小娘と呼ばれましたわ
東雲精機の事業承継が正式に完了してから一週間ほど経った頃、玲奈は学校から帰宅すると、いつものように自室のパソコンを開いていた。会社を買ったからといって中学生であることまで変わるわけではなく、机の片側には学校の教科書が積まれ、反対側には東雲精機の資料が並ぶという、以前なら想像もしなかった光景が出来上がっている。
東雲精機については、買収直後から何もかも変えることを避けていた。隆一にはこれまで通り工場へ出てもらい、現場の社員から改善したいことを聞き取りながら、玲奈自身は案件ごとの採算を把握できる仕組みを整える準備を始めている。
設備についても同様だった。
古いから交換するのではなく、精度や故障頻度、修繕費、生産への影響を確認したうえで優先順位を決める。玲奈は会社を買う前から、この部分だけは現場を無視して決めないと考えていた。
そんな状況で、美咲から聞き慣れない名前を告げられた。
「玲奈ちゃん、御堂グループって知ってる?」
「もちろん存じております。以前、企業研究で調べましたから」
御堂グループは、一つの業界だけで成長した企業ではない。
産業機械、電子部品、物流、不動産をはじめ、複数の分野に事業を広げている巨大企業グループであり、傘下企業まで含めれば玲奈が所有する東雲精機とは比較にならない規模を持っている。
その頂点にいるのが、御堂征一郎だった。
七十二歳。
若い頃からグループ企業の経営に関わり、何度もの買収や事業再編を経験しながら現在の規模まで成長させてきた人物である。経済誌の記事や過去のインタビューも数多く残っているため、玲奈も企業経営について調べる過程で何度か名前を目にしていた。
「その御堂グループが、どうかなさいました?」
「玲奈ちゃんに会いたいって」
玲奈の手が止まった。
「……わたしに?」
「正確には御堂征一郎さん本人から、あなたと一度話をしたいって連絡が来たみたい」
「なぜです?」
「東雲精機」
美咲の答えは短かったものの、玲奈にはそれだけで十分だった。
御堂グループの事業領域を考えれば、小型モーターを扱う東雲精機と接点があっても不思議ではない。しかし買収が終わった直後にグループ総帥本人から連絡が来たのであれば、単なる取引の挨拶とも考えにくかった。
「もしかして、御堂グループも東雲精機を狙っていたのでしょうか」
「そこまでは聞いてないわ。ただ、会えば分かるんじゃない?」
「そうですね。お会いしましょう」
玲奈は迷わなかった。
御堂征一郎という人物には、以前から少なからず興味があった。
玲奈が前世から持ち越した知識の中には、組織を管理し、人を配置し、交渉によって利益を得るための経験がある。しかし現代日本の企業経営者として見れば、玲奈はようやく一社目を手に入れたばかりの新人にすぎない。
対して御堂は、何十年も現代の市場で企業を経営してきた人間だった。
敵になるのか。
味方になるのか。
あるいは、そのどちらでもないのか。
少なくとも、会わずに判断する理由はなかった。
面会は翌週の日曜日に決まった。
場所は御堂グループ本社ではなく、都内にあるホテルのラウンジだった。美咲も同席することになり、玲奈は約束の時間より少し早くホテルへ到着した。
玲奈が普段配信で使っているセレスティアの姿とは当然違う。
銀髪もなければ、黒いドレスもない。
年齢相応の服装を整えた、どこから見ても十四歳の少女だった。
案内された場所へ向かうと、すでに一人の老人が座っていた。
白髪が増えているものの、姿勢は崩れていない。玲奈と美咲が近づいても慌てて立ち上がることはなく、こちらが来ることを当然知っていたように視線だけを向けてきた。
写真で見た顔と一致している。
御堂征一郎本人だった。
「天城玲奈です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
玲奈が挨拶すると、御堂は数秒ほど何も言わずに玲奈を見た。
顔だけではない。
服装。
姿勢。
話し方。
相手が何を見ているのか、玲奈には何となく分かった。
「お前が東雲を買った小娘か」
最初に返ってきた言葉は、それだった。
