東雲精機を買いましたわ
最初の正式交渉から三週間後、東雲精機の事業承継を巡る話し合いは、ようやく最後の段階まで進んでいた。双方の会計士と弁護士が細かな条件を詰め、隆一が希望していた内容と玲奈側が守りたい内容を調整した結果、大きな争点はほとんど残っていなかった。
玲奈にとって意外だったのは、最後まで大きな値下げ交渉をする必要がなかったことだった。隆一は会社を少しでも高く売り抜けたいわけではなく、玲奈も経営者の弱みにつけ込んで安く買いたいわけではないため、企業価値算定を基準として双方が納得できる範囲を探す作業は比較的穏やかに進んだ。
もちろん、何もかも玲奈の希望通りになったわけではない。細かな表明保証や引き継ぎ期間、既存契約の扱いについては専門家同士で何度も修正が行われ、玲奈自身も説明を受けるたびに新しい言葉を覚えることになった。
それでも最終的に、玲奈が最も重視していた条件は守られた。
買収だけを理由として従業員を解雇せず、給与についても買収を理由とした引き下げは行わない。東雲精機という社名を維持し、隆一には一定期間会社へ残ってもらい、顧客や現場への引き継ぎに協力してもらう。
さらに買収資金とは別に、設備更新と事業改善へ使う資金を最初から確保することになった。会社を手に入れるために全ての資金を使い切り、買った翌日から何もできなくなるという状態だけは、玲奈が最初から避けたかったものだった。
そして玲奈自身が未成年であることから、東雲精機を保有するための法人を設け、両親と専門家の助言を受けながら所有と経営を分けられる形も整えられた。玲奈が十四歳のまま工場へ毎日出勤し、突然すべての実務を取り仕切るような不自然な体制にはしない。
会社の方向を決める権利は持つ。
しかし、自分にできない仕事は任せる。
それは直人と仕事を始めた頃から、玲奈が一度も変えていない考え方だった。
契約締結の日、玲奈は両親と専門家とともに東雲精機を訪れた。
応接室には隆一と顧問税理士が待っており、机の上には何度も修正された契約書が置かれている。最初にこの部屋へ入った頃には、まさか自分が本当に会社を買うことになるとは、玲奈自身も決めていなかった。
「これで最後ですね」
隆一が契約書を見ながら言った。
「はい。専門家の方々にも最終確認していただきました」
「天城さん、本当にいいんですか?」
「ここまで来て、まだ確認なさいますの?」
「いや、そうなんですけどね」
隆一は困ったように笑った。
「会社を売る相手が十四歳になるとは、人生で一度も想像したことがなかったもので」
「わたしも十四歳で製造会社を買うとは、数年前まで考えておりませんでしたわ」
「普通は一生考えませんよ」
横で美咲が小さく頷いているのが見えたため、玲奈はそちらを見ないことにした。
契約内容が改めて読み上げられ、双方が最終確認を行った。
株式の譲渡。
支払い。
経営権の移転。
隆一の引き継ぎ期間。
従業員の扱い。
会社名の維持。
買収後に必要となる手続き。
玲奈は分からない部分を曖昧なままにせず、その都度専門家へ確認した。何度も説明を受けてきた内容ではあるが、自分の人生で初めて会社を一つ所有する契約なのだから、分かったふりをする理由はなかった。
すべての確認が終わり、必要な署名と手続きが進められていく。
十四歳の玲奈だけで完結する契約ではないため、両親と専門家が関与する箇所も多い。それでも、今回使われる資金の中心は玲奈がこれまで自分で積み上げてきたものだった。
六歳のとき、父との競馬場で初めて自分の判断へ値段を付けた。
七歳で、自分のお金でパソコンを買った。
八歳からセレスティアとして活動を始め、百円の収益を受け取ったときには、誰かが自分の仕事へお金を払ってくれたこと自体が嬉しかった。
それから六年。
配信を続け、企業から依頼を受け、得たお金を全て使わず、投資について学びながら少しずつ増やしてきた。
