幕間 御堂征一郎視点――生意気な小娘
天城玲奈とその母親がホテルを出てからも、御堂征一郎はすぐには席を立たなかった。すでに冷め始めているコーヒーへ手を伸ばしながら、つい先ほどまで向かい側に座っていた十四歳の少女について考えていた。
第一印象だけなら、随分と行儀の良い娘だった。姿勢は整っており、言葉遣いにも乱れがない。巨大企業グループの総帥である御堂を前にして緊張していないわけではなかっただろうが、それを理由に必要以上へ縮こまることもなかった。
もっとも、最初に小娘と呼んだ御堂へ即座にお爺様と返してきた時点で、単に行儀が良い娘という評価は消えている。しかも感情的に言い返したわけではなく、穏やかな笑顔を浮かべたまま当然のように呼び返してきた。
「……物覚えの悪いお爺様、か。よくもまあ、初対面で言えたもんだ」
思い出しただけで、御堂の口元がわずかに動いた。長く経営者をしていれば、御堂征一郎という名前を知った瞬間に態度を変える人間を嫌というほど見てきたが、玲奈にはそうした反応がほとんど見られなかった。
必要以上に頭を下げるわけでもなければ、気に入られようと褒め言葉を並べるわけでもない。反対に、自分が不当に扱われたと感じればその場で返す。それも怒鳴るのではなく、相手と同じ程度の失礼さを正確に返してくる。
「会長、ずいぶん気に入られましたね。天城さんが帰られてから、先ほどより楽しそうに見えます」
向かいに座った秘書がそう言うと、御堂はコーヒーカップを置きながら眉を寄せた。長く仕えている人間だからこそ遠慮が薄くなっているのだろうが、本人を目の前にして言う必要はない。
「どこを見たらそうなる。生意気な小娘だったというだけだ」
「少なくとも、途中から楽しそうでした。普段なら、あれほど雑談を続けられませんから」
「お前まで言うようになったな」
「長くお仕えしておりますので、多少は会長の機嫌も分かるようになりました」
御堂は鼻を鳴らしたが、それ以上は否定しなかった。確かに面白い娘ではあったものの、それだけなら今日のために時間を空ける価値などない。
世の中には頭の回転が速い子供などいくらでもいる。勉強ができる者もいれば、若くして商売を始める者もいる。それだけで御堂グループの総帥が、わざわざ予定を調整して会う理由にはならなかった。
天城玲奈へ興味を持った最初の理由は、東雲精機だった。
「東雲の件、担当はまだ気にしてるか?」
「多少は気にしているようです。もっと早く動けたのではないかという反省は出ていますが、グループ全体から見れば小規模案件ですから、経営上の影響はほとんどありません」
「当たり前だ。東雲一社を取られた程度で揺れるようなら、うちの方が問題だ」
御堂にとって、東雲精機を買えなかったこと自体は大した損失ではない。小型モーターの技術に一定の価値はあり、面白い技術者もいるが、御堂グループがどうしても手に入れなければならない会社ではなかった。
必要なら別の会社を探せるし、自社で技術を育てる選択肢もある。東雲精機がなければ御堂グループの事業計画が崩れるような話ではない以上、買収できなかったことだけを取り上げて大騒ぎする理由もなかった。
御堂が気になったのは、別の部分だった。
「うちが検討している間に、あの小娘は会社を調べ、工場へ行き、専門家を入れ、隆一と話を付けて契約まで終わらせた。そこは素直に見ておくべきだろうな」
「組織規模の違いはあります。天城さん側は意思決定者がほぼ本人ですから、御堂グループとは必要な手続きの数が違います」
「分かってる。だから面白いんだ」
巨大企業には巨大企業の強みがあり、資金、人材、信用、情報のどれを比べても、御堂グループが本気で投入できる量は十四歳の少女とは比較にならない。
しかし巨大であることは、全ての場面で有利に働くわけではない。検討する人間が増え、説明する相手が増え、案件の規模によって社内で優先順位も付けられる。東雲精機は、御堂グループにとって急いで処理するほど大きな案件ではなかった。
天城玲奈にとっては違った。
東雲精機は一社目であり、玲奈自身が欲しいと思って動いた会社だった。だから自分で調べ、自分で現場へ行き、自分で専門家へ依頼し、最後には自分で買うと決断した。
