わたくしは、瀬川様に投資します
秘密保持契約を結んだ翌週、ネクサリンク・ロボティクスから開示された資料は、玲奈が想像していた以上に多かった。
過去三年分の財務資料、月ごとの資金繰り、株主構成、過去の資金調達条件、今後二年間の事業計画、採用計画、製品ごとの原価予測、現在進行中の実証案件と営業候補。それらを玲奈一人で判断することはせず、美咲と相談したうえで、東雲精機の取得時にも関わった外部の会計士と弁護士へ正式に依頼した。
未上場企業への出資は、上場企業の株式を買うのとは違う。
欲しくなった日に市場で売却できるわけではなく、会社が失敗すれば投資した資金の大部分を失う可能性もある。それでも玲奈が最初に確認したのは、失敗した場合の損失額ではなかった。
「この事業計画、少々強気ではございません?」
会計士との打ち合わせで玲奈が指したのは、翌年度以降の販売計画だった。
現在の実証台数と比べ、会社側が想定している販売台数は急激に増えている。
「スタートアップの計画としては珍しくありません。ただし、計画通りになる前提で企業価値を考えるのは危険でしょうね」
「わたくしもそう思います」
玲奈は売上予測をそのまま信じず、現在の契約と実証案件から順番に確認した。
実証導入先は存在する。
金を払って使っている顧客もいる。
その中には追加導入を検討している企業もあった。
一方で、商談中というだけの案件も多く、全てが売上になると考えることはできない。
「こちらは半分以下で見積もりますわ」
「かなり慎重ですね」
「計画を達成できましたら、そのとき喜べばよろしいでしょう?」
玲奈は淡々と数字を書き換えた。
販売台数を抑え、採用時期を遅らせ、量産開始時に原価が想定ほど下がらなかった場合も計算する。
それでも会社がすぐに破綻するわけではない。
ただし、次の資金調達が必要になる時期は会社側の計画より早まる可能性があった。
「やはり、一度お金を出して終わりではございませんわね」
玲奈が呟くと、美咲が横から資料を覗いた。
「次も出すの?」
「決めておりません。ですが、次がある可能性を考えずに最初のお金を出すのは嫌ですもの」
自分が投資したあと、半年後に再び資金不足となり、追加出資するか会社を見捨てるか迫られる。
そんな状況は避けたい。
だから最初から、悪い場合も見る。
その確認に数日を使ったあと、玲奈は瀬川と二度目の正式な面談を行った。
「瀬川様。販売計画について伺います」
「はい」
「来年度、この台数を本当に売れると思っております?」
瀬川は少し黙った。
以前の玲奈なら、沈黙そのものを不安材料として見たかもしれない。
今は、答える前に考える人間なのだと待った。
「目標としては狙っています。でも、確実に売れるとは思ってません」
「では、なぜこの数字を?」
「その規模まで行かないと、今の製品価格を下げにくいからです。部品調達も組み立ても、台数が増えれば条件を変えられる。それを前提に逆算しています」
「願望ではなく、必要な規模ということですのね」
「はい。ただ、それを事業計画に置いたせいで、楽観的に見えるのは分かります」
玲奈は頷いた。
「でしたら、投資家へ見せる資料では分けた方がよろしいと思いますわ。目標と、最低限成立する計画は別ですもの」
「耳が痛いですね」
「痛いうちに直してくださいませ」
「分かりました」
瀬川は言い訳しなかった。
それも玲奈が見ていた部分だった。
次に確認したのは、瀬川自身の仕事だった。
「営業責任者を採用する予定が入っておりますわね」
「はい。今は俺が大口案件をほとんど見てるので」
「採用しましたら、任せられます?」
瀬川が止まった。
玲奈はそこを逃さない。
「採用することと、仕事を渡すことは別ですわよ」
「……分かってます」
「本当に?」
「努力します」
「信用できませんわね」
「そこは信用してくださいよ」
「でしたら、『努力する』ではなく、何を渡すのか決めてくださいませ」
瀬川は苦笑しながら、自分が担当している業務を紙へ書き始めた。
重要顧客への営業、実証導入の判断、採用面接、資金調達、技術レビュー、契約確認、製品方針。
書けば書くほど多い。
「……確かに酷いですね」
「社長が三人必要ですわ」
「まだ言います?」
「改善されるまで申し上げます」
そこで初めて、玲奈は一つ条件を出した。
自分が出資したからといって、日々の経営へ細かく口を出すつもりはない。
しかし定期的な経営報告は欲しい。
