その仕事、儲かっていますの?
東雲精機の買収が正式に完了してからしばらく経った頃、玲奈は放課後の自室で会社から送られてきた資料を確認していた。会社を所有するようになっても学校生活とセレスティアとしての活動は続いているため、平日に工場へ足を運べる時間には限りがある。
だからこそ玲奈は、自分が工場へ毎日出勤しなければ動かない会社を作るつもりがなかった。現場には隆一をはじめ長年働いてきた社員がおり、玲奈が十四歳だからという理由以前に、製造について経験のない人間が細かな仕事へ口を出し続ける方が危険だった。
玲奈が最初に手を付けたのは、製品そのものではなかった。
東雲精機が受けている仕事について、どの案件でどれほど利益が出ているのかを、以前より細かく把握できる仕組みを整えることにした。
材料費だけを見れば利益が出ているように見えても、顧客ごとの要求に合わせて設計を調整し、試作品を作り、何度も修正すれば技術者の時間が使われる。その時間を十分に原価へ反映できていなければ、注文が増えるほど現場が忙しくなるのに利益は残らない。
買収前から玲奈が疑問を持っていた部分だった。
しかし実際に整理を始めると、想像していた以上に複雑だった。
「同じ種類の製品として扱っていても、必要な手間がこれほど違うのでしたら、同じような計算では判断できませんわね」
玲奈は画面を見ながら眉を寄せた。
同じ種類の小型モーターとして処理されていても、ほとんど仕様変更のない案件と、顧客から細かな要求が何度も追加される案件では必要な工数が大きく異なっている。さらに試作品を作ったあとで仕様変更が入り、技術者が再調整している案件もあった。
東雲精機では、それらを完全に無視していたわけではない。
隆一や営業担当者は経験から難しい仕事を把握しており、見積もりにもある程度反映していた。
問題は、その判断が個人の経験へ依存していたことだった。
土曜日になると玲奈は東雲精機を訪れ、隆一と営業担当者、それに製造側の責任者を交えた打ち合わせを行った。玲奈の手元には、過去の案件からいくつかを抽出して整理した資料が用意されている。
「最初に、こちらの案件について確認させてください。売上だけを見ると十分な規模ですが、実際に投入されている作業時間まで考えると、利益がかなり薄くなっているように見えます」
玲奈が示したのは、長年取引している顧客から受けている小ロット案件だった。
隆一は資料へ目を落とし、すぐに会社名を確認した。
「ここは昔からの取引先ですね。親父の代から付き合いがあります」
「価格を最後に変更したのはいつでしょう?」
「一応、何度か上げています。ただ、向こうも厳しいですから、材料費なんかの上昇分を全部乗せられているわけではありません」
「その結果、東雲精機側が負担しております。それに、この案件では以前より仕様変更への対応時間が増えているようです」
玲奈は過去の判断を責めるつもりはなかった。
隆一が経営してきた時代には、その関係を維持することに意味があったのかもしれない。長期的な取引によって工場の稼働が安定し、他の仕事へ繋がったこともあるだろう。
しかし昔に合理的だった条件が、現在も合理的だとは限らない。
「材料価格、電気代、人件費、修繕費などは変化しています。さらに顧客ごとの仕様調整へ必要な時間まで増えているのでしたら、現在の価格をそのまま維持する理由について、一度考え直した方がよろしいと思います」
営業担当の男性が難しい表情になった。
「ただ、値上げすると他社へ移るかもしれません。付き合いは長いですし、東雲だから頼んでくれている部分もありますが、向こうも価格には厳しい会社です」
「その可能性があることは理解しております。ですから、単純に新しい価格を通知して終わりにはいたしません」
玲奈は、案件ごとに条件を見るつもりだった。
利益率が低くても、将来大きな仕事へ繋がる案件なら意味がある。新しい技術を蓄積するために価値のある仕事も存在するだろうし、工場の稼働状況によっては利益率の低い仕事を受ける合理性もある。
一方で、現場へ大きな負担をかけながら十分な利益が残らず、将来性も乏しい仕事なら、昔からの付き合いだけを理由に維持する必要はない。
「安い仕事を全てやめるつもりではございません。その仕事を、その条件で続ける理由があるのか、誰でも確認できる状態へ変えたいのです」
隆一は資料を見ながら、ゆっくりと頷いた。
