会社を売るということ
東雲精機との正式な条件交渉が行われる土曜日、玲奈は美咲とともに、これまで何度も訪れた工場の正門をくぐった。最初に来たときは、東雲精機という会社に本当に価値があるのか確かめるためだったが、今日は立場も目的も大きく変わっている。
玲奈の鞄には、会計士や弁護士と相談してまとめた条件案が入っていた。買収価格についての考え方だけではなく、社員の雇用、隆一からの引き継ぎ、設備投資、会社名の扱いまで含めた、玲奈側から初めて提示する正式な案だった。
それでも玲奈は、今日の話し合いで契約まで終わらせるつもりはなかった。
条件を提示することと、条件を押しつけることは違う。東雲精機を欲しいと思っているからこそ、隆一が何を守りたいのか聞かずに交渉を終えるべきではないと考えていた。
応接室には、すでに隆一と東雲精機側の顧問税理士が待っていた。
玲奈側も会計士と弁護士が同席している。
以前までの工場見学とは違い、机の上には最初から複数の資料が用意されており、室内には少し硬い空気が流れていた。
「今日はよろしくお願いします」
隆一が頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
玲奈も丁寧に頭を下げた。
十四歳の少女と五十代後半の経営者が、五十人ほどの社員を抱える製造会社の譲渡について向かい合う。外から見れば奇妙な光景だろうが、ここまで何度も話してきた隆一は、もう玲奈を年齢だけで扱わなくなっていた。
最初に口を開いたのは、玲奈側の会計士だった。
これまでの調査で確認できた内容。
企業価値を算定する際に用いた考え方。
東雲精機が保有する資産。
借入金。
現在の収益力。
将来必要になる設備投資。
大口顧客への依存や、熟練社員への技能集中といったリスク。
それらを順番に説明したうえで、玲奈側が考えている株式取得の条件について話を進めていく。
提示された金額を見ても、隆一はすぐには反応しなかった。
顧問税理士と資料を確認し、何度か小さな声で話し合っている。
玲奈も急かさなかった。
この金額を決めるまでに、自分たちも何度も計算している。
最も安い評価額ではない。
だからといって、東雲精機側の希望を無条件で受け入れた数字でもなかった。
現在の会社の状態と、買収後に玲奈側が負担する設備投資や運転資金を考えたうえで、支払える範囲を専門家と相談して決めた金額だった。
しばらくして、隆一が顔を上げた。
「正直に言ってもいいですか?」
「もちろんです」
「思っていたより、高かったです」
玲奈は少しだけ目を瞬かせた。
値下げを求められる可能性は考えていたが、売り手側から高いと言われるとは思っていなかった。
「東雲社長は、どの程度を想定されていたのです?」
「もう少し下ですね。設備も古いですし、借金も残っています。利益だって昔ほど出ていませんから」
隆一は自嘲するようには言わなかった。
長年経営してきた人間として、自分の会社の状態を理解したうえで話しているようだった。
玲奈は資料を一度見てから答えた。
「確かに、設備の古さや今後必要になる投資については評価へ反映しております。大口のお客様へ依存していることも、現在の利益率が高くないことも同様です」
「だったら、どうしてこの金額なんです?」
「東雲精機に残っているものにも、値段を付けたからです」
隆一が玲奈を見る。
「工場にある機械だけを買うのでしたら、もっと低く評価します。ですが、わたしが欲しいのは中古の工作機械ではございません」
玲奈は机の上の資料へ手を添えながら、これまで何度も考えてきたことを説明した。
「顧客の要求へ合わせて小型モーターを調整できる経験がございます。長年続いている取引がございます。そして、その仕事を実際にできる社員の方々がいらっしゃいます。それらまで含めて、東雲精機という会社に価値があると判断しました」
隆一はしばらく黙っていた。
「買う側なら、もっと安く言うものだと思ってました」
「安く買えれば、その瞬間のわたしは得をするでしょうね」
玲奈はそこで少しだけ笑った。
「ですが、東雲社長に不満だけを残し、社員の方々からも不信感を持たれた状態で会社を引き継ぐのでしたら、その安くなった分以上のものを失う可能性がございます。わたしは、そのような買い方をしたくありません」
もちろん慈善事業ではない。
必要以上に高く買うつもりもない。
しかし相手の弱みに付け込んで価格を下げ、それを交渉の勝利と考えるつもりもなかった。
玲奈にとって良い交渉とは、相手からどれだけ奪えたかで決まるものではない。
自分が欲しい結果を、相手にも受け入れられる形で手に入れることだった。
「ただし、こちらからも条件がございます」
玲奈が続けると、隆一も姿勢を正した。
「買収後、少なくとも一定期間は東雲精機へ残っていただきたいと考えております。肩書きについては今後相談しますが、取引先への引き継ぎと、技術面での助言をお願いしたいです」
