出せることと、出すことは別ですわ
ネクサリンク・ロボティクスへの出資を検討すると瀬川へ伝えたからといって、玲奈がその場で金額を決めることはなかった。
会社を買う場合でも、一部の株式へ投資する場合でも、お金を出すという点では変わらない。むしろ経営権を取得しない投資では、自分以外の人間へ会社の運営を任せることになるため、玲奈には別の難しさがあるように思えた。
瀬川が優秀な技術者であることは分かり始めている。
仕事上の問題が起きたときに逃げず、自社側の設計に原因があれば認める。東雲精機へ正当な試作費を払い、安さだけを求めて部品会社へ負担を押し付けようともしなかった。
だが、それだけで投資する理由にはならない。
優秀な人間だから会社が成功するとは限らず、良い製品だから利益が出るとも限らない。それは東雲精機を買うまでに、玲奈自身が何度も学んできたことだった。
「ということで、沙耶香さん。お勉強のお時間ですわ」
「どうして玲奈ちゃんが先生みたいな言い方をするのよ」
週末の午後。
天城家のリビングへ呼ばれた橘沙耶香は、テーブルの上に置かれた資料を見て苦笑した。
美咲も同席している。
今回も沙耶香は銀行を代表して来ているわけではない。玲奈が正式に投資を行うなら、契約や税務、株式の条件などについて別途専門家を入れる必要がある。
今日はその前段階だった。
「まず確認するけど、相手から正式に資金調達資料をもらったわけじゃないのよね?」
「まだです。出資を検討しているとお伝えして、瀬川様から話を聞くところまでですわ」
「それなら今は一般論までね。相手の非公開情報を見せてもらうなら、必要に応じて秘密保持契約を結んで、正式な手順に移った方がいい」
「承知しております」
「それと、既存株主がいるなら新しく株式を発行するときの条件も確認が必要。玲奈ちゃんが『このくらい出します』って言って終わる話じゃないからね」
「会社を丸ごと買うより簡単というわけではございませんのね」
「場合によっては面倒よ」
沙耶香はそう答え、玲奈がまとめたネクサリンクの公開情報へ目を通した。
創業三年。
従業員十九人。
自律移動ロボットを開発し、複数の実証導入先を持つ。
すでに外部投資家から資金を調達しているが、次期機体の開発、採用、量産準備、営業体制の強化へ向け、追加の資金調達を進めている。
「玲奈ちゃんは、いくらくらい出すつもりなの?」
沙耶香の質問に、玲奈はすぐ答えなかった。
「まだ決めておりません」
「上限も?」
「わたくしの中ではございます。ただ、それを先に瀬川様へ伝えるつもりはありませんわ」
「そこはちゃんとしてるのね」
「当然です」
玲奈は少し不満そうに答えた。
自分が出せる最大額と、相手へ出すべき金額は違う。
それを混同するつもりはなかった。
沙耶香は一度資料から目を離し、玲奈を見る。
「じゃあ、こっちも確認させてもらうけど。東雲精機を買ったあとに残してある現預金を、全部ネクサリンクへ入れるつもりじゃないでしょうね?」
「いたしませんわよ」
玲奈は即答した。
「東雲精機で必要になる追加投資の余力、わたくし自身の活動に必要なお金、それから何か起きたときにすぐ動かせる資金は、最初から別に考えておりますもの」
沙耶香は数秒黙った。
隣の美咲も娘を見る。
「……十四歳が『何か起きたときにすぐ動かせる資金』を確保してるの、やっぱり変よね」
「お金がなくて選択肢を失うのは嫌ですもの」
玲奈にとっては、それだけの話だった。
お金は使うためにある。
だが、持っている金を全て使うことと、有効に使うことは同じではない。
前世の公爵家でも、領地経営において手元資金を失うことがどれほど危険なのかは学んでいた。現代ではそこへ企業経営、投資、金融について学んだ知識が加わっている。
まして玲奈には、東雲精機だけがあるわけではない。
