北海道弁講座
青木が発寒中央駅の南口からいつものバーへ入ったのは、十一月八日、二十時近くのことであった。
前日に初雪を観測した札幌は冷え込み、この日も雪を観測していて、ぎんなん通りの歩道には薄っすらと雪が積もっていた。
いつもの黒いトレンチコートに濃紺の背広姿、そして六月の誕生日に柴原からもらったブルーのネクタイを締めて、駅を出てすぐの片隅にあるバーに入る。
「いらっしゃいませ。めっきり寒くなりましたね」
眼鏡を掛け、相変わらず細い枯れ木のようなマスターがにこやかに迎えてくれた。曇る眼鏡を青木はハンカチで拭いた。
一番奥の席には柴原が座っていた。亜麻色のロングヘアを輝かせ、グレーのコートを後ろのハンガーに掛け、ブラウンのセーターに黒く細いジーンズを履いていた。
金曜は必ずバーで会うから、駅で待ち合わせはしないようになっていた。そして柴原はいつも先に飲んでいるのだった。
「智ちゃん、お帰りなさい」
まるでここが我が家であるかのように、柴原は青木を迎えてくれた。青木はいそいそとトレンチを脱ぎ、柴原の隣に座った。相変わらず薄暗く、カウンター席が五つしかないバーであるが、何かこの三人が揃うとそう感じられなくなっていた。
物静かなマスターは明るくなっている気がするし、仕事帰りの自分も照らされている気がする。柴原が輝いているのだ。まるで彼女は恒星のようだと青木は思った。
「ああ、ただいま梨恵。すっかり遅くなってしまったよ。マスター、いつものお願いします」
金曜は互いに夕飯を済ましてからバーへ行くようになっていた。
このバーには当然料理のメニューも存在しているそうで、以前一人で通っていた柴原によると、マスターが作る料理は美味しいらしいが、一度も頼んだことがない。
青木はいつも通りラズール・モヒートを注文した。
「今日はどんなお仕事をしてたの?」
柴原が紅潮した頬を浮かべながら聞いてきた。可愛らしかった。
「今日は高取さんと店を作るゲームを作っていたよ。最初は個人商店から始まって、いつかデカいショッピングモールを目指すんだ」
おしぼりで手を拭きながら青木は説明した。
先日企画した高取と一緒に作っているゲームは、経営をよく知らない二人が作っているので、まだまだ形としては出来上がっていないのだが、投資したり買収したり、課金しないと良い品物を準備できなかったり、なかなか嫌らしいゲームになるのは間違いなかった。果たして売れるのかは微妙だが。
「そうなんだ。なんか面白そうね。私にもできるかな?」
柴原の言葉に青木は少し悩んだ。
彼女はゲームが得意ではなさそうだし、高取みたいな意地悪なプレイヤーに店を買収されて、好立地を押さえられずゲームオーバーになってしまうのではないかと思ったからだ。
「結構、難易度が高いゲームになりそうなんだ。課金してなんぼのゲームになるかも」
「ふうん、そうなのね。私には難しいかなあ」
赤い酒を飲みながら柴原は言った。いつも彼女は赤い酒を飲んでいる気がする。そしてそれが何なのか青木には分からなかったし、不思議と聞こうとも思わなかった。
彼女が飲んで美味しいと思うのなら、それで自分も嬉しいと感じていた。
「配信され始めたら一緒に遊んでみようか。マスター……は、スマホをお持ちでなかったですよね」
「ええ、私は携帯電話を持たない主義でして……どうぞ、ラズール・モヒートでございます」
マスターは青木の座るカウンターに青いラズール・モヒートを置いてくれた。グイっと飲む。美味しい。爽やかな味わいが一週間の疲れを癒してくれるようだ。
彼は基本的に二人の会話に介入してこない。挨拶をしたり相槌を打つことはあれど、「あとは二人でお好きにどうぞ」みたいなスタンスを貫いていた。この店らしいマスターだと青木は思っていた。
「智ちゃん」
「うん?」
「昨日さ、ゴミステーションにカラスが沢山いて怖かったの。ゴミ投げするのもゆるくないよね」
柴原の言葉に青木はぷっと噴き出した。
柴原の言っている意味は分かる。ただ、たったこれだけの言葉で、あまりにも方言が入りすぎているからだ。
「なによう」
笑う青木を見て、ぷーっと紅潮した頬を膨らませる柴原。
この子はこういった仕草の一つ一つが可愛いのだが、本人に自覚がないからあざとさを感じさせない。
「梨恵。今、君が言った言葉には三つくらい方言があったんだけど、気付いているかな?」
「え? 三つも? えっと、何だろ。ゆるくないとか?」
「そうだね。ゆるくないは北海道でしか使わないんじゃないかな。楽じゃないとかそういう意味だよね」
うんうんと青木は頷きながらラズール・モヒートを飲んだ。柴原もどこか不満げな顔を浮かべながら赤い酒を飲む。
