前編
「おばあちゃん、何を書いているの?」
「これはね、私の全て。そして私があなたに与えることのできる、数少ないもの。あなたが心から魔法を使いたいと願うとき、きっと力になってくれる」
「でもわたし、魔法使えないよ」
「ええ。使わなくてもいいの。あなたの人生はあなたのもの。けれど、どうしても必要になる日が来るかもしれない。この書はあなたへの選択肢よ。いい? 迷ったら星を見上げて。星の光があなたを導くわ」
その言葉を私に託して、おばあちゃんは星詠の書を書き上げた。
そうして、満足したよう星の海を渡ってしまった。
夢を見ている。音は聞こえない。ただ、降り注ぐ星の光があまりにも綺麗で。
私は、その光を浴びながら、ただ静かに涙を零した。
◇
「シュネー、どうしようね。全然わかんないね」
机の上に広げた星詠の書の上で、ごろんと寝そべるシュネーのお腹を私は指でつついた。時刻はまもなく日付が変わる頃。シュネーは古いインクの匂いが好きだ。加えておばあちゃんの魔力が込められているこの魔導書は、きっととても居心地いいのだろう。でも私は、頭痛と戦いながらも書の解読がさっぱり進んでいなかった。複雑な魔法の術式と星の運行図はそのまま難解な暗号のようで、何が正解かもわからない。私はいらない羊皮紙の隅っこにオコジョの絵を落書きしながら、果たしてこの書を解読できる日が来るのだろうかと悩み始めていた。
サヴァン先生と会った日から数日、私は自分にしか出来ないという決意をもって星詠の書の解読に明け暮れた。冷たい空気の溜まった自室に閉じこもり、ラナが食事を誘いに来るまで時間を忘れて魔術式を分解し組み立て、霧の中で星を探すみたいに書の中を彷徨い続けた。けれど、いくら手を伸ばしても届かない。見えない。
私は左手のブレスレットを触りながら、遠い日に見たおばあちゃんの美しい光の魔法を心に描く。淡く光る自分の手から、蛍のように宙を待った星の光。その静謐な原風景に、私はもう一度辿り着きたかった。
「ん、どうしたの。その石、気になる?」
カタカタと鳴った音で私は現実に意識を戻す。机の上の、サヴァン先生からもらった鉱石をシュネーが鼻でつついて転がしている。魔力もなくて媒介にもならないリター鉱石なのに、何かシュネーが惹かれる匂いでもするのかな。
私はシュネーの転がすその黒い鉱石を摘んで、そっと元の場所に置いてみた。するとすぐにまた鼻で転がして、移動させようとする。しばらく見ていると、書物の淡く黄色い羊皮紙の上を器用に転がしながら、やがて動きを止めて短く鳴いた。もう一度石を動かして見ると、シュネーは再び同じ場所に石を持ってくる。尻尾をぱたぱたと上下に揺らしているのは、明らかに何かを伝えようとしている。私にはそうとしか思えなかった。
シュネーが石を置いた箇所を読んでみる。天体に関する記述。けれどよく見ると、シュネーが教えてくれたその記述の周りだけインクが微かに淡く、文字が霞んで見えた。私は急いでランタンの灯を明るくして、目を凝らして書をよく観察する。やっぱり、インクの濃さが均一じゃない。書いているうちに掠れて薄くなったのではなく、明らかに特定の箇所や記述、単語だけが僅かに薄かったり濃くなったりしていた。
「どうして気づかなかったんだろう……」
私は湧き上がる静かな興奮を抑えるように、シュネーの背をゆっくりと撫でる。それから深呼吸を一つして、引き出しから羊皮紙の束と新しいインクの瓶を取り出した。さて、いったいどれくらいかかるだろう。徹夜すれば朝には終わるかな。終わったら思いっきり眠って、起きたらラナと甘い卵菓子を食べよう。
そう決意して、私はそのインクの濃淡で分けられた単語や記述を、ひたすら羊皮紙に書き写し始めた。
