買わなくても、組めますわ
北辰電池の買収競争が終わってから一か月ほどが過ぎても、東雲精機の日常に大きな変化はなかった。玲奈が会社を一つ買えなかったからといって、工場の機械が止まるわけでも、すでに受注している仕事が消えるわけでもない。
玲奈自身も、北辰電池について考え続けることはしなかった。買収過程で得た反省点はノートへ残し、今後の企業調査へ使える確認項目も整理した。そこまで終えれば、取得できなかった会社へいつまでも執着する理由はない。
むしろ玲奈が気にしていたのは、東雲精機へ届く問い合わせの内容が少しずつ変わっていることだった。
ウェブサイトを作り直し、会社が対応できる技術を具体的に示すようになってから、以前なら東雲精機へ辿り着かなかった企業から相談が来るようになった。小型電動工具、検査装置、ドローン、搬送機器、小型ロボットなど、用途も以前より広がっている。
もちろん、問い合わせの全てが契約になるわけではない。希望価格が低すぎる案件もあれば、要求仕様が東雲精機の設備では実現できないものもあり、量産規模が大きすぎて最初から他社へ依頼した方が合理的な場合もあった。
玲奈は問い合わせ件数だけを見て喜ぶことはしなかった。
「増えたこと自体は良いことですけれど、問題はどの仕事を受けるかですわね。工場の時間には限りがございますもの」
土曜日の午後、玲奈は東雲精機の会議室で新規案件の一覧を見ていた。向かいには隆一と営業責任者、それに最近では新規案件の打ち合わせへ参加することが増えた若手技術者も座っている。
買収直後と比べれば、会議の雰囲気も少し変わった。
以前なら隆一が判断し、他の社員がそれを確認する形になりやすかった。しかし現在は、担当者が自分の案件について採算や技術上の課題を説明し、そのうえで会社として受けるべきか相談する形へ移り始めている。
「このドローン会社からの案件、前にもありましたわよね?」
玲奈が資料の一つを指すと、若手技術者が頷いた。
「はい。前回は試作機用の小型モーターでした。今回は次の機体向けで、少し要求が変わっています」
「継続して相談してくださっているのなら、最初の仕事には一定の評価をいただけたと考えてよろしいです?」
「先方からは、対応が早かったとは言ってもらえました。ただ、今回はモーターだけじゃなくて駆動部分全体について相談したいみたいです」
玲奈の視線が止まった。
「全体?」
「モーターの選定だけじゃなく、制御や電源まで含めて小型化できないか、という話です。うちだけでは全部できません」
そこで隆一が資料を引き寄せた。
「モーターについては対応できる。ただ、電源制御は専門外ですね。制御回路についても、全く分からないわけではないですが、製品として責任を持って出せるほどじゃない」
「北辰電池があれば、というお話です?」
玲奈が尋ねると、隆一は少し困ったように笑った。
「まあ、組み合わせとしては分かりやすかったでしょうね」
北辰電池を取得していれば、社内グループだけで相談できたかもしれない。
しかし北辰電池は御堂グループを選んだ。
それはもう変わらない。
玲奈は数秒だけ考えたあと、資料へ視線を戻した。
「でしたら、別の会社へ頼みましょう」
隆一が玲奈を見る。
「別の会社?」
「東雲精機でできないのでしたら、できる会社と組めばよろしいでしょう?」
「それは、そうですが……」
「会社を買わなければ、一緒に仕事をしてはいけない決まりでもございますの?」
玲奈にとっては単純な疑問だった。
北辰電池を買おうとしていたことで、自分でも知らないうちに「必要な技術は所有する」という考えへ寄っていたのかもしれない。
だが、企業同士が協力する方法は買収だけではない。
外注もある。
共同開発もある。
業務提携もある。
一つの案件だけ協力する方法もある。
相手の会社を所有しなくても、その会社の技術へ正当な対価を支払い、一緒に製品を作ることはできる。
「北辰電池を買えなかったからといって、世の中からバッテリー会社がなくなったわけではございませんものね」
玲奈がそう言うと、営業責任者が頷いた。
「取引先を探してみますか?」
「お願いします。ただし、今回だけ安くやってくださる会社を探すのではなく、今後も一緒に仕事をできる可能性があるところを見たいです」
そこで玲奈は少しだけ言葉を止めた。
以前なら、技術、価格、納期、対応可能な数量を中心に候補を比較していただろう。
もちろん今でも、それらは重要だった。
しかし今回は、もう一つ確認したい。
「それと、過去にどのような会社と仕事をしてきたのかも調べてくださいませ。可能なら、長く付き合っている取引先があるかも知りたいです」
隆一が玲奈を見た。
「そこまで見るんですか?」
「北辰電池で少し学びましたので」
玲奈はそれ以上説明しなかった。
