後編
数日後、私はラナの自室にいた。私の冷たく寒い部屋とは違い、明るい色と温かな光で照らされた空間。貸してくれた鶏の羽毛で出来た膝掛けはあまりに温かく、その手触りに気を抜くと顔を埋めて眠ってしまいそうになる。僅かに隙間の空いた換気窓から、仄かな干し草の匂いが運ばれてきて、それをかき消すようにお風呂上がりのラナから漂う石鹸の香りが部屋には満ちていた。
「あー、今日も疲れたねえ。アリア、泊まってくれてありがとう」
「ううん。ラナの家に泊まるの久しぶりだね。おじさまとおばさま、お店で遅くなるの?」
「そう、団体さんの貸切だって」
シュネーはラナが用意した卵を入れるための網籠の中で、毛布に潜り込んで寝息を立てている。私はその隣に座り込みながら、星詠の書を読んでいた。読んでいた、と言ってもまともに読めるような内容じゃないので、ただ開いて頭の中に星の運行を組み立てていただけ。暗くなった窓の外には、ラナが子守唄にしている鶏たちの鳴き声が遠くから響いていた。
「……ねえ、いつもこんな賑やかだっけ?」
「うーん、確かにいつもより騒いでる気がするねえ。鶏舎の灯り消し忘れたのかな」
「見に行く? 火事になったら大変……あれ、シュネー?」
今さっきまで眠り込んでいたシュネーが、後ろ足で立ち上がって耳と尻尾をピンと立てている。珍しい、いつもだらっと寝転がってるか丸まっているのに、どうしたんだろう――と、思っている間に急に私の服の袖に噛みついて、ぐいぐいと引っ張り始めた。
「な、なになに、どうしたの。ラナ、シュネーの様子がおかしいの。何か伝えたいみたい」
シュネーを抱きかかえると、高い声を出して腕の中で暴れ出す。こんなこと、今まで一度もなかった。どうしたんだろう。
そのとき、鶏の声に混じって一際大きな音が響き渡った。私たちは驚いて、思わず顔を見合わせる。
「……もしかして鶏舎で何かあったのかも。アリア、外に出よう」
頷いて、私たちは急いで家の外へと飛び出す。鶏舎までは少し距離があるけれど、騒いでいる鶏の声がはっきりと聞こえてくる。まるで私たちの心まで凍らせるような風が強く吹いて、丘を通り抜けていった。辺りは暗闇に沈んでいて月も見えない。けれど幼い頃からずっと星を見ていた私は、視力には自信があった。少し場所を変えれば、鶏小屋の様子が見えるだろう。
「ラナ、裏庭に行こう。私ならそこから鶏舎が見える」
うん、と頷くラナと共に建物の裏へと走る。開けた視界の奥に、暗く影を落とす鶏舎が見え――
「——嘘でしょ」
ない。そこにあるはずの鶏舎が見えなかった。代わりに視界に飛び込んできたのは、崩れた建物の上で、大きく翼を広げる異形の生き物。
魔物。
その見た目から、私は即座に種別を判断する。蛇のような頭頂部に、発達した巨大な耳。鳥のように鋭く伸びた鉤爪で獲物を捉える。そして何より、広げると自身の何倍にもなる桁違いに大きな両翼。
《翼蛇》ザイオン。
「ラナ、逃げ——」
ああ、なんてこと。私は見た目の特徴よりも、その魔物の持つ特性に絶望する。ザイオンは、人類が飛行魔法を諦めざるを得なかった最大の要因。書曰く、視力は衰えているが、代わりにその発達した耳は山を超えた先の魔力を察知し、そしてその巨大な翼でもって――
音を超えて、飛行する。
「きゃああああああ!!」
ラナの悲鳴が暗闇に響く。けれど気づいたときにはもう遅い。何もかもが間に合わない。音速を超えて私たちを襲い来るザイオンに、私たちはなす術などなかった。ただ、ただラナだけはなんとか助けようと、私は反射的に彼女を突き飛ばしていた。魔物は本能的に、より魔力のある生命を襲う。私を認識しているうちは、私の息の根を止めるまで私を狙うだろう。地面に投げ飛ばされたラナの呻き声と、襲い来る一瞬の衝撃。ザイオンの耳をつんざくような奇声に大気が震え、鼓膜が潰れるような鋭い痛みに私は悲鳴を上げる。世界が音を失うような錯覚に、息が詰まって呼吸が止まりそう。遅れたように全身に感じる経験のない痛みと絶望が、全ての感覚を麻痺させてゆく。
「アリア、アリア! やめて! アリアを殺さないで! 誰か助けて! 誰か!」
透明な壁の向こうから、ラナの叫び声が聞こえる。早く逃げて。駐在騎士か魔法使いを呼んできて。声を出したいのに、掠れた喉はかろうじて呼吸をするだけしか動かない。シュネーはどこだろう。無事かな。衝撃で靄のかかっていた頭が、痛みで無理やり現実に戻される。強烈な血の匂いが鮮明に鼻につく。口の中の土を反射的に吐き出す。ああ、地面に叩きつけられたんだ。体の上に、感じたことのない絶望的な重み。私を獲物と認識したザイオンに、鉤爪で身体を拘束されている。そうだ、このまま空高く持ち上げた後に、地面に落として獲物を殺すのがザイオンだ。落下する人間の叫び声を楽しんでいる。
ラナだけでも助けたい。私を殺した後、ザイオンはすぐにラナを狙うだろう。私が犠牲になってラナが助かるならそれでいい。けれど、このままだと二人とも殺される。丘の中腹での異変に街が気付くのはまだ時間がかかるだろう。助けは期待できない。どうしよう。どうしよう。何もない。私には何もできない。この状況を何とかできる方法が、何も思い浮かばない。
