わたくしより上ですの?
玲奈が海外の大学へ入学してから、数か月が過ぎた。
講義の進め方にも、大学周辺の街にもすっかり慣れ、エマたちと過ごす時間も増えている。天城ホールディングスとの定例会議や《セレスティア》としての配信は続けていたが、以前のように空いた時間をすべて仕事へ使うことはなくなり、最近では友人との予定が先に入っている日さえ珍しくなかった。
もちろん、大学へ来た最大の目的が学ぶことである点は変わらない。
むしろ玲奈にとって、講義そのものは予想していた以上に面白かった。日本にいた頃も勉強を怠ったことはないが、この大学には世界中から優秀な学生が集まっており、教授から与えられる課題も単純に知識を覚えれば解けるものではない。
複数の資料を読み、仮説を立て、異なる専門分野の知識を組み合わせ、自分なりの結論を導く。答えが一つとは限らず、教授と学生の意見が真っ向から対立することさえあった。
玲奈は、そういう環境を気に入っていた。
その日の講義でも、教授が説明を終えると同時に新しい課題が発表された。
四人一組で仮想企業の新規事業を設計し、市場規模や必要資金、事業開始後の成長率などを予測したうえで、最終的には事業継続の可否まで判断するというものだった。
玲奈たち四人は自然と同じチームになった。
「これ、玲奈の得意分野じゃない?」
配布された資料へ目を通したエマが笑う。玲奈も否定する理由はなく、資料を読み進めながら小さく頷いた。
「そうですわね。少なくとも、何を考えればよいのかは分かりますわ」
「じゃあ玲奈に全部任せれば終わる?」
「それではグループ課題になりませんでしょう?」
エマの冗談へ答えながらも、玲奈の頭の中では既に作業手順が組み上がり始めていた。市場分析、競合調査、価格設定、初期投資、固定費と変動費の分類、顧客獲得費用まで整理し、必要なデータを集めれば形にはできる。
実際の会社で何度も行ってきたことだった。
玲奈はノートを開き、担当を分けようとした。
「まず市場規模を調べて、その後に価格と顧客数の仮定を置きましょう。リアム様には統計処理をお願いして、ソフィア様には――」
「待って」
リアムが玲奈の言葉を遮った。
玲奈が顔を上げると、彼は既に自分の端末へ数字を入力していた。
「市場規模の推定、先にやった方がいい。価格を決めてから需要を当てはめると、今回のデータだと偏る可能性がある」
「ですが、まだ資料を全部確認しておりませんわよ?」
「必要なデータは後ろにある。十二ページから十六ページ」
玲奈は資料をめくり、本当にあった。
しかもリアムの端末には、玲奈がまだ読んでいない数字まで既に入力されている。
「……お早いですわね」
「数字だけ拾ったから」
リアムは何でもないことのように答えると、そのまま計算を続けた。
玲奈もすぐに資料へ戻った。驚きはしたものの、それだけで自分の考えを捨てるつもりはない。リアムが数字を処理している間に市場条件を確認し、需要予測に影響しそうな要素を抜き出していく。
十分ほど経ったところで、玲奈は自分でも簡単なモデルを作り始めた。
そこからさらに十五分。
「できましたわ」
玲奈が画面を見せると、エマが目を丸くした。
「もう?」
「概算ですもの。細部はこれからですわ」
玲奈としては特別速く仕上げたつもりはなかった。事業計画を作る際に似た計算を何度も行ってきたため、必要な数字を当てはめただけである。
しかし隣を見ると、リアムも手を止めていた。
「僕もできた」
「では比較いたしましょう」
二人の端末を並べ比べると、結果は似ていたが同じではない。
玲奈のモデルは実際の事業運営を想定し、初年度の顧客獲得や設備投資をかなり現実的に見積もっている。一方、リアムは複数の成長パターンと需要変動を組み込み、条件ごとの確率まで算出していた。
玲奈はリアムの画面をじっと見た。
