おいくらで売ればよろしいの?
VGIから届いた提案書を読んだ翌日、玲奈は天城ホールディングスの会議室に沙耶香と海外事業担当者を集めていた。
テーブルの中央には、既に調査済みの資料が並んでいる。
VGIは世界各国で製造業、エネルギー、物流、情報技術へ事業を展開する巨大企業グループだった。単純な売上規模だけを比べれば、天城ホールディングスとは比較すること自体が馬鹿らしくなるほどの差がある。
その最高経営責任者が、アレクサンダー・ヴァルデン。
四十八歳。
創業家の人間ではなく、複数の事業再編と大型買収を成功させて現在の地位まで上り詰めた経営者であり、必要と判断した企業には巨額の資金を投入する一方、採算が合わない事業からの撤退も早い。
玲奈は経歴を最後まで確認すると、資料を閉じた。
「少なくとも、わたくしの年齢だけを見てお話を断るような方ではなさそうですわね」
「むしろ、玲奈さん本人にもかなり興味を持っていると思います。今回の提案書、普通なら担当役員名義でも十分な内容ですよ。それをCEO本人の名前で送ってきていますから」
沙耶香の説明を聞きながら、玲奈は最初の提案書をもう一度開いた。
そこには《ARES》の海外販売だけでなく、東雲精機の小型モーター技術、ネクサリンクの自律移動技術、そして天城ホールディングスによる企業間連携についてまで触れられている。
相手は随分と調べていた。
玲奈が何歳であるかも当然知っているだろう。
問題は、そのうえで何を欲しがっているのかだった。
「オンラインで済ませますか?」
海外事業担当者から尋ねられた玲奈は、少し考えて首を横へ振った。
「いいえ。向こうが最高経営責任者本人のお名前を出してくださったのでしたら、一度直接お会いしましょう。ただし、こちらから出向く必要はございませんわ」
「先方は東京での面談も可能だと伝えてきています」
「でしたら、それでお願いいたします。わざわざ日本までいらしてくださるのですから、お茶くらいはお出しいたしましょう」
相手が世界企業であろうと、玲奈にとって交渉の基本は変わらない。
欲しいものがあるなら、相手から来てもらえばいい。
もっとも今回は、玲奈自身もアレクサンダーという経営者には少なからず興味を持っていた。
御堂征一郎とは違う。
国内企業との長年の関係を重視し、人を見て商売する御堂に対して、アレクサンダーは世界中の企業を数字と戦略の両面から選び、大規模な再編を繰り返してきた人物である。
どちらが正しいという話ではない。
玲奈がまだ知らない経営の方法を持っている可能性が高かった。
◇
二週間後。
アレクサンダー・ヴァルデンは、本当に日本へやって来た。
面談場所はVGI側が利用している都内のホテルでも、御堂グループの施設でもない。玲奈が指定した天城ホールディングスの会議室だった。
午後一時。
予定時刻の少し前に黒い車が到着し、アレクサンダーは数人の同行者とともに建物へ入った。
大柄な男性だった。
仕立ての良いスーツを着ているものの、必要以上に威圧的な雰囲気はない。受付で案内を受けると周囲を観察しながら歩き、会議室へ入ったところで玲奈を見つけた。
ほんの一瞬だけ、その視線が止まった。
資料で年齢を知っていることと、実際に高校生と向かい合うことは、やはり違うらしい。
玲奈は席を立ち、相手を迎えた。
「初めまして、アレクサンダー様。天城玲奈と申します。本日は遠いところまでお越しいただき、ありがとうございます」
「Alexander Valdenです。こちらこそ、ようやく会えましたね、Miss Amagi」
通訳も用意されていたが、交渉では必要に応じて使うことになった。
玲奈は海外大学への進学準備もあり英語を学び続けているものの、巨額の契約条件を扱う場面で自分の語学力を過信するつもりはない。細かな意味の違いが問題になる部分は専門家へ任せる。
双方が席へ着くと、最初にVGI側から訪問目的が説明された。
予想していたとおり、《ARES》を購入したいというだけの話ではなかった。
VGIは災害対応ロボットの海外展開に関心を持っている。それと同時に、《ARES》が開発された過程そのものにも注目していた。
アレクサンダーはテーブルの上に置かれた資料へ手を添えた。
「私たちは最初、《ARES》を開発した会社を調べました。しかし、調べれば調べるほど妙な構造だと分かった。ネクサリンクだけの製品ではない。東雲精機、北辰電池、相馬電子技研、御堂グループまで関わっている」
玲奈は黙って続きを待った。