その速度差によって、御堂グループは先に見つけていた会社を、後から来た十四歳の少女に持っていかれた。
「負けたと思っていらっしゃいますか?」
秘書から尋ねられ、御堂は眉を上げた。
「何にだ。東雲の買収か?」
「はい。結果だけを見れば、御堂グループが検討していた会社を天城さんが先に取得しています」
「くだらん。あれを勝ち負けで考えるほど耄碌しちゃいない。今回は、あの小娘の方が早かった。それだけだ」
御堂は冷めたコーヒーを飲みながら、東雲精機を巡る状況を頭の中で改めて整理した。こちらは東雲を絶対に取得するという前提で動いていたわけではなく、玲奈は自分の資金と時間を使って本気で取りにいったのだから、そもそも置かれていた条件が違う。
もし御堂グループが東雲精機を最優先案件として買収しようとしていたなら、状況は全く違っただろう。資金力も専門家の数も、交渉へ投入できる人材も違うため、玲奈が勝ったと単純に表現するのは現実を正しく見ていない。
しかし同時に、巨大企業だから遅れて当然だったと片付けるのも違う。
「うちの連中には、いい薬になっただろう。小さい案件だから来月でいい、再来月でいいと回している間に、本当に欲しい奴が現れれば持っていかれる。その事実くらいは覚えておいた方がいい」
「担当には伝えておきます」
「俺が言ったとは言うな。自分たちで考えさせろ」
秘書が頷くのを確認してから、御堂は椅子へ深く腰掛けた。
玲奈が東雲精機を買った理由については、悪くない答えだった。
技術、価格、案件採算、営業力、顧客集中、設備投資といった複数の要素を調べたうえで、現在の経営では会社が持っている価値を十分に利益へ変えられていないと判断している。
十四歳という年齢を考えれば、異常なほどよく調べていた。
だが御堂が見たかったのは、知識量ではなかった。
そこで、わざと一つ問いを投げた。
東雲精機の一番の問題は何か。
玲奈は大口顧客への依存だと答えた。
間違いではない。財務を見る人間なら真っ先に警戒してもおかしくない問題であり、御堂自身も東雲精機を調べた際には当然確認させている。
だから御堂は、あえて違うと言った。
「会長は、本当に東雲社長が一番の問題だと思っていらっしゃるんですか?」
秘書が尋ねてくると、御堂は少し考えてから首を振った。
「言い方が悪い。隆一本人が悪いという意味じゃねえし、顧客集中が問題じゃないという意味でもない。どれか一つだけ選んで、それが唯一の問題だと言いたかったわけでもねえよ」
「天城さんが数字だけを見ているのか、確認されたわけですね」
「まあ、そんなところだ」
そこだった。
御堂が今日の面会で最も面白いと思った瞬間は、玲奈が自分へ言い返したときでも、東雲精機の経営問題を説明したときでもない。
自分の答えを否定された、その直後だった。
普通なら、自分の分析が正しい理由を説明しようとする。特に頭の良い若者ほど、自分が正しいことを証明したがるもので、資料を読み込み、時間をかけて考えた結論ならなおさらだった。
しかし玲奈は違った。
御堂が隆一への経営依存を指摘すると、すぐに意味を考え、自分が用意していた引き継ぎ策の弱点まで辿り着いた。
隆一を残すことで引き継ぎリスクを減らせるところまでは、玲奈も考えている。しかし残す期間が長くなれば、社員も取引先も今まで通り隆一へ頼り続け、結果として経営者依存が解消されない可能性がある。
御堂が説明しようとしていたところへ、玲奈は途中から自分で辿り着いた。
「あいつ、俺の話をノートにでも書きそうな顔してやがったな。こっちが指摘した途端、反論するより先に自分の計画へ当てはめて考え始めていた」
「かなり真剣に聞いていましたからね。最後には素直にお礼まで言われていました」
「生意気なくせに、使える話は素直に拾う。ああいう奴は面倒なんだよ」
「経営者としては、良いことではありませんか?」
「だから面倒だと言ってるんだ」
御堂は小さく笑った。
自信のない人間は何でも他人へ聞き、自信だけが強い人間は何も聞かない。玲奈は自分で調べ、自分で考え、そのうえで自分より知っている相手の話なら受け入れる。