「こちらの計算は、どのように?」
「このデータだけだと一つの成長率に固定する根拠が弱いから、分布を置いた。あとは条件ごとに回しただけ」
「だけ、と仰いますけれど……」
玲奈は自分の端末へ同じ条件を入力してみた。理屈は理解できる。計算式も分かるし、時間をかければ同じものを作ることもできる。
だが、リアムはそれを玲奈より遥かに早く作った。
「リアム様」
「何?」
「わたくしより速いですわね」
リアムは一瞬だけ黙り、それから当然だという顔をした。
「統計ならね」
玲奈の眉がわずかに動いた。
エマが二人の顔を交互に見る。
「玲奈、怒った?」
「なぜ怒る必要がございますの?」
玲奈はリアムのモデルへ視線を戻した。悔しくないと言えば嘘になる。自分が先に完成させるつもりだったし、少なくとも同程度にはできると思っていた。
けれど、それ以上に興味が湧いた。
「こちら、あとで作り方を教えていただけませんこと?」
「いいけど」
「ありがとうございます。では統計部分はリアム様にお任せしますわ。その方が速くて正確ですもの」
「切り替え早いね」
エマが笑ったが、玲奈にとっては当然の判断だった。自分より上手い人間がいるのに、意地を張って自分で担当する理由はない。
会社でも同じだった。
直人の方がプログラムに詳しく、東雲の技術者たちは玲奈よりモーターを知っている。ARESの設計を玲奈自身が行わなかったように、大学の課題だからといって何もかも自分で行う必要はなかった。
◇
次に玲奈が驚かされたのは、ソフィアだった。
チームでは仮想サービスの利用者データを扱う簡単なシステムも設計する必要があり、玲奈が仕様を整理している横で、ソフィアが実装作業を始めていた。
玲奈自身にもプログラミングの知識はある。
八歳で配信を始める前から直人に教わり、その後も必要に応じて勉強してきたため、簡単なプログラムなら自分で書ける。
ただし本職の技術者を目指してきたわけではなく、会社でも技術判断の詳細は直人や専門家へ任せている。
それでも学生同士なら、ある程度ついていけると思っていた。
「ソフィア様、この部分でしたら――」
「もうできたよ」
玲奈の言葉が止まった。
ソフィアの画面では、既に必要な処理が動いている。
「……もう?」
「うん。でも雑だから、あとで直す」
玲奈は横から画面を確認した。確かに完成品ではないが、課題で求められている機能の大半は既に実装されている。
コードを追えば、何をしているのかは理解できる。
しかし自分が同じものを書くなら、明らかにもっと時間がかかる。
「こちらは、どのくらいで?」
「十五分くらい?」
「十五分……」
玲奈は時計を確認した。
本当にそれくらいしか経っていない。
ソフィアは玲奈の反応を見て、不思議そうに首を傾げた。
「玲奈もできるでしょ?」
「できますけれど、十五分では無理ですわね」
「じゃあ私の勝ち?」
「ええ。この分野では、間違いなく」
あっさり認めると、今度はソフィアの方が驚いた。
「もっと悔しがると思った」
「悔しくはございますわよ?」
玲奈は笑った。
「ですから、今度教えていただきますわ」
その答えを聞いたソフィアも笑い、分からないところがあればいつでも聞いていいと言ってくれた。
玲奈は素直に礼を言った。
不思議な感覚だった。
高校までの玲奈は、試験で一位になることが当たり前だった。自分より先に問題を解く生徒を見ることはほとんどなく、教師から教わった内容も短期間で吸収できた。
だが、この大学では違う。
世界中から集まった学生たちの中には、一つの分野へ長い時間を費やしてきた者がいる。玲奈が幅広い知識を身につけている間にも、数学だけを追い続けた者や、幼い頃からプログラムを書き続けた者がいた。
追いつけないわけではない。時間をかければ玲奈も伸びるだろう。
けれど、その時間まで含めて考えるなら、自分が何でも一番になる必要はなかった。