お金は、自由を買うための道具。
そう考えて貯めてきた資金が、今度は一つの会社を選ぶ自由へ変わろうとしていた。
「天城さん」
隆一の声で、玲奈は意識を現在へ戻した。
最後の確認が終わっていた。
専門家から説明を受け、玲奈は契約が成立したことを理解する。
派手な音が鳴るわけでもなければ、工場の景色が突然変わるわけでもない。外では昨日までと同じように機械が動き、社員たちはそれぞれの仕事を続けている。
それでも、この瞬間を境に東雲精機の所有者は変わった。
「これから、よろしくお願いします」
隆一が立ち上がった。
玲奈も席を立ち、その手を握った。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。東雲さんには、まだまだ働いていただきますから」
「売ったら楽になれると思ってたんですけどね」
「残っていただくことは、最初から条件に入れていたでしょう?」
「分かってますよ」
二人は小さく笑った。
玲奈はそこでようやく、自分が本当に会社を買ったのだという実感を少しだけ持つことができた。
しかし契約が終わったからといって、そのまま帰るわけにはいかない。
午後には社員への説明が予定されていた。
東雲精機の社員たちは、会社が事業承継について外部と話し合っていること自体は知らされていたものの、具体的な相手については限られた人間しか知らなかった。
工場の一角へ社員が集められ、隆一が前へ立った。
玲奈は少し離れた場所で待っている。
「仕事を止めてもらって悪い。今日は会社の今後について、みんなに話があります」
社員たちの表情が硬くなる。
事業承継という言葉が出た時点で、何となく予想していた人間もいるのだろう。
隆一は会社を第三者へ譲ることを決めたと説明した。
廃業ではない。
工場も残る。
会社名も残る。
そして今回の買収だけを理由として、社員を辞めさせる予定もない。
説明が進むにつれて、社員たちの間から小さなざわめきが起こった。
「それで、新しいオーナーなんですが……」
隆一が少し困った顔で玲奈を見た。
「私から説明するより、本人に出てもらった方が早いでしょう」
玲奈は社員たちの前へ歩いた。
視線が一斉に集まる。
最初は誰かの娘だと思われたらしい。
あるいは、専門家についてきた家族。
しかし隆一が玲奈を紹介すると、その空気が一瞬で変わった。
「今回、東雲精機を引き継ぐことになった天城玲奈さんです」
数秒ほど、誰も声を出さなかった。
その反応を玲奈は当然だと思った。
十四歳の少女が突然現れて、今日からこの会社を所有する人間ですと言われれば、驚かない方がおかしい。
玲奈は社員たちを見渡してから、丁寧に頭を下げた。
「初めまして。天城玲奈と申します。このたび、東雲精機を引き継がせていただくことになりました」
ざわめきが一気に大きくなった。
年齢を聞き間違えたのではないかと隣同士で確認している社員もいる。
玲奈はそれが落ち着くまで待ってから話を続けた。
「皆様が不安になるのは当然だと思っております。わたし自身、十四歳の人間が突然会社を引き継ぐと聞かされれば、まず本当に大丈夫なのかと疑いますもの」
何人かの社員が、わずかに表情を緩めた。
「ですから、最初にお約束できることだけ申し上げます。今回の買収を理由として、皆様に会社を辞めていただくつもりはございません。また、買収したからという理由だけで給与を下げることもいたしません」
社員たちの空気が少し変わった。
「東雲さんにも、すぐ会社を離れていただくわけではありません。これまでの取引や技術について引き継いでいただきながら、会社を少しずつ変えていきます」
そこで玲奈は、必要以上に美しい未来を約束することを避けた。
必ず給料が大幅に上がるとも言わない。
必ず会社が大きくなるとも言わない。
絶対に失敗しないとも言わない。
