セレスティア様がお好きですの?
リアムから統計を教わり、ソフィアとは空き時間にプログラミングを勉強するようになってから、玲奈の大学生活は以前より少し忙しくなった。
それでも高校時代のように仕事ばかりというわけではなく、講義が終わればエマたちと食事へ行き、休日には街へ出かける生活が続いている。
世界中から学生が集まる大学だけあって、友人たちとの雑談も日本にいた頃とは随分違った。母国で流行している音楽や映画の話から、各国の食文化、旅行先、インターネットで流行している動画まで話題は尽きず、玲奈がこれまで触れてこなかった娯楽を教えられることも多い。
その日の午後も、四人は講義を終えて学生食堂へ集まっていた。次の授業まで一時間以上あり、リアムは食事をしながら課題資料を読み、エマは携帯電話を眺め、ソフィアは飲み物を片手に何かの動画を見ている。
玲奈も次の講義資料を開こうとしたところで、ソフィアの携帯電話から聞き覚えのありすぎる声が流れた。
『――ですから、相手の方が何も仰っていないうちから、勝手に嫌われたと決めつける必要はございませんわ』
玲奈は資料へ伸ばしていた手を止めた。何年も使い続けてきた自分自身の声を聞き間違えるはずもなく、ソフィアの画面には銀白色の長い髪と青紫色の瞳を持つ令嬢が映っている。
落ち着いた黒いドレスに銀色の装飾を合わせた、玲奈にとっては見慣れすぎた姿だった。
《セレスティアお嬢様の相談室》の、数日前に配信した回から作られた切り抜き動画である。玲奈は一瞬だけ画面を見つめたものの、すぐに何事もなかったように資料へ視線を戻した。
「ソフィア様は、セレスティア様がお好きですの?」
できる限り自然に尋ねたつもりだったが、ソフィアは予想以上の勢いで顔を上げた。
「玲奈、セレスティア知ってるの!?」
「え、ええ。存じておりますわ」
「見る!?」
携帯電話を差し出され、玲奈はわずかに身体を引いた。自分が数日前に配信した映像を、本人だと知らない友人から勧められるという経験は、さすがの玲奈にも初めてである。
「こちらの動画でしたら、以前に拝見したことがございますわ」
「本当に? 玲奈もファン?」
「ファンと申しますか……かなり詳しい方だとは思いますわ」
嘘ではない。本人なのだから世界中の視聴者の中でも間違いなく最も詳しいのだが、そんな事情を知るはずもないソフィアの表情は一気に明るくなった。
どうやら玲奈がこれまで見たことのない種類の熱量があるらしい。
「私、三年くらい見てる。最初は相談室の切り抜きだったんだけど、話し方が面白くて本配信も見るようになったの。玲奈も見てるならもっと早く言ってよ!」
「その話題になったことがございませんでしたもの」
三年前なら玲奈はまだ日本の高校生だった頃である。画面の向こう側にいた海外視聴者の一人が、数年後には同じ大学へ進学して友人になるなど、当時は想像できるはずもなかった。
エマも興味を持ったらしく、ソフィアの携帯電話を横から覗き込んだ。
「この人が前に言ってた日本のVTuber?」
「そう! でも普通のVTuberとちょっと違うんだよ。ゲームもするけど、相談配信とか雑談が面白いの」
ソフィアはそう言うと、保存していた別の動画まで開き始めた。玲奈は嫌な予感を覚えたものの、ここで急に止めれば不自然になるため、平静を装いながら見守ることにした。
再生されたのは、玲奈が十代前半の頃に行った相談配信だった。
『自分の仕事に価値があると思うのでしたら、安く売ることを美徳になさらないことですわ』
画面の中のセレスティアが堂々と言い切る。現在よりモデルも配信設備も古く、玲奈にとっては懐かしさより先に技術面の粗さが気になってしまうほど昔の映像だった。
「随分昔の動画ですわね」
「これ好きなんだ。私、高校のときに小さいアプリ作って売ろうとしたことがあって、そのとき値段つけるの怖かったんだけど、これ見てちゃんとお金取った」
玲奈は思いがけない話に顔を上げ、改めてソフィアを見た。
「実際に売れましたの?」
「少しだけ。でも初めて自分で作ったものでお金もらえたから嬉しかった。だから、この動画は結構覚えてる」
ソフィアは何気なく話していたが、玲奈にとっては初めて知る出来事だった。
配信した本人にとっては数え切れないほど受けてきた相談の一つであり、どのような相談が届いて何を考えて答えたのかまでは覚えていても、その言葉を受け取った誰かが実際にどう行動したのかまでは分からない。
視聴回数やコメント数、登録者数や収益なら数字として残る。しかし画面の向こうにいる一人が、その後どのような選択をしたのかまで知る機会はほとんどなかった。
「それは、セレスティア様も喜ばれると思いますわ」
「そうかな?」
「ええ、きっと」
本人がそう感じているのだから、その部分だけは自信を持って答えられた。ソフィアは嬉しそうに笑い、また別の動画について話し始めたが、玲奈は先ほど聞いた話をしばらく忘れられなかった。
◇