「それは構いません。私も、売った次の日から来なくていいと言われる方が困ります」
「ありがとうございます。期間や報酬については、改めて正式に決めましょう」
次に玲奈は、雇用について説明した。
買収を理由として社員を整理するつもりはないこと。
買収を理由に給与を引き下げるつもりもないこと。
一定期間の雇用維持については、契約上の条件として入れる方向で専門家と検討していること。
ただし将来にわたって無条件で全員を雇い続けるという、守れる保証のない約束まではできないことも伝えた。
隆一は、その説明を最後まで聞いていた。
「そこまで考えてくれてるなら、私としてはありがたいです」
「わたしにとっても必要な条件です。社員の方々が大勢辞めてしまえば、わたしが評価した東雲精機の価値そのものが失われますから」
「社員を残すのは、会社の価値を残すためですか?」
「それだけではございません」
玲奈は少し考えた。
「五十人ほどの方が働いている会社を自分から買おうとしている以上、その方々の生活へ影響する責任は受け入れるべきだと思っています。ただし、わたしは皆様の人生そのものを背負えるとは申しません。会社として、働いた方へ正しく給与を払い、働き続けられる環境を作ることが、わたしの負うべき責任です」
隆一は玲奈を見たまま、少しだけ目を細めた。
「本当に十四歳なんですよね?」
「その確認は、もう何度目でしょう」
「すみません。でも、どうしても時々分からなくなるんですよ」
「残念ながら、戸籍上も十四歳ですわ」
美咲が隣で小さく笑い、少しだけ室内の緊張が緩んだ。
しかし隆一には、まだ確認したいことが残っていた。
「一つ、こっちからも条件を出していいですか?」
「もちろんです。そのための話し合いですから」
「会社の名前を、残してもらえませんか」
玲奈はすぐには答えなかった。
東雲精機株式会社という名前を残すこと自体に、強い反対理由はない。
ただし、感情だけで即答することも避けたかった。
「理由を伺っても?」
「親父が作った会社だから、というのもあります。でも、それだけじゃありません。取引先にも東雲精機の名前で覚えてもらっていますし、社員もその名前で働いてきました」
隆一は机の上で両手を組んだ。
「売る以上、ずっと残せとは言えません。ただ、買った途端に別の名前へ変わるのは……できれば避けたいです」
玲奈は会計士を見る。
ブランドや取引関係を考えても、買収直後に社名を変更する必要はないという説明が返ってきた。
玲奈自身も同じ考えだった。
「分かりました。少なくとも買収直後に東雲精機の名前を変更するつもりはございません」
「本当ですか?」
「ええ。わたしは東雲精機が欲しいのであって、名前を消したいわけではございませんもの」
ただし玲奈は、永久に変更しないとは約束しなかった。
将来、事業構造が大きく変わる可能性もある。
別会社と統合することもあるかもしれない。
今の時点で未来を全て固定することは、経営者として無責任だと思った。
「将来についてまで絶対に変更しないとはお約束できません。しかし、少なくとも現在の東雲精機という名前には取引上の信用もございます。それを理由もなく捨てるつもりはありません」
「それで十分です」
隆一は、少しだけ肩の力を抜いた。
玲奈はその姿を見ながら、会社を売るという行為について初めて深く考えた。
自分にとって東雲精機は、これから手に入れたい会社である。
しかし隆一にとっては、父親から受け継ぎ、何十年も働いてきた会社だった。
帳簿上の株式を売るだけではない。
毎朝来ていた工場を、自分以外の人間へ託す。
採用した社員を託す。
長年付き合ってきた顧客を託す。
父親から受け継いだ名前まで託す。
玲奈は買う側の責任ばかり考えていたが、売る側にも、それまで積み上げてきた人生がある。
「東雲社長」
「はい」
「会社を売ることに、迷いはございませんか?」
隆一はしばらく答えなかった。
専門家たちも口を挟まず、静かに待っている。
「ありますよ」
やがて隆一は、穏やかな声で答えた。
「そりゃあります。親父から継いだ会社ですから。自分の代で他人に渡すことになるなんて、十年前なら考えもしませんでした」
隆一には息子がいる。
玲奈がセレスティアとして受け取った相談を送ってきた高校生だったが、隆一は当然、目の前の玲奈がその相談を知っているとは思っていない。
「息子さんへ継いでほしいとは思われません?」
玲奈は、あくまで天城玲奈として尋ねた。
「思わないと言えば嘘になります。でも、あいつにはあいつの人生がありますからね」
隆一は少し寂しそうに笑った。
「会社を残すために息子の人生を使わせるのは違うと思ったんです。私だって親父から継いだときは、自分でやると決めましたから」
玲奈の胸に、その言葉が静かに残った。
自分でやると決めた。
それは、前世の玲奈が一度も与えられなかったものだった。
公爵令嬢として生まれたから、家のために働く。
