人だから、彼が投げる姿を見ているだけでも幸せだった。肝心の兄であるワタルはショートの守備位置に就き、試合の一挙手一投足に集中している。
一死から次の打者が三塁へのゴロを放つ。平凡なゴロに見えたが、兄の親友であるアツヤくんがファンブルしてしまい、一塁がセーフとなった。
「ドンマイ!」
内野席からもはっきり聞こえる声でワタルが言った。アツヤくんに近付き、軽く肩に手を乗せる。いつものアツヤくんがエラーをした後の光景だった。リョウタくんも「気にすんな!」と声を上げているのが分かる。北洋のブラスバンドが盛り上がっている。
リョウタくんがセットポジションで次の打者を迎える。力んでボールが三つ続きカウントを悪くした。結局、四球となってしまい、マウンドに輪ができた。ワタルが何かを言ってナインを笑わせている。アツヤくんもリョウタくんもテツトくんも、一塁のソウタくんも笑っている。きっと捕手のアキラくんも笑っているだろう。
ミカはそんな兄が好きだった。兄は絶対に諦めないし、弱音を吐かない。こういうピンチが来たって、兄がいればきっと守り切れる。そんな気がしていた。
北洋の次の打者は一番の選手だった。左打席に入る。リョウタくんはロジンバッグを触り、セットポジションに入った。初球を投げた瞬間、ライトスタンドへ放物線が消えていった。
ホームランだ……。ミカは言葉を失った。甘く入ったのか?
三塁側の内野スタンドからは、詳しいコースまでは分からない。一塁側の北洋高校の応援団が大歓声を上げ、バッターランナーが小さくガッツポーズしながらダイヤモンドを一周しているのを見て、夏の暑さもあり少し気が遠くなった。
三対〇。五回裏、まだワンアウトだ。かなり苦しくなってしまった。リョウタくんはその後、立ち直って二番打者と三番打者を打ち取った。三番打者の打球は鋭かったが、兄のワタルががっちりと捕球して、一塁に矢のような送球を放ちアウトにして見せた。まだまだこれからだ。その姿勢が言っていた。
試合はそのまま三対〇で七回の攻防を終えた。リョウタは続投していたが百球を超え、明らかに疲労していた。タカシマ監督が「代わるか?」と聞いたが「要りません。俺に投げさせてください」と断っていた。
ワタルは頷いた。そうだ。リョウタで勝ってきたチームなんだ。リョウタの右腕に託すしかない。こんな三点くらい取り返して見せる。そう意気込んでいた。
アツヤから始まった七回表の攻撃も三者凡退となっており、八回の表は九番の二年生外野手のヨシノリからの打順となっていた。ランナーが一人でも出れば自分に回る。ワタルはみんなを集めて円陣を組んだ。
「いいか! 三点なんかすぐ返せる! そうだろ! あと六つもアウトになれるんだから、楽勝だろ!」
「おう!」
「アツヤ! お前、シンノスケの癖を見抜いたんだろ? それを俺らに教えろ!」
「俺か? ……みんな、これは確信を持って言えるわけじゃないことを、肝に銘じておいてくれ。それでも良いな?」
「おう!!」
皆、静かにアツヤの言葉を待った。アツヤだけがシンノスケの癖を見抜いている。事実、先ほどの攻撃で凡退こそしたが、十一球も粘り、明らかに何かを掴んでいる様子だった。
「まずワインドアップから投げる時、シンノスケは変化球なら一塁を一瞬見る。これはワタルが言った通りだ」
アツヤは一旦間を空けた。彼もあまり自信はないようだ。
「セットに入った時、当然シンノスケはサウスポーだから一塁を見ているんだけど、直球なら一塁をホントに一瞬しか見ないんだ。でも変化球の時は、少し長く持つ。本当に僅かな差なんだけど、あいつをセットに立たせたら分かるはずだ。ほんの一瞬だけど、ボールを長く持ってシンノスケは投じてくる。この一瞬で変化球なのかどうかを判断するしかない。あいつのボールは今日は走ってる。攻略するなら何とか塁に出て、シンノスケのセットポジションの癖……つまりボールを長く持つか、すぐに投げてくるかを見極めるんだ。いいな?」
「おうっ!!!」
アツヤの言う癖を全員頭に叩き込んだ。
ヨシノリが緊張した面持ちで右打席に入る。自分が凡退してしまえば、もうチャンスは作れないかもしれない。代打は出されなかったが、それはこのチームの層が薄いからだ。自分に実力があるからではない。そう自覚していた。
「プレイ!」
アンパイアがコールする。シンノスケはすぐにワインドアップから初球を投じてくる。一瞬一塁を見たのを確認した。自信を持って見送った。
「ボール!」
カーブがストライクゾーンからボールへ変わった。もしアツヤやワタルからの助言がなければ、確実にバットが出ているコースだった。だが、見送ることができた。