その日を境に、ソフィアは玲奈の前でも遠慮なくセレスティアの話をするようになった。新しい配信があれば感想を言い、昔の面白い動画を見つければ送ってくる。
エマまで興味を持って何本か見るようになり、時には三人で玲奈本人を目の前にしてセレスティアについて話し始めることもあった。
玲奈にとって最も困るのは、自分自身について評価を求められることだった。ある日の昼休み、エマから突然質問され、玲奈は飲んでいた紅茶のカップを静かに置く。
「玲奈はセレスティアのどこが好き?」
「随分難しい質問をなさいますのね」
「ソフィアは相談室が好きなんだって。私は最近見始めたばっかりだけど、玲奈は前から知ってるんでしょ?」
向かい側ではソフィアまで答えを待っている。自分で自分を褒めるのは奇妙だが、かといって悪く言う理由もないため、玲奈は無難なところを選ぶことにした。
「そうですわね……ご自分の意見をきちんとお持ちになっているところでしょうか」
「玲奈みたい」
エマが即座に言ったため、玲奈は紅茶を飲むふりをしながら視線を逸らした。
「そうでしょうか?」
「話し方もちょっと似てるよね」
今度はソフィアから指摘され、玲奈はカップを持ったまま一瞬だけ動きを止めた。《セレスティア》の口調は設定として作ったものではなく、玲奈自身が自然に使う話し方を基礎にしているため、日本でも親しい人間から似ていると言われる可能性は以前から考えていた。
だからこそ年齢を悟られない発声や音声処理を使い続けている。玲奈は表情を変えずにカップを戻し、冗談として受け流すことにした。
「お嬢様のような話し方をする方が全員同一人物でしたら、大変なことになりますわね」
玲奈が笑って返すと、エマも深く考えることなく納得したらしく、そのまま話題は別の動画へ移った。
玲奈も内心では少しだけ安心したものの、大学で経験したことを配信へ持ち込む際には、これまで以上に情報の扱いへ注意した方がよさそうだと考えた。
◇
その週末、玲奈は自室で《セレスティア》として配信を始めた。大学へ進学してからも配信頻度を大きく落としてはいないが、時差の関係で開始時刻を多少調整する必要があり、日本の視聴者だけでなく海外から見る人も増えているため、現在は複数の時間帯を試している。
配信画面にはいつもの銀白色の髪を持つ令嬢が映り、開始と同時にコメント欄が勢いよく流れ始めた。
『皆様、ごきげんよう。本日もお越しいただき、ありがとうございますわ』
『ごきげんよう!』
『待ってました』
『今日は相談室?』
『最近この時間多いね』
『海外勢には助かる時間』
玲奈は最後のコメントを見て少しだけ警戒した。大学進学に伴って生活環境が変わったことは公表しておらず、配信時間だけで居住地まで特定できるとは考えていないものの、長年見ている視聴者ほど小さな変化には敏感である。
『最近は少々生活時間が変わりまして、この時間も悪くないかと思っておりますの』
『夜型になった?』
『セレス様にも生活リズムという概念が』
『ちゃんと寝て』
『海外移住説』
いきなり出てきた言葉にも表情を変えず、玲奈は想像力が豊かだと軽く笑って受け流した。それ以上は触れず、予定していた相談室へ進めていく。
仕事を辞めて新しい分野へ挑戦したい人、友人との距離感に悩んでいる学生、自分より優秀な同僚と比較して落ち込んでいる社会人など、さまざまな相談が届いていた。その中で玲奈の目が一つの相談へ止まる。
『同じクラスに何をやっても自分よりできる人がいます。頑張っても勝てなくて、自信がなくなりました』
数日前に経験したことが自然と思い出された。リアムの計算速度やソフィアのプログラミング、自分たちより高い評価を取った別チームを知った今なら、以前より実感を持って答えられる気がした。
『その方があなたより優れていることと、あなたに価値がないことは、まったく別のお話ではございませんこと?』
コメントの流れが少し緩やかになり、玲奈は言葉を続けた。
『わたくしでしたら、自分より上手な方がいらっしゃるのであれば、まず教えていただきますわ。せっかく近くに優れた方がいるのに、比較して落ち込むだけではもったいないでしょう?』
そこまで話したところで、玲奈は大学での具体的な経験へ踏み込みそうになっていたことに気づいた。
リアムやソフィアの名前を口にするはずはないが、「最近似た経験をした」と語るだけでも、自分の生活を推測する材料を一つ増やすことになるため、個人的な事情には触れないまま話を一般化して続ける。
『もちろん、悔しいと思うことまでやめる必要はございませんわ。負けて悔しいのでしたら、次は少し近づいてみればよろしいのです。それでも勝てなければ、その方にはその方の得意なものがあると認めればよろしいでしょう』
『セレス様も負けて悔しいことあるの?』
『全部勝ってそう』
『お嬢様にもライバルいる?』
コメントを見た玲奈は思わず笑った。
『ございますわよ。わたくしを何だと思っていらっしゃいますの?』
