幕間 御堂征一郎視点――負けた小娘を食事に誘う
北辰電池株式会社が御堂グループへの株式譲渡を正式に決定した翌日、御堂征一郎は北村孝一と二人で向かい合っていた。
契約そのものは、まだ全ての手続きが終了したわけではない。これから最終的な書類を整え、細かな条件を詰め、実際の譲渡へ進む必要があるものの、北村が御堂グループを選ぶという意思は固まっている。
「しかし、お前も面倒なことをしたな。最初から俺のところへ持ってくりゃ、こんなに何社とも話す必要はなかっただろう」
御堂が呆れたように言うと、北村は苦笑した。
「だからこそですよ。昔から御堂さんを知っているからという理由だけで決めたら、それが本当に会社にとって一番いいのか分からないでしょう」
「三十年以上付き合って、まだ信用が足りねえか」
「信用してますよ。ただ、会社を任せる相手を決めるのと、御堂さん個人を信用していることは別です。社員の人生まで関わる話ですから、他の候補もちゃんと見たかったんです」
御堂は反論しなかった。
むしろ、それでいいと思っていた。
長年の付き合いを理由に何も調べず御堂グループへ会社を渡すような人間なら、北辰電池を四十年以上続けることもできなかっただろう。
「それで、結局うちにした理由は何だ」
「もう説明したでしょう」
「最終確認だ。俺とお前の付き合いだけで選んだなら、それはそれで後から面倒になる」
北村はしばらく黙っていた。
やがてテーブルの上に置かれた資料へ手を伸ばしたが、それを開くことはなかった。
「条件は、どちらも良かったですよ」
「どちら?」
御堂の眉がわずかに動いた。
「最後まで残ったのは、実質的に御堂グループと天城さんのところです」
御堂は驚かなかった。
玲奈が北辰電池を訪問していた時点で、本気で買収候補として検討していることは分かっていた。あの小娘なら、中途半端に資料だけ眺めて終わることもないだろうと思っていた。
しかし北村の言い方には、少し引っかかるものがあった。
「最後まで、か」
「ええ。正直に言えば、かなり迷いました」
そこで初めて、御堂の表情が変わった。
「お前、あの小娘とうちを最後まで比べてたのか?」
「そうですよ」
「本気で?」
「会社を売る話で冗談を言ってどうするんです」
御堂は椅子へ深く座り直した。
玲奈の提案内容を直接知っているわけではない。買い手候補同士なのだから、当然ながら御堂グループへ玲奈側の具体的な提示条件が開示されることもなかった。
御堂自身は、自分たちが有力な候補であるとは考えていた。
資金力がある。
北辰電池が必要としている設備投資も問題なく実行できる。
御堂グループ内には北辰電池の技術を活用できる事業が複数存在し、販路も信用も玲奈側とは比較にならない。
そして何より、御堂と北村には三十年以上の関係があった。
それだけの条件を持ちながら、北村は最後まで玲奈と迷ったという。
「何をそんなに評価した」
御堂が尋ねると、北村は少し考えてから答えた。
「天城さんは、北辰を東雲の部品みたいに扱わなかったんですよ」
「ほう」
「最初は私も、東雲精機を買ったから次は電池会社が欲しいだけだと思っていました。モーターとバッテリーを組み合わせたい、それだけなのかと」
御堂にも、その発想はあった。
東雲精機を持った直後に北辰電池へ興味を示した以上、事業上の組み合わせを考えていることは容易に想像できる。
「でも違った。東雲との連携は考えているけれど、北辰単独でも利益を出せる会社でなければ買わないと言ったんです。統合も最初からしない。北辰の名前も残す。今いる経営陣や技術者も、買収したという理由だけでは替えない」
「随分しゃべったな、小娘」
「聞きましたからね。こちらも会社を渡す以上、何をするつもりなのか知っておきたかった」
北村はさらに玲奈との面談について話した。