「今までも頭の中では考えていたんですけどね。こうして実際の数字として並べられると、感覚だけで判断していた部分が結構あります」
「でしたら、その判断基準を少しずつ会社へ残しましょう。東雲さんだけが分かっている状態では、将来ほかの方が同じ判断をできませんから」
玲奈がそう言うと、隆一は少し複雑そうに笑った。
「買収されたんだなって、こういうときに実感しますね」
「何か問題がございます?」
「いや、悪い意味じゃありません。私がずっと社長だった頃なら、自分が分かっていれば何とかなると思っていたでしょうから」
「今後は、それでは困ります」
「はっきり言いますね」
「東雲さんには今後も技術者として働いていただきたいと思っています。しかし、会社の全てが東雲さんを通さなければ決まらない状態は、少しずつ変えなければなりません」
御堂から指摘された内容を、玲奈は誰から聞いたのか説明しなかった。
そもそも御堂との面会について、隆一へ報告する必要もない。
重要なのは助言を誰から得たのかではなく、それが東雲精機にとって合理的なのかどうかだった。
隆一を会社へ残すことと、隆一への依存を残すことは違う。
取引先との関係、見積もりの判断、技術上の相談、現場で問題が起きたときの最終判断まで隆一へ集中した状態を続ければ、数年後に彼が会社を離れた瞬間、玲奈は同じ問題へ直面することになる。
「東雲さんがいらっしゃる今だからこそ、東雲さんが持っている判断の基準を他の方へ渡せます。完全に同じことができる人を作る必要はありませんが、一人しか分からない仕事は減らしていきたいです」
「自分がいらなくなる会社を作れって言われると、ちょっと寂しいですね」
「いらなくなるとは申し上げておりません。東雲さんにしかできない仕事を減らして、東雲さんには東雲さんだからこそ価値のある仕事をしていただきたいのです」
隆一は少し考えたあと、納得したように頷いた。
「それなら、悪くないですね」
「ええ。そのためにも、まずは数字と判断基準を会社へ残していきましょう」
そこから東雲精機では、全てを一度に変えるのではなく、新しく受ける案件や更新時期を迎える取引から順番に採算を確認するようになった。
材料費、外注費、加工時間、設計や調整に使われた工数、試作回数、修正対応などを可能な範囲で記録し、見積もりとの差を確認する。
最初から完璧な仕組みにはならなかった。
現場からは、記録項目が増えすぎれば仕事にならないという意見も出た。
玲奈はその意見を聞き、最初に作った管理方法をすぐに修正した。数字を集めることそのものが目的ではなく、その数字を使って経営判断を改善することが目的なのだから、記録作業によって製造効率を大きく落とせば意味がない。
「必要な情報は欲しいですが、数字を取るために仕事を増やしすぎていましたら本末転倒です。実際に使わない項目は削りましょう」
直人にも簡単な仕組み作りを相談したが、玲奈は高機能なシステムを最初から導入することを望まなかった。
現場が使わない機能を大量に作っても意味がない。
まず必要最低限の情報を集め、その情報が経営判断へ本当に使えることを確認してから広げる。
「珍しく、最初から全部作れって言わないんだな」
オンラインで話していた直人がそう言うと、玲奈は画面越しに眉を寄せた。
「わたくしを何だと思っておりますの? 使われない機能へお金を払う趣味はございませんよ」
「会社買った直後って、新しいシステムを色々入れたくなるものかと思ってた」
「わたくしは社長ではございませんし、新しくすること自体を目的にするつもりもございません。必要なところだけお願いします」
「じゃあ、最初は簡単なものにする。現場から要望が出たら後で増やせばいいだろ」
「お願いします。もちろん、お見積もりを先にくださいませ」
「そこは相変わらずだな」
「仕事をお願いするのですから、当然でしょう」
東雲精機を買ったからといって、直人の能力まで玲奈の所有物になったわけではない。
必要な仕事を依頼するなら、その仕事に対して正しい報酬を払う。
そこだけは、会社を持つようになっても変えるつもりがなかった。
案件別の数字が少しずつ見えるようになると、予想していたことが実際の形で現れ始めた。
利益が十分に出ている顧客もいれば、価格そのものは低くても対応工数が少ないため、安定して利益を残せる案件もある。一方で、売上金額だけなら大きいにもかかわらず、細かな仕様変更と追加対応を繰り返した結果、現場の負担に対してほとんど利益が残っていない案件も見つかった。
