会社ってのは、人間だ
運ばれてきた料理へ箸を伸ばしながら、玲奈は向かい側に座る御堂征一郎を観察していた。北辰電池を巡って競争していたときには、互いに買い手候補として必要以上の情報を渡さないようにしていたため、こうして落ち着いて話すのは初めてに近い。
隣には美咲もいるが、御堂が話したい相手は明らかに玲奈だった。
「それで、お爺様。わたくしが北辰電池をどのように見ていたのか聞きたいのでしたわね?」
「ああ。北村から大体は聞いたが、あいつを通した話だからな。お前の口から聞いた方が早い」
「競争が終わった途端に情報交換ですの?」
「終わった案件の話なら構わんだろ。それとも企業秘密でもあるのか」
「そこまで大した秘密はございませんわ」
玲奈は箸を置き、少しだけ考えを整理した。
北辰電池へ興味を持った最初の理由は、東雲精機との組み合わせだった。小型モーターを持つ東雲精機に対して、北辰電池はバッテリーパックと電源制御を扱っている。両社が協力すれば、単体部品だけでは受けられなかった案件へ対応できる可能性がある。
しかし調査を始めたあとは、それだけで買うべきではないと判断した。
「北辰電池そのものが利益を出せる会社であることを前提にいたしました。東雲精機との組み合わせが上手くいかなかったとしても、単独で残せる会社でなければ危険だと思いましたので」
「そこは正しい」
御堂があっさり認めたので、玲奈は少しだけ目を細めた。
「珍しく素直ですわね」
「正しいものを間違ってると言うほど暇じゃねえ。続けろ」
「設備投資については、買収価格とは別に考えました。現在の利益だけなら安定しておりますけれど、安全性に関わる設備更新や開発費を考えますと、取得後にも相応の資金が必要です」
「それも北村から聞いた」
「随分お話しになったのですね」
「あいつも、お前を選ばなかったことが正しかったのか少し気にしてるんだろうよ」
玲奈の箸がわずかに止まった。
「後悔されているのです?」
「そこまでは言ってねえ。自分で決めた以上、あいつは御堂グループへ会社を渡す。ただ、最後まで迷った相手がどういう人間だったのか、俺にも知っておいてほしかったんじゃねえか」
玲奈はその説明に納得した。
北村は、玲奈の提案を断ったからといって、その提案そのものを否定したわけではない。
だから御堂にも話した。
北辰電池を取得する側に、最後まで別の選択肢が存在したことまで理解したうえで会社を引き継いでほしかったのだろう。
「それで、お爺様はわたくしに興味を持ったと」
「少しだけな」
「そこを強調なさらなくても結構ですわよ」
「十四歳の小娘を褒めすぎると、すぐ調子に乗りそうだからな」
「残念ながら、褒められなくても自信はございます」
「面倒くせえ小娘だ」
「物覚えの悪いお爺様ですこと。天城玲奈ですわ」
初対面から何度目になるか分からないやり取りに、美咲が隣で小さく笑った。
御堂も本気で腹を立ててはいない。
むしろ、この遠慮のなさを面白がっているように玲奈には見えた。
「では、今度はこちらから質問してもよろしいです?」
「言ってみろ」
「お爺様は、北辰電池の何を一番評価しました?」
御堂はすぐには答えなかった。
料理を一口食べ、茶を飲んでから玲奈を見る。
「人だ」
短い答えだった。
玲奈は続きを待った。
「技術じゃねえと言ったら嘘になる。財務も悪くない。うちの事業と組ませられる場所もある。だが、それだけなら他にも候補はある」
「では、北辰電池の社員を?」
「それもある。だが一番は、四十年以上かけて作った関係だ」
玲奈は北村から聞いた話を思い出した。
三十年以上前、北辰電池が大きな不良を出して苦境に陥ったとき、御堂は無償で救済したわけではない。品質を戻せるなら仕事を任せるという形で、北辰電池へ立て直す機会を与えた。