御堂との食事について隆一へ話しているわけではないし、話す必要もない。そこで得た考えをどう使うかは玲奈自身の問題だった。
数日後、営業側から複数の候補が上がってきた。
玲奈は最初から一社へ絞らせず、それぞれの会社が得意とする分野、規模、過去の実績、対応可能な数量、東雲精機からの距離などを確認した。
その中で興味を持ったのは、神奈川県にある《相馬電子技研》という三十人ほどの会社だった。
規模は東雲精機より小さい。
主力は産業機器向けの小型制御基板で、顧客の要求に合わせた回路設計や試作品への対応を得意としている。バッテリーそのものを製造する会社ではないが、電源管理やモーター制御について複数の実績があった。
「買います?」
直人が資料を見ながら冗談めかして尋ねた。
玲奈は即座に首を横へ振った。
「買いませんわよ」
「即答だな」
「必要な技術を持っている会社を見つけるたびに買収していましたら、いくらお金があっても足りませんもの」
「北辰を買おうとしてた人間の台詞とは思えないけどな」
「あちらは会社そのものにも興味がございました。今回は、まず一緒に仕事ができるかを知りたいのです」
玲奈は相馬電子技研の公開情報を確認しながら、北辰電池との違いを考えた。
北辰電池では、取得することを前提として会社全体を見た。
今回は違う。
東雲精機と一緒に仕事をしたとき、互いの強みを邪魔せず使える相手なのかを確認する。
所有ではなく協力だった。
玲奈は東雲精機の営業責任者を通して正式に連絡を取り、今回のドローン案件について協業できないか打診した。
返事は意外に早かった。
相馬電子技研側も興味を示した。
最初の打ち合わせは、東雲精機の会議室で行われた。
相馬電子技研から来たのは営業担当者と二人の技術者で、東雲精機側からは隆一、若手技術者、営業責任者が参加する。玲奈は少し離れた席から話を聞いた。
技術的な会話の大部分は、玲奈には分からない。
だから無理に入らない。
モーターの出力、回転数、電源電圧、制御方式、発熱、重量、基板寸法について、両社の技術者が資料を見ながら話を進めていく。
玲奈が口を挟んだのは、役割分担の話になってからだった。
「一つ確認してもよろしいです?」
全員の視線が玲奈へ向いた。
「今回の製品で問題が起きた場合、どこまでが東雲精機の責任で、どこからが相馬電子技研様の責任になるのでしょう?」
会議室が少し静かになった。
技術的には、一緒に作れそうだという話が進んでいる。
しかし一緒に作れることと、責任の境界が明確であることは別だった。
相馬電子技研の営業担当者が答える。
「そこは契約段階で明確にする必要がありますね。モーター単体、制御基板単体の保証なのか、組み合わせた状態まで双方で評価するのかでも変わります」
「でしたら、試作品を作る前に整理しましょう。上手くいったときだけ一緒で、問題が起きましたら互いに相手の責任と言い始める関係にはしたくございません」
隆一が頷いた。
「それはそうですね」
「それから、お客様との窓口も決めたいです。両社から別々の説明が届くようでは混乱いたしますもの」
技術そのものについて玲奈が指示する必要はない。
しかし会社同士がどう仕事をするかについては、玲奈にも考えられる。
その日の打ち合わせでは、まず東雲精機を顧客側の主な窓口とし、相馬電子技研が制御部分を担当する方向で話がまとまった。
当然ながら、いきなり正式な長期提携を結んだわけではない。
最初は一つの案件だった。
試作してみなければ、本当に相性が良いかも分からない。
それから三週間ほど、両社の技術者は何度も仕様を調整した。
最初の試作品では、要求された重量に収まらなかった。
二回目は小型化できたものの、連続稼働時の発熱が想定より大きかった。
顧客側からも要求変更が入り、当初の予定より作業は増えた。
玲奈は途中経過を確認しながらも、技術者へ早く完成させろとは言わなかった。
「追加作業は、きちんと費用へ反映できています?」
玲奈が営業責任者へ尋ねると、今回は最初から追加試作の条件を契約へ入れているという答えが返ってきた。
東雲精機で一度学んだことを、別の案件でも繰り返す必要はない。
「でしたら結構です。必要な試作なら続けてくださいませ。ただし、何回でも無料で作り直す会社へ戻るのは禁止ですわよ」
四回目の調整で、ようやく顧客側が求めていた条件へ届いた。
東雲精機が担当した小型モーター。
相馬電子技研が担当した制御基板。
どちらか一社だけでは完成しなかった構成だった。
受注額そのものは、会社の将来を変えるほど大きくない。
しかし玲奈が注目したのは、そこではなかった。
「もう一件、ですか?」
営業責任者から報告を受け、玲奈は資料を受け取った。
「はい。今回の話を聞いた別部署から、小型搬送機器について相談したいそうです。まだ正式な発注ではありませんが」
玲奈は資料へ目を通した。
今度もモーターだけではない。