「僕はふと思ったんだけど、梨恵って札幌の出身だって言ってたよね? それなのにずいぶんと訛ってるような気がするんだ」
「なして?」
「ほら、今も。なして、なんて東京では言わないと思うよ」
青木たちのやり取りにマスターも噴き出した。
「確かに柴原さんは青木さんと比べると、少し北海道弁が強いかもしれませんね」
マスターはにこやかに言った。
柴原はそんなマスターを見、笑う青木を見、何か不安げな表情を浮かべていた。
「私、そんなに訛ってるのかな……そんな、なまら~とか、そういうのは使わない気がするんだけど」
「うん。そういうのはあんまり使わないんだけど、何だろう。言葉の節々が訛っていると言うか……ねえ、マスター?」
青木が同意を求めると、マスターはクスクスと笑いながら頷いた。
柴原はオロオロと二人の様子を見ていた。
「梨恵、さっき三つあるって言った方言だけど、まずゴミステーションって言葉は、北海道と東北の一部くらいでしか使わない。それにゴミを投げるもそうだね。ゴミは捨てる物だね」
「えー! ゴミ投げるって言うじゃない! それにそろそろ寒いからゴミ投げる時も手袋履かないと……」
「ほら今も。手袋は履かないよ。手袋ははめる物だ。北海道では履くで通じるけど、僕は東京に出張した時、手袋を履かないと寒いですねと言ったらきょとんとされたんだ」
青木が言うと、柴原は「そんなバカな……」と言いたげな表情で固まった。
すっかり赤い酒の氷は溶けてしまっている。マスターもニコニコしながらその様子を眺めている。
「おかしい! おかしいよ智ちゃん! 手袋は履くもんだもん! きっと東京の人はあやつけてるんだわ!」
「あやつける……僕もあまり聞かないけど、それも多分方言ですよね、マスター?」
「ええ、そうですね。あやつけると言うのは、格好をつけるといった意味の方言です」
柴原は放心状態のようだった。
たったこれだけのやり取りで、自分がいかに訛っているかを思い知ってしまったようだ。
ラズール・モヒートも飲み干し、次にハイボールを頼み、酒が入った青木はちょっと意地悪な気分になったので、柴原の訛り具合を試してみようと思った。
「梨恵、草が成長することをなんて言う?」
「おがるって言う」
当然でしょ!みたいな調子で言う柴原を見て、ぷっとマスターと青木は同時に噴き出した。
確かに意味は分かる。しかし「おがる」が通用するのは一体どの辺りまでなんだろうか。
「おがる、言うよねえ。おがるって言うけど、これは全然通用しないと思うよ」
「そんな……だってお父さんが、夏は雑草おがって大変だ……とか言ってたのに」
「はは。他にはそうだなあ、猫にじゃれつかれたらどうなる?」
「かっちゃかれるからちょさないもん、私。昔、実家の近くにきかない野良猫がいたから」
青木はクスクスと笑い、マスターですら笑いを堪えきれない様子だった。
かっちゃかれる、ちょさない、きかない。もうこんなのは、北海道民だって忘れかけているような方言である。
かっちゃかれるは引っ掛かれることを指し、ちょす、ちょさないは、無駄に構ったりしないことを指す。きかないは乱暴だったり、気の強い存在を指す方言である。
「最近の季節は体調崩さないようにしなきゃね」
「うん、朝方とかこわいもん、私」
もうこの子はポンポンと方言が出てくるらしい。
こわい。これは漢字で書く「怖い」とは異なる。こわいは身体が怠い、体調が良くない様を指す北海道弁である。
「この時期、梨恵が道を歩いていたとして、氷が張った水溜まりを踏み抜いてしまったらなんて言う?」
「しゃっこいって言うけど……」
柴原は赤い酒を飲み干し赤ワインを飲み始めていた。なんか拗ねているようだった。青木はそんな彼女が愛おしく思えた。
しゃっこい。これは北海道や東北で使われる言葉で、冷たいを指す方言だ。ひゃっこいとも言う。
「じゃあ道路が凍るのは?」
「道路しばれてるねーって言うわ」
しばれる。これはもう有名な方言だが、ただ単に寒いことを「しばれる」とは言わず、道路が凍結……つまり路面凍結となった時にも、「道路がしばれているから気を付けて帰りなさい」などと用いられる方言である。
これは比較的若い世代にも受け入れられている。
「じゃあ鼻血が出たら?」
「つっぺさかう」
マスターが笑った。「懐かしい響きですねえ」なんて言っていた。
つっぺ。これも方言で、ティッシュ等を丸めて鼻の穴に入れて、鼻血や鼻水を止める物だが、標準語でつっぺという名前ではないだろう。それに語尾の「さかう」なんて、完全に訛りである。
普通はつっぺすると言う。
「東京とかはなんて呼ぶ?」
「内地……」
柴原は酔いも回ったのか頬がすっかり赤くなっていたが、少し泣きそうになっていた。