美咲の表情がわずかに固まる。
玲奈は怒るより先に、御堂という人物について読んだ過去の記事を思い出していた。かなり歯に衣着せぬ人物だとは書かれていたが、どうやら記者による誇張ではなかったらしい。
「初対面の女性を小娘と呼ぶのは、あまり感心いたしませんわね、お爺様」
今度は御堂が黙った。
隣に控えていた秘書らしき男性まで、ほんの少し目を見開いている。
「誰がお前の爺さんだ」
「では、わたくしも小娘ではなく天城玲奈とお呼びくださいませ。それでしたら、わたくしも御堂様とお呼びいたします」
玲奈は穏やかに微笑んだ。
御堂はしばらく玲奈を見つめたあと、口元だけで笑った。
「生意気な小娘だ」
「物覚えの悪いお爺様ですこと」
美咲が隣で頭を抱えそうな顔をしている。
御堂の秘書も表情こそ崩していないが、視線を少し下へ向けていた。笑いを堪えているのだとすれば、かなり優秀な人物なのだろうと玲奈は余計なことまで考えていた。
「まあ座れ、小娘。今日は喧嘩をするために呼んだわけじゃない」
「わたくしも喧嘩をしに来たつもりはございません。お爺様が礼儀正しくしてくだされば、とても穏やかな時間になると思いますわ」
「お前、本当に十四か?」
「最近、その質問にも飽きてまいりました」
玲奈と美咲が席につく。
飲み物が運ばれ、形式的なやり取りが終わったところで、御堂はようやく本題へ入った。
「東雲精機の買収は、いつから動いてた?」
玲奈は具体的な日付までは答えず、事業承継について調べる中で会社を知り、公開情報を調査したあと、正式に連絡して工場や財務を確認したという流れを説明した。
もちろん、セレスティアの相談室については一切触れない。
御堂は途中で質問を挟まず、最後まで聞いていた。
「なるほどな。やっぱり、うちより後だ」
「御堂グループも調査されていたのですね」
「ああ」
御堂はあっさり認めた。
「東雲のモーターは、うちの人間が前から目を付けてた。大した規模じゃねえが、少量の面倒な注文を拾える。何人か面白い技術屋もいる」
玲奈は表情を変えなかったが、内心では少し驚いていた。
直人が評価した部分と、御堂グループが注目した部分がほぼ一致している。
自分たちの見立てが大きく外れていなかったことを確認できた一方で、別の疑問も生まれた。
「それでしたら、なぜ買収されなかったのです?」
「遅かったからだ」
御堂は何でもないことのように答えた。
「うちみたいに会社がでかくなると、一社買うにも面倒なんだよ。担当が調べて、上に上げて、事業との相性を確認して、買う意味があるか話して、その間に別の部署から意見が出る。東雲程度の規模なら、なおさら優先順位は高くならん」
「そして、御堂グループが検討している間に、わたくしが買ったのですね」
「そういうことだ」
御堂は玲奈を見ながら、少し楽しそうに続けた。
「うちの担当から報告が来たぞ。東雲精機、第三者への譲渡決定。買い手は新しく作られた会社で、実質的なオーナーは十四歳の女の子です、とな」
玲奈には、その報告を受けた御堂の顔が少し想像できた。
「それで、わざわざわたくしを?」
「最初は何かの冗談だと思った」
「失礼ですわね」
「十四の小娘が、うちより先に会社買ってりゃ誰でも疑うわ」
玲奈は反論しようとして、少しだけ考え直した。
「それについては、否定しづらいですわね」
「自覚はあるらしいな」
御堂が笑った。
しかし、その目は笑っていなかった。
玲奈はそこで初めて、御堂が自分を面白がるためだけに呼んだわけではないと感じた。
「一つ聞く。東雲をいくらで買ったかは聞かん。なぜ買った?」
「技術に対して、経営が十分な価値を付けられていなかったからです」
玲奈は迷わず答えた。
「もう少し詳しく話せ」
「小ロットで顧客ごとの細かな要求へ対応できる技術と経験がございます。しかし案件ごとの採算管理が弱く、昔からの取引先に対して適切な価格転嫁も十分にできていませんでした。営業力も強くなく、顧客が一部へ偏っています」
「それで?」
「技術そのものが失われる前であれば、経営側を変えることで価値を高められると判断しました」