玲奈は、売上の大きさだけで顧客の重要度を判断する危険を改めて理解した。
そして最初の価格改定候補が決まった。
対象となったのは、東雲精機と十年以上付き合いのある取引先だった。材料価格などの上昇に対する価格転嫁が遅れているだけではなく、以前より要求される仕様調整が増えているにもかかわらず、長年の関係を理由として価格が抑えられていた。
営業担当と隆一が先方へ説明へ行くことになった。
「わたしも同行しましょうか?」
玲奈が尋ねると、隆一は少し考えてから首を振った。
「最初は私たちにやらせてください。今までこの値段で受けてきたのは、私の判断でもありますから」
「分かりました。ただし、値上げを受け入れていただけなかったからといって、その場で従来価格を維持すると約束しないでください。一度持ち帰って、条件全体を確認してから判断いたしましょう」
「分かっています。そこまで簡単に折れるつもりはありませんよ」
「でしたら、お任せします。長くお付き合いしてきた相手だからこそ、今後も続けられる条件をきちんと話してきてくださいませ」
隆一たちが取引先へ向かった日、玲奈は学校にいた。
授業中に結果を確認することなどできないため、放課後になってからスマートフォンを見ると、隆一から報告したいという連絡が入っていた。
帰宅してから詳しい話を聞くと、最初の交渉では合意できなかったという。
先方は材料費などの上昇については理解したものの、東雲精機が希望した価格までは受け入れられないと主張し、条件によっては他社への切り替えも検討すると告げてきた。
「予想より厳しかったですね。東雲さんは、先方の反応をどうご覧になりました?」
オンライン会議の画面越しに尋ねると、隆一は苦い表情を浮かべた。
「できれば残したい取引先です。ただ、今までと同じ条件で続けるのは厳しいというのも、今回数字を見てよく分かりました」
「現在の価格を維持した場合、今後さらに材料費や人件費が上がれば、採算はもっと悪化しますね」
「そうなります」
「では、先方が提示された価格ならどうでしょう?」
「利益は残ります。ただ、こちらが希望したほどではありません」
玲奈は手元の資料を確認した。
完全な赤字ではない。
先方が示した妥協案でも、以前より採算は改善する。
しかし仕様変更への対応まで考えれば、玲奈としてはまだ十分とは思えなかった。
「でしたら、価格以外の条件を変えましょう。先方の提示された基本価格へ近づける代わりに、現在無償で行っている追加調整について、一定の範囲を超えたものは別料金にします」
隆一が少し驚いた表情を見せた。
「価格そのものだけで決めないということですか」
「ええ。相手が基本価格を譲れないのでしたら、こちらも提供する条件を調整します。何もかも現在と同じままで、こちらだけ安くする必要はございません」
玲奈にとっても、会社を所有してから初めての実務的な価格交渉だった。
単純に値上げを通すことだけが目的ではない。
東雲精機が提供している価値へ、正しく料金を付けることが目的だった。
再交渉の結果、その取引先とは完全な決裂にはならなかった。基本価格については東雲精機が当初希望した水準より低いところで合意する代わりに、一定以上の仕様変更や追加試作には別途費用を設定する形でまとまった。
東雲精機にとって満点の結果ではない。
相手にとっても、以前と全く同じ条件ではない。
しかし双方が取引を続けられる場所には着地した。
玲奈はその報告を聞いて、価格そのものだけではなく、提供条件まで含めて交渉する意味を一つ学んだ。
ところが、次の価格交渉では同じようにはいかなかった。
別の取引先へ価格改定を申し入れたところ、先方は新しい条件を受け入れず、数か月後を目処に他社へ発注を切り替えると連絡してきた。
今度は、本当に顧客を一社失うことになった。
報告を受けた玲奈は、しばらく画面を見つめていた。
値上げをすれば顧客が離れる可能性があることは、最初から理解している。頭では当然の結果として考えていたが、実際に自分が所有する会社の売上が減ると決まれば、知識として想像していたときとは感覚が違った。
「年間では、どれほど売上が減る見込みでしょう?」
玲奈が尋ねると、隆一が具体的な数字を説明した。
会社全体を揺るがす規模ではないものの、無視できるほど小さくもない。
