大学生らしいことをいたしますわ
友人たちと大学の門を出てから十分ほど歩いたところで、玲奈は一つの事実に気がついた。隣を歩いていたエマへ顔を向け、今さらながら目的地を尋ねる。
「ところで、どちらへ向かっておりますの?」
「今さら? 玲奈が何も確認せずについてきたことの方が驚きなんだけど」
「皆様についてきましたので、行き先を聞いておりませんでしたわ」
信じられないものを見るような顔で玲奈を振り返ったのは、同じ講義をいくつか取っているエマ・カーターだった。明るく人付き合いがよく、大学へ入って一か月もしないうちに学部を問わず大量の知り合いを作っている少女で、玲奈とは性格がかなり違うからこそ一緒にいると面白い。
今日の一行は玲奈を含めて四人だった。エマのほかに、数学と統計を得意とする青年リアム・チェン、情報工学を専攻している少女ソフィア・マルティネスがいる。三人とも入学してから知り合った友人であり、玲奈の会社とは何の関係もない。
「最初は買い物。そのあと夕食。時間があったらゲームセンター。今日は玲奈に普通の十八歳がやることを教える日ね」
「ゲームセンターなら日本にもございますわ。ただ、ほとんど行ったことがありませんの。それに、普通の十八歳という定義には少々疑問がございますけれど」
玲奈が反論すると、リアムが隣から「少なくとも、講義が終わった直後に投資先の財務資料を読むのは普通じゃない」と口を挟んだ。以前、図書館で投資先から届いた報告書を読んでいたことは、いつの間にか友人たちの間で格好の話題になっている。
「皆様、あの一件を随分引っ張りますわね」
玲奈自身としては仕事の連絡を確認しただけなのだが、十八歳の大学生が授業の合間に投資先企業の量産計画を読んでいる光景は、どうやら十分に変わっていたらしい。
もっとも、三人とも玲奈の事情を詳しく知っているわけではない。日本で小さな持株会社を経営しており、いくつかの企業へ投資していることまでは話しているが、東雲精機や《ARES》との関係まで細かく説明したことはなく、三人も必要以上に聞こうとはしなかった。その距離感を玲奈は気に入っていた。
◇
最初に連れていかれたのは、大学から少し離れた商業地区だった。学生向けの衣料品店や雑貨店、飲食店が並んでおり、平日の夕方でも多くの若者で賑わっている。
エマは店を見つけるたびに立ち寄り、ソフィアも気になるものがあれば足を止める。リアムは最初こそ付き合っていたものの、三軒目を過ぎた頃から明らかに疲れた顔をしていた。一方の玲奈は、高級店ではなく学生向けの店を友人と目的もなく見て回るという経験が新鮮で、意外なほど楽しんでいた。
値札を見る必要がないほどの資産を持っている現在でも、玲奈には商品の価格を確認する癖がある。服を手に取れば縫製を見て、雑貨なら材質を確かめ、価格との釣り合いまで考えてしまうため、小さなバッグを眺めていたところをエマに見つかった。
「玲奈、それ買うの?」
「いいえ。今のものがございますもの」
「気に入ったなら買えばいいじゃん」
「気に入ったことと、必要であることは別ですわ」
「会社は買うのに?」
あまりにも素早い反撃に玲奈が言葉を詰まらせると、隣でソフィアが吹き出した。エマはさらに「バッグより会社の方が必要になる十八歳って何?」と追撃し、玲奈は周囲が笑っているのを見て反論を諦める。
結局バッグは買わなかったものの、その少し先にあった文房具店では長く使えそうなノートを数冊購入した。エマから「やっぱり玲奈だ」と言われたが、本人には何が「やはり」なのか分からなかった。
買い物を続けている途中、今度はソフィアが一着の服を持って玲奈のところへやってきた。玲奈が普段自分では選ばないようなカジュアルな服で、派手ではないものの、いつもの落ち着いた装いより少し明るい。
「これ、玲奈に似合いそう。いつも綺麗な服着てるけど、ちょっと真面目すぎるから、大学ではこういうのも着れば?」
「わたくしに、ですの?」
玲奈は服とソフィアを交互に見た。前世では公爵令嬢として相応しいか、王太子の婚約者として問題がないか、相手へどのような印象を与えるかまで考えて装いを決めていたため、衣服もまた役割を果たすための道具だった。
現代へ生まれ変わってからは自分で選べるようになったが、長年染みついた好みまで急に変わるわけではない。ソフィアから試着だけでもと促され、玲奈は少し迷ってから服を受け取った。
