顔を見せない配信者
自分専用のパソコンを手に入れてから一ヶ月ほどが過ぎた頃、天城玲奈の日常には、それまで存在しなかった新しい時間が加わっていた。
学校から帰宅して宿題を済ませ、その日に読むと決めた本をある程度まで読み終えると、両親と約束した範囲でパソコンを起動する。
最初の頃は調べ物が中心だったが、使い方を覚えるにつれて、玲奈がインターネットで触れる情報の種類は急速に増えていった。
新聞社の記事を読めば、国内だけでなく海外で起きている出来事まで知ることができる。企業のウェブサイトを開けば、どのような商品を作り、どの国で事業を行っているのかまで公開されている。
政府や自治体が公開している資料も興味深かった。前世なら一部の官僚や貴族しか触れられなかったような統計が、現代日本では一般人でも閲覧できる。
人口、物価、産業、貿易、雇用など、探せば驚くほど多くの数字が出てくるため、玲奈は時間を忘れて読み込んでしまうことがあった。
もっとも、七歳の玲奈に全てを理解できるわけではない。専門用語が多すぎて、資料を読むための資料を先に調べるような日も珍しくなかった。
それでも玲奈は、その過程を面倒だとは思わなかった。
知らない言葉を一つ覚えれば、昨日まで理解できなかった文章が少し読めるようになる。
その積み重ねによって世界が広がっていく感覚は、玲奈にとって非常に楽しいものだった。
しかし、インターネットに存在しているものは、学問や仕事に関係する情報だけではない。
むしろ玲奈が最初に驚いたのは、娯楽として公開されている情報量の方だった。
音楽を聴くことができる。漫画を読むことができる。知らない人が遊んでいるゲームの映像を、さらに別の人間が何万人も見ていることさえある。
料理の作り方を紹介する者もいれば、旅行先の景色を映す者もいる。自分の日常について話しているだけの映像に、大勢の視聴者が集まっている場合もあった。
玲奈には、最初それが理解できなかった。
「……他人が食事をしているところを見て、何が面白いのでしょう?」
自室でパソコンの画面を見ながら、玲奈は本気で首を傾げていた。
もちろん、その疑問を誰かへ尋ねたわけではない。
自分で分からないなら、しばらく見てみればいい。
玲奈は興味を持った動画をいくつか再生し、どのようなものに多くの人間が集まっているのかを観察した。
そこで気づいたのは、必ずしも特別な能力を見せる映像だけが人気になるわけではないということだった。
話し方が面白い人間もいる。知識が豊富な人間もいれば、失敗する姿そのものを楽しませている人間もいる。
料理そのものより、料理をしながら話す内容が人気になっている場合もあった。
つまり、見ている側が受け取っている価値は一種類ではない。
知識を得たい人間もいれば、笑いたい人間もいる。寂しい時間を紛らわせたい者もいれば、自分と同じ趣味を持つ人間と交流したい者もいる。
前世で商人について学んだとき、商品には購入者が必要としている価値がなければならないと教えられた。
しかし現代では、物として触れられないものにまで値段がついている。
面白いという感情にも、知りたいという欲求にも、誰かと話したいという気持ちにも価値が生まれる。
玲奈は、その仕組み自体に興味を持った。
ある休日、玲奈は居間でパソコンを使いながら、隣で競馬新聞を読んでいる修一へ尋ねた。
「お父さん、動画を公開している方々は、それを仕事にしている場合もあるのですよね?」
「ああ、人気が出れば広告とかで稼げるらしいぞ。父さんも詳しくは知らないけどな」
「映像を見る人が増えることで、広告を出す企業にも利益があるということですか?」
「大雑把に言えば、そういうことじゃないか?」
修一は新聞から顔を上げ、娘のパソコンを覗き込んだ。
「玲奈も動画見るようになったんだな。何見てるんだ?」
「今は、料理をしながら雑談している方を見ております」
「七歳児の見るものとしては普通だな。父さんちょっと安心したよ」
「その前は、企業買収について解説している動画を見ておりました」
「前言撤回する。やっぱり普通じゃなかった」
修一が何とも言えない顔になったが、玲奈は気にせず画面へ視線を戻した。
企業買収について調べたのは、以前から会社というものに興味があったためであり、今すぐ何かを買収しようと考えているわけではない。
そもそも七歳の自分に買える会社などあるはずもないと、玲奈はこの時点では考えていた。
その後も動画を見ていた玲奈は、画面の横に流れている大量の文字へ目を向けた。
配信者が視聴者から送られた言葉を読み、それに答えている。
録画された映像とは違い、どうやら現在進行形で配信しているらしい。
「お父さん、こちらは今この瞬間に話しているのですか?」
「ライブ配信だな。テレビの生放送みたいなものだよ」
「個人でも、このようなことができるのですね」
「スマホだけで配信してる人もいるんじゃないか?」
玲奈は驚いて画面を見直した。
