前編
——親愛なるラナへ。
お元気ですか。以前、カレスで手紙を書いてから随分と時間が経ってしまいました。
私はいま、王都のエテルノア魔法学院にいます。王都でいきなり全財産を失くしたりしましたけど、なんとか元気にしています。
ここはラムハトとは比べ物にならないくらい大きな都市で、白銀の王城と見たこともない魔導具に私は日々目を回しています。
アベル様のことは耳にしたでしょうか。もし顔を合わすことがあっても、あまり喧嘩しないでくださいね。私の、命の恩人です。
最近は王都の巨大な図書館で、厄災のことを調べながら、アベル様の手足を治す唯一の希望、青の魔女様の行方を探しています。
時折、ラナと過ごした穏やかな洋館を思い出して寂しくなります。シュネーも、ラナのご飯が恋しいみたいで、フードの中で不満げな声を出す時があります。
けれど、私は大丈夫です。最近は街角で星占いを始めました。王都は明るくて星が少ないけれど、私の心の中にはいつもラムハトの、あの静かな洋館で見上げた星空が広がっています。
次の手紙では、もっといい知らせを届けられたらいいなと思います。ラナ、身体に気をつけてね。おじさまとおばさまによろしくお伝え下さい。
愛を込めて。アリア。
◇
「ここが、エテルノア魔法学院……」
それは魔法を学ぶものなら誰もが憧れる、王国における魔法研究の最先端。まさかアベル様の紹介先が、こんな場所だなんて。私は思わずカエラムをぎゅっと握りしめる。石造りの正門は精巧な魔術刻印が施され、淡く光るプリズムのような輝きの防護結界が私の瞳に映り込む。なんて濃い密度の、綺麗な結界魔法なんだろう。私は思わず見惚れて、それからはっとしたように頭を振った。私は今から、この門をくぐらなければならないのだ。
フードから顔を出したシュネーが、私を励ますように頬に擦り寄ってきた。私はそっとその柔らかな毛並を撫で、心を落ち着かせる。ちょうど帰宅時間だろうか、門からは私と同じくらいの年の学生たちが次々と出てくるところだった。その誰もが汚れひとつない高そうなローブを纏っていて、私は自分の纏う、裾の焼け焦げたローブが少し恥ずかしくなってしまう。シュネーを懐のスペースに滑り込ませて、フードを深く被ってその生徒たちの隣を通り過ぎた。ユリさんから手渡された、双翼の伝令符という銀色のブローチが夕暮れの光を受けて輝いて見えた。
学院の校内は、驚くほどの静けさに満ちていた。すぐ近くで生徒たちが話していても、その響きが霧散して私にまで届いてこない。おそらく、魔法の隠匿を目的とした術式が結界に施されているのだろう。その代わり、歩いて建物の中を進むごとに様々な香りが私の鼻腔を刺激した。煮詰められたカラナ草、魔法石に込められた熱魔法が空間を焦がして、かと思えば無機質な冬の朝のような、肺が冷たくなるほどの冷涼な香りが肺を満たす。そしてそのどれもが、知識の堆積を思わせる古い羊皮紙とインクの香りを伴っていた。肌をちりちりと灼くような電気魔法の術式を感じながら、私はこの場所全てが、ラムハトには存在しない未知の魔法たちで満たされているという事実に確実に興奮を覚えていた。
そうして複雑に入り組む校内を歩き回り、やがて空気の中に珈琲の香りが混ざり合う頃、私は目的の部屋に辿り着いた。途中ですれ違った生徒たちは、私の見慣れないローブと漆黒の杖を見て興味深そうに振り返るが、誰も声をかけてくることはなかった。雨が降る直前のような空気感の中に、その扉は佇んでいる。『レインレース研究室』と走り書きのように白いインクで扉に書かれたその文字は、ぼんやりと光を放つように魔力を帯びていて、それ自体が特殊な魔術式なのだと私にはわかった。一体どんな魔法が組み込まれているのだろう。私は少し躊躇って、息を大きく吸い込んでから、意を決してその扉を叩こうとして――けれど、私の魔導手袋をつけた右手がその扉に触れるより早く、その内側から私の全身を観察するような、鋭い魔力の奔流が溢れ出してきた。