そんな約束をする根拠は、今の玲奈にはなかった。
「ただし、何も変えないつもりもございません。わたしは東雲精機を、現在のまま保存するために買ったわけではないからです」
社員たちが玲奈を見る。
「皆様が持っている技術には、現在より大きな価値があると考えています。しかし、その価値を会社の利益へ十分に変えられていない部分もあると思っています」
隆一が少し苦笑した。
すでに何度も玲奈から言われた話だった。
「これから価格、設備、技術継承、新しい顧客について順番に見直します。ただし、わたしはモーターを作れません。工場について知らないこともたくさんございます」
玲奈は社員たちへ向かって、はっきりと言った。
「ですから、皆様に教えていただきます。その代わり、経営について必要なことは、わたしが責任を持って考えます」
それが今の玲奈にできる、最も正直な挨拶だった。
社員への説明が終わったあと、工場の中を歩いていると、以前モーターの発熱を抑える調整をしていた若い社員と目が合った。
彼は何とも言えない表情で玲奈を見ていた。
「あの……本当に、オーナーなんですか?」
「本当ですわ」
「十四歳ですよね?」
「その確認も本日だけで何度目でしょうね」
「いや、だって……」
彼が困っているのも無理はない。
玲奈は少し笑ってから、以前見せてもらったモーターについて尋ねた。
「先日調整していたものは、どうなりました?」
「えっ?」
「同じ大きさで発熱を減らそうとしていたでしょう?」
「ああ……あれなら、試作品は一応できました」
「でしたら、今度詳しく教えてください。わたしにはまだ、何を変えたのか分かりませんから」
社員は驚いたあと、少しだけ笑った。
「分かりました」
玲奈はその返事を聞き、工場の奥へ視線を向けた。
古い設備。
長く働いてきた社員。
若い技術者。
まだ十分に整理されていない技術。
昔から続く取引。
そして、変えなければ少しずつ弱っていく経営。
その全てを含めて、今日から自分が選んだ会社になった。
帰宅した玲奈を待っていた修一は、娘の顔を見るなり笑った。
「おかえり、社長さん」
「社長ではございませんよ、お父さん」
「会社買ったんだろ?」
「所有者と社長は別です。何度説明すれば分かっていただけるのでしょう」
「でも十四歳で会社持ってる娘も十分変だけどな」
「それについては否定いたしません」
美咲まで笑い始めたため、玲奈は少し不満そうな顔をしながら自室へ戻った。
机には、東雲精機について最初に調べ始めた頃から使っているノートが置いてある。
玲奈は最後のページを開いた。
そこには以前、自分で書いた問いが残っていた。
五十人分の責任まで引き受けて、東雲精機が欲しいと思えるのか。
その問いには、もう答えが出ている。
玲奈はその下へ、今日の日付とともに新しい文章を書き加えた。
東雲精機株式会社、事業承継完了。ここからは、この会社の価値を高める。
買収までの勉強は終わった。
次に学ぶのは、会社を所有する方法ではない。
会社を経営し、利益を生み、その利益を社員と設備と次の成長へどう振り分けるのかという、もっと実践的な世界だった。
玲奈は椅子の背もたれへ身体を預けながら、少しだけ口元を緩めた。
前世では、自分の能力を使って多くのものを豊かにしてきた。
公爵家のために働き、王家のために学び、未来の王妃として国の利益を考え続けた。
しかし、今度は違う。
東雲精機を選んだのは、自分だった。
誰かに命じられたのではなく、誰かの期待に応えるためでもなく、自分のお金を使い、自分の意思で、自分が欲しいと思った会社を手に入れた。
その事実を噛み締めながら、玲奈は机の上に積まれた東雲精機の資料を見た。
「さて――ここから、どういたしましょうか」
買うところまでは終わった。
これから玲奈が向き合うのは、会社を持つことより遥かに難しい、会社を成長させるという仕事だった。