そこから両者の関係は続いている。
「お爺様と北村様の関係ですわね」
「それだけじゃねえ」
御堂は首を振った。
「北村とうちの関係、北辰の幹部とうちの社員の関係、北辰と長年付き合ってる取引先との関係、技術者同士の信用まで含めてだ。会社は社長一人でできてるわけじゃねえ」
玲奈は黙って聞いた。
「お前、北辰の財務を見ただろ」
「もちろんです」
「工場も見た。技術も調べた。設備更新も計算した。社員とも話したそうだな」
「はい」
「そこまでやったから、北村も最後まで迷ったんだろう。お前の調査が甘かったから負けたわけじゃねえ」
玲奈は御堂を見た。
慰められているようには聞こえなかった。
事実を確認するような口調だった。
「では、やはり三十年の差ですの?」
「一部はな」
御堂はそう答えたあと、少しだけ表情を厳しくした。
「だが、それだけで片付けるな。三十年生きれば勝手に信用が貯まるわけじゃねえ」
玲奈の視線が鋭くなった。
「どういう意味でしょう?」
「付き合いが長いだけなら、嫌われて終わる奴だっていくらでもいる。俺と北村が三十年以上付き合ってるのは、その間に何度も仕事をして、そのたびに互いの判断を見てきたからだ」
御堂は自分の若い頃の話を少しだけした。
北辰電池が不良問題を起こしたとき、御堂側にも北辰を切るという選択肢はあった。
それでも品質を戻せるなら仕事を出すと決めた。
北村はその条件へ応えた。
その後も納期問題や価格交渉、新製品開発、景気悪化など、何度も利害がぶつかる場面があった。
常に仲が良かったわけではない。
むしろ喧嘩したこともある。
「信用ってのは、仲良く飯食ってりゃできるもんじゃねえ。こいつなら約束したことはやる、無理なときは無理だと言う、問題が起きたら逃げない。そういうのを何度も見て、やっと積み上がる」
玲奈は、北村から聞いた「昔が大事」という言葉を思い出した。
時間そのものではない。
その時間の中で行った選択が、現在の信用を作っている。
玲奈には三十年という年月は用意できない。
しかし今日から積み上げ始めることはできる。
「では、わたくしが北辰電池を欲しいと思った時点で、すでに勝負はかなり決まっていたということです?」
「今回については、俺が有利だった。それは否定せん」
御堂はあっさり認めた。
「ただ、お前が勝てなかったと決まってたわけでもない。北村は本当に迷ってた。だから俺も驚いた」
「お爺様が?」
「ああ。うちの資金、販路、信用、それに北村との付き合いまであって、それでも十四歳の小娘と最後まで比べられたんだからな」
「天城玲奈ですわ」
「そこだけは律儀に訂正するな」
「大切なことですもの」
御堂は呆れたように笑った。
玲奈は少しだけ肩の力を抜いた。
北辰電池を失ったあと、自分の判断のどこが間違っていたのかを何度も考えた。
もっと高い価格を出すべきだったのか。
北村へ別の条件を提示するべきだったのか。
東雲精機との連携をもっと具体的に説明するべきだったのか。
もちろん改善できる部分はあるだろう。
しかし御堂の話を聞く限り、今回の敗北を単純な判断ミスとして処理するのも間違いだった。
「少し安心いたしましたわ」
「何がだ」
「わたくしが、とんでもない見落としをしていたのかと思っておりました」
「見落としはあったぞ」
玲奈の表情が止まった。
「……ございますの?」
「ああ」
御堂は箸を置いた。
玲奈も姿勢を正す。
「お前は北辰を調べるとき、人間も見るようになった。そこは東雲を買った直後よりマシになってる」
「褒めております?」
「最後まで聞け」
「どうぞ」
「だが、お前が見てたのは、ほとんど北辰の中にいる人間だ」
玲奈は一瞬、意味を掴めなかった。
北村、経営陣、技術者、社員。
確かに玲奈は彼らを見た。