二球目をシンノスケが投じる。今度は直球だ。一塁を見ずまっすぐこちらを見てきた。これは力んだのか外れてボール。ツーボールナッシングになった。
ヨシノリは一旦打席を外した。ふうっと息を吐いた。心臓がドキドキしているのを感じた。八回表。まだ九回表の攻撃も残しているとはいえ、打順的に最後のチャンスだろう。
そしてシンノスケ攻略の糸口は、アツヤの言う一塁を見るか否か、ここしかない。これを見落としてしまえば自分は絶対に打てない。今は打つことを目的とした打席ではない。出ることだ。何としてもランナーとして出なければならない。そうしないとワタルやアツヤの夏は終わってしまう。
気合を入れ直してヨシノリは打席に入った。三球目をシンノスケが投じる。これも直球だ。
バットが出て三塁線へのファウルになった。危なかった。捕られていればアウトにされていたかもしれない、ギリギリのファウルだった。
ツーボールワンストライク。シンノスケは一瞬、一塁を見た。変化球だ。恐らくスライダーだ。ヨシノリは直感した。確信は持てない。でも、カーブは投げてこない気がした。だから意図的に見送った。
予想通り、ストライクゾーンから内角のボールゾーンに食い込んでくるスライダーだった。
スリーボールワンストライク。シンノスケはそろそろ百球に到達するはずだ。スタミナだって切れてくる頃だから、ここはどっしりと構えた方が良い。ヨシノリはそう考え、五球目は敢えて振らないことに決めた。
シンノスケがワインドアップから五球目を投じる。直球だ。一塁を見なかった。そして、シュルシュルと音を立ててストレートが外角に来た。際どいコースだった。
「ボール!」
四球。考えられる限り最高の仕事ができた。ヨシノリは「よし!」と小さく頷いて一塁へ走った。
続く打者は一番でセンターを守る三年生のダイチだ。ダイチは左打ちだったのでシンノスケにとって投げやすい相手に違いなかったが、ダイチはバントなんて消極的な作戦は絶対に考えなかったし、それはタカシマ監督も同じだったらしい。
「好きに打て」
タカシマ監督のサインはそれだった。
もう打つしかない。打って繋いで次のソウタに回して、彼にバントをさせるなりして、ワタルに繋ぐしかない。ワタルなら何とかしてくれる。あいつなら絶対にこの状況を打破できる。
ダイチは気が楽になっていた。もう打つしかないからだ。一番としてボールを見なければとか、そんなことは考えなくとも良い。打てば良い。打って出塁すればそれで良いのだ。
セットポジションに変わったシンノスケが構える。ほんの一瞬だが、一塁を見た気がした。
(スライダーで来る!)
ダイチはそう読んだ。自分にとっては逃げていくボール……つまりスライダーで、振らせてカウントを稼ごうとしてくるはずだ。
(ならば、こちらは流し打つのみよ)
シンノスケが投じる。読み通りスライダーだ。ダイチはバットに上手く当てて、三遊間を破るヒットを放った。一塁走者のヨシノリは二塁を回ったところでストップした。無死一、二塁。ここで二年生の一塁手・ソウタが左打席に入る。
ソウタは緊張していた。バントのサインが出たが、シンノスケの癖を見抜ける自信がなかった。
シンノスケがセットポジションから初球を投じる。バントの構えを引くがストライク。カーブだった。だが、一塁を見た感じはしなかった。
バントシフトを敷く北洋内野陣。シンノスケは二塁に牽制を送る。
(いや、待てよ……)
ソウタは思った。
(さっき……五回の表、同じようなチャンスでスクイズをアキラさんがやろうとした時、バッテリーは完全に外しに来ていた。今、俺がバントするのだって見え見えだ。バットを寝かせてるし、場面的には次のワタルさんに託すしかないからだ。だけど……)
二球目が来た。高めに浮いてボールだった。ソウタはバットを引いた。
(シンノスケほどの投手が、俺に易々とバントなんてさせるだろうか? バントしてくると分かっている人間を相手に、バントを決めやすいコースになんか、投げてくるだろうか……?)
三球目。これは力んだのかスライダーがワンバウンドになった。そしてソウタは見た。一瞬だったが、シンノスケは確かに一塁を見たのだ。
(これか! このほんの一瞬! アツヤさんが言ってた癖はこいつか!)
四球目が来た。直球だった。今度は確信を持って見送った。内角高め。バットを引き、ストライクだったが、ソウタから力みは消えていた。
(俺がやるべきことはもう決まってる)
五球目。カーブで来る。そう思った。そして一瞬、一塁をシンノスケは見た。
(カーブなら引っ張ってやれ!)
ソウタは思うがままにバスターを決めた。




