会社は置いていきますわ
海外大学から合格通知を受け取ってから、玲奈の生活は目に見えて慌ただしくなった。入学に必要な手続きだけなら専門家の助けを借りれば難しくないが、問題は日本に残していく天城ホールディングスと、その傘下や投資先として関わっている企業だった。
もっとも、玲奈は海外へ進学するからといって経営から退くつもりはない。重要な会議にはオンラインで参加できるし、長期休暇や必要な案件があれば日本へ戻ることもできる。問題なのは玲奈が不在になることではなく、玲奈が日本にいなければ判断できない仕事が残っていることだった。
「ですから、出発までにわたくしが毎週確認している仕事を減らしますわ。半年ほど前から進めておりますけれど、もう一段階減らしても問題ないでしょう」
天城ホールディングスの会議室で玲奈が告げると、沙耶香は手元の業務一覧を眺めながら眉を上げた。既に経理や法務、海外事業、各社との調整には担当者が置かれており、玲奈が直接処理する仕事は以前よりかなり少なくなっている。
「また減らすんですか? 代表なのに、そのうち仕事がなくなりますよ」
「それで会社が回るのでしたら、素晴らしいことではございません?」
玲奈が平然と返したため、沙耶香は呆れたように笑った。しかし玲奈にとっては冗談ではない。代表者が忙しそうにしていることと、会社が優れていることには何の関係もないと思っている。
玲奈が担当すべきなのは、大きな投資や買収、新規事業への参入、資本政策、各社の経営に重大な影響を与える判断である。定例報告の数字を確認するためだけに玲奈の許可を待つような組織にはしたくなかった。
「東雲精機については、現在の経営陣へさらに任せます。通常の設備更新や採用まで、わたくしへ確認する必要はございません。ネクサリンクについても同様ですわ。わたくしは株主ではありますけれど、瀬川様の会社なのですから」
「ARES関連はどうします?」
「契約条件や大型投資は確認いたします。ただ、製品の改良までわたくしに聞かれても困りますわ。現場の方々の方が、必要なことをご存じでしょう?」
政府との契約、御堂グループとの製造協力、VGIとの海外展開まで始まったことで、《ARES》は玲奈が一つ一つ判断できる規模ではなくなっている。むしろ玲奈が細部へ口を出せば、専門家の仕事を遅らせる可能性すらあった。
沙耶香は玲奈の方針を業務一覧へ反映させながら、最後に一つだけ確認した。
「じゃあ、玲奈さんが海外へ持っていく仕事は?」
「お金をどこへ使うか決める仕事ですわね。それと、新しく面白い会社を見つけましたら、買うか投資するか考えます」
「そこは手放さないんですね」
「そこまで手放しましたら、わたくしが会社を持っている意味がございませんもの」
玲奈は楽しそうに答え、資料を閉じた。
会社を大きくするために、自分の自由を失うつもりはない。むしろ会社が成長するほど、自分が自由に動ける仕組みを作る必要がある。それができなければ、前世で王家や公爵家のために働き続けた頃と形が違うだけになってしまう。
玲奈が欲しかったのは、忙しさではなかった。
自分で選べる人生だった。
◇
天城ホールディングスの整理と並行して、高校最後の数か月も過ぎていった。
受験を終えた生徒が増えるにつれて、教室の空気は少しずつ柔らかくなっている。三年間使ってきた教室で過ごせる時間が残り少ないことを意識し始め、普段なら気にもしなかった景色を写真に残す者も増えていた。
玲奈も学校では普通に卒業を控えた高校生として過ごしていたが、昼休みに携帯電話を見るとVGIとの契約状況が届いているあたり、完全に普通とは言い難かった。
「玲奈ちゃん、また会社?」
隣で弁当を食べていた陽菜が、呆れたように玲奈の携帯電話を見る。
「報告だけですわ。返信する必要はございません」
「見なくてもいいんじゃない?」
「それは少々気になりますの」