王太子の婚約者に選ばれたから、王妃になるために学ぶ。
誰も玲奈へ、本当にそれを望んでいるのかとは聞かなかった。
だからこそ、隆一が息子へ会社を押しつけなかったことを、玲奈は好ましく思った。
「良いお父様ですのね」
「どうでしょうね。会社を継いでもらえなかった親父としては、失格かもしれませんよ」
「会社より息子さんの人生を優先できるのでしたら、少なくともわたしは失格だとは思いません」
隆一は少し驚いたように玲奈を見たが、それ以上は何も聞かなかった。
玲奈も、自分の前世について話すつもりはない。
交渉はその後も続いた。
買収価格については、東雲側が一度持ち帰って検討する。
隆一が会社へ残る期間についても、役割や報酬を含めて改めて調整する。
雇用維持については、双方の弁護士が現実的な条件を作る。
会社名については、買収直後には変更しない方向で一致した。
そして、玲奈側からもう一つ重要な条件を提示した。
「買収が成立した場合、一定額を設備更新と人材への投資資金として確保します」
隆一が資料へ目を落とした。
「これは買収代金とは別ですか?」
「はい。会社を買うために使うお金と、買った会社を育てるためのお金は分けて考えています」
玲奈は、現時点で想定している投資の優先順位も説明した。
まず現場と相談し、更新の必要性が高い設備を選ぶ。
同時に、熟練社員が持つ技能を若手へ移す仕組みを作る。
給与についても、すぐ一律に大幅な引き上げを約束するのではなく、会社の収益改善と合わせて見直していく。
さらに案件ごとの採算管理を整え、適切な価格を取れる状態へ変える。
「いきなり全部変えるつもりではございません。わたしは工場の仕事を知りませんから、現場の方々に話を聞かず設備や工程を変える方が危険です」
「そこは安心しました」
「わたしも、自分が突然モーターを作れるようになるとは思っておりませんもの」
玲奈は自分にできることと、できないことを分けている。
製造技術では、現場の社員に勝てない。
だから技術者には技術者の仕事を任せる。
玲奈が変えたいのは、技術を正しく評価し、その価値を会社の利益へ繋げ、次の投資へ回せる経営の仕組みだった。
二時間近く続いた最初の条件交渉は、契約成立には至らなかった。
しかし決裂もしなかった。
むしろ双方が何を重視しているのか、以前より明確になっていた。
工場を出た玲奈は、美咲と並んで駅へ向かった。
「どうだった?」
「疲れましたわ」
「珍しく素直ね」
「二時間も会社の条件について話していれば、十四歳でなくても疲れると思います」
美咲は笑いながらも、すぐに真面目な表情へ戻った。
「買いたい気持ちは変わらない?」
「変わりません。ただ、少し意味が変わりました」
「どういうこと?」
玲奈は歩きながら、先ほどの隆一の表情を思い出した。
「これまでは、東雲精機をどうすれば良くできるのかばかり考えていました。でも、会社には買った後の未来だけではなく、売る方が積み重ねてきた過去もあるのですね」
会社を数字だけで見るなら、売り手の思い入れなど無視してもいいのかもしれない。
しかし実際には、その思い入れの中に社員との信頼や顧客との関係、会社の文化が含まれている。
それらまで壊してしまえば、買収前の帳簿では測れなかった価値を、自分の手で失うことになる。
「だからといって、東雲社長の希望を全て受け入れるわけではございませんけれど」
「そこは玲奈ちゃんね」
「交渉ですもの。お互いに譲れないところはございます」
玲奈は少し笑った。
その日の夜、自室で東雲精機のノートを開いた玲奈は、今日決まったことと、まだ決まっていないことを整理した。
買収価格については継続協議。
隆一は一定期間会社へ残る方向。
雇用維持について具体的な条件を作る。
東雲精機の社名は買収後も維持する。
設備投資用の資金を別途確保する。
まだ契約には遠い。
それでも、最初に東雲精機を調べ始めた頃と比べれば、会社を手に入れる未来は遥かに具体的になっている。
玲奈はノートを閉じる前に、今日の話し合いで最も印象に残った言葉を書き残した。
東雲隆一は、父親から会社を継ぐとき、自分でやると決めた。
そして息子には、同じ選択を強制しなかった。
玲奈はその考え方を、東雲精機の買収条件とは別の意味で覚えておこうと思った。
自分の人生を誰かへ渡さないということは、自分が大切にしているものを、他人へ押しつけないことでもあるのかもしれない。
東雲精機を買うのは、玲奈自身が欲しいと決めたからだった。
だから成功したときの成果も、失敗したときの責任も、自分の選択として受け取る。
そして次の交渉では、いよいよ双方が希望する金額と条件をさらに近づけていくことになる。
会社の価値を調べる段階は、すでに終わりつつあった。
ここから先で玲奈に求められるのは、価値を見つける目ではなく、その価値へどこまで自分のお金と責任を差し出せるのかを決める覚悟だった。