六歳の競馬で作った最初の資金は、七歳で自分のパソコンを購入し、その後の活動へ繋がった。
八歳から始めたセレスティアとしての活動は、最初の百円から始まり、十万人、二十万人、四十万人と視聴者を増やすにつれて、収益の規模も大きくなった。
十四歳となった現在、登録者は百万人を超えている。
広告収益だけではない。
配信による収益、案件、継続的な活動から生まれる複数の収入があり、その全てを玲奈が使い切ることもなかった。
必要な機材には金を使う。
直人をはじめ、自分にはできない仕事を依頼する相手には正当な報酬を払う。
それでも残った資金は、現金のまま眠らせる部分と、学びながら運用する部分に分けてきた。
十二歳から始めた株式への投資も、今では二年以上続いている。
当然ながら全ての投資で利益が出たわけではない。
予想に反して株価が下がった会社もあり、玲奈自身が企業を見る目の未熟さを知ったことも何度もある。
それでもセレスティアという継続的な収入源を持ち、生活費の大部分を両親が負担している十四歳の玲奈は、大人の事業家とは大きく異なる条件で資産を積み上げることができた。
そして東雲精機を取得するときにも、玲奈は自分の持つ資金を全て使ったわけではない。
会社を買うための金。
取得後に設備を改善するための金。
東雲精機自身が持つ運転資金。
そして玲奈側に残しておく資金。
それらを区別したうえで、取得できる条件だったから買った。
「東雲を買ったあとでも、かなり残したものね」
美咲が言う。
「全部使ってしまいましたら、買った翌日に何か起きたとき困りますもの」
「それはそうなんだけど……」
「お母様?」
「娘が十四歳なのを忘れそうになるだけ」
「ちゃんと中学生ですわよ」
「知ってます」
美咲は笑った。
沙耶香は二人のやり取りを聞きながら、玲奈が現在投資へ回せる範囲について確認した。
正確な総資産額を口にする必要はない。
重要なのは、今回の投資候補へ資金を出した場合でも、玲奈自身や東雲精機の安全性を損なわないことだった。
「……なるほどね」
確認を終えた沙耶香が資料を置く。
「東雲用に確保している分と、玲奈ちゃんが絶対に残すと決めてる分を除いても、ネクサリンクへの出資を検討する余力は十分あるわね」
「ですから申し上げたでしょう?」
「疑ってたわけじゃないのよ。ただ、出せるからって出していいわけじゃないから確認しただけ」
「そこは同意いたします」
玲奈は頷いた。
「今回の問題は、お金を出せるかどうかではございません」
「じゃあ?」
「出す価値があるか、ですわ」
玲奈が欲しいのは、投資したという実績ではない。
瀬川を助けてあげたいからでもない。
ネクサリンクの資金が足りないからといって、それだけで玲奈が補う理由にはならなかった。
資金を出す以上、そのお金が会社の価値を高め、将来的に玲奈側へも利益を返す可能性がなければならない。
「では、次に見るべきものは何だと思う?」
沙耶香が尋ねた。
玲奈は少し考える。
「まず、現在の企業価値をどのように考えているのか。それから、今回いくら調達して、その資金を何へ使うのかですわね」
「うん」
「既存株主が誰で、どの程度持っているのか。瀬川様自身がどれだけ株式を持っているのかも気になります」
「大事ね」
「それから、今回の資金を使ったあと、次にいつ資金が必要になるのかも知りたいです。今回のお金で半年しか延命できないのでしたら、意味が違ってまいりますもの」
沙耶香が少し笑った。
「かなり投資家っぽくなってきたじゃない」
「二年以上お勉強しておりますもの」
「株式市場で少額投資するのと、未上場企業へ直接出資するのは別物だけどね」
「ですから教えていただいておりますのよ」
「はいはい」
玲奈はさらに質問を書き出した。
現在の月間支出。
手元資金。
採用計画。
量産へ必要な設備や外注費。
現在の顧客候補。
実証導入から本契約へ進んだ割合。