気温の落ちた部屋に、ペンが羊皮紙の上を走る音が響き渡る。私もインクの匂いは好きだ。集中力が上がる気がする。シュネーはしばらく黒い鉱石を転がして手伝ってくれていたけど、すぐに飽きたのか今はフードの中で丸くなり寝息を立てていた。私は何度もペンをインクにつけて、目を凝らして書き写していく。そんな作業を数時間も続けていると、いくつか特定の法則があることに私は気付く。薄いインクの単語は星の運行に関する専門的単語が多く、濃いインクは魔術的な要素が多い。アナグラムや、更に濃と淡の二つの組み合わせで文章が出来上がる可能性もある。けれど、複雑に考えすぎてもまた霧の中を歩くだけだ。常に秩序を持って冷静に、迷ったら星を見上げること。おばあちゃんの教えが、きっと私を導いてくれる。
そうして私は夜が明け太陽が登り、眩い光が部屋の中をゆっくりと温めるまで、ひたすら星詠の書を解読し続けた。
「——それで、そんなに拗ねているわけね」
机の上に倒れ込むように眠り込んだ私は、家にやってきたラナに揺り起こされた。私は気絶するまで暗号を解読し続けたこと、そしてついにその全てを読み解いたことを告げる。
「そう、そうなの。ほんと、信じられない。この《星詠の書》には、全天に十七ある一等星についての記述と、その詳細な運行についてしか書いていない。いったい私のこの数日間は何だったの」
「でも、セレネス様が残した魔導書なんでしょう?」
「そうだけど。でも、こんなのヴィスタリア天文学院の発刊してる天体解体百科と何も変わらない。おばあちゃんは何を伝えたかったんだろう」
疲れと落胆で私は頭が痛くなる。ああ、細かい字を見すぎて目を酷使したせいかもしれない。ラナはそんな私の頭を撫でて慰めてくれた。
「ラナ。とりあえず私は、脳が溶けるくらいの甘い卵菓子が食べたいわ」
「うん、じゃあうちの店行こ。私のおごり」
やった、と思わず私は声を出した。ラナの家は養鶏場だけど、彼女の父親は同時に鶏料理店も経営している。ラナは食べ飽きてるから行きたくもない、と一緒に赴くことは少ないけれど、たぶんラムハトにある飲食店の中では最も美味しいと思う。私は急いで顔を洗って髪を梳かし、身支度を整えてローブを羽織った。フードの中にいたシュネーが急に振り回されて抗議の声を上げるけれど、ラナのお店に行くよ、と伝えると尻尾を振って高い声を出した。シュネーはあのお店の美味しさを、私が生まれる前から知っているのだ。
私たちは洋館を出る。冷たい風が吹き付けて、徹夜明けの私の体温を奪ってゆく。けれどその寒さが未だぼうっとする頭を覚醒させるようにも感じた。ラナのお店はラムハトの飲食店が集まる裏通りの一角にあって、この時間はまだ開けてない店も多く辺りは閑散としている。
「ただいまー、アリア連れてきたよ」
カラン、と音を立てて、ラナが《黄金の麦鶏亭》と掘られた古く年季の入った扉を開ける。中はカウンターの他にテーブルの席が三つあるくらいの小さな店内で、煉瓦色の壁には天井から吊るされた橙色に煌めく光が乱反射していた。外の冷たい空気を全く感じさせない暖炉の温もりに、薪の小さく爆ぜる音が聞こえてくる。一歩踏み入れた瞬間から漂ってくる香ばしいパンの香りに、私は自分の胃が急激に刺激されるのを感じていた。
「ああ、こんな時間に客かと思ったらお前か。アリア、いらっしゃい」
「おじさま、お邪魔します」
奥の厨房から、大きな身体を揺らしながらラナのお父さんが顔を出す。ラナと同じ明るい髪色は短く刈り揃えられ、私を見る瞳は穏やかな光を湛えている。革のエプロンは深く焦げた茶色に変色し、まるでこの店の歴史そのものみたいだ。
「お父さん、アリアに卵菓子作ってあげて。頭溶けるくらい甘いやつがいいって」
「ああ、いいよ。好きなとこ座って待ってな。お前は?」
「私はいいや、ロアの実パンにバター塗りたくって出して」
「それなら自分で好きなだけ塗って持ってけ」
