五十人分の数字
東雲精機を訪れた翌日、玲奈は朝から机に向かっていた。
目の前には、昨日一日で書き込んだノートがある。技術、設備、技能継承、価格設定。実際に工場へ足を運んだことで確認できたものは多かったが、それ以上に新しく生まれた疑問も多い。
中でも玲奈が最も気になっていたのは、価格だった。
東雲精機は、顧客ごとの細かな要求に応じて小型モーターを調整できる。
大量生産では大企業に勝てなくても、少量生産や特殊な仕様への対応なら強みを発揮できる。それなのに隆一は、昔から付き合いのある顧客について「大きく値段を上げるわけにもいかない」と話していた。
玲奈には、それがどうにも引っかかった。
「価値があるものを、安く売っている……?」
もちろん、まだ決めつけることはできない。
長期取引だからこそ安定した受注が得られている可能性もある。価格を抑える代わりに発注量を保証されているのなら、一概に悪い条件とも言えないだろう。
そもそも、玲奈には製造業の原価計算について十分な知識がない。
材料費だけではなく、人件費、電力、設備の減価償却、修繕費、輸送費。それらを製品ごとにどのように割り振っているのかまで理解しなければ、本当に安売りしているのか判断できなかった。
「……これは、わたしだけで考えても仕方ありませんね」
玲奈は素直にノートを閉じた。
分からないことを自分だけで無理に判断しない。
それも、これまで直人と仕事をしてきた中で身につけた考え方だった。
技術なら直人へ聞けばいい。
法律なら法律の専門家へ頼ればいい。
そして会社のお金を見るのであれば、その分野に詳しい人間が必要になる。
問題は、玲奈にはその人物への心当たりがなかったことだった。
昼過ぎ。
玲奈は美咲へ相談した。
「お母さん。会社の財務を詳しく見られる方に、お知り合いはいらっしゃいませんか?」
「また随分と簡単に聞くわね」
「久世さんのように、一人くらい転がっておりません?」
「優秀な人材を道端の石みたいに言わないの」
美咲は呆れながらも、娘が何を求めているのか詳しく聞いてくれた。
玲奈は東雲精機について、自分が確認したい内容を説明する。
会社の売上や利益だけではない。
借入金。
手元資金。
毎月のお金の流れ。
設備更新に必要となる資金。
主要顧客への依存度。
そして現在の価格設定で、本当に利益が残っているのか。
「数字を見せていただけることになったとしても、わたしでは見落とすものが多いと思います。ですから、最初から専門家に確認していただきたいのです」
美咲は少し考え込んだ。
彼女は玲奈が生まれる前、銀行で働いていた。
退職してから時間は経っているものの、当時の人間関係が全てなくなったわけではない。
「一人、いるにはいるけど……」
「本当ですか?」
「まだ銀行にいる子。私の後輩だった人で、今は法人関係の仕事をしてるはずよ」
玲奈の表情が明るくなった。
「ぜひ、お会いしたいです」
「ちょっと待って。向こうにも仕事があるのよ。それに銀行員だからって、勝手に他の会社の情報を持ってきてもらえるわけじゃないからね?」
「もちろん承知しております。東雲精機から正式に開示された資料だけを確認していただければ十分です」
「……そこまで分かってるならいいけど」
美咲は苦笑しながらスマートフォンを取り出した。
その人物の名前は、橘沙耶香。
二十九歳。
美咲が銀行員だった頃の後輩で、現在も同じ銀行に勤務しているという。
ただし美咲は、すぐに東雲精機の話を持ち込まなかった。
まず個人的に連絡を取り、娘が企業経営や投資について勉強しており、実際の企業への出資まで検討していること。そのため財務について相談したいと伝えた。
返事が来たのは、その日の夕方だった。
「会ってくれるって」
「いつです?」
「玲奈ちゃん、食いつきすぎ」
「優秀な方なのでしょう?」
「仕事はできるわよ。少なくとも、私よりずっと法人のお金を見るのには慣れてる」
「では、なおさらです」
美咲は娘の勢いに少し不安を覚えながらも、翌週の日曜日に会う約束を取り付けた。
場所は天城家だった。
玲奈が未成年であることに加え、まだ正式な案件として銀行へ持ち込む段階ではない。まずは美咲の知人として、玲奈が何を考えているのか話を聞いてもらうことになった。
そして日曜日。
玄関の呼び鈴が鳴ると、美咲が一人の女性を連れてリビングへ入ってきた。
黒髪を肩ほどで揃え、落ち着いた雰囲気の女性だった。休日ということもあって堅いスーツ姿ではなかったが、玲奈を見る視線には銀行員らしい慎重さがある。
「久しぶり、沙耶香ちゃん。こっちが娘の玲奈」
「初めまして。橘沙耶香です」
「天城玲奈と申します。本日はお休みのところ、お時間をいただきありがとうございます」
玲奈が立ち上がって頭を下げると、沙耶香も軽く頭を下げた。
「こちらこそ。美咲さんから、面白い相談があるって聞いてます」
そう答えながらも、沙耶香は玲奈を観察していた。
美咲から聞いた話では十四歳。