「外、ですの?」
「そうだ。取引先、仕入先、金融機関、昔から仕事を繋いできた人間、困ったときに相談する相手。会社の外にも関係は山ほどある」
玲奈はゆっくりと目を見開いた。
主要取引先については調べた。
売上構成も確認した。
契約内容も見た。
しかし、それは主として経営上のリスクを見るためだった。
その取引先と北辰電池が、どのような経緯で関係を作ったのか。
担当者同士がどのような信用を築いているのか。
困ったときに誰へ電話するのか。
そこまでは十分に見ていなかった。
「数字としての取引先は確認しましたけれど、その関係までは見ていなかった……」
「そういうことだ」
御堂は玲奈の理解を確認してから、静かに続けた。
「会社ってのは帳簿でも、工場でも、技術でもねえ」
玲奈は黙った。
御堂は自分の胸元を指先で軽く叩いた。
「人間だ」
玲奈は、その言葉をすぐにノートへ書き留めることはしなかった。
意味を考えた。
東雲精機を買ったとき、自分は会社を技術、設備、顧客、契約、資産、負債などが組み合わさった仕組みとして理解した。
それは間違いではない。
しかし、その全てを動かしているのは人間だった。
技術を作るのも人間。
顧客との信用を積み上げるのも人間。
値段を交渉するのも人間。
設備を使うのも、失敗するのも、会社を辞めるのも、残るのも人間だった。
「お爺様」
「何だ」
「それでしたら、帳簿も工場も技術も大切ではございませんの?」
御堂は一瞬黙り、次に笑った。
「そう返すか」
「人間が大切だからといって、赤字でもよろしいとはなりませんでしょう?」
「当たり前だ。今のは人間を見落とすなって話だ。数字を捨てろなんて言ってねえ」
「でしたら納得いたしました」
「お前、もうちょっと素直に感心できねえのか」
「しておりますわよ。ただ、格好良い言葉ほど条件を確認したくなりますの」
「本当に面倒くせえな、お前」
御堂はそう言いながらも笑っていた。
美咲は二人のやり取りを聞きながら、娘が楽しそうにしていることに気づいていた。
玲奈にはこれまで、年上から何かを教えられる機会はいくらでもあった。
学校の教師もいる。
美咲も修一も教える。
沙耶香や直人から、自分にはない専門知識を学ぶことも多い。
しかし御堂は少し違った。
玲奈が目指している場所を、すでに何十年も歩いてきた人間だった。
その意味では、玲奈にとって初めて現れた本当の意味での経営者としての先達だった。
「ところで小娘」
「玲奈ですわ」
「東雲はどうだ」
「順調です。少なくとも、買ったことを後悔するような状況ではございません」
「値上げしただろ」
玲奈が少し驚いた。
「なぜ分かりますの?」
「俺ならするからだ」
御堂は当然のように答えた。
「東雲は昔から安すぎた。隆一は技術屋としては優秀だが、長い付き合いの客へ値段を上げるのが下手だった」
「一社、失いましたわ」
「そうか」
「驚きませんの?」
「値段を上げりゃ、そりゃ離れる客もいるだろ」
「その顧客は売上に対して利益が薄かったので、空いた生産能力を新しい案件へ振り向けています」
御堂はそこで少し笑った。
「ならいい」
「ただし、交渉方法が最善だったかは別に検証しました」
「それもいい」
玲奈は眉を上げた。
「今日は随分褒めますわね」
「調子に乗るな。まだ東雲一社を数か月回しただけだ」
「分かっております」
「景気が悪くなったとき、主要顧客が飛んだとき、社員がまとめて辞めたとき、投資した新製品が売れなかったとき。その辺を経験してから偉そうにしろ」
「経験したくないものまで混ざっておりますわよ」
「経営してりゃ、そのうち何かは来る」
「不吉なお爺様ですこと」
「事実だ」
玲奈は反論しなかった。
御堂は玲奈を天才経営者として扱っているわけではない。