社員の雇用について、絶対に一人も解雇しないという無責任な約束はしなかったこと。
必要な設備投資を買収価格とは別に考えていたこと。
現在の経営陣を残すだけではなく、北村が退いたあとに誰が何を判断するのかまで質問していたこと。
そして買収後、東雲精機と北辰電池を無理に一つへまとめず、共同案件から関係を作るつもりだったこと。
「金額も悪くありませんでした。無茶な高値ではなかったですが、安く買い叩こうともしていない。こちらが求めていることを聞いたうえで、自分ができることと、できないことを分けて話していました」
御堂は黙って聞いていた。
東雲精機を買ったときの玲奈なら、技術と数字をもっと前面へ出していたかもしれない。
だが北辰電池では、すでに少し変わっている。
自分が最初に会ったとき、隆一への依存を指摘したことも多少は影響しているのだろう。しかし、それだけで北村が最後まで迷うほどの提案を作れるわけではない。
玲奈自身が東雲精機を買ったあと、実際に会社を動かしながら学んだものがあるということだった。
「それなら、あの小娘に売ればよかったじゃねえか」
御堂がそう言うと、北村は苦笑した。
「本当に最後まで考えましたよ」
「だったら、何で俺を選んだ」
「最後は、人ですよ」
北村は静かに答えた。
「天城さんを信用できないわけじゃない。ただ、私はあの子をまだ数週間しか知らない。御堂さんとは三十年以上です」
御堂は何も言わなかった。
「会社が一番苦しかった頃のことも知っている。うちの社員が失敗したときも、取引先と揉めたときも、御堂さんは知っている。それに、今いる幹部の何人かは御堂グループとの仕事を何度も経験しています」
「昔の話だ」
「会社を渡す側には、その昔が大事なんですよ」
北村の言葉に、御堂は小さく息を吐いた。
経営を長く続けてきた自分には当たり前になりすぎているものだった。
三十年という時間。
何度も取引を行い、ときには問題を起こし、それでも関係を続けてきた実績。
玲奈がどれほど優れた条件を提示しても、その場で用意することのできないものだった。
「天城さんにも、その話はしました」
「俺との付き合いをか?」
「ええ。黙ったまま決めるのも違うと思いましてね。そうしたら、金額は上げないと言われました」
御堂の口元がわずかに上がった。
「ほう」
「自分が北辰へ払える価値として金額を出したから、御堂さんとの関係を壊すための金まで上乗せするつもりはないそうです。その条件で、北辰にとって良い方を選んでくれと」
御堂はしばらく何も言わなかった。
もし玲奈が北辰電池を絶対に欲しいと思い、競争相手が御堂グループだと知ったことで提示額を無制限に引き上げていたなら、御堂の評価は下がっていただろう。
勝つことが目的になった買収ほど危険なものはない。
相手が出すならこちらも出す。
負けたくないから、さらに上げる。
そうやって会社そのものの価値を超えた金を支払い、取得した瞬間から投資回収に苦しむ経営者を、御堂は何人も見てきた。
玲奈はそこで止まった。
十四歳の小娘が、自分より遥かに大きな御堂グループを相手にしても、自分で決めた線を越えなかった。
「……生意気なくせに、妙なところで冷静だな」
「御堂さん、楽しそうですね」
「どこを見たらそうなる」
「昔から、面白い経営者を見つけたときはそんな顔をしますよ」
「まだ経営者と呼ぶには早えよ。一社買って数か月だぞ」
御堂は即座に否定した。
だが以前のように、ただ頭のいい小娘だと片付ける気にもなれなくなっていた。
一社目では、自分たちより早く動いて東雲精機を取った。
二社目では、自分と同じ会社を欲しがり、財務、技術、設備だけではなく社員や承継後の組織まで見たうえで、北村を最後まで迷わせた。
そして負ける可能性が高くなっても、感情で価格を吊り上げなかった。