ああ、魔法が使えたら。この圧倒的な暴力の顕現を吹き飛ばすほどの魔法。奇跡的に杖を握りしめていた。私は大気中の魔力と自身の魔力を集中する。ああ、頭が痛い。割れるように痛い。けれど、割れてもいい。もうどうなってもいい。魔力を察知したザイオンが爪に力を込める。身体の内側から骨が軋む音がした。痛い。痛い。全身が痛い。喉が張り付いて一言も発することが出来ない。
込めた魔力が、ゆっくりと、確実に霧散していく。
——やっぱり、私には何も出来ない。
瞳から涙が溢れる。悔しい。結局私は、何一つ魔法を使うことなく死んでしまう。ラナを救うこともできない。私はどうして、おばあちゃんの孫として生まれたんだろう。出来損ないのリターは所詮、何も成せないリターでしかない。星の運行ほど完璧な秩序は存在しない。リターにはリターにしか成せない役割がある。そんな言葉たちがぐるぐると脳内を巡って、涙となって零れ落ちる。まるで私を嘲笑うような肺を潰される痛みに、苦しくて喉が裂けるような声が漏れる。思わず閉じていた両目を開けた。ザイオンの黒光りする鱗が視界を覆う。
その絶望の隙間から、夜空に輝く星を私は無意識に捉える。瞬くように明るく光る、冬の一等星、シュネー。その美しさに重なって、まるで走馬灯のように、私の脳裏にかつての《星詠の魔女》の声が流れ込んでくる。
『――アリア、よく聞きなさい。人の体を巡る魔力はオド。大気を満たす魔力はマナ。けれど、どちらも本質は変わらない。全てはもっと巨大な円運動の中にある。私たちの星は太陽を周り、太陽自体も更に大きな星を中心にして巡っている。アリア、心の中に星を見るんだ。自身の魔力の多寡なんて些末なこと。いいね、全ては心の中にある。私たちは信じられないほど大きな円運動の中にいて、その巨大な円運動すら、私たちの心の中にあるものだ。その本質を理解すれば、私たちは――あの星の魔力すら扱える』
視界の端で、淡く光る何かが見えた。ああ、星詠の書だ。おばあちゃんの懐かしい魔力を感じる。私は絶望の中で、その輝きに縋るように手を伸ばす。暗闇の中の光に指先が触れる。
——光が弾けるように私を覆う。
瞬間、頭の中に膨大な知識が流れ込んできた。頭の中を、自分のものではない情報に支配される感覚。けれどこれは……一等星シュネーだ。凍てつく冬の恒星に関する、精巧で揺るぎない圧倒的な知識が、私の中を冷たく満たしてゆく。
書の知識が全身に溢れゆくのを感じながら、私はその恒星から目が離せない。淡く黄色いシュネーの光が瞳に落ちる。夜空の星が、心の中まで落ちてゆく。
——心の中に星を見る。
かちり、と何かが外れるような音が聞こえた。
冷たい空気が肺を満たす。輝く星の精巧な運行図が無意識に頭の中に描かれて、その光の軌跡が、手に取るように理解できた。ああ、その図はまるで魔術式だ。シュネーという恒星の円運動が、心の中で式を描いてゆく。
……そうか、これが、魔法の真理。
ザイオンの鉤爪が、私の身体を宙に持ち上げる感覚。けれどその激しい痛みすら忘れてしまうほどの知識の奔流に、まるで時間そのものが静止したかのような錯覚。ああ、星の軌道が魔術式として、完璧な秩序をもって組み上がってゆく。なんて美しく完璧な光だろう。私は握りしめた杖に全てを集中して、再び魔力を集めてゆく。それは自身の魔力でも、大気に満ちる魔力でもない。ただ、私たちを巡り私たちの中に宿る《星》の魔力。
——そう、今なら、私はあの星の魔力すら扱える。
瞬間、今までに感じたことのない爆発的な魔力の奔流が身体を巡る。
黄金色の暴風にローブがはためいて大きな音を立てる。私はその溢れ出す魔力全てを、杖に集中する。魔力を扱うといつもは割れそうに痛む頭が、今は驚くほど冴え渡っている。時間が限界まで引き延ばされて、あらゆる動作が遅延したかのように緩慢に見える。骨の軋む痛みも吐きそうな胃液も、口の中の血の味も、何もかもが遠く感じた。私はただ、ただ杖に魔力を込め続ける。杖を中心に渦巻く膨大な魔力の奔流に空気が震え、ザイオンが怯むように僅かに鉤爪の拘束が緩んだ。その隙を、引き延ばされた時間の中で、私の瞳は確かに捉えた。
私は喉を震わせる。掠れた声で呟くように唱える。
「——光の第六魔法《雪星》」
魔法が、放たれる。衝撃で杖が砕け散る。
解き放たれた光の魔法は、輝く星の光となって瞬く間にザイオンを飲み込んだ。その巨大な翼も世界を震わせる奇声も全てを光の中に飲み込み、その軌跡は凍える冬の夜空を明るく染めた。
そして、静寂な世界に光が降り注ぐ。それはまるで、音もなく落ちてくる雪のよう。
ああ、世界が光に包まれてゆく。
夢を見ている。音は聞こえない。
ただ、降り注ぐ星の光があまりにも綺麗で。
私は、その光を浴びながら、ただ静かに涙を零した。
——『第二章 心の中に星を見る。』