「玲奈ちゃん、仕事減らしたって言ってなかった?」
痛いところを突かれ、玲奈は携帯電話を伏せた。
「……見ることまで仕事には含まれませんわ」
「それ、絶対に仕事を家へ持ち帰る人が言うやつだよ」
陽菜に笑われ、玲奈は反論しかけてやめた。自分でも多少の自覚はある。
任せることは覚えた。
だが、気にならなくなったわけではない。
東雲精機の月次報告が届けば数字を見たくなるし、ネクサリンクの新しい試験結果が届けば内容を確認したくなる。自分が関わって育った会社なのだから、興味を失う方が難しかった。
「ところで陽菜様は、大学へ入ったら何かなさりたいことは決まりました?」
「まだそこまで。サークルも見てみたいし、アルバイトもしてみたいかな。玲奈ちゃんみたいに会社買ったりはしないよ」
「普通は大学生でも会社を買いませんわよ」
「玲奈ちゃんが言う?」
二人で顔を見合わせ、笑った。
玲奈は陽菜と同じ大学へ進むわけではない。国さえ違うため、これまでのように毎日顔を合わせることもなくなる。
それでも、玲奈は寂しさだけを理由に進路を変えようとは思わなかったし、陽菜も引き止めなかった。
「海外行ったら、友達作ってね」
「努力いたしますわ」
「そこは自信満々じゃないんだ」
「人間関係は試験と違いますもの。満点を取れば友人ができます、という仕組みでしたら簡単なのですけれど」
玲奈の返事に陽菜はしばらく笑っていた。
前世の玲奈には、同じ年頃の少女と進路について話しながら昼食を食べる時間などほとんどなかった。友人より先に必要だったのは、王太子妃として付き合うべき相手と、公爵令嬢として維持すべき関係だった。
今は違う。
陽菜と友人でいることに、利益も家同士の事情も必要ない。
海外へ行っても、それまで消えるわけではなかった。
◇
卒業式を一週間後に控えた土曜日、玲奈は修一と二人で競馬場を訪れていた。
六歳の頃に初めて連れてきてもらった場所とは違う競馬場だったが、玲奈にとっては十分に懐かしい。新聞を広げる人々の声や、パドックを歩く馬の蹄の音、レース前になるほど高まっていく観客席のざわめきは、子供の頃からほとんど変わらなかった。
「本当に久しぶりだな。最近は忙しかったからなあ」
「お父様もでしょう? わたくしだけのせいにしないでくださいませ」
「俺は普通の会社員なんだけどな。国と仕事したり海外企業と交渉したりしてないぞ」
「その代わり、わたくしより競馬へ来ておりますでしょう?」
「それは否定しない」
修一は笑いながら競馬新聞を折り畳み、パドックへ向かった。
玲奈も隣を歩く。
子供の頃は、柵の向こうを歩く馬を見るために少し背伸びをしていた。今では普通に見渡せる高さになり、あの頃より馬体の細かな違いまで落ち着いて確認できる。
玲奈は出走馬を一頭ずつ眺めていった。
歩様、筋肉の張り、毛艶、発汗、周囲への反応を確認しながら、自分の中で評価を組み立てていく。前世で身につけた知識が始まりだったものの、現代の競馬を長く見続けたことで、今ではこちらの競走馬についての経験もかなり蓄積されていた。
「どうだ?」
修一が小声で尋ねてくる。
「三番が良く見えますわ。ただ、今日は少々人気になりすぎておりますわね。七番の方が面白いかもしれません」
「じゃあ七番?」
「お父様が決めることですわ。わたくしは馬を見ただけですもの」
「昔からそこだけは徹底してるよなあ」
修一は笑いながら、自分で新聞を確認した。
玲奈は馬券を買わない。
六歳の頃から変わっていない。
父が自分のお金で買い、自分で最後の判断をする。玲奈が提供するのは、馬を見る能力だけだった。
やがて修一は七番を含めて馬券を購入し、二人でレースを見守った。
ゲートが開く。
七番は好位置につけ、最終コーナーまで順調に進んだ。
「お、来てるぞ!」
修一が身を乗り出す。
玲奈も目で追った。