御堂は何も言わない。
玲奈は続けた。
「もちろん、簡単だとは思っておりません。値上げすれば顧客が離れる可能性もございますし、新規顧客がすぐ見つかる保証もありません。設備更新と技能継承にもお金が必要です」
「なら、買わない方が安全だったんじゃねえか?」
「安全だけを求めるのでしたら、会社など買いませんわ」
玲奈は御堂の目を見た。
「わたくしは、今より価値を高められると思ったから買いました。そして、その判断が正しいのか、自分で確かめてみたかったのです」
御堂はしばらく黙っていた。
やがてテーブルの上のコーヒーカップへ手を伸ばし、一口飲んでから玲奈へ尋ねた。
「東雲の一番の問題は何だ?」
玲奈は少し考えた。
「現在なら、大口顧客への依存でしょうか。利益率や設備も問題ですが、一社を失った場合の影響が大きすぎます」
「違う」
返事は即座だった。
玲奈の眉がわずかに動いた。
「では、お爺様は何だとお考えです?」
「隆一だ」
玲奈は予想していなかった答えに黙った。
「東雲隆一が問題だと?」
「あいつは技術屋としては悪くない。社員にも好かれてるだろうし、取引先との関係も長い。ただし、会社の仕事があいつに寄りすぎてる」
御堂は指を一本立てた。
「値段を上げられないのも、昔からの付き合いだから。新しい客を増やせないのも、今の仕事を回すのに本人が時間を使いすぎてるから。技術の判断も取引先との関係も、最後はあいつへ集まる」
玲奈は黙って聞いていた。
「お前は顧客依存を見た。設備を見た。採算を見た。それ自体は間違っちゃいない。だが会社を見るなら、数字の横にいる人間を見ろ」
玲奈はすぐに反論しなかった。
自分も隆一への依存については認識していた。
だから買収後も一定期間残ってもらい、引き継ぎを進める条件を入れた。
しかし御堂の指摘は、それより深い。
「東雲さんを残すこと自体が、依存を残す可能性もあるということですか?」
玲奈が尋ねると、御堂は初めて少し満足そうに笑った。
「話は早いじゃねえか」
「でしたら、引き継ぎ期間中に東雲さんしかできない仕事を減らす必要がございますね。取引先との関係も、技術判断も、次の人間へ移していく」
「できればな」
「難しいでしょうか?」
「人間は設備みたいに交換できねえからな」
御堂の声には、先ほどまでとは違う重みがあった。
「何十年も社長だった人間が、明日から権限を渡しますと言って本当に全部渡せると思うか? 社員の方だって、困ったら今まで通り隆一に聞く。取引先も隆一へ電話する。お前が契約書で所有者になったからって、会社の人間関係までその日に切り替わるわけじゃない」
玲奈はノートを持ってくればよかったと、ほんの少しだけ思った。
それほど、今の話には覚えておく価値がある。
「……経験談ですの?」
「何社買ったと思ってる」
御堂はそれ以上説明しなかった。
玲奈も聞かなかった。
企業買収について勉強すれば、制度や計算方法は学べる。
しかし何十社もの買収と統合を経験した人間が持つ感覚まで、数か月の勉強で得られるとは思わない。
「ありがとうございます。参考にいたしますわ」
玲奈が素直に礼を言うと、御堂は少し意外そうな顔をした。
「反論しねえのか?」
「正しいと思った意見へ、年下だから、あるいは気に入らない相手だからという理由で反論するほど暇ではございません」
「年下なのはお前だろうが」
「細かいところを気になさるお爺様ですこと」
「お前が間違えたんだろうが」
御堂の秘書が、今度こそ小さく咳払いをした。
玲奈には、それが笑いを誤魔化したものに聞こえた。
話は東雲精機から、玲奈自身へ移った。
「お前、東雲一社で終わるつもりか?」
「現時点では、次の会社を買う予定はございません」
「予定を聞いてるんじゃねえ。終わるつもりかと聞いてる」
玲奈は少し考えた。
東雲精機を買ったばかりで、まだ何一つ成果を出していない。
今から二社目を語るのは早すぎると思う。
それでも、自分が一生東雲精機だけを所有している未来にも、どこか違和感があった。
「良い会社があり、わたくしが欲しいと思い、買うことに意味があるのでしたら、可能性はございます」