結果だけなら玲奈の負けだった。
しかし御堂が興味を持ったのは、むしろその負け方だった。
「天城さん、相当悔しそうでしたよ」
「そりゃそうだろう。あれで平気な顔してたら、そっちの方が気に食わん」
「それでも最後には、こちらの判断を尊重すると言ってくれました」
「そうか」
御堂は短く答えたあと、テーブルを指先で軽く叩いた。
十四歳。
どう考えても若い。
若すぎる。
御堂が十四歳だった頃など、会社を買うどころか、自分が将来何をするのかさえ明確には決まっていなかった。
玲奈には経験が足りない。
失敗も足りない。
人を見る目だって、これから何度も間違えるだろう。
だからこそ、少し見てみたくなった。
北辰電池を取れなかったあと、あの小娘が何を考えるのか。
「北村」
「何です?」
「もう一つ聞くぞ。もし俺との三十年がなかったら、どっちに売ってた?」
北村はすぐには答えなかった。
御堂も急かさない。
しばらくして、北村は困ったように笑った。
「だから迷ったんですよ」
「答えになってねえ」
「御堂グループには資金も販路も信用もある。天城さんのところには東雲との組み合わせと、あの子自身の動きの速さがある。条件だけなら、それぞれ違う良さがありました」
「それでも選べと言われたら?」
北村は腕を組んだ。
「……分かりませんね。本当に、最後まで迷ったと思います」
御堂はそこで初めて、はっきりと笑った。
「そうか」
「嬉しそうですね」
「別に嬉しかねえよ」
「そういうことにしておきます」
北村との話を終えたあと、御堂は車へ乗り込んだ。
隣には、いつもの秘書がいる。
「天城さんのお話ですか?」
「何で分かる」
「北村社長とお会いしたあとですし、会長が先ほどから少し楽しそうですので」
「お前ら、揃いも揃って俺を何だと思ってる」
「長くお仕えしておりますので」
以前にも聞いた答えだった。
御堂は諦めて窓の外へ目を向けた。
「北村の奴、最後まであの小娘と迷ったらしい」
秘書も、それには少し驚いた。
「御堂グループとですか?」
「ああ。うちとの三十年以上の付き合いが最後に効いた。それがなけりゃ、本人にもどちらを選んだか分からんそうだ」
「それは……かなり高い評価ですね」
「だから面白えんだよ」
御堂は今度は否定しなかった。
東雲精機のときには、玲奈の速度に興味を持った。
初めて会ったときには、自分の指摘をすぐに受け入れて考えを修正できるところが気になった。
そして今回は、御堂グループという巨大な相手と同じ会社を争い、北村を最後まで迷わせた。
玲奈が何を考えて北辰電池へ条件を出したのか、御堂は本人の口から聞いてみたくなった。
「小娘に連絡しろ」
「北辰電池の件についてでしょうか?」
「ああ。飯でも食わせる」
秘書がわずかに眉を上げた。
「会長からお食事へ誘われるのですか?」
「何だ、その顔は」
「珍しいと思いまして。天城さんとは、まだ二度しかお会いしていませんので」
「だから話すんだろうが。あいつが何を考えて北辰を買おうとしたのか、資料越しじゃ分からん」
御堂は少し考え、続けた。
「それに、負けた直後の顔も見てみたい」
「そちらが本音ですか?」
「半分くらいな」
秘書は何も言わず、予定を確認し始めた。
「明日の夕方でしたら、会食予定の前に時間を確保できます」
「そんな慌ただしい飯にするな。後ろを空けろ」
「二時間ほど確保しますか?」
「それでいい。店は静かなところにしろ。十四歳だから酒は出すなよ」
「当然です」
「あと母親にも来てもらえ。未成年を爺が一人で飯に連れ出したら、余計な誤解を招く」
「そこまでご理解されているのでしたら安心しました」
「お前は俺を何だと思ってるんだ」
秘書は答えなかった。
その日の夜、玲奈のスマートフォンに御堂から連絡が入った。