直線へ入ったところで七番が前へ出る。しかし残り二百メートルを切ったところで外から別の馬が伸び、さらに後方から追い込んできた一頭にもかわされた。
結果は三着だった。
修一が肩を落とす。
「惜しい!」
「三着なら十分頑張りましたわ」
「馬券は外れたけどな」
「それはお父様の買い方の問題ではございません?」
「冷たいな!」
玲奈は笑いながら、勝った馬を見た。
予想は外れた。
それでいい。
何年馬を見ても、すべて分かるようにはならない。会社も投資も同じで、どれほど調べても未来を完全に当てることはできなかった。
だから考える。
外れたら理由を調べ、次に生かす。
玲奈はそれを面白いと思えるようになっていた。
次のレースまで時間があったため、二人は売店で飲み物を買い、観客席へ移動した。修一はしばらく競馬新聞を眺めていたが、やがて紙面を畳んで玲奈を見る。
「海外、何年くらいいるんだ?」
「大学を卒業するまでは向こうを拠点にするつもりですわ。ただ、休暇には帰ってまいりますし、仕事で日本へ戻ることもあると思います」
「会社、大丈夫なのか?」
「わたくしが数か月日本にいないだけで壊れる会社でしたら、今のうちに壊れていただいた方がよろしいですわね」
「怖いこと言うなよ」
修一は苦笑したが、玲奈の表情を見て安心したようだった。
娘が海外へ行くことを寂しいとは思っているのだろう。
それでも止めようとはしない。
玲奈が六歳で自分のお金を稼ぎたいと言ったときも、八歳で配信を始めたいと言ったときも、十四歳で会社を買いたいと言い出したときでさえ、最後には玲奈自身の選択を尊重してくれた。
「お父様」
「ん?」
「最初にパソコンを買わせてくださって、ありがとうございました」
修一は一瞬、何を言われたのか分からないような顔をした。
「急にどうした?」
「なんとなくですわ。あれがなければ、随分違う人生になっていたでしょうから」
「買ったの玲奈だろ。自分で稼いだ金で」
「お父様が契約してくださらなければ、稼げませんでしたもの」
修一は少し照れたように頭を掻いた。
「じゃあ、海外で大成功したら俺のおかげってことにしてくれ」
「それとこれとは別問題ですわね」
「今の感動返せよ」
二人は笑いながら、次のレースの出走表を開いた。
玲奈にとって、会社を始めた原点は東雲精機ではない。
VTuberとして活動を始めた八歳でもない。
六歳の少女が父親を相手に、自分の知識へ初めて値段をつけた日だった。
そして十八歳になった今も、その根本は変わっていなかった。
◇
一週間後、卒業式の日を迎えた。
式そのものは、ごく普通の高校の卒業式だった。校長の言葉を聞き、卒業証書を受け取り、三年間を振り返る映像が流れる。会社の代表者であろうと、政府との事業に関わっていようと、この場では玲奈も卒業生の一人にすぎなかった。
式が終わったあとの教室では、担任が最後の話をしている途中から泣き出す生徒がいた。陽菜も目元を赤くしていたが、玲奈は泣かなかった。
寂しくないわけではない。
ただ、終わるというより、次へ進むという感覚の方が強かった。
教室を出たあと、陽菜と校門の近くで写真を撮った。美咲と修一も一緒になり、何枚か撮影したところで、陽菜が玲奈の腕を軽く掴んだ。
「向こう行っても連絡してね」
「もちろんですわ。陽菜様こそ、大学で楽しいことを見つけましたら教えてくださいませ」
「会社の相談とか送ってこないでよ?」
「陽菜様へ会社の相談をしたことはございませんでしょう?」
「たまに難しい話を普通の雑談みたいにするじゃん」
玲奈は否定しようとして、思い当たることがいくつかあったため黙った。
陽菜が笑う。
その笑顔を見ながら、玲奈も笑った。
別れは、以前とは違う。
処刑台で終わった前世では、次などなかった。
今は離れても、また会える。
それだけで十分だった。
◇
卒業から数週間後、玲奈の出国準備はほぼ完了した。