重要な資本政策や会社の方向を大きく変える判断については、株主として情報を受け取れる状態にしてほしい。
そして今回の調達資金について、何へいくら使うのかを曖昧にしない。
「経営権が欲しいわけではございません。ただ、お金を出したあと何も分かりません、では困りますもの」
「そこは問題ありません。既存投資家にも報告しています」
「でしたら、その仕組みへわたくしも入れてくださいませ」
瀬川が頷いた。
玲奈はそこでようやく、最後の資料を閉じた。
「分かりました」
「何がです?」
「投資いたします」
瀬川の表情が止まった。
ここまで何度も話してきたのだから可能性は理解していたはずだが、実際に決定を告げられると違うらしい。
「……本当に?」
「ここまで調べて冗談でしたら、わたくしの方が困りますわ」
「いや、そうですけど」
「ただし、瀬川様がお考えになっている企業価値を、そのまま受け入れるつもりはございません」
「ですよね」
「交渉いたしましょう」
玲奈は楽しそうに笑った。
そこから先は、救済ではなく取引だった。
瀬川側には瀬川側の希望がある。
企業価値を高く評価してもらえれば、同じ資金を集めても手放す株式を少なくできる。
玲奈側は逆である。
同じ金額を出すなら、適正な持分を得たい。
だから遠慮はしない。
ただし、相手を追い詰めるつもりもなかった。
「この評価額では、現在の実績に対して将来の成功を織り込みすぎております」
「でも、今の実証案件が本契約になれば――」
「なれば、でしょう?」
「そこは期待値も見てほしいです」
「見ております。そのうえで申し上げていますわ」
玲奈は、自分側で作り直した複数の事業計画を見せた。
会社側の目標を達成した場合。
販売が半分程度に留まった場合。
量産開始が遅れた場合。
採用だけが先行した場合。
そのどれでも、どの程度の資金が必要になるのか。
「成功する未来だけを買うつもりはございません。失敗したときも含めて、今の会社へ値段をつけておりますの」
瀬川は資料を読み、しばらく黙った。
「天城さん、投資家向いてません?」
「褒めても評価額は上がりませんわよ?」
「ですよね」
交渉は一日では終わらなかった。
既存株主との調整も必要になり、玲奈側の弁護士とネクサリンク側の専門家も条件を確認した。
それでも東雲精機の買収ほど時間はかからなかった。
玲奈は経営権を求めていない。
瀬川を社長から外すつもりもない。
欲しいのは、ネクサリンクが成長した場合に正当に利益を得られる持分と、株主として必要な情報を得られる権利だった。
数週間後。
条件がまとまった。
玲奈はネクサリンク・ロボティクスへ、個人としては十分にまとまった額を出資する。
ただし筆頭株主になるほどではない。
瀬川を中心とした経営体制は変えず、既存投資家との均衡も大きく崩さない範囲の持分に留める。
投資額を聞いた修一は、夕食の席で箸を止めた。
「……玲奈」
「はい?」
「お父さん、数字を聞き間違えたかな」
「聞き間違えておりませんわよ」
「東雲買ったよな?」
「買いましたわね」
「まだそんなにあるの?」
玲奈は少し笑った。
「全部使ったとは申し上げておりませんでしょう?」
「いや、聞いてないけど……」
「それに、今回出す分を差し引いても、必要な余力は残しております」
「……そうか」
修一はそれ以上何を言えばいいのか分からなくなったらしく、味噌汁を飲んだ。
美咲が隣で笑っている。
「あなた、玲奈が七歳のときにパソコン代を自分で稼ぐって言った頃から、毎回同じ顔してるわよ」
「いや、パソコンと会社への出資は同じ顔にもなるだろ」
「規模は違いますわね」
「規模どころじゃないんだよ」
玲奈も笑った。
それでも修一は、最後にはいつもの質問をした。
「玲奈が自分で考えて、失っても困らない範囲なんだな?」
「はい。ネクサリンクが失敗して、今回のお金が全て戻らなくても、東雲精機にも、わたくしたちの生活にも影響しません」
「なら、お父さんから言うことはない」
「ありがとうございます」
玲奈はその言葉を素直に受け取った。
修一は経営の専門家ではない。
だが六歳の競馬場から一貫して、自分の判断と責任を玲奈へ教えてくれた人だった。
正式な契約の日。
玲奈は美咲と専門家とともに、ネクサリンクの会議室へ入った。
必要な確認を終え、書類へ署名する。
東雲精機のときとは感覚が違った。
あのときは、会社そのものを引き受けた。