駆動部分と制御をまとめて相談したいという内容だった。
「相馬電子技研にも声をかけます?」
玲奈はすぐには答えなかった。
一件成功しただけで、永続的な提携相手と決めるつもりはない。
それでも最初の案件では、問題が起きたときに互いへ責任を押し付けることもなく、必要な修正を話し合うことができた。
納期についても、無理なものを無理と言った。
追加作業についても、最初に決めた条件を守った。
玲奈は御堂の言葉を思い出していた。
信用は、長く付き合っているだけでは生まれない。
約束したことをやる。
無理なことは無理だと言う。
問題が起きても逃げない。
それを繰り返した先に積み上がる。
「声をかけましょう。ただし、今回も条件はきちんと決めます」
「分かりました」
「それと、前回の仕事について相馬電子技研側にも感想を聞いてくださいませ。こちらだけが上手くいったと思っていても意味がございませんもの」
営業責任者が頷いた。
玲奈はそこで、少し不思議な感覚を覚えた。
北辰電池を買えなかったとき、自分には御堂が持っている三十年を用意できないと思った。
それは今も変わらない。
玲奈は十四歳でしかない。
御堂が何十年もかけて築いた人脈や信用を、数か月で手に入れることはできない。
だが、自分には何もできないわけではなかった。
今日一つ約束を守る。
次の仕事でも相手を正当に扱う。
問題が起きたときに逃げない。
それを繰り返せば、一年後には一年分の関係が残る。
十年後なら、十年分になる。
御堂と同じ人脈を持つ必要などない。
自分には、自分の関係を作ればいい。
数日後、玲奈は学校帰りに東雲精機へ立ち寄った。
工場では、以前より若手技術者同士が話している姿が増えていた。新しい案件が入れば隆一へ全てを持っていくのではなく、担当者同士で考え、必要なところだけ相談する形が少しずつ定着している。
玲奈は工場を一周したあと、隆一のところへ向かった。
「北辰電池を買えなかったこと、今でも残念です?」
突然尋ねると、隆一は少し考えた。
「技術的には欲しかったですよ。ただ、相馬さんと組んだ案件を見てると、全部自分たちで持つ必要もないんだなとは思いました」
「わたくしも同じことを考えておりました」
「珍しいですね。天城さんなら、次の会社を探すと思ってました」
「探してはおりますわよ?」
「探してるんですか」
隆一が思わず笑った。
玲奈も小さく笑い返した。
「ただし、買収だけが会社を大きくする方法ではないと分かりました。欲しい会社なら買いますけれど、技術だけが必要なら一緒に仕事をすればよろしいのです」
「なるほど」
「それに、買わなければ使えるお金も減りませんもの」
「結局そこですか」
「大切ですわよ?」
玲奈にとって、お金は自由を買うための道具だった。
会社を買うことも自由を増やす方法の一つである。
しかし何でも所有しなければならないと思い始めた瞬間、それは逆に自由を減らす。
必要な相手と、必要なときに、互いに利益のある形で組む。
それもまた経営だった。
その日の夜、玲奈は自宅でセレスティアとして配信を終えたあと、東雲精機の月次資料を開いた。
新規案件の比率は少しずつ上がっている。
利益率も買収前より改善している。
まだ会社の規模そのものが大きく変わったわけではないが、安い仕事を受け続けなければ工場が止まるという状態からは離れ始めていた。
そして最近では、ドローンや小型搬送機器だけではなく、別の分野からも問い合わせが届いている。
玲奈は一覧の中で、一つの案件に目を止めた。
小型サービスロボット向け駆動ユニット。
依頼元は、自律移動ロボットの開発を行っている若い企業だった。
会社そのものはまだ小さい。
創業からの年数も短く、利益も安定していない。
それでも資料を読む限り、面白いものを作ろうとしている。
玲奈は以前なら、まず会社の財務を調べて買収候補になるか考えていたかもしれない。
今回は違った。
「まず、一緒に仕事をしてみましょうか」
相手がどのような会社なのか。
経営者はどのような人間なのか。
技術者は約束を守るのか。
東雲精機を、正当な取引相手として扱うのか。
そして何より、一緒に仕事をして面白いものを作れるのか。
会社を買うかどうかを考えるのは、それを知ってからでも遅くない。
玲奈は新しい案件の資料へ、翌日の確認事項を書き込んだ。
東雲精機を買ったことで、玲奈は会社を所有する方法を覚えた。
北辰電池を買えなかったことで、人間関係の価値を知った。
そして相馬電子技研との最初の仕事を通じて、所有しなくても会社同士は力を合わせられると知った。
十四歳の玲奈が持っている会社は、今も東雲精機一社だけだった。
けれど、その一社から外へ伸び始めた繋がりは、少しずつ増えている。
その先にある小さなロボット会社が、やがて玲奈自身の会社になることを、この時点ではまだ誰も知らなかった。