「欲張りな小娘だ」
「お爺様ほどではないと思いますわ」
玲奈は御堂グループについて調べたときに見た、数え切れないほどの関連会社を思い出していた。
「わたくしは、まだ一社しか持っておりませんもの」
「口だけなら大企業の社長より立派だな」
「では、いずれ会社の数でも追いついて差し上げましょうか?」
「やってみろ」
御堂は即座に答えた。
挑発ではある。
しかし子供を相手にしている声ではなかった。
玲奈も、それが少し嬉しかった。
「ただし、一つ教えておいてやる」
御堂は玲奈を見た。
「会社を買うのは簡単だ。金さえあって、売る奴がいれば買える」
玲奈は黙って続きを待つ。
「買った会社を十年後も残す方が、よっぽど難しい」
その言葉だけは、玲奈も軽く返せなかった。
御堂は七十二歳である。
玲奈が生まれる遥か前から会社を経営し、景気の良い時代も悪い時代も経験している。
東雲精機を一社買っただけの玲奈には、まだ十年間会社を経営した経験など存在しない。
「覚えておきます」
「忘れんな、小娘」
「ありがとうございます、お爺様」
「だから誰が爺様だ」
結局、最後まで呼び方は変わらなかった。
面会を終え、ホテルを出たあと、美咲はしばらく何も言わず玲奈の隣を歩いていた。
「お母さん。先ほどから何でしょう、その顔は」
「玲奈ちゃんって、怖いものないの?」
「ございますよ」
「御堂征一郎さん本人に、最初から最後までお爺様って言い続ける十四歳は、あんまり説得力ないわね」
「先に小娘と呼んだのは向こうですもの。わたくしだけ礼儀正しくするのは不公平でしょう?」
「普通は相手の立場も考えるのよ」
「考えたうえで申し上げました」
美咲は諦めたように息を吐いた。
しかし玲奈の頭の中には、御堂との軽口よりも、先ほど指摘された東雲精機の問題が残っていた。
数字の横にいる人間を見る。
隆一を残すことと、隆一への依存を残すことは違う。
買収した会社を十年後も残す方が難しい。
どれも、これまで玲奈が本や資料から学んできた言葉とは少し違っていた。
帰宅すると、玲奈はすぐ東雲精機のノートを開いた。
大口顧客への依存。
案件別採算。
設備更新。
技能継承。
その横へ、新しく経営者依存という項目を加えた。
隆一を会社から追い出すという意味ではない。
むしろ彼がいる間に、彼がいなくても回る会社へ変える。
それこそが、引き継ぎ期間に玲奈が行うべき仕事なのだと理解した。
そして最後に、今日初めて会った老人について別のページへ名前を書いた。
御堂征一郎。
七十二歳。
御堂グループ総帥。
東雲精機へ玲奈より早く目を付けながら、組織の意思決定速度によって買収では後れを取った人物。
それでも、わずかな会話だけで玲奈が見ていた問題の一段奥を指摘した。
玲奈は名前の横へ、今日抱いた印象を書き加えた。
自分より遥かに経験が多く、話す価値がある人物である一方、初対面の女性を小娘と呼ぶ礼儀については改善の余地が大きい。
書き終えてから、玲奈は少し笑った。
東雲精機を買ったことで、会社だけを手に入れたわけではなかったらしい。
今までなら出会わなかった人間が、自分の前へ現れ始めている。
その中でも御堂征一郎は、これまで玲奈が会った誰とも違っていた。
教えてくれる大人ではない。
守ってくれる大人でもない。
まして玲奈の才能を見て、無条件に褒めてくれる人間でもない。
間違っていれば間違っていると言い、玲奈が先に会社を買えば、それはそれとして認める。何十年という経験を持ちながら、十四歳だからという理由だけで玲奈の判断そのものを無視することもしなかった。
玲奈にとって初めて出会った、自分より遥か先を歩いている経営者だった。
「……面白いお爺様ですわね」
次に会ったときも、おそらく小娘と呼ばれる。
それならこちらも、お爺様と呼べばいい。
そしていつか、年齢でも前世の経験でもなく、現代日本で積み上げた経営者としての実績だけで、あの老人を驚かせてみたい。
東雲精機を買収したことで始まった玲奈の経営者としての人生に、その日初めて、追いかける価値のある相手が現れた。