数分後に試着室から出ると、最初に親指を立てたのはエマだった。
「いい。すごく大学生っぽい」
「今までも大学生ですわよ?」
「見た目だけなら、若い会社経営者がキャンパスに視察へ来てる感じだった」
「それは褒められておりますの?」
「半分くらい」
玲奈は鏡の中の自分を眺めた。確かに普段とは少し違って見えるが、悪くない。友人が似合うと言ってくれて、自分でも気に入ったのだから、それだけで買う理由として十分なのだろう。
「では、買いますわ。必要だからではございませんけれど、こういうお金の使い方も悪くありませんわね」
玲奈が迷わず服を手に取ると、ソフィアは満足そうに笑った。
◇
買い物を終えた四人は、学生に人気だという店で夕食を取った。高級店ではなく、料理の量が多くて価格も安い。玲奈が普段仕事で使う店とは雰囲気がまるで違い、周囲からは学生たちの笑い声が絶えず聞こえてくる。
エマたちは講義の話から教授の癖、大学内で人気のイベント、休暇中に何をしたいかまで次々と話題を変えていった。玲奈も会社や投資から離れ、誰がどの講義で寝そうになったとか、食堂のどの料理がおいしいとか、普段なら記録にも残さないような話題を楽しんでいた。
途中でリアムが次の数学課題について話し始めると、エマとソフィアから同時に止められた。玲奈も「食事中に課題の話をする方が、わたくしに仕事をするなと仰っていたのでは?」と笑いながら指摘する。
「仕事と課題は違う。課題には締め切りがある」
「仕事にもございますわよ?」
「二人とも同類だから!」
エマがテーブルを軽く叩きながら笑い、リアムまで否定しなかったため、玲奈もそれ以上の反論をやめた。気がつけば食事中、一度も鞄から携帯電話を取り出していなかった。
店を出てからその事実に気づき、玲奈は少しだけ驚いた。数時間程度なら当然のことなのに、これまでなら無意識に一度くらい仕事の連絡を確認していただろう。会社を持つことと、会社に自分の時間をすべて渡すことは違うと頭では理解していたが、今日になってようやく身体でも理解し始めた気がした。
◇
夕食後、四人は予定通りゲームセンターへ向かった。日本とは置かれている機械も雰囲気も少し違い、大型のレースゲームや音楽ゲーム、景品を取る機械などが並ぶ店内を、玲奈は興味深そうに見回した。
「まずこれ!」
エマが玲奈を連れていったのはレースゲームだった。画面の中に並んだ車を眺めた玲奈が「競馬でしたら負けるつもりはございませんけれど、自動車は経験がありませんわ」と答えると、なぜかエマが初心者だと喜んだ。
四人で並んで座り、ゲームが始まる。玲奈は最初のカーブで壁へ突っ込み、立て直した直後にはソフィアの車と接触した。現実でも運転したことがないと玲奈が抗議すれば、「これゲームだから!」と返され、周囲から笑い声が上がる。
しかし二周目からは操作方法を理解し、最終周ではリアムを抜いた。最初の失敗が響いて結果は二位だったものの、順位表示を見た玲奈の目つきが変わる。
「もう一度いたしましょう。操作方法は理解いたしましたから、次は勝てますわ」
「急に目が本気になった。遊びだからね?」
「勝敗が表示される以上、勝つ方が楽しいでしょう?」
再戦すると、今度は玲奈が一位になった。それを見たエマが悔しがって三戦目を要求し、結局五回も遊ぶことになった。
次に向かった音楽ゲームでは、ソフィアが圧倒的に強かった。玲奈もリズム自体は正確に取れるものの、初めて見る操作形式に慣れるまで時間がかかり、難しい譜面では大差をつけられる。
「お上手ですのね。もう一度お願いできます?」
「玲奈、負けると絶対もう一回やるタイプでしょ」
「負けた理由が分からないまま終わる方が気になりますもの」
二度、三度と挑戦するうちに得点差は縮まったが、最後までソフィアには勝てなかった。それでも玲奈は不機嫌になるどころか、画面に表示された得点を見比べながら楽しそうに次の改善点を考えていた。
高校までは勉強で負ける相手がほとんどおらず、会社では自分より優れた専門家がいることなど当然でも、玲奈は彼らを適切な場所へ配置する経営者の立場にいた。ところが今は、同じ十八歳の友人にただゲームで負けているだけで、そこには利益も評価も責任もない。
だからこそ面白かった。悔しければもう一度遊び、勝てなければ相手が上手かったと認めればいい。それ以上の意味を求める必要などなかった。