玲奈は次に、売上ではなく利益への影響を確認した。
そこで見え方が変わった。
その顧客は売上こそ一定規模あったものの、細かな追加対応が多く、利益率は低かった。失われる売上と比べれば、失われる利益はかなり小さい。
「この仕事がなくなることで、工場にはどの程度の余力ができます?」
「仕事量だけなら、それなりに空きますね。調整に時間を取られる案件でもありましたから」
「でしたら、その余力を別の仕事で埋められるか考えましょう」
玲奈は迷いを完全に消せたわけではなかった。
顧客を失ったこと自体については、交渉方法を含めて検証する必要がある。もっと良い伝え方や条件設定があれば取引を維持できた可能性まで、最初から否定するべきではない。
しかし失った売上を惜しむあまり、採算の悪い条件へ慌てて戻るつもりもなかった。
「この取引先が将来もう一度東雲精機へ依頼したいとおっしゃった場合でも、以前と同じ条件へ戻して受けることはいたしません。ただし、今回の交渉でこちらの説明や条件提示に問題がなかったかは確認しましょう」
「値上げ自体は撤回しないんですね」
「必要な価格改定だったという判断と、今回の交渉方法が最善だったかどうかは別です。そこを一緒にしてしまえば、次の交渉でも同じ失敗をするかもしれませんもの」
隆一は画面の向こうで、しばらく玲奈を見ていた。
「天城さん、会社を買う前より経営者っぽくなりましたね」
「まだ買ったばかりです。むしろ、分からないことが増えている気がいたしますわ」
「普通は分かることが増えるんじゃないですか?」
「知れば知るほど、確認しなければならないことが増えますもの。少なくとも、会社を買う前より簡単だとは思わなくなりました」
玲奈がそう答えると、隆一は少しだけ笑った。
夜になり、玲奈は東雲精機のノートへ今日までの結果を書き込んだ。
価格改定を始めたことで、一社とは条件を変更して取引を継続できた一方、もう一社は失うことになった。しかし失った顧客は売上に対して利益への貢献が小さく、空いた生産能力をより採算の良い案件へ振り向けられれば、会社全体の利益を改善できる可能性がある。
問題は、その新しい仕事をどこから持ってくるのかだった。
玲奈はそこで、買収前から東雲精機の弱点として挙げていた営業力へ意識を向けた。
既存顧客から適切な価格を取るだけでは、会社は大きくならない。
新しい顧客が東雲精機を見つけ、その技術を欲しいと思う状態を作る必要がある。
玲奈はパソコンを開き、東雲精機の古いウェブサイトを表示した。
会社概要や製品紹介、問い合わせ先といった最低限の情報は掲載されているが、東雲精機がどのような要求へ対応できる会社なのかはほとんど伝わってこない。海外企業が見ても分かる英語情報も乏しく、これでは新しい顧客へ技術の価値を伝える入口として弱かった。
玲奈は画面を眺めながら、自分が以前から大切にしている考えを思い出した。
欲しがられるものを作れば、向こうから来る。
東雲精機には、すでに欲しがられる可能性のある技術がある。
ならば次に必要なのは、その技術を必要としている人間が、東雲精機という会社を見つけられる場所を作ることだった。
「こちらから頭を下げて売り歩くつもりはございませんが、見つけていただくための努力まで放棄する理由はありませんわね」
玲奈は新しい資料を開き、東雲精機がこれまで対応してきた案件の中から、顧客情報を伏せたうえで技術力を示せる事例を整理し始めた。
小型化、発熱対策、特殊な使用条件への対応、小ロットでの仕様調整など、東雲精機が実際に積み重ねてきた仕事を、単なる製品一覧ではなく「何を解決できる会社なのか」という形で伝える。
価格の見直しによって空いた工場の余力を、以前より利益の出る仕事で埋める。
そのために必要なのは、玲奈自身が営業担当として一社ずつ訪問することではない。
東雲精機の技術を必要としている企業から、相談したいと思われる入口を作ることだった。
会社を買ってから初めて顧客を失った経験は、玲奈へ次の課題をはっきりと示していた。
これまで与えられた仕事を受けることが多かった東雲精機を、自分たちの価値を外へ示し、その価値を必要としている相手から見つけてもらえる会社へ変える。
玲奈の最初の経営改革は、ようやく社内の数字を整理する段階から、新しい市場へ東雲精機の価値を届ける段階へ進もうとしていた。