そんな姿が可愛らしく、マスターに見えない角度でそっと頭を撫でた。相変わらずパウダースノーのようなサラサラとした触り心地だった。
内地。もうずいぶん昔から使われている言葉だが、最近の若者でこれを使う人は少ないだろう。内地とは北海道から見た本州を指す。
「一生懸命に頑張ることをなんて言ってた? お母さんでも良いしお父さんでも良いし、梨恵が思うことでも良い」
「はっちゃきこいて頑張ろー!って思うけど……ねえ智ちゃん、今日はなんか意地悪じゃない?」
グイっとワインを飲んで柴原は不機嫌そうに言った。
はっちゃきこく。これも一生懸命頑張るといった意味合いだが、柴原や青木の世代では既に死語に近いだろう。
「今こうやって梨恵にいろいろ質問する僕を見て、どう思う?」
「はんかくさいなって思う」
わははと青木は笑い、ハイボールのお代わりを頼んだ。マスターも肩をゆすって哄笑していた。
はんかくさい。バカげた様を指す方言である。
「梨恵のパソコン、そう言えばまだウィンドウズ7だよね。そろそろ10にしないとサポートが切れちゃうから、僕の家でアップグレードしようか?」
二杯目のハイボールを飲みながら青木が言った。
柴原のラヴィはネットに繋がっていない環境とはいえ、来年一月にはサポートが終了するウィンドウズ7のままである。
オフラインで使い続けるなら問題ないかもしれないが、一応10にした方が良いだろう。
「智ちゃんの家にはネット環境あるの?」
柴原はワインを飲み干して、お代わりを頼んだ。
「うん。無線LANを飛ばしているから、梨恵のラヴィは無線LANを使える機種だった気がするから大丈夫だよ」
「あ、でも私パソコンが使えないと、家でやることないや……智ちゃんのと少しの間ばくりっこするの?」
方言の話から逸れたのに、柴原は自ら方言を発してくれるから青木はツボに入ってしまい、ひーひー言うまで笑った。そんな様子を見た柴原が、再び頬を膨らませる。
ばくりっこ。交換すると言う意味である。
「そんなに時間は掛からないよ。一晩貸してくれればウィンドウズ10にして返すから、大丈夫」
ハイボールを飲みながら青木は言った。すっかり酒が入ってしまった気がする。
「でも私のラヴィは古いから、無理くり入れる形になんない? こったらべっこ大丈夫だよって智ちゃんは言ってくれるけど、なんか悪いな」
柴原は自分のパソコンの心配しているらしいが、それよりも方言が止まらない様が可笑しかった。
こったらべっこ。この程度、ほんの少しなどの多様な使われ方をする方言である。
それにしても柴原がこんなに訛っていると思わず、普段の上品な感じはどこへやら、これではそこら辺のおばちゃん方と会話が通じそうである。
「大丈夫。梨恵のラヴィは性能も良いし、そんなに掛からないよ。任せておいて」
「よかった。ありがとう智ちゃん!」
ニコッと柴原は笑った。
ああ、むくれている顔もめんこいけど、やっぱり笑った顔が一番めんこいなあと青木は思った。
二人はその後、談笑を交わし、二十二時には帰宅となった。
いつものぎんなん通りを北に、柴原の家まで送っていく。
「すっかり寒くなっちゃったね、智ちゃん」
手を繋ぎながら柴原が言う。
本当にその通りだなと青木は思った。
「そうだね。これからどんどん雪が降って、根雪になって、嫌だねえ」
「これからの時期、シャーベットみたいな路面になって、わやになるよね。あれ嫌だなあ」
わや。無茶苦茶な状態を指す方言だ。青木はつい、人気のないことを確認して柴原を抱き締めた。
「智ちゃんなしたの? こんな街中で恥ずかしいよ」
「梨恵。君のハープのような声も美しいけど、訛ってるその言葉もめんこいよ。顔もとっても美人だし大好きだ」
もう、と青木から解放された柴原は少し怒った風な顔を見せたが、それでも口元は微笑んでいた。
やはり自分はこの人を愛している。心の底から愛していると胸を張って言えた。
「智ちゃんの意地悪。でも……私も智ちゃんが好き。帰ろ、智ちゃん」
二人は再び手を繋いだ。柴原の家までいろいろなことを話しながらゆっくり歩いた。
幸せなひと時だった。この幸せがこれから先もずっと続くように、青木は願った。それはきっと柴原も一緒だろうと思った。そうであって欲しいと祈った。
「あ、雪」
柴原が言うと雪が降ってきた。北海道に冬が訪れようとしていた。
青木にとって勝負の季節がやって来るのだ。時間はもうそんなに長くない。
これからの自分の立ち振る舞いで、この子も自分も、人生が大きく変わる。
そういう時期に来ているんだと思い、柴原の手を少し強く掴んだ。柴原は同じく掴み返してきた。
そっと彼女の匂いを嗅いだ。良い香りがした。本当に本当に、自分なんかには勿体ないくらい素敵な女性だと、青木は再確認したのだった。




