後編
◇
「博士、待ってください。これは聞いていません、私には無理です」
「無理なものか。ただ着るだけだろう。学院のガキどもと同じ服だ」
私は博士が持ってきたそのエテルノア魔法学院制服を広げて、信じられないものを見るように狼狽えていた。これを、私が着る……? 信じられない、私は自分の着ているローブを強く握りしめて放すことができない。顔が熱くなっているのがわかる。
制服の上品な生地の白いブラウスは、私には少し薄く感じるけれど、まだ耐えられる。けれど、エテルノアの王城を思わせるような白銀色に丁寧に折り目のついたスカート。それは、その、あまりにも——
「み、短すぎます! こんな膝が丸出しになるような丈の服、その、あまりに破廉恥です……!」
「貴族のご令嬢かお前は。どこが丸出しだ、ちょうど膝丈だろう。いいかアリア、この学院に出入りする以上、この学院のしきたりには従ってもらう。お前は正式な学院生ではないが、私の研究生徒だ。この制服はその証だと思え」
ぐぅ、と私は奥歯を噛みしめる。せっかくここまで辿り着いたというのに、私の羞恥心一つで諦めるなんて、出来るはずがない。
「ろ、ローブは着てもいいですよね? 生徒たちはみな真新しい綺麗なローブを纏っていました」
「好きにしろ。お前のその色のローブは目立つとは思うが、生徒に混じって授業を受けるわけでもない。覚悟ができたらさっさと着替えろ」
それは私の最後の防波堤だった。こんなに足が露出している衣服でも、ローブをしっかりと巻き付ければきっと目立たないはず。私はそう自分に言い聞かせて、そのあまりに破廉恥な制服に着替えるために前留めを左手で外し始めた。特に小さく固いボタンの多いブラウスは、私にとって着るのが難しい。外部の魔力操作により魔導手袋をはめた右手は物を掴むことが出来るようになったが、未だ指先の繊細な動きはかなりの集中力が必要とされた。
「うう、恥ずかしい……足が自分の足じゃないみたい」
そうして時間をかけて、ようやく制服を着た自分を見下ろす。いつもはゆるい衣服で隠されている身体の凹凸が必要以上に強調されている気がして体温が上がる。それに、少し動いただけで膝が見えるようなスカートを自分が来ていることが信じがたく、顔が赤色矮星のように赤くなる。私は少しでもその生足が見えないようローブをしっかりと纏い、なるべく小さな歩幅で博士の研究室へと戻った。
「ようやく着てきたか。おい、毎日そんな顔をされては非常に目障りだ、さっさと慣れろ」
「そう言われましても、あ、歩くたびに足に空気がまとわりついて……」
博士の部屋は相変わらず珈琲の香りが漂っていて、それでいて私が光の魔法を放った余波でめちゃくちゃに荒れていた。この部屋の片付けと掃除、そして珈琲の入れ方を覚えることが私の最初の仕事だった。けれどよく考えれば、これはただの雑用係では。私はもしかして、一時の感情でとんでもない契約にサインしてしまったのだろうか。フードから飛び降りたシュネーが荒れた部屋を走り回り、すぐに博士に首根っこを掴まれていた。
「お前にずっとまとわりついているこの小動物は、使い魔か?」
「はい。銀オコジョのシュネーといいます。正確には祖母の使い魔だったのを、私が引き継ぎました」
私は博士からその愛しい毛玉を受け取る。シュネーは博士に怯えたのか、すぐにローブの中へと隠れてしまった。
「使い魔の継承は上位魔法に分類される。お前のような魔力の乏しい者と再契約を結ばせるとは、よほど腕の良い魔女だったのだな」
「そう、だったようです。私には、ただの優しいおばあちゃんでした。王国を導いたとか七色の魔女とか、そういうの、私は何も知らなくて」
私の言葉に、レイン博士は幾度か瞬いた。その瞳は私が何か頭のおかしいことを言い出したと言わんばかりの光を湛えている。
「……おい、ちょっと待て。お前はラムハトから来たと言ったな。そしてその光の魔法に星を宿す魔力。まさかお前の祖母は《星詠》か?」
博士の言葉に、私は静かに頷く。昨日から開け放たれたままの窓から湿った空気が流れ込んできて、ゆっくりと部屋を満たしていく。そうして博士は一度天井を仰いだ後、笑いを堪えるように私に言った。
「これは傑作だ。アベルのクソガキがお前を私に寄越した理由がこれか。あいつはセレネス様の大ファンだったからな。その孫であるお前に熱を上げているわけだ。火属性だけにな」
「ちょっと、何を言っているかよくわかりません……」
アベル様が私に熱を上げたことなんて、かつてあっただろうか。ラムハトでは会うたびにリターリターと私を馬鹿にしてラナと大喧嘩をしていた。と考えたところで、けれどアベル様は確かに私を守るために自分を犠牲にしたのだ、と思い当たる。俺の前で死ぬことは許さん、と言い放って炎に包まれたアベル様を思い出し、私は窓の外の雨雲のように重い気持ちになる。はぁ、と私は首を振って大きく溜息をついてから、床に落ちた羊皮紙を拾い集め始めた。
「まあお前が誰の孫であろうと私は気にしない。そのことで評価が変わることもない。《星詠》の孫を雑用係にしている、という優越感は得られるがな」