前世であれば、一人の人間が大勢へ同時に言葉を届けるには、同じ場所へ人々を集める必要があった。
王が国民へ布告を出す場合ですら、各地へ文書を送り、役人が内容を伝えるという手順を踏まなければならない。
ところが今の玲奈が見ている画面では、一人の人間が自宅らしい部屋から話しているだけで、何千人もの視聴者へ同時に声が届いている。
しかも一方通行ではない。
視聴者から送られた言葉を、その場で配信者が読み、それについて話すことまでできる。
距離という制約が、ほとんど存在していなかった。
「……これは、随分と面白い仕組みですわね」
「玲奈も配信してみたいとか言わないよな?」
「まだ、そのようなことは申し上げておりません」
「まだって付けた時点で父さんは嫌な予感がするぞ」
玲奈は返事をせず、ライブ配信というものについて調べ始めた。
配信するために必要な機材は何か。どのようなサービスが存在し、配信者はどのように収益を得ているのか。
広告だけではなく、視聴者が配信者を金銭的に支援する仕組みも存在する。
一定の料金を継続して支払い、特別なサービスを受けられる仕組みまであった。
玲奈が特に興味を持ったのは、視聴者が配信者へ直接お金を送ることができるという点だった。
商品を買うわけではない。
配信を見た人間が、その時間や内容に価値があったと感じ、自分の意思でお金を支払う。
競馬場で父から初めて報酬を受け取ったときとは、また別の仕組みだった。
自分が何かを話す。
その言葉を聞いた誰かが、そこに価値を感じる。
そして、その価値へ自分自身で金額をつける。
玲奈はそれを、非常に興味深い市場だと感じた。
ただし、この時点では自分が配信を始めようと決めたわけではない。
興味を持ったからこそ、まずは知る必要がある。
玲奈は数日かけて様々な配信者を見ていった。
ゲームを遊ぶ者もいれば、歌う者もいる。専門知識を解説する者もいれば、視聴者から送られた相談に答えている者までいた。
その中で、玲奈が一本の配信へ辿り着いたのは偶然だった。
画面に映っていたのは、人間ではなかった。
正確には、人間を模した絵だった。
色鮮やかな髪を持った少女の姿が画面に映り、その口や表情が声に合わせて動いている。
玲奈は数秒間、完全に動きを止めた。
「……何ですの、これは?」
映像を少し巻き戻して確認しても、やはり人間そのものではない。
しかし声は人間のものに聞こえる。
しかも視聴者たちは、その絵を一人の配信者として普通に扱っている。
玲奈はすぐに検索を始めた。
そこで初めて、バーチャルYouTuberという言葉を知った。
人間本人の顔を映す代わりに、架空のキャラクターを画面へ表示し、その姿を通して動画投稿や配信活動を行う。
技術的な方法にはいくつか種類があるらしいが、玲奈にはまだ十分理解できなかった。
重要なのは、本人の容姿や素性を直接公開しなくても、大勢の人間へ言葉を届けられるという点だった。
玲奈は椅子へ深く座り直し、しばらく考えた。
これは面白い。
七歳の自分が顔を出して配信すれば、当然ながら年齢が分かってしまう。
両親が許可するとも思えないし、玲奈自身も本名や顔を世界中へ公開したいとは考えていない。
しかし架空の姿を使えるのであれば、その問題の一部を避けられる。
もちろん声や個人情報の管理など、別の問題はいくらでも残る。
それでも可能性としては非常に興味深かった。
何より玲奈の目を引いたのは、配信者が自分自身とは異なる設定を持って活動していることだった。
魔法使いを名乗る者もいれば、異世界から来たという設定の者もいる。
人間ですらない設定の配信者まで存在する。
玲奈は画面を見ながら、何とも言えない気分になった。
異世界から来たと名乗っている人間を、現代日本の視聴者たちが冗談として受け入れている。
そして本当に別世界から転生してきた自分は、普通の小学生としてランドセルを背負って学校へ通っている。
世の中とは、随分と奇妙なものだった。
玲奈はその日から、VTuberについて重点的に調べるようになった。
どのような配信が人気なのかだけではない。
キャラクターの見せ方、配信頻度、視聴者との距離感、収益の仕組み、炎上と呼ばれる問題、個人情報が特定される危険性まで調べた。
調べれば調べるほど、単純な遊びではないことが分かってくる。
人気を得たいなら、視聴者が見る理由を作らなければならない。
ただ話すだけでも人気になる人間はいるが、それは話そのものに価値があるからだ。
歌が上手い者には歌という価値があり、ゲームが上手い者には技術という価値がある。
ならば、自分には何があるのだろう。
玲奈は初めて、自分自身を商品ではなく、一人の配信者候補として分析してみた。
歌や音楽については前世で教育を受けている。しかし現代の音楽とは大きく異なるため、それだけで武器になるとは限らない。
ゲームについては、ほとんど経験がない。
絵を描くこともできるが、現代の専門家より優れているとは思わない。