「普通なら、一つの大企業が内部に揃える機能を、あなたは複数の会社から集めている。しかも、その前には掃除機と家庭用ロボットまで作っている。私はロボットより、こちらの方が興味深かった」
「会社を買い集めるより、必要なときだけ組んだ方が安い場合もございますもの」
玲奈が答えると、アレクサンダーは初めて笑った。
「あなたは企業を所有することには執着しない?」
「必要でしたら買いますわ。必要なければ買いません。それだけです」
東雲精機は買った。
ネクサリンクには出資した。
相馬電子技研とは提携した。
北辰電池は買えなかったが、現在は重要な取引先になっている。
玲奈にとって会社を所有することは目的ではない。
欲しい結果を得るための方法の一つにすぎなかった。
アレクサンダーは、その答えを聞いて満足そうに頷いた。
そして本題へ入った。
VGIが提示した最初の案は、《ARES》の海外販売に関する包括的な提携だった。
VGIが持つ販売網と保守拠点を利用し、欧州だけでなく北米や一部のアジア地域でも販売する。現地法規への対応や販売後の一次保守についても、VGI側が大部分を担う。
条件だけを見れば魅力的だった。
天城ホールディングスが自前で海外拠点を大量に作る必要がなくなる。
しかし、玲奈はすぐには答えなかった。
「独占ですの?」
アレクサンダーの表情が少し変わった。
「希望としては」
「では、その部分は難しいですわね」
玲奈は提示された資料を閉じた。
VGIが販売能力を持っていることは疑っていない。
だからといって、世界市場のほとんどを一社へ預ける必要はなかった。現在交渉している欧州企業との関係もあり、地域によって適切な販売会社が異なる可能性もある。
「VGIが最も優れた販売先なのでしたら、結果として多くの地域をお願いすることはあるでしょう。ただ、最初から他社と取引できない契約を結ぶ理由が、わたくしにはございませんの」
「我々なら、あなた方だけで展開するより遥かに速く市場を取れる」
「ええ。それには価値がございます。ですから、その価値に対してお金をお支払いすることには異論ございませんわ。でも、速いからすべてお任せします、とはなりませんでしょう?」
アレクサンダーは玲奈を見たまま、数秒黙った。
同行しているVGI側の幹部は資料へ目を落としている。
やがてアレクサンダーが笑った。
「御堂征一郎から、あなたについて聞いておくべきだったかもしれない」
「お爺様でしたら、もっと失礼なことを仰ると思いますわ」
「お爺様?」
「本人の前でもそう呼んでおりますので、ご心配なく」
VGI側の一人が笑いを堪えるように口元を動かした。
交渉の空気が少しだけ柔らかくなる。
そこからは、地域ごとの販売権や保守体制について具体的な話へ進んだ。
VGI側も世界独占に固執しているわけではなかった。交渉を有利に始めるための条件として提示した部分もあったらしく、欧州の一部地域を既存交渉先へ残し、それ以外の地域について個別に協議する案が出てきた。
玲奈も、すべてを拒むつもりはない。
VGIの販売網には明確な価値がある。
重要なのは、その価値に見合った条件で利用することだった。
◇
昼過ぎから始まった交渉は、途中で休憩を挟みながら夕方まで続いた。
そして、玲奈が予想していなかった話が出たのは、海外販売について大まかな方向性が見え始めた頃だった。
アレクサンダーが、別の資料を取り出した。
「もう一つ提案があります」
玲奈は新しい資料を受け取り、最初のページを開いた。
数秒後、沙耶香も同じ資料を確認して表情を変えた。
そこに書かれていたのは販売契約ではない。
VGIによる天城ホールディングスへの資本参加案だった。
しかも、少額の出資ではなかった。
最初の提案では一定割合の株式を取得し、VGIの世界的な事業網と天城ホールディングスの投資・開発能力を組み合わせる構想になっている。
さらに、その先の選択肢として記されていたのは――天城ホールディングスそのものの買収だった。
玲奈は最後まで読み終えた。
驚かなかったわけではない。
ただ、嫌悪感もなかった。
会社を買うという行為そのものを否定すれば、自分が東雲精機へ行ったことまで否定することになる。
相手が欲しいと思い、所有者が条件に納得するなら、企業買収は普通の取引である。
問題は金額ではなかった。
玲奈は資料を机へ戻した。
「確認してもよろしいでしょうか。アレクサンダー様は、《ARES》が欲しいのです? それとも天城ホールディングスが欲しいのです?」
「後者です」
返事は早かった。