企業経営に興味があり、株式投資もしていて、今度は中小企業への出資を検討している。
文章にすれば相当変わった中学生だが、沙耶香としては最初から全てを額面通りに受け取るつもりはなかった。
「それで、今日は何を聞きたいのかな?」
口調も自然と、年下へ向ける柔らかなものになっていた。
玲奈は気にすることなく、自分のノートを机へ置いた。
「ある製造業の会社について、出資、あるいは将来的な事業承継を検討しております。ただ、公開情報と工場見学だけでは判断できないため、財務資料を確認する場合に何を見るべきなのか教えていただきたいのです」
沙耶香の表情が少し変わった。
「事業承継?」
「はい」
「株を買いたいっていう話じゃなくて?」
「上場企業ではございませんので、市場で株式を購入することはできません。相手の経営者が第三者への承継を希望されるのであれば、株式譲渡なども選択肢になると考えております」
沙耶香は美咲を見た。
美咲は何も言わず、少し困ったように笑っている。
「……本当に玲奈ちゃんが考えてるの?」
「だから言ったでしょう?」
「いや、聞いてはいたんですけど」
沙耶香は玲奈の前に置かれたノートへ視線を落とした。
「見てもいい?」
「もちろんです」
ノートには、東雲精機の名前はまだ書かれていなかった。
正式に相談を依頼する前であるため、今回は会社名や特定につながる情報を伏せ、一般化した状態で質問を用意している。
現在確認できている強み。
公開情報から分かる事業内容。
工場を見て気になった設備更新。
技能継承。
価格設定。
さらに、財務資料が開示された場合に確認したい項目が並んでいた。
「売上高、営業利益、現預金、借入金……主要取引先ごとの売上割合、設備投資履歴、修繕費……」
沙耶香はページをめくる。
「これ、全部玲奈ちゃんが?」
「はい。ただし、インターネットや書籍で調べた内容も含まれておりますので、重要度が分かっていないものもあります」
「売掛金の回収期間まで書いてあるけど」
「売上が計上されても、お金が入ってこなければ資金繰りに影響するのでしょう?」
「まあ、そうだけど……」
沙耶香はそこで初めて、玲奈へ向けていた態度を少し変えた。
相手が十四歳だからといって、難しい言葉を避ける必要はなさそうだった。
「じゃあ、まず一つ。会社を見るときに、利益が出てるかどうかだけ確認すればいいと思う?」
「いいえ。利益が出ていても現金が不足する場合はあると理解しています。また、一時的な資産売却などで利益が増えている可能性もありますから、利益の中身も見る必要があると思います」
「借金は少ない方がいい?」
「必ずしもそうとは思いません。返済可能な範囲で、利益を生む設備へ投資するための借入なら、借金があること自体を悪いとは考えておりません」
沙耶香はもう一度、美咲を見た。
「美咲さん」
「なに?」
「この子、本当に十四歳?」
「産んだ私に聞かないでよ」
玲奈は二人のやり取りを眺めながら、お茶を一口飲んだ。
「年齢確認は最近よくされますので、お気になさらず」
「よくされるんだ……」
そこから沙耶香の質問は、少しずつ難しくなった。
売上が増えているのに現金が減る場合。
一社への売上依存が大きい場合。
社長個人の人脈で取引が維持されている場合。
簿価上は価値が残っている設備が、実際にはほとんど使えない場合。
逆に帳簿には大きな価値が出ていなくても、会社にとって重要な技術や人材が存在する場合。
玲奈は答えられるものには答えた。
分からないものについては、素直に「分かりません」と言った。
そのたびに沙耶香が説明し、玲奈はノートへ書き込んでいく。
「じゃあ、一番大事な質問。もしその会社を買ったとして、買った直後に設備更新で大きなお金が必要になったらどうする?」
「買収価格とは別に、その後必要になる資金まで計算します。会社を買うことだけで手元資金を使い切るのであれば、買わない方がよろしいでしょう」
「そう。会社って、買ったら終わりじゃないからね」
「むしろ、買ったところから始まるのでは?」
沙耶香はそこで小さく笑った。
「美咲さん。思ってたよりずっと本気ですね、この子」
「だから最初から言ってるのよ」
「中学生が会社買いたいって聞いたら、普通はもう少し疑いますよ」
「それについては、あなたの反応が正常だと思うわ」
玲奈自身も、美咲の意見には同意した。
年齢だけを理由に能力を否定されるのは好まない。
しかし十四歳の人間が企業買収を検討していると言われて、何の確認もせず信用する方が危険である。
「橘さん。では、改めてお願いがございます」
「なに?」
「今後、相手企業から財務資料を開示していただけることになった場合、一緒に確認していただけませんか?」
沙耶香は即答しなかった。
「それは、どういう立場で?」
「そこから相談したいと思っております。お仕事として依頼する必要があるのであれば、当然報酬はお支払いします。ただ、橘さんがお勤めの銀行との関係もございますから、個人的に依頼できないのであれば別の方法を探します」