一台販売した場合の粗利益。
保守費用。
故障した場合の対応体制。
そして、瀬川が会社の中で何を手放すつもりなのか。
「最後だけ、少し種類が違うわね」
沙耶香が気づいた。
「瀬川様へ仕事が集まりすぎておりますから」
「お金を入れて社員を増やしても、全部瀬川さんが判断するなら限界が来る?」
「はい。三十人に増やす予定なのに、十九人の今でも瀬川様が三人必要そうでしたもの」
沙耶香が吹き出した。
「本人に言ったの?」
「申し上げました」
「玲奈ちゃん……」
「ご本人も同意されましたわよ?」
「それならいいけど」
玲奈は真剣だった。
資金不足は金を入れれば改善できる。
人手不足も、採用する金があればある程度は改善できる。
しかし会社の判断が一人へ集中する問題は、金だけでは解決しない。
むしろ人数だけ増やせば、瀬川へ届く質問まで増える可能性がある。
「わたくしが投資することで、ネクサリンクが成長できるのか。それとも単に問題を先送りするだけなのか。そこは知っておきたいですわ」
沙耶香は玲奈を見て、ゆっくり頷いた。
「だったら、瀬川さんに正式な資料を出してもらうところからね」
「はい」
その日の夜。
玲奈はセレスティアとしての配信を行った。
画面の向こうには、いつものように大勢の視聴者がいる。
『ごきげんよう、皆様。本日もお越しいただきありがとうございますわ』
八歳で始めた頃とは、何もかも違っていた。
当時は直人と二人で、一人でも見てくれる人がいるのかと画面を眺めていた。
初めてもらった百円を、金額ではないと言った。
その百円は今でも記録に残している。
六年。
積み上げてきた時間は、数字へ変わっていた。
百万人を超える登録者。
継続して配信を見てくれる人々。
そして活動から得られる収入。
だが玲奈にとって最も大きかったのは、金額そのものではない。
六年間続けたことで、自分の選択肢が増えたことだった。
七歳の玲奈には、パソコン一台を自分のお金で買うことが大きな目標だった。
今の玲奈は、会社を一つ買ったあとでも、新しい会社へ投資することを検討できる。
それは突然大金を手に入れた結果ではない。
競馬で得た最初の資金を使い、パソコンを買い、セレスティアを始め、収益を貯め、学びながら運用し、必要なところへ使い、それでも全てを使い切らなかった。
一つ一つは繋がっている。
配信を終えたあと、玲奈はセレスティアとしての収益管理画面を閉じ、ネクサリンクの資料へ切り替えた。
数字を見ながら、少しだけ笑う。
「出せますわね」
問題なく出せる。
ただし、その事実は投資を決める理由にはならない。
「だからこそ、慎重に決めませんと」
お金を持っているから使うのではない。
使う価値がある場所を選ぶために、お金を持っている。
それが玲奈の考えだった。
数日後。
瀬川から正式な返事が届いた。
ネクサリンク側の既存株主とも相談し、玲奈を新たな出資候補の一人として正式に迎える用意があるという。
必要な秘密保持契約を締結したうえで、資金調達計画、事業計画、株主構成、過去の財務資料、今後の採用計画などを開示する。
玲奈はその連絡を読み、すぐに返事をすることはしなかった。
まず美咲へ見せる。
次に、必要となる専門家を確認する。
未成年である自分が直接関わる以上、東雲精機の取得時と同じように、手続きを曖昧にはしない。
そして準備を整えてから、瀬川へ正式に返答した。
「では、拝見いたしますわ」
ここから先は、お客様としてネクサリンクを見るのではない。
未来の株主候補として、会社の内側を見る。
玲奈には投資できるお金があった。
だからこそ、次に問うべきものは一つしかない。
――そのお金を、瀬川拓海とネクサリンク・ロボティクスへ預ける価値が、本当にあるのか。
玲奈にとって初めてとなる未上場企業への直接出資の検討が、本格的に始まった。