アレクサンダーは、玲奈ではなく天城ホールディングスという組織そのものに価値があると説明した。
技術力だけなら、VGI内部にも優秀な研究者がいる。
資金力なら比較するまでもない。
製造設備も販売網も、VGIの方が遥かに大きい。
それでも、大企業には大企業の弱点がある。
新しい企業を見つけ、小さな技術を拾い、複数の会社を素早く組み合わせて一つの事業へ変える。その速度について、巨大化したVGIは必ずしも優れていない。
「東雲精機は、我々が通常なら買収対象として検討しない規模でした。ネクサリンクも同じです。しかしあなたは、そこから事業を作った。私は、その判断能力と仕組みに価値を感じています」
玲奈は静かに話を聞いていた。
褒められて悪い気はしない。
そして、アレクサンダーの分析はかなり正確だった。
天城ホールディングスには、VGIに勝る巨大工場も世界的販売網もない。保有する会社の規模も、世界企業から見れば小さい。
玲奈たちの強みは、別のところにある。
面白い技術を見つける。
必要なら買う。
買う必要がなければ投資する。
それすら不要なら提携する。
そして、別の会社の能力と繋げる。
それを繰り返してきた。
「なるほど。つまり、わたくしの会社をVGIの新規事業部門のように使いたいのですね?」
「かなり単純化すれば、そうなります」
「それでしたら、一つ問題がございますわ」
「何でしょう?」
玲奈は少しだけ笑った。
「わたくしが、売りたくありませんの」
アレクサンダーは黙った。
沙耶香は隣で何も言わない。
金額の話は、まだしていない。
それでも玲奈の答えは決まっていた。
「金額を聞く必要はありませんか?」
「ございませんわ」
「非常に大きな金額を提示するつもりです」
「でしょうね。安く買おうとなさる方には見えませんもの」
玲奈は相手を侮っていない。
本気で買収するつもりなら、断るのが惜しくなる金額を提示するはずだ。
だからこそ、聞かない。
「アレクサンダー様。わたくしは、お金が欲しくて会社を経営しているわけではございませんの」
そこまで言ってから、玲奈は少し考え直した。
「いえ、それは少々綺麗に言いすぎましたわね。お金は大好きですわ」
沙耶香が思わず玲奈を見る。
アレクサンダーも笑った。
「ただ、お金は自由を買うための道具ですの。会社を売って大金をいただいた結果、わたくしが好きな会社へ投資し、好きな事業を始める自由まで失うのでしたら、目的と手段が逆になってしまいますわ」
アレクサンダーの表情から笑みが消えた。
今度は、真剣に玲奈を見ている。
「では、あなたはいくら積まれても売らない?」
「今は、ですわ」
玲奈は即座に補足した。
「将来、わたくしが経営に飽きましたら売るかもしれません。そのときVGIが一番良い条件を提示してくだされば、喜んで交渉いたします。でも今は、まだやりたいことがございますの」
絶対に売らないと宣言する必要もない。
人生が変われば、判断も変わる。
今の玲奈にとって重要なのは、自分で会社を経営することだった。
アレクサンダーはしばらく考え、買収提案の資料を閉じた。
「分かりました。では、買収の話はここまでにしましょう」
「随分とあっさりしていますのね」
「買う気のない人間に値段を上げ続けても、時間の無駄です。それより、売る気のないあなたとどう組めば利益になるかを考えた方がいい」
その答えを聞いた瞬間、玲奈の目が少しだけ細くなった。
この人物を気に入った。
少なくとも、断られたことを侮辱だと受け取る人間ではない。
欲しい会社を買えなかったら、次の方法を考える。
どこかで経験した話だった。
「でしたら、わたくしたちも同じですわね」
「何がです?」
「買えない会社とは、組めばよろしいのでしょう?」
今度こそ、アレクサンダーは声を出して笑った。
◇
VGIとの最初の交渉から二か月後。
天城ホールディングスとVGIは、《ARES》の海外展開に関する基本合意を発表した。
世界独占ではない。
地域ごとに販売条件を分け、VGIが強い市場では同社の販売網と保守拠点を利用する。一方、既に交渉が進んでいた欧州企業との関係も維持され、将来的に別の販売会社を選択できる余地も残された。
VGIによる天城ホールディングスの買収提案については、公表されなかった。
必要がないからだ。
玲奈にとって重要なのは、売らなかったことではなく、組める相手と組んだことだった。
VGIとの提携によって、《ARES》の海外展開はそれまでとは比較にならない速度で進み始めた。