沙耶香の表情が少し真剣になった。
「そこは確認しないと駄目。私も銀行員だから、個人で勝手に企業買収の仕事を受けるわけにはいかないし、相手の会社がうちの取引先なら余計に慎重になる必要がある」
「承知しました」
「ただ、もし本当に買収や事業承継まで考えるなら、銀行だけじゃなくて税理士や会計士、弁護士も必要になると思う。契約だけじゃなく、税金や簿外債務まで見ないと危ないから」
「簿外債務……」
「帳簿を眺めただけじゃ分からない問題もあるってこと。未払いの残業代とか、訴訟の可能性とか、保証とかね。買ってから『知りませんでした』じゃ済まないものもある」
玲奈はすぐに書き留めた。
また一つ、自分だけでは見つけられなかった項目が増える。
それを嫌だとは思わなかった。
むしろ、面白かった。
「やはり専門家は必要ですね」
「絶対必要。玲奈ちゃん、まさか全部自分でやろうとしてた?」
「いいえ。できないことまで自分でするほど、自分を過大評価しておりません」
「……それ言える十四歳、なかなかいないと思う」
「できる方へお金を払えばよろしいでしょう?」
玲奈にとっては、直人と出会った頃から変わっていない考え方だった。
自分にはできない。
相手にはできる。
ならば、その能力に正しい対価を払えばいい。
玲奈は沙耶香が書き加えてくれた項目を見ながら、ふと顔を上げた。
「お母様」
「なに?」
「この方、いただけませんこと?」
「人を物みたいに言わないの!」
美咲の声がリビングに響いた。
沙耶香は一瞬きょとんとしたあと、意味を理解して笑い出した。
「私、買われるんですか?」
「そのような意味ではございません。今後もお仕事をご一緒できれば、とても助かると思っただけです」
「だったら普通にそう言いなさい!」
「端的に表現したのですが」
「端的すぎるのよ!」
しばらく笑いが続いたあと、沙耶香は改めて玲奈のノートを見た。
「まあ、銀行との関係もあるから約束はできないけど、相談できる範囲なら美咲さん経由で聞いて。正式に案件になったら、そのときはちゃんとした形を考えよう」
「ありがとうございます」
玲奈は満足そうに頭を下げた。
その日の夜。
玲奈は自室で、沙耶香から教わった内容を東雲精機用のノートへ移していた。
見るべき数字は増えた。
しかし、それ以上に大きかったのは、数字の意味が少しずつ見えてきたことだった。
売上があるから安全ではない。
利益があるから優良でもない。
借金があるから悪い会社とも限らない。
数字は答えではなく、会社の中で何が起きているのかを探すための手掛かりなのだ。
そして、その数字の向こうには人間がいる。
東雲精機には、およそ五十人の社員がいた。
もし玲奈が株を買うだけなら、株価が下がったときに損をするのは基本的に玲奈自身である。
しかし会社そのものを引き継ぐなら、それでは済まない。
判断を間違えれば、五十人の仕事に影響する。
その家族まで含めれば、さらに多くの生活へ繋がっている。
「会社を買うということは……五十人分の責任も、一緒に買うということですか」
玲奈はノートへ書き込んだ。
前世でも、多くの人間を管理してきた。
領地の収支を読み、使用人を配置し、商人と交渉し、領民の生活を守るために働いた。
だが、あの頃とは決定的に違う。
あのときの責任は、生まれた瞬間から与えられていた。
公爵令嬢だから。
王太子の婚約者だから。
将来王妃になる人間だから。
誰かに決められた役割を果たすため、責任を背負うことが当然だと思っていた。
今度は違う。
東雲精機を買わなくても、誰も玲奈を責めない。
五十人の人生を背負う義務など、最初から存在しない。
それでも自分から手を伸ばすのであれば、その責任まで含めて欲しいと思える会社でなければならない。
玲奈はノートの最後へ、一つの問いを書き加えた。
――わたしは、この五十人分の責任まで引き受けて、東雲精機が欲しいと思えるのか。
まだ答えは出なかった。
だからこそ、感情ではなく数字を見る必要がある。
数日後、美咲のもとへ東雲精機から連絡が入った。
前回の見学で玲奈が尋ねた内容について、隆一も顧問税理士と相談したらしい。
すぐに全てを開示することはできないが、秘密保持について正式に取り決めたうえであれば、過去数年分の決算書や借入状況、主要取引先の構成などを見せても構わないという。
美咲からその話を聞いた玲奈は、すぐには喜ばなかった。
「……お母さん」
「なに?」
「橘さんへ連絡していただけますか?」
「まずそこなのね」
「はい。ここから先は、わたし一人で数字を見るべきではございませんから」
工場を見て、技術へ興味を持った。
そして次は、その技術を支えている会社の数字を見る。
東雲精機を買うかどうか。
その判断は、まだずっと先にある。
けれど玲奈は初めて、自分が会社を所有するという未来を、単なる知識ではなく現実の選択肢として考え始めていた。