少なくとも今日の短い会話を見る限り、その区別はできていた。
これは経営者として重要な性質だった。
もっとも、それだけで成功できるほど会社経営は簡単ではない。
「あの小娘、東雲をどうすると思います?」
秘書の質問に、御堂は少し考えてから答えた。
「まず価格を触るだろうな。あいつが一番気にしていたのは、技術の価値に対して正しい金を取れていないことだ。案件ごとの採算を見えるようにして、利益の薄い仕事から値段を変えていくだろう」
「顧客が離れる可能性もあります」
「離れるだろうな。全部残せると思って値上げするなら、まだガキだ」
東雲精機には、長年の付き合いを理由に価格改定が遅れている取引先がある。原材料費、人件費、電気代、修繕費が上がっているのに十分な転嫁ができていない以上、そこを直そうとする玲奈の判断自体は間違っていない。
しかし正しい価格を提示したからといって、全ての顧客が理解してくれるわけではない。
「何社かは離れるでしょうね」
「そこで、あの小娘がどうするかだ。売上が落ちた数字だけを見て怖くなり、慌てて元の価格へ戻すのか。それとも採算の悪い仕事を手放したことで空いた余力を、新しい仕事へ振り向けられるのか」
御堂は窓の外へ目を向けながら、自分が若かった頃の失敗まで少しだけ思い出していた。
正しいと思って決めたことでも、実際に売上が落ちれば怖くなる。
社員から不満が出ることもある。
古くからの取引先に嫌味を言われることもあれば、数字だけを見た周囲から判断を間違えたと責められることもある。
そのときに、自分が何を目的として判断したのか忘れずにいられるか。
そこは本を読んだだけでは身につかない。
「一度くらい、痛い目を見た方がいい」
「十四歳の女の子に言うことではないと思いますが」
「経営者として会いに来た奴を、都合のいいところだけ子供扱いできるか。本人が会社を買うと決めて、その責任を引き受けたんだろう」
御堂は当然のように答えた。
玲奈が十四歳であることを忘れたわけではない。むしろ、そこは重要だった。
十四歳なら失敗してもいいという意味ではなく、十四歳だからこそ、まだ経験していないことがあまりにも多い。
不況で売上が落ちることもあれば、長年付き合ってきた取引先が突然倒産することもある。優秀だと思って任せた人間が失敗し、期待していた新製品が全く売れず、買収した会社同士の文化が衝突することもある。
数字だけなら正しかった判断が、人間の感情によって崩れる瞬間もある。
御堂はその全てを、何十年もの経営人生で何度も見てきた。
玲奈には、それがない。
どれほど頭が良くても、経験していないものまで知っていることにはならない。
「今はまだ、頭のいい小娘だ。ただし、あの年齢で一社買って終わりではなく、その後の問題まで見ようとしている点は悪くない」
御堂がそう言うと、秘書は少し意外そうにこちらを見た。
「かなり評価されているように聞こえます」
「十四のガキが東雲を一社買っただけで、完成した経営者みたいに扱う方がおかしいだろう。買うところまでと、買った会社を育てるところでは話が違う」
御堂は玲奈を天才経営者だとは思っていなかった。
東雲精機を買っただけで、経営者として成功したわけでもない。一社を取得することと、その会社を継続して成長させることには大きな差があり、さらに複数の会社を束ねる段階になれば別の難しさが現れる。
御堂が何十年もかけて歩いてきた道を、玲奈はようやく一歩進んだにすぎない。
しかし、その一歩目としては面白かった。
「会長、最後に天城さんが言っていましたね。会社の数でも追いついてみせると」
「ああ。言ってたな」
「本当に追いつくと思いますか?」
「知るか。そんなもの、十四の小娘と一度話しただけで分かるわけがないだろう」
御堂は即答したあと、少しだけ笑った。
「追いつくかどうかなんぞ、今決めることじゃねえ。十年後、二十年後にまだ会社をやっていたら、そのとき見ればいい」
玲奈が二十四歳になったとき、どの程度の会社を持っているのか。三十四歳になったとき、それでも自分の意思で経営を続けているのかは、今の段階では誰にも分からない。
途中で飽きるかもしれない。