◇
課題を始めて二週間ほど経った頃、別の問題が見えてきた。
リアムの統計モデルは優秀だったが、発表資料へそのまま載せるには複雑すぎた。ソフィアが作ったシステムも性能は十分だったものの、技術に詳しくない人間には何が優れているのか伝わりにくい。
一方でエマは専門的な計算や実装では二人に及ばないものの、説明の組み立て方が非常に上手かった。
「これ、全部見せる必要なくない?」
エマはリアムが作った大量のグラフを見ながら、必要なものだけを三つ選んだ。
「教授が知りたいのは計算式じゃなくて、条件が変わったら事業がどうなるかでしょ? だったらこの三つで説明できる」
玲奈は資料を確認し、すぐに頷いた。
「そうですわね。こちらの方が分かりやすいですわ」
さらにソフィアのシステムについても、機能を順番に説明するのではなく、利用者が実際に操作する流れを見せた方が伝わりやすいとエマが提案した。
これも正しい。
玲奈は三人の作業を眺めながら、最初に自分が考えていた計画を思い返した。
市場分析をして、計算して、システムを作り、資料へまとめる。
全部、自分でもできる。
しかし自分一人で行えば、今より時間がかかり、完成度も低かっただろう。
そこで玲奈は、それまで全員が作ってきたものを一度まとめ直した。リアムの統計から事業判断に必要な数字を抜き出し、ソフィアのシステムが顧客体験へどう影響するかを整理し、エマの説明案を事業計画の順番へ組み込んでいく。
四人が別々に作ったものが、一つの事業案へ変わっていった。
「玲奈、こういうの本当に速いよね」
ソフィアが感心したように言った。
「何がですの?」
「私たちが作ったものを繋げるの。さっきまで別々だったのに、もう一つの話になってる」
玲奈は手を止めた。
リアムも画面を見ながら頷いている。
「僕だったら数字をもっと詰める。でも、それだけだと発表にはならない」
「私はコード書いて満足する」
「私は説明だけならできるけど、そもそもの数字は作れないし」
三人の言葉を聞きながら、玲奈は完成しかけた資料を眺めた。
そこでようやく気づいた。
自分がこのチームで一番速く計算できる必要はない。
一番上手くコードを書ける必要もない。
誰が何を得意としていて、その能力をどこへ置けば全体が最も良くなるのかを考える。それは玲奈が会社経営の中で何度も行ってきたことであり、学生同士の課題でも変わらなかった。
「では、わたくしにも得意なことがございましたのね」
「今さら?」
エマが呆れたように笑った。
◇
発表当日、四人は教室の前へ立った。
説明を担当したのはエマで、玲奈は事業計画と質疑応答、リアムは統計モデルについての質問、ソフィアはシステムの実演を受け持った。
発表後、教授からいくつもの質問が飛んだ。
需要予測の根拠を問われればリアムが答え、システムの拡張性について聞かれればソフィアが説明する。事業として本当に継続できるのかと問われたところで、玲奈が前へ出た。
「現在の条件でしたら、初年度から急速に拡大するべきではないと考えております。需要予測の振れ幅が大きいため、最初の一年は対象地域を限定し、実際の顧客獲得費用を確認してから次の投資を判断いたしますわ」
教授はさらに条件を変えた質問を重ねた。
玲奈は一人で答え切ろうとはしなかった。
数字について判断材料が足りなければリアムを見る。技術条件が絡めばソフィアへ確認し、説明方法について迷えばエマの補足を受ける。
四人で一つの発表を終えた。
結果は高評価だったが学年最高点ではなかった。
別のチームが、玲奈たちよりわずかに高い評価を取っていた。
教室を出たところでエマが少し残念そうな顔をする一方、リアムは評価内容を読みながら、どこで点を落としたのか分析している。ソフィアは既に次の課題へ興味が移り始めているようだった。