そう言っておじさまは奥へと姿を消した。お客は私たちの他に誰も居なくて、奥にある日当たりのいい窓辺の席に私は座る。それから、漂っている麦の匂いを吸い込んだ。ああ、落ち着く、とついため息をつく。ラムハトは麦の街だ。だからそこで育った鶏や牛たちは栄養のあるラムハト麦を飼料としているし、様々な種類の麦酒もさかんに作られている。私は他の街を知らないけれど、食文化はきっと王都に引けを取らない。そんなラムハトでも、この《黄金の麦鶏亭》はおそらく最も美味しい料理店の一つだった。
「ラナ、そんなにバター塗ったらバターの味しかしないよ」
「それがいいのよ。焼き立てのパンには手で持てなくなるくらいバター塗らなきゃ」
卵菓子が蒸し上がるのを待っている間、ラナがバターでべとべとになったロアの実パンを頬張るのを私は見ていた。フードから出てきたシュネーが、鼻をひくひくさせながら机の上で寝そべる。ラナとシュネーのいる、日当たりが良くていい匂いのする温かな場所。このあまりに居心地のいい日常が、ただ永遠に続けばいいと私はただ願わずにいられなかった。
「アリア、おまたせ。砂糖五割増で作ったよ。こっちはシュネーにな」
「おじさま、ありがとう。ああ、とても美味しそう……」
やがて運ばれてきた、黄金に輝く卵菓子。卵と牛乳と砂糖だけ、というシンプルすぎる材料からは考えられない完成されたお菓子だ。スプーンでつつくと、固められた卵液が皿の上でスライムのように揺れる。その視認性すら愛おしい。一緒に運ばれてきた小皿にはシュネーのために小さく細切りにされた鶏肉が、丁寧に炭で焼かれ踊るような湯気を立てていた。
尻尾を揺らして喜ぶシュネーに、火傷するから後でね、と言い聞かせる。そして私は卵菓子を口に運んだ。ああ、甘い。なんて甘いんだろう。頭の隅々まで糖分が行き渡る感覚。星詠の書の解読で使い切った体力が、急速に回復していく気がする。食べ切ってしまうのがもったいない。私は全身でその甘さを味わうように、ゆっくりと時間をかけてそのとろける卵菓子を堪能した。
ふと、カラン、と音を立てて扉が開いた。私の意識は急速に現実に引き戻される。視界の端で、男性らしき影が店に入ってくるのが見えた。
「いらっしゃい。お一人様ですか」
「ああ、いいかな」
その声に、私は聞き覚えがあった。机から身を乗り出して、カウンターに座ったその男性を視界に捉える。古そうな濃い茶色のコートに、白髪混じりの灰色の髪。うん、間違いない。
「サヴァン先生だ」
「え、ほんと?」
私のあげた声に、ラナがパン粉だらけの口を拭きながら反応する。そして同時に、サヴァン先生も私の声に気付く。
「おや、聞いたことのある声だ。この間の二人だね。こんなところで会うとは賢者の導きだ」
振り向いたサヴァン先生が、私たちを見つけて手を上げた。ラナは立ち上がって、嬉しそうに先生に話しかける。
「ここ、私のお父さんの店なの。お父さん、この人私たちの知り合いなの。一番美味しいの出してね」
「なんと、素晴らしい偶然だ、賢者に感謝せねば。ああ、じゃあこの店で一番美味しい料理を。あとは麦酒だな」
こんな時間から飲むの、と言うラナにこんな時間に飲むから美味いんだ、とサヴァン先生は応える。
「ラナ、卵菓子分ちょっと手伝え」
「仕方ないなあ。 二人とも、ゆっくりしていってね」
厨房からおじさまに呼ばれて、ラナがエプロンをつけながら厨房へと姿を消す。小さな店内には、私とサヴァン先生だけが残された。
「せっかくだ、料理が来るまで何か話をしないか。また石でも担保にしようか」
サヴァン先生が、カウンターから私の座っていた机へと場所を変える。私は正面に座ったサヴァン先生をあらためて観察した。白髪混じりの灰色の髪は、ぼさぼさだけど薄くなっているわけじゃない。年齢はいくつくらいなんだろう。よく見ると瞳も灰色で、右の眉の下に小さな古い傷がある。机の上で組んだ手は浅黒く、少し肌が荒れていた。