◇
店を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。四人は大学方面へ戻りながら次の休日について話し、エマは少し遠くまで出かけたいと言い、ソフィアは大学で開かれる学生イベントを候補に挙げた。リアムが博物館を提案すると、すぐにエマから「それは勉強寄り」と却下されている。
「玲奈は? 今日ずっと私たちについてきただけでしょ。次は行きたいところないの?」
突然話を振られ、玲奈は周囲を見渡した。知らない街には、まだ行ったことのない場所がいくらでもある。
「市場へ行ってみたいですわ。現地の方が普段使っているところで、食材でも雑貨でも構いませんけれど、観光客向けではない場所を見てみたいですの」
「商品の値段とか売れ方とか調べるつもりじゃないよね?」
「……純粋に見学いたしますわ」
「今ちょっと間があった!」
玲奈が気のせいだと笑っていると、鞄の中で携帯電話が震えた。仕事の連絡かと思ったものの、画面に表示されていたのは陽菜の名前で、玲奈は三人へ断ってから電話に出る。
『玲奈ちゃん、今大丈夫?』
「ええ。ちょうど友人たちと遊んだ帰りですわ」
電話の向こうが一瞬静かになり、やがて陽菜が驚いたように「玲奈ちゃんが遊んでる」と呟いた。海外へ行っても仕事ばかりしていると思っていたらしく、玲奈が呆れて抗議すると、内容を察したエマたちまで隣で笑い始める。
玲奈は大学のこと、新しくできた友人のこと、今日買った服のことまで陽菜へ話した。会社の近況ではなく、自分自身の近況だけでこれほど話すことがあるのは、玲奈にとっても少し意外だった。
『よかったね、玲奈ちゃん』
陽菜の声を聞いた玲奈は、何がとは聞かなかった。高校を卒業する前から自分を見てきた陽菜が何を喜んでいるのか、聞かなくても分かったからだ。
「ええ。楽しいですわ。思っていたより、ずっと」
通話を終えて三人のところへ戻ると、エマが日本の友達なのかと尋ねてきた。玲奈が高校からの親友だと説明すると、「今度、私たちのことも紹介してよ」と気軽に言われる。
「もちろんですわ。陽菜様もきっと喜ぶと思います」
そう答えたあとで、玲奈は自分の中に生まれた小さな変化に気づいた。高校時代から続く陽菜との友情があり、遠く離れた海外では新しい友人たちと並んで歩いている。二つの場所に大切な人間関係があり、どちらかを選ばなければならないわけでもない。
前世では、どれほど多くの人間に囲まれていても、その大半の関係には立場や役割がついていた。公爵令嬢だから近づく者、王太子の婚約者だから礼を尽くす者、将来の王妃だから関係を築こうとする者がおり、誰かと親しくなることさえ将来の利益や家同士の事情から完全には切り離せなかった。
けれど、今隣を歩いている三人は違う。玲奈が会社を経営しているからでも、金を持っているからでもなく、講義で隣になり、話すようになり、一緒に食事をして、今日は遊びに誘ってくれた。それだけの始まりから関係が続いていることが、玲奈には心地よかった。
大学へ進学したのは学ぶためであり、世界中から集まる優秀な人間と出会いたいとも思っていた。しかし今日得たものは、そのどちらとも少し違う。何の成果も要求されない時間を誰かと楽しむことも、この場所へ来なければ得られなかった経験だった。
「次のお休みは市場、その次は学生イベントですわね。予定へ入れておきますわ」
「待って。遊びまで管理し始めるの?」
「予定は整理しておいた方が便利でしょう?」
エマが呆れながら笑い、ソフィアも隣で肩を震わせた。リアムだけは予定管理そのものには賛成らしく、既に携帯電話を取り出して空いている日程を確認している。
玲奈も笑いながら自分の予定表を開いた。そこには講義や課題、天城ホールディングスの会議、《セレスティア》の配信予定が並んでいるが、その間には以前ならほとんど存在しなかった友人との買い物や学生イベント、市場へ遊びに行く予定まで増え始めている。
それらは会社の利益にはならず、将来への投資と呼ぶ必要もない。ただ楽しいから時間を使い、会いたい人がいるから予定を空ける。それもまた、自分の時間を自分のために使うということなのだろう。
十八歳になってようやく増え始めた予定を眺め、玲奈は満足そうに携帯電話を鞄へ戻した。海外で始まった新しい生活は、会社の規模を大きくするだけの時間にはなりそうになかった。