東雲精機で大失敗し、会社経営そのものから離れる可能性だってある。
反対に、本当に御堂自身が無視できないところまで成長する可能性も、現時点で否定する理由はなかった。
未来を勝手に美化する必要もなければ、年齢だけを理由に可能性を切り捨てる必要もない。
「ただまあ、次に何を買うかは見ておけ。東雲一社で満足するような顔には見えなかった」
「天城さん個人について調査させますか?」
「普通に市場を見てりゃいい。あの小娘一人のために人員を付けるほど暇じゃねえし、個人の生活まで調べる必要もない」
そこまで言ってから、御堂は少しだけ考えた。
「ただし、うちが検討している案件と重なったら報告しろ。そのときは東雲みたいに、のんびり社内で回しているとは限らん」
「承知しました」
「勘違いするなよ。潰すためじゃねえ。同じ会社を本気で欲しいなら、普通に取りに行くだけだ」
「分かっています」
秘書は長年御堂のそばにいるだけあって、それ以上の確認をしなかった。
御堂が知りたいのは、玲奈が次にどんな会社へ価値を見いだすのかだった。
もし同じ会社へ目を付けたなら、今度は御堂グループも競争相手になる。
資金力だけで押し潰すつもりはないが、十四歳だから譲るつもりもない。同じ会社を本気で欲しいと思えば、他の企業を相手にするときと同じように交渉し、条件を提示して取りに行く。
その結果、玲奈が負けるなら、それまでである。
御堂自身も何十年という経営人生の中で、何度も会社を取り、何度も欲しかったものを他人に取られてきた。
「それにしても、お爺様はねえだろ。俺には御堂って名前があるんだぞ」
御堂が立ち上がりながら不満を漏らすと、秘書は資料をまとめながら平然と答えた。
「先に小娘と呼ばれたからではないでしょうか。天城さんは最初に、名前で呼ぶのであれば自分も御堂様と呼ぶと提案されていました」
「十四なら小娘だろうが」
「七十二歳でいらっしゃいますから、お爺様という表現も年齢だけを見れば大きく外れてはいないかと」
御堂は秘書を睨んだ。
「お前、どっちの秘書だ」
「御堂会長の秘書です。そのうえで事実関係を整理しております」
「減給するぞ」
「その場合は人事部と労務担当に確認いたしますので、正式な手続きをお願いいたします」
御堂は鼻を鳴らしながら歩き出した。
久しぶりに、少しだけ先を見るのが楽しみな人間と会った。
それだけの話だった。
まだ玲奈を一人前の経営者として認めたわけではない。後継者として欲しいわけでもなければ、弟子にするつもりもなく、まして十四歳の少女を自分と同じ場所に立つ人間として扱うには早すぎる。
しかし東雲精機を一年後にどう変えているのかは、見てみたいと思った。
価格を見直して顧客が離れたときにどう判断するのか、隆一への経営依存を本当に減らせるのか、若い社員へ金を使うと言った言葉を利益が苦しくなったときにも守れるのか、そして新しい顧客をどこから連れてくるのか。
御堂征一郎が知りたいのは、十四歳で会社を買った少女という珍しい肩書きの行方ではなかった。
会社を買ったあとで予想通りにいかない現実へぶつかったとき、それでも自分の判断を修正しながら前へ進める人間なのかどうかだった。
ホテルを出る直前、御堂は秘書へ振り返った。
「東雲の状況は半年後に一度確認しろ。外から普通に分かる範囲でいいから、売上や採用、それに何を変えたのか分かる材料があれば持ってこい」
「天城さんにはお伝えしますか?」
「言う必要はねえ。あの小娘が何をするか、先に答えを聞いたらつまらんだろ」
秘書が静かに頷いた。
御堂はそのまま車へ向かいながら、次に玲奈と会ったときのことを少しだけ考えた。
おそらく、またお爺様と呼ばれるのだろう。
それならこちらも小娘で十分だった。
ただし、その呼び方に込める意味がこれから先も同じままであるかどうかは、天城玲奈自身がこれから積み上げる結果によって決まる。
東雲精機を買っただけなら、まだ面白い小娘にすぎない。
その会社を成長させ、さらに次の会社へ手を伸ばすところまで来たなら、そのとき改めて評価すればいい。
御堂征一郎には、それを見届けるだけの時間も、玲奈と競うだけの会社も、まだ十分に残っていた。