北辰電池から正式な結果を受け取ったばかりの玲奈は、表示された名前を見て眉を寄せた。
御堂征一郎。
玲奈は数秒だけ画面を眺めてから通話へ応じた。
「ごきげんよう、お爺様。わざわざ勝利宣言のお電話ですの?」
『負けた直後でも口は減らねえな、小娘』
「泣いて差し上げた方がよろしかったです?」
『気色悪いからやめろ』
玲奈は思わず笑った。
北辰電池を取れなかった悔しさは消えていない。それでも御堂を相手に落ち込んだ声を聞かせる気にはならなかった。
「それで、ご用件は何でしょう? 北辰電池を買えたご報告だけでしたら、すでに存じておりますわよ」
『明日の夕方、飯に行くぞ』
玲奈は一瞬、言葉を失った。
「……はい?」
『聞こえなかったのか。飯だ』
「聞こえましたけれど、なぜお爺様とわたくしが?」
『北村から話を聞いた』
玲奈の表情から、わずかに笑みが消えた。
『あいつ、最後までお前と迷ってたらしいじゃねえか』
「……そのようなお話までされたのです?」
『ああ。俺との付き合いがなけりゃ、どっちに売ったか分からんとまで言ってたぞ』
玲奈は黙った。
北村が自分の提案を評価してくれていたことは知っている。
しかし御堂グループと最後まで迷っていたと、御堂本人から改めて聞かされると感覚が違った。
『だから、お前が北辰をどう見て、何を考えて条件を出したのか聞きたくなった』
「面接ですの?」
『違う。飯だと言ってるだろ』
「お爺様が十四歳の少女をお食事へ誘うという状況に、少々警戒しておりますの」
『母親も連れてこい。俺だって余計な誤解はされたくねえ』
「そこはまともなのですね」
『喧嘩売ってんのか、小娘』
「褒めておりますわ」
玲奈はようやく少し笑った。
御堂が何を考えているのか、完全には分からない。
ただ北辰電池を取った側が、負けた側を嘲笑うためだけに食事へ誘うほど暇な人間ではないことくらいは理解している。
「分かりました。お母様の予定が空いているなら伺います」
『店はこっちで取る。好き嫌いはあるか?』
「特にはございません。ただし、お酒は飲めませんわよ」
『十四歳に飲ませるか』
「お爺様なら、うっかり忘れていそうでしたので」
『お前、明日覚えてろよ』
「楽しみにしておりますわ」
通話を終えた玲奈は、しばらくスマートフォンを見つめた。
北辰電池は買えなかった。
結果だけを見れば、自分の負けである。
それでも、その負けによって御堂征一郎という人間との距離は、東雲精機を先に買ったときより縮まったように思えた。
そして翌日の夕方。
玲奈は美咲とともに、御堂が指定した日本料理店を訪れた。
個室へ案内されると、すでに御堂が座っていた。
「遅えぞ、小娘」
玲奈は時計を確認した。
約束の五分前だった。
「五分前ですわよ、お爺様。ご高齢になりますと、時計まで早く進んで見えるのでしょうか?」
「帰れ」
「お招きした方が最初に言う台詞ではございませんわね」
美咲が隣で困ったように笑っている。
御堂は玲奈を睨んだあと、向かい側の席を顎で示した。
「座れ。今日は北辰の話をする」
「敗者へ講評してくださるのです?」
「半分はな」
玲奈は席へ座った。
「残り半分は?」
御堂はすぐには答えなかった。
料理が運ばれてくるのを待ち、玲奈の前に温かい茶が置かれてから、ようやく口を開いた。
「お前が何を考えて会社を買ってるのか、少し興味が出た」
玲奈は目を瞬いた。
「お爺様が、わたくしに?」
「調子に乗るな。まだ少しだ」
「そこは素直に認めてもよろしいのですよ?」
「やっぱり帰れ」
玲奈は楽しそうに笑った。
北辰電池を巡る競争には負けた。
だが、ただ会社を一つ取れなかっただけでは終わらないらしい。
玲奈は目の前に座る七十二歳の経営者を見ながら、今日の食事が北辰電池の反省会だけでは終わらないことを、なんとなく察していた。