玲奈は結果を見つめた。
高校までなら、一位を逃したこと自体が珍しい。しかも今回の玲奈は手を抜いていなかった。それでも上がいた。
「玲奈?」
エマに呼ばれ、玲奈は顔を上げた。
「悔しい?」
「もちろんですわ」
玲奈は迷わず答えた。けれど、その表情には笑みが浮かんでいた。
「ですが、とても面白いですわね」
「面白い?」
「ええ。わたくし、ここへ来るまで同年代の方にこれほど何度も驚かされるとは思っておりませんでしたの」
リアムは玲奈より速く数字を扱う。
ソフィアは玲奈より速くプログラムを組む。
そして今回一位だったチームには、自分たちより完成度の高い事業案を作った学生たちがいる。
玲奈は悔しさを感じながらも、それ以上に胸が弾んでいた。追いつきたい相手が同じ大学の中にいくらでもいて、知らない考え方も、まだ身につけていない技術も、自分が理解できていない分野も山ほど残っている。
前世では、できないことを見せるわけにはいかなかった。
王太子の婚約者として、将来の王妃候補として、求められたものは身につけなければならなかった。誰かより劣っていると分かれば、喜ぶより先に不足を埋めることを考えていた。
今は、誰かに命じられて学んでいるわけではない。
負けても国の威信は傷つかず、家の評価が落ちるわけでもない。次に勝ちたいと思えば勉強すればよく、興味があるなら教えてもらえばいい。
「リアム様。先ほどの統計モデル、約束どおり教えていただけます?」
「いいよ。ただ、基礎からやるなら結構時間かかるけど」
「望むところですわ」
玲奈が即答すると、ソフィアが横から自分の分野も教えようかと笑う。玲奈はそちらにも頷いたが、エマから「全部やろうとしてる」と指摘されてしまった。
「興味がございますもの。知ることができるのに、知らないままにする理由がございませんわ」
「また忙しくなるよ?」
「大学へは学びに来ておりますもの。それに、今度はわたくしが教えられることをお返しいたしますわ」
何を教えるのかと尋ねられ、玲奈は少し考えた。会社の買い方ではさすがに用途が限られるため、事業計画の作り方や交渉の考え方なら役に立つだろうと答えると、エマが「十八歳同士の会話じゃない」と笑った。
玲奈も一緒になって笑った。
その日の帰り道、玲奈は一人になってから大学の建物を振り返った。
ここへ来たことは間違っていなかった。
会社を経営しているだけでも、新しいことはいくらでも学べる。日本に残り、東雲精機やネクサリンク、ARESの仕事を続けていても、退屈することはなかっただろう。
けれど、それだけでは出会えなかった人間がここにはいる。
玲奈より速く計算する同年代も、玲奈より上手くコードを書く同年代もいる。さらに、自分とはまったく違う強みを持ちながら、同じ教室で同じ課題へ取り組む学生たちが世界中から集まっている。
彼らに勝つためだけに来たわけではないが、それでも、負ければ悔しい。だから次はもっと上手くやりたいと思える。
その感覚が、玲奈には新鮮だった。
玲奈は鞄から携帯電話を取り出し、予定表を開いた。リアムに統計を教えてもらう日程を入れ、ソフィアとプログラミングを勉強する時間も確保する。その途中で、週末にはエマたちと出かける予定が既に入っていることに気づき、仕事の予定を追加しようとしていた指を止めた。
勉強、仕事、友人とも遊びたい。
全部、自分がやりたいからやることだった。
前世で積み重ねてきた学びとは、そこが決定的に違っている。誰かの妻になるためでも、家の名誉を守るためでも、国を支えるためでもなく、自分が面白いと思ったから知りたいのだ。
玲奈は予定表を眺めながら、自然と口元を緩めた。
世界には、自分より優れた人間がいくらでもいる。
それを知った今日、玲奈が感じていたのは焦りではなかった。次は何を教えてもらおうかという、純粋な楽しみだった。