「やっぱり雑用係なんですね、私……」
腕いっぱいに抱えた羊皮紙を窓から撒き散らしてやりたい衝動に駆られる。ああ、でも、と私は思う。私を《星詠の魔女》セレネスの孫だと知った上で、それでも、私を私として評価をしてくれる。そんな人だからこそ、アベル様はレインレース博士を私に紹介してくれたのかもしれない。あの赤い瞳に再び魔力が宿る日が来ることを、私は願わずにいられなかった。
◇
私がエテルノア魔法学院の制服に袖を通してから、早くも数週が経とうとしていた。
王都には本格的な雨季が訪れ、重たく暗い雲からは絶えず雨粒が街に降り注ぐ。私は慣れない王都での生活と星が見えない寂しさをラナへの手紙に綴り、ランタンの灯りを落とした。レイン博士が私に用意してくれた部屋は学院の片隅にある小さな倉庫で、いつから使われていないか誰にもわからないらしい。けれど中は簡易結界が施され、埃やカビもほとんどなく私一人が生活するには十分すぎる空間だった。ちょうど腰の高さにある小さな窓からは学院の中庭が見下ろせて、硝子に当たり弾ける水滴が部屋の灯りを透過して乱反射して見えた。
あんなに恥ずかしかったあの制服は未だに慣れないけれど、周りの生徒たちも同じものを着ているという一体感は羞恥心を僅かに和らげてくれた。
そう言えば私の青紫色のローブはやはり学院では目立つようで、倉庫に寝泊まりしているレインレース博士の研究生徒、という肩書はすぐに生徒たちの間に浸透してしまったようだった。私は他の生徒たちと授業を受けたりするわけじゃないからあまり関わりはないけれど、あの初めて学院に足を踏み入れたときの怪訝そうな眼差しを受けることはもうほとんどない。最近では向こうから挨拶をしてくれる生徒もいて、私の狭かった世界がどんどん拡張されていくのを感じる。
学院や王都で見るものや感じたこと、全てが新鮮で、それはまるで月灯りが深闇に私という輪郭を明るく照らし出すようにも思えた。
学院での生活が居心地よく思えてきた一方で、王立図書館での調べ物は遅々として進んでいなかった。過去の資料や文献はそれだけであまりにも膨大な量で、書を読むのが好きな私でも小さな文字の羅列に頭痛がする。厄災、という単語だけならいくつか記述を見つけられたけど、青の魔女についてはさっぱり居所が掴めない。本当に雲を掴むというか水を掴むような話で、それだけイレーネというその青い魔女が伝説的だという証拠でもあった。
そして、ユリというあまりに美しい透明な女性から受け取ったあの銀色のブローチも、一度も魔力的な反応を示したことがない。失くさないでね、また会いましょう、と告げたあの柔らかい声を思い出す。ローブの胸元を飾るその片翼の光を、決して失くさないよう私は常にその存在を確かめていた。
「うーん……シュネー、今日も空振りだね」
その日の夕刻、私は人もまばらになった王立図書館を後にした。シュネーは北部生まれの癖に冷たい雨が嫌いで、この時期はローブの奥に潜り込んでいつにも増して丸くなってしまう。私はそれを愛らしく思いつつ、フードを深く被り、雨が路面を叩く音と街路に佇む紫陽花の色彩を楽しみながら学院へと歩を進めた。
魔法学院の校舎に入ってローブについた水滴をぱたぱたと払う。まだ日が出ている時間だけど、太陽は雲に覆われて辺りはもう薄暗い。私は明日に備えて自分の部屋に戻ろうとして、そこで、ふとシュネーが顔を出して肩に飛び乗ってきた。
「あれ、どうしたの……え、ちょっと! シュネー!」
そのまま飛び降りて全速力で走り出したシュネーを、私は理由がわからないまま走って追いかける。嘘でしょう、ねえ、そんなに早く走れたんだね。いつも丸くなって寝てるだけだから知らなかったよ。まるで追いつける気がしない。
「ちょっと……待って……はぁ、ふぅ」
体力が全くなくて運動音痴の私は、階段を駆け上がっただけで息が上がってしまった。壁に背中をあずけるようにして荒い息を何度も吐き出す。シュネーは、どこまで走って行ったんだろう。校舎にはもう人も少ないし危ないことはないと思うけれど、あの子がこんなに全力で走り出すなんて、一体何があったんだろう。少し落ち着いた息を飲み込むようにして、私は杖を握りしめながら後を追って駆け出した。
校舎の三階、私の暮らす空き倉庫のある階まで駆け上がって、廊下の先にある曲がり角にシュネーの魔力を感じる。キゥ、という聞き慣れた高い鳴き声。そしてその声が聞こえたと同時に、聞こえてきたもう一つの声。
「シュネー! 会いたかったわ、元気にしてた?」
明るく弾けるような少女の声に、応えるような喜ぶシュネーの声。嘘でしょう、と私は自分の小さな胸から心臓が飛び出すのではないかと思うほど激しい鼓動を覚える。その声を、聞き間違えるはずがない。何度も、どこにいても心の中に響いていた。ずっと、私の旅の目的地であり、帰る場所。私は震える足でその廊下の角を曲がる。
「——ラナ?」
「アリア!」
その光を瞳に捉えるより早く、私は彼女に抱きつかれその場に倒れ込んだ。
——『第八章 雨雫の香りが満ちる。』