一方で、人から相談を受け、それについて考える経験なら大量にあった。
前世では王太子や両親、貴族たちから相談を持ち込まれることが多かった。
領地の問題から人間関係まで、相談内容は様々だった。
現代日本へ来てからも、学校では同級生から勉強について尋ねられることが増えている。
何より玲奈自身、人間が何に困り、どう考えるのかを見ることが嫌いではなかった。
相談を受ける配信なら、少し面白いかもしれない。
そこまで考えた玲奈は、無意識に笑っていた。
やってみたいと思っている。
誰かに命じられたわけではない。
将来のために必要だからでもない。
利益が出る保証など一つもなく、失敗すれば誰にも見てもらえない可能性さえある。
それでも、自分の言葉を知らない人へ届けてみたい。
そして、その言葉にどれほどの価値があるのかを確かめてみたい。
玲奈はその気持ちを、今度は誤魔化さなかった。
「……わたくし、これをやってみたいですわね」
誰もいない自室で、自分自身へ確認するように玲奈はそう口にした。
決めたからには、次に必要なのは実現する方法を調べることだった。
しかし、そこで玲奈は大きな壁へぶつかった。
配信するだけなら、今持っているパソコンでも不可能ではない。
だが玲奈が興味を持ったVTuberとして活動するには、キャラクターの絵を用意し、それを画面上で動かす必要がある。
音声についても問題があった。
七歳の自分が普段の声で話せば、聞いた人間に子供であることが伝わる可能性が高い。
前世で発声法や呼吸法は徹底的に教え込まれていた。
王妃候補として公の場で話す以上、声量や発音、聞き取りやすさ、場面に応じた声の使い方まで教育されている。
今の身体でも訓練すれば、普段とはかなり異なる声を出すことはできるだろう。
しかし、それだけで十分かどうかは実際に試さなければ分からない。
さらに玲奈には、配信に必要な技術的知識が決定的に足りなかった。
説明を読めば、何をする必要があるのかまでは理解できる。
けれど、自分が理解できることと、自分で作れることは全く別だった。
玲奈はその事実を素直に認めた。
前世でも、優れた剣を必要とするからといって自分で鍛冶をしたわけではない。
城を建てる際に必要な条件を判断することはできても、自分一人で石を積んだわけでもない。
できないことがあるなら、できる人間へ頼めばいい。
問題は、誰へ頼むかだった。
両親へ相談することは当然としても、修一も美咲もVTuberの技術に詳しいわけではない。
インターネットで知らない技術者を探し、七歳の自分が直接依頼するなど、両親が許すはずもなかった。
玲奈は椅子にもたれ、腕を組みながら考え込んだ。
そのとき、頭の中に一人の男性が浮かんだ。
競馬場でノート型のパソコンを開き、黒い画面へ大量の文字を表示していた男だった。
名前も知らない。
何をしている人間なのかも分からない。
そもそも本当に技術者なのかさえ、まだ確定していない。
だから玲奈は、すぐにその人物へ頼もうとは考えなかった。
ただし、確認する価値はある。
少なくとも、修一よりパソコンへ詳しそうだったことだけは確かだった。
玲奈は次に父と競馬場へ行く予定の日を思い出しながら、まず両親へ自分がやりたいことを説明するための準備を始めた。
七歳の子供が突然、顔を隠してインターネット配信を始めたいと言ったところで、簡単に許可されるとは思えない。
ならば危険性を調べ、その対策を考え、どの範囲までなら安全に活動できるのかを説明する必要がある。
やりたいからといって、周囲へ無理を押しつけていいわけではない。
自由に何かを選ぶということは、その選択によって生じる問題まで考えることなのだと、玲奈は前世から十分に理解していた。
玲奈は新しい文書を作成すると、最初のページへ自分が両親へ説明すべき内容を書き始めた。
活動目的、必要な機材、個人情報の保護、配信時間、学校生活への影響、費用、そして考えられる危険性と対策まで整理していく。
七歳の娘が趣味を始めるために作る資料としては、明らかに大げさだった。
しかし本人は至って真剣だった。
自分がやりたいことなのだから、自分で相手を納得させる。
誰かが用意した道を歩くのではなく、自分が選んだ道を進むために必要なことなら、その努力を惜しむ理由はなかった。
そして数日後の夕食後、修一と美咲の前には、玲奈が自分で印刷した数枚の資料が置かれることになる。
表紙に書かれていたのは、両親にとって全く予想していなかった言葉だった。
そこには玲奈の新しい挑戦として、顔を公開しない動画配信活動を始めたいという提案が、七歳児とは思えないほど真面目な文章でまとめられていた。
その資料を読み始めた修一は、まだ最初のページだというのに頭を抱え、美咲は娘と資料を何度も見比べることになる。
天城玲奈が自分自身で選んだ二つ目の大きな挑戦は、こうして静かに動き始めようとしていた。