『万能お嬢様』
『王族』
『異世界の支配者』
『会社3つくらい持ってそう』
最後のコメントにはさすがに笑いそうになった。会社は三つどころではないのだが、もちろん視聴者へ明かせるはずもなく、玲奈は何事もなかったように次の相談へ進める。
『皆様の中のわたくしは、随分大変そうですわね』
◇
翌週、講義が始まる前にソフィアが玲奈の席まで勢いよくやってきた。表情を見るだけでも何の話をしたいのか想像でき、玲奈はノートを開きながら待つことにする。
「玲奈、昨日のセレスティア見た!?」
「ええ、拝見いたしましたわ」
「昨日の相談、すごくよかった。自分より上の人がいるってやつ」
「そうですわね。良いお話だったと思いますわ」
自分で言うと少し妙だったが、ソフィアはまったく気づかず、そのまま昨日の配信について話し続けた。少し離れた席ではエマも聞いており、最近セレスティアの動画を見るようになったらしく自然に会話へ加わってくる。
「でもさ、昨日のセレスティア、なんか実感こもってなかった?」
エマの一言に玲奈の視線が止まった。
「実感、ですの?」
「うん。自分も最近誰かに負けたみたいな感じ」
玲奈は自分が話しすぎた可能性を考えたが、ソフィアはまったく別の方向から答えを出した。
「配信者なんだから、他のVTuberとかじゃない? 登録者とか再生数とか」
「ああ、そっちか」
エマもすぐに納得し、玲奈は表情には出さないまま安心した。昨日は具体的な大学生活について話さず正解だったようで、今後も経験から得た考えだけを配信へ持ち込み、経験そのものは切り離した方がよさそうだった。
その日の講義が始まると話題は自然に消えたが、玲奈にとって大学生活と《セレスティア》としての活動は、以前ほど完全に別の世界ではなくなっていた。
画面の向こう側にいる何百万人もの視聴者にもそれぞれの生活があり、自分の言葉を聞いて笑ったり、何かを始めたり、時には進路を変えたりする人さえいる。
その事実自体は以前から理解していた。しかし、自分のすぐ隣で講義を受け、一緒にゲームをして、自分より遥かに速くコードを書く友人が数年前からセレスティアの言葉を聞いていたことで、数字の向こう側にいた視聴者が一人の人間として玲奈の前へ現れたように感じられた。
同時に、大学で経験したことが玲奈自身の考え方を変え、その変化がセレスティアとして語る言葉にも少しずつ混ざり始めている。
それ自体は悪いことではなく、配信を始めた頃から《セレスティア》は玲奈がその時々で考えていることを語ってきた。企業経営を始めれば仕事に関する答えが変わり、失敗を経験すれば失敗について語れることも増えたのだから、大学生活も同じなのだろう。
ただし、正体を明かすつもりはない。ソフィアたちには大学生の天城玲奈として接し、画面の向こうではVTuberのセレスティアとして話す。
その二つを両立させるために、以前より少し注意が必要になっただけだった。
講義が終わると、ソフィアが玲奈のところへやってきた。手にした携帯電話の画面には、またセレスティアの動画が表示されている。
「玲奈、これも見たことある?」
差し出された画面を確認した玲奈は、思わず目を細めた。映っていたのは八歳で活動を始めて間もない頃の古い配信で、現在よりモデルも簡素なら配信技術も拙い。何より玲奈自身がよく覚えている、初めて百円を受け取った時期に近い映像だった。
「……随分と古いものを見つけましたのね」
「最近、最初の頃から見てるんだ。今と結構違って面白いよ」
「そうですの。以前にも拝見したことがございますけれど、昔の配信を見ると懐かしく感じますわね」
危うく本人としての感想を口にするところだった玲奈は、今回は最初から視聴者として自然な言い方を選んだ。ソフィアも何の疑問も抱かなかったようで、画面を操作しながら昔と現在の違いについて楽しそうに話している。
玲奈はその横で、もう一度だけ古いセレスティアへ視線を向けた。八歳だった自分はまだ会社も持っておらず、東雲精機も御堂もARESも知らない。
自分の力で金を稼ぎたいという理由から配信を始め、初めて受け取った百円を金額以上に大切なものとして喜んでいた。
あれから十年が経った今、遠い国の大学で出会った友人が、その頃の自分の動画を楽しそうに見ている。積み重ねた時間が企業や資産だけではなく、当時は想像もしなかった場所で誰かとの縁まで作っていたことを、玲奈は少し嬉しく感じた。
「次の講義へ参りましょうか。遅れてしまいますわよ」
「待って、あとこの動画だけ玲奈に送る!」
ソフィアから送られてきたのは、当然ながら玲奈自身が出演している昔の動画だった。玲奈はそれを見て小さく笑いながら携帯電話を鞄へしまい、友人と並んで次の教室へ向かう。
大学生として過ごす時間と、セレスティアとして積み重ねてきた十年間。その二つは秘密を挟んで別々に存在しているはずなのに、以前より少しだけ近い場所へ来ていた。