社員の生活も、工場も、顧客も、会社の未来も、自分が所有者として背負うことになった。
今回は違う。
ネクサリンクを経営するのは、これからも瀬川だ。
玲奈はその未来へ資金を出し、株主の一人として結果を受け取る。
「これで、天城さんも株主ですね」
契約を終えた瀬川が言った。
「ええ。ですから、しっかり働いてくださいませ」
「いきなり圧が強いな」
「わたくしのお金が入っておりますもの」
「分かってますよ」
瀬川が苦笑する。
玲奈も笑った。
「ただし、わたくしの顔色を見て会社を経営する必要はございません。瀬川様が作りたい会社を作ってくださいませ」
「いいんですか?」
「その瀬川様へ投資したのですから」
玲奈はそこで少しだけ表情を改めた。
「ですが、失敗を隠すことだけはおやめください。良くない数字ほど早く教えてくださいませ。悪くなってから知るのが、一番困りますもの」
「分かりました」
「それと、営業責任者を採用しましたら、ちゃんと仕事を渡してくださいね?」
「そこまで監視します?」
「三人へ増殖できない以上、必要でしょう?」
「まだ言うんだ……」
契約後、玲奈は開発フロアへも顔を出した。
社員たちはすでに新しい株主が入ることを知らされていたが、それが十四歳の少女だと知ったときには、やはり微妙な空気になった。
玲奈は東雲精機のときのような長い挨拶をしなかった。
「天城玲奈です。このたび、ネクサリンクへ少しだけお金を出すことになりました」
社員たちが玲奈を見る。
「ですが、わたくしがロボットの作り方を教えることはできませんし、皆様の日々のお仕事へ口を出すつもりもございません。わたくしが期待しているのは、皆様が作っているものが、もっと多くの場所で普通に使われるようになることです」
実証先で見た光景を思い出す。
誰もロボットを見ていなかった。
珍しい機械ではなく、そこにあるのが当然の道具になっていた。
「あの状態を、もっと増やしてくださいませ。そのために必要だと思いましたので、わたくしはお金を出しました」
それだけ伝える。
拍手を求めるつもりもない。
社員たちに好かれるための投資でもない。
結果はこれからだった。
出資後、変化は早かった。
ネクサリンクは以前から候補者を探していた営業責任者の採用を進め、量産経験を持つ人材の採用枠も正式に増やした。
東雲精機との次期機体用モーターについても、試作から小規模量産を想定した検討へ移る。
相馬電子技研との制御部分の協力も続いた。
東雲精機、相馬電子技研、ネクサリンク。
三社の関係は、一件の試作から始まり、少しずつ継続的な仕事へ変わり始めていた。
そして玲奈自身も、いつまでも一件一件の試作を眺めているつもりはなかった。
ネクサリンクへの出資を終えた翌月。
東雲精機の月次報告では、新規顧客からの売上が買収直後より明確に増えていた。
特定顧客への依存度も少しずつ下がっている。
利益率も改善した。
新しい設備の導入計画も進み、若手技術者への仕事の移管も始まっている。
玲奈は数字を確認し、ようやく一つの判断をした。
「東雲精機は、最初の立て直しを終えたと考えてよろしそうですわね」
隆一が向かいで頷いた。
「まだ問題はありますけど、天城さんが来る前とはだいぶ違いますね」
「問題がなくなる会社などございませんでしょう?」
「それはそうです」
「でしたら、次へ進みましょう」
隆一が玲奈を見る。
「次?」
「東雲精機を立て直す段階は終わりです」
値付けを直した。
案件ごとの採算を見えるようにした。
営業の入口を広げた。
隆一への依存を減らし始めた。
設備へ投資し、人材へも少しずつ還元している。
これから必要なのは、悪いところを直すだけではない。
会社そのものを成長させることだった。
「今までより大きな仕事を取りに行きますわ」
「営業しないんじゃなかったんですか?」
隆一が笑う。
玲奈も笑った。
「頭を下げて仕事を恵んでいただく営業はいたしません」
そして、机の上に一枚の資料を置いた。
ネクサリンクとは別の企業から届いた、新規案件だった。
これまで東雲精機が扱ってきた案件より、要求数量が一桁多い。
成功すれば、設備投資も人員配置も変えなければならない規模である。
「欲しがってくださる方が現れたのでしたら――今度は、こちらが応える番ですわ」
東雲精機の再建は、終わり始めていた。
ここから先は、天城玲奈が初めて自分の手で会社を大きくする段階だった。