「いえ、石はもういりません。先生との話は私の得となりました。その結果がこれです」
「ふむ、これは……」
「星詠の書、という魔導書の、その解読書です。おばあちゃんが私のために作った魔導書で、その書の解読こそ、私にしか出来ないことだと思ったのです。リターなりの答えでした」
私はサヴァン先生に、徹夜で書き上げたその書を見せる。先生はその灰色の瞳を輝かせて興味深そうにページをめくり、しばらくして、なるほど、と小さく声を出した。
「それで、ここでそんな甘いものを食べているのか。期待外れだったのだね?」
「……その通りです。見ての通り、一等星の一覧書です。私に星占いでもしろ、ということでしょうか」
話しているうちにまた少し悲しくなって、私は黄色く輝く卵菓子を口に頬張る。ああ、甘い。甘さは全てを解決する。私は机の上にあった珈琲用の砂糖を更に上からかけ、じゃりじゃりと口の中で音を立てながら卵菓子をやけ食いした。
「ねえアリア、バターかけまくる私が言うのも何だけど。そんな食べ方したら砂糖の味しかしないじゃない。はい、おまたせ」
「いいの。砂糖の味を求めているの。先生、麦酒ですよ」
私はラナが運んできた麦酒と料理を先生の前に置く。皿の上には丁寧に炙られて薄紅色になった新鮮な鶏肉が、花びらのように並べられていた。
「おお、すまんな。ありがとう。まあアリア君。自分の求めているものが、簡単に手の中に落ちてくることは少ない。ふとした瞬間、身構えて居ない時にこそ突然やってくることもある。特に書とはそういうものだよ。いずれ君がその書を必要とする時が来るかもしれん。あの魔女の作った魔導書が、ただの星の解説書ということはないだろう。……なんだこれは、美味すぎる。信じられん旨味だ」
話を中断して運ばれてきた料理を食べた先生が、驚きのあまり声を上げた。私は自分が作ったわけでもないのに、ラナの店の味が認められた気がして嬉しかった。奥から更に料理を運んできたラナが、笑顔を浮かべながら先生に話しかける。
「美味しいでしょ。ラムハト麦を食べて育ったうちの鶏肉は、麦酒との相性抜群なの。まあ、私は飲めないからわからないけど」
「うむ、これはいかんな。酒が進みすぎる。こっちはルプリア香草焼きだね。アリア君、植物学は?」
まるで私を試すかのように、唐突に先生が質問した。私は空になった卵菓子の皿にスプーンを置いて、少し頭を整理するように咳払いをしてから応える。
「書で一通り学びました。ルプリアは王国全土で自生している一年草の有用植物で、様々な料理で香り付けとして使われています。特に肉料理では肉質を軟化させ消化を助けることが知られていて、ルプリア香草焼きは鶏の代表料理として多くの店で提供されている看板料理の一つです」
「素晴らしい。つまり、いま書の知識が君を助けたのだ。求めていた知識を得られなかったからと、嘆くことは決してない。叡智へと至る道は、何気なく食べたルプリア香草焼きの中にもあるのだから」
先生はそう言って麦酒を一口飲んでから、ルプリアの香りを全身で感じるように鶏肉を堪能していた。厨房の奥からは静かな水の音が聞こえてきて、ラナが何か洗い物をしながらおじさまと話している声がする。
私はいま先生に言われたことを、自分の中で何度も繰り返した。私はこの星詠の書を解読した先に、魔法を扱える何かが待っているのだと思い込んでいた。だからこんなにもがっかりしてしまったんだ。
けれど、違うんだね。おばあちゃんの残した星詠の書も、植物学の学術書も、本質は変わらない。その知識はいつか私を助ける知恵となって、私を形作る土台となる。
私はそっと、左腕のブレスレットに指先で触れた。その冷たさも、いつか思い出して私を形作るのだろう。
◇
お読みいただきありがとうございます。
金曜日20時に、後編を更新予定です。