ただし、玲奈は海外販売の細部まで自分で管理しなかった。
海外事業担当者がVGI側と実務交渉を行い、瀬川たちは各地域の要求に合わせた技術調整を担当する。御堂グループは製造能力を段階的に拡大し、天城ホールディングスは契約と投資判断を管理した。
玲奈が行うのは、重要な分岐点で判断することだけだった。
会社が大きくなればなるほど、玲奈自身の仕事は細かな作業から遠ざかっていく。
それでいい。
全部自分でやりたいのなら、最初から一人で商売をしていればよかった。
春が近づく頃には、玲奈の高校生活も終わりを迎えようとしていた。
卒業式まで残された日数を数える生徒が増え、教室では進学先や春からの生活について話す声が目立つようになっている。
陽菜も進学先が決まり、以前より表情が明るくなっていた。
「玲奈ちゃん、本当に海外行っちゃうんだね」
放課後の教室で、陽菜が窓際の席へ座ったまま呟いた。
玲奈は鞄へ教科書を入れながら頷いた。
「ええ。合格できましたら、ですけれど」
「そこだけ急に普通の受験生みたいなこと言うんだ」
「受験に絶対はございませんもの。試験を受ける前から合格したつもりになるほど、わたくしも楽天的ではございませんわ」
陽菜は笑いながら、自分の鞄を持ち上げた。
二人で教室を出る。
廊下を歩きながら、玲奈はこの三年間を少しだけ振り返った。
高校へ入学した頃、東雲精機はようやく玲奈が細かく指示を出さなくても動ける会社になり始めたばかりだった。
そこから《Aster One》が生まれ、《Aster Mini》を作り、ネクサリンクへの投資が災害探索ロボットへ繋がった。
政府と仕事をした。
政策について意見まで求められた。
そして今度は、世界企業と同じテーブルで契約条件を話している。
高校生の三年間としては、少々忙しかったかもしれない。
「玲奈ちゃん」
隣を歩いていた陽菜が、不意に呼びかけた。
「なんですの?」
「楽しかった?」
玲奈は足を止めなかった。
少しだけ考えてから、笑った。
「ええ。かなり」
それだけで十分だった。
前世では、どれほど成果を出しても、それが自分のためだったことはほとんどない。
今は違う。
会社を買ったのも、商品を作ったのも、投資をしたのも、海外へ進出するのも、自分で選んだ。
失敗しても、自分で選んだ結果になる。
玲奈が欲しかった自由とは、おそらくそういうものだった。
◇
その日の夜。
玲奈の自宅へ、一通のメールが届いた。
海外大学からだった。
玲奈は自室の机に座り、画面を開いた。
数秒後。
静かに最後まで読み終える。
それから立ち上がり、リビングへ向かった。
美咲はソファで本を読んでおり、修一はテレビで競馬番組を見ていた。
「お父様、お母様。少々よろしいです?」
二人が同時に玲奈を見る。
玲奈は携帯電話の画面を見せた。
「合格いたしましたわ」
最初に反応したのは美咲だった。
すぐに立ち上がり、玲奈のところまで歩いてくる。
「本当に?」
「ええ。先ほど通知が届きましたの」
美咲は画面を確認すると、そのまま玲奈を抱き締めた。
玲奈は少し驚いたものの、抵抗しなかった。
修一もテレビを消し、二人のところへやって来た。
「海外かあ。遠くなるな」
「帰ってこないわけではございませんわ。それに、会社の仕事でも日本へ戻ることはあると思います」
「そういう意味じゃないんだけどな」
修一が苦笑する。
玲奈にも、それくらいは分かっていた。
六歳で初めて父と競馬場へ行き、自分のお金でパソコンを買いたいと言った。
八歳で配信を始めた。
十四歳で会社を買った。
十五歳で高校へ入り、そこから事業は想像していた以上の速度で広がった。
そして十八歳。
今度は、日本を出る。
前世では、生まれた家と王国から離れるという選択肢すら考えたことがなかった。
今は、自分で行き先を決められる。
「玲奈」
修一に呼ばれ、玲奈は父を見た。
「卒業する前に、また競馬場行くか?」
玲奈は少しだけ目を丸くしたあと、笑った。
「もちろんですわ。ただし、お父様のお金でお願いいたします」
「まだそこは変わらないのかよ」
「契約は契約ですもの」
三人の笑い声が、リビングに広がった。
世界企業から巨額の買収を持ちかけられても、政府から意見を求められても、玲奈にとってここは変わらない。
会社は人生の一部だ。
大切ではある。
けれど、人生そのものではない。
そして春。
天城玲奈は高校を卒業する。
次に彼女が向かう場所は、日本の企業でも、政府の会議室でもない。
世界中から才能が集まる、海外の大学だった。