天城ホールディングスでは、玲奈が海外にいることを前提とした運営体制が正式に始まっている。重要案件は玲奈へ上げるが、日常的な経営判断については国内の担当者が処理し、各投資先についても現経営陣の権限を明確にした。
試験的に玲奈が一週間ほとんど指示を出さない期間も設けたが、大きな問題は起きなかった。
むしろ玲奈がいない方が早く決まった案件まであり、その報告を読んだ玲奈は少々複雑な気分になった。
「良いことなのですけれど、少しくらい困ってくださってもよろしかったのではなくて?」
会議室で玲奈がぼやくと、沙耶香は笑いながら資料を回収した。
「玲奈さんが困らないように会社を作った結果ですよ。成功じゃないですか」
「分かっておりますわ」
「海外へ行って三日で細かい指示を送ってきたら怒りますからね」
「善処いたします」
「それ、やる人の返事ですよ」
沙耶香に釘を刺され、玲奈は視線を逸らした。
会社は置いていく。
経営者としての判断まで置いていくわけではないが、会社のすべてを自分の鞄へ詰め込んで海外へ持っていく必要もない。
その日の最後の打ち合わせを終えたところで、海外事業担当者が会議室へ入ってきた。
VGIから新しい連絡が届いていた。
《ARES》の海外展開についてではない。
アレクサンダーから玲奈個人への招待だった。
玲奈が進学する大学からそれほど遠くない場所で、VGIが若手研究者や新興企業を集めた技術交流イベントを開催するという。アレクサンダーは玲奈が渡航することを知り、都合が合えば参加しないかと誘ってきたらしい。
「渡航して早々、お仕事ですか?」
玲奈は呆れながらも、送られてきた参加予定者の資料を開いた。
数ページ読んだところで、その表情が変わる。
大学発の新興企業、若い研究者、ロボット企業、材料開発企業、エネルギー関連の技術者など、玲奈がまだ直接関わったことのない分野の人間が集まる予定だった。
面白そうだった。
それだけで、玲奈にとっては参加を検討する理由になる。
「予定へ入れておいてくださいませ。ただし、大学生活を優先いたしますので、時間が合いましたら伺うとお伝えください」
海外事業担当者が頷き、会議室を出ていった。
沙耶香はその背中を見送ってから、玲奈を見る。
「海外でも仕事減らなそうですね」
「違いますわ」
「何がです?」
「これは、まだ仕事ではございませんもの。面白そうなものを見に行くだけですわ」
「玲奈さんの場合、それが一番危ないんですけど」
沙耶香の言葉に、玲奈は楽しそうに笑った。
かつて一台のパソコンを買うため、自分の知識に初めて値段をつけた少女は、もう日本だけを見てはいなかった。
それでも、世界へ会社を広げること自体が目的になったわけではない。
面白いと思ったものを見る。
欲しいと思ったものを、自分のお金で手に入れる。
才能のある人間には、その価値に見合う対価を支払う。
そして、自分がやりたいと思ったことを、自分で選ぶ。
玲奈が十八歳までに手に入れたものの中で、最も価値があるのは会社でも資産でもなかった。
誰かに決められた道ではなく、自分で次の行き先を選べる自由だった。
数週間後。
天城玲奈を乗せた飛行機は、日本を離れた。
その先には、世界中から集まった学生と研究者、玲奈がまだ知らない技術、そして日本とは桁の違う企業が待っている。
前世で与えられた教育は、王妃になるためのものだった。
今度の学びは違う。
誰かの妻になるためでも、家のためでも、国のためでもない。
玲奈は、自分が学びたいから学ぶ。
そして大学へ到着してから一か月後、アレクサンダーの招待を受けて訪れた技術交流イベントで、玲奈は一人の若い研究者が展示している小さな試作品の前で足を止めることになる。
まだ商品にもなっていないその技術が、天城ホールディングスにとって最初の海外投資案件になるとは、このときの玲奈も知らなかった。