むしろ、まだ何も経験していないと何度も言う。
それが玲奈には心地よかった。
十四歳だからと甘やかさない。
逆に十四歳だからと、何もできない子供として扱うこともない。
実際にやったことを見て、その部分だけ評価する。
できていないところは、そのまま指摘する。
「では、お爺様。わたくしからも一つよろしいです?」
「何だ」
「次に欲しい会社が重なりましたら、今度は負けませんわ」
御堂は笑った。
「言うようになったな、小娘」
「今回は人間関係で負けました。でしたら、次までにそこも見るようにすればよろしいのでしょう?」
「そう簡単に俺の四十年を埋められると思うなよ」
「埋める必要はございませんわ。わたくしは、わたくしの関係を作りますもの」
御堂の笑みが少し深くなった。
それでいい。
御堂の人脈を真似しても意味はない。
玲奈には玲奈の時間があり、玲奈の会社があり、これから出会う人間がいる。
「それでこそだ。次に欲しい会社が重なったら、今度も普通に取りに行くからな」
「望むところですわ」
「泣くなよ」
「お爺様こそ」
二人の間に、奇妙な関係が生まれ始めていた。
師匠と弟子ではない。
御堂が玲奈へ全てを教え、玲奈が従うような関係でもない。
年齢も経験も会社の規模も違いすぎる。
それでも同じ会社を欲しがれば競争し、片方が知らないものを知っていれば教え、ときには相手の考えを利用する。
玲奈にとって御堂征一郎は、初めて現れた自分より遥か先を歩いている経営者だった。
そして御堂にとって玲奈は、まだ実績の少ない小娘でありながら、少し先まで見てみたいと思わせる相手になり始めていた。
食事を終えて店を出る前、御堂は玲奈へ声をかけた。
「小娘」
「天城玲奈ですわ」
「次に会社を買う前に、一つ覚えとけ」
玲奈は御堂を見る。
「何でしょう?」
「買えなかった会社からも学べ。買った会社だけ見てる奴は、同じ失敗を何度もする」
玲奈は少し考えたあと、今度は茶化さずに頷いた。
「覚えておきますわ」
「珍しく素直だな」
「使える助言を聞くときは素直ですのよ」
「本当に可愛げがねえな」
「お褒めいただき光栄ですわ、お爺様」
店を出ると、夜の街には明かりが並んでいた。
北辰電池は手に入らなかった。
けれど玲奈は、その敗北を失った会社一社だけで計算する気にはならなくなっていた。
北辰電池を調べたことで、二社目を見る方法を覚えた。
御堂と競ったことで、自分にはまだ持てない時間の価値を知った。
そして今日、会社の外側にまで広がっている人間関係も、企業価値の一部なのだと知った。
玲奈は帰宅すると、北辰電池の資料を最後にもう一度だけ開いた。
そして自分のノートへ、今回の買収について短く結果を書くのではなく、財務、技術、設備、人材、社内承継、取引先との関係、経営者同士の信用まで、次の買収で確認するべき項目を文章として整理していった。
最後に、御堂から聞いた言葉も書き残す。
会社ってのは帳簿でも、工場でも、技術でもねえ。人間だ。
玲奈はその下へ、自分なりの一文を加えた。
ただし、人間を大切にするためにも、会社には利益が必要である。
書き終えると、玲奈は満足そうにノートを閉じた。
「これで、次はもう少し上手に負けられますわね」
そこまで口にしてから、玲奈は首を振った。
「……いいえ。次は勝ちますわ」
負けたことを忘れるつもりはない。
けれど、負けたことを恐れて次へ進まないつもりもなかった。
東雲精機を買ったことで、玲奈は会社を持つことを知った。
北辰電池を買えなかったことで、玲奈は会社を買えないことからも学べると知った。
そして御堂征一郎という、簡単には追いつけない相手もできた。
十四歳の天城玲奈にとって、二度目の買収は失敗に終わった。
それでも、その失敗から持ち帰ったものは、決して少なくなかった。