『——女性、学年不明、身長158cm、体重48kg、魔力量微小、魔力属性不明、右手魔力経路損傷』
「な、なに……?」
突然、その扉から声が発せられ私は驚いて後ずさってしまう。人の声だけど、無機質で抑揚がない。魔法で合成した人工音声だろうか。それよりも、私は大声で自分の個人情報を発信されていることに気づき、思わず赤面しながら周りを見渡した。幸い、今は廊下には私以外に人影は見えない。少しだけ安堵のため息をつきながら、私は再びその扉を睨みつける。シュネーも懐から顔を出して小さく唸り声を上げていた。
「こ、今度こそ——」
私は声を出さなくなった扉を、再びノックしようとした。今度はもう驚かない。背筋を伸ばして、静かに右手で扉を叩こうとして――
「——入れ」
私の手が扉に触れる前に、内側から勢いよく開かれた。女性の、低く少し掠れたような声。けれど、そこには誰もいない。扉だけが勝手に開いたのだ。魔法学院なのだから、勝手に開く扉くらい存在して当たり前なのだけれど、またも驚かされたことに私は小さく唇を噛んで悔しくなる。王都に着てから驚かされてばかりだ。私はまた小さく深呼吸をして、変わることのない星の運行のように、冷静な自分を取り戻そうとした。
「……失礼します」
そっと、中へ歩を進める。途端に、珈琲の香りが湿度を伴って私を包み込んだ。部屋の中は、それほど広くはない。いや、物が乱雑に置かれているせいで実際よりも手狭に見えているのだろうか。壁一面の棚には書類と魔導書が無理やり押し込められ、それでも床一面に羊皮紙が散らばっている。用途不明な魔導具たちがあちこちでひっくり返り、私はそれらを避けながら、まるで獲物を狙うときのシュネーのように慎重に部屋に足を踏み入れた。
部屋の中は薄暗い。窓は全て棚で塞がれ、そこから漏れ入った夕暮れの光が、私が歩くたびに舞い上がる埃を照らしてきらきらと星の光のように瞬いていた。
そしてその光の中で、圧倒的な存在感を放ちながら、その女性は羊皮紙にペンを走らせていた。
「——はじめまして、私、ラムハトより来ましたアリアと申します。領主の御子息、アベル様からの紹介で」
「うるさい、どうでもいいことを喋るな。おい、パーフィット演算で魔法子構造が一刻ごとに半減していくときの係数はいくつだ」
「魔法使用者の含魔力総数に比例します。一般的な魔法だと六くらいです」
突然の質問に、私の書物で得た知識が反射的に口をついて飛び出てくる。えっと、違う、そういう話をしにきたんじゃなくて、私はアベル様の紹介でこの人に会いに来たのだ。私は小さく頭を振って、その女性をそっと観察した。年は三十代くらいだろうか。長く腰ほどまで伸びた髪は透けるような朱色で、羽織っている白衣にはインクがあちこちに飛び散っていた。そこから細くて白い手首が覗いている。けれど忙しなくペンを動かし続けていたその右手は、その答えを聞いてぴたりと動きを止めた。
「なるほど、知識はあるのか。そしてごく僅かな魔力量に、魔力経路の損傷。私を尋ねてくる理由はあるようだな」
カタ、と机にペンを置いて、女性がこちらを振り向く。色素の薄い、けれどしっかりと光を湛えた淡い紅白色の瞳が、私を射抜くように見る。頭からつま先までじっと観察される居心地の悪さに、私は思わず杖を握りしめて身動ぎする。シュネーが怯えて、懐で丸くなっているのがわかった。
「アリアとか言ったな。私はレインレース、この学院で魔法学博士をしている。紹介状を見せろ」
低く掠れた声が部屋に響き渡る。私は差し出されたその手に、アベル様の紹介状を託した。レインレース博士はその紹介状を時折裏返しながら、じっと観察している。
「癖のある字だ。それにラムハト領主印章の封、本物のようだな。あのクソガキ、十年ぶり便りを寄越したと思ったら自分の女を自慢しにきたのか」
「お、女……? え、ちょっと」
戸惑う私の目の前で、突如、博士はその紹介状を破り捨てた。あまりに出来事に混乱する私をよそに、手のひらから発現させた発火魔法で瞬く間に紹介状は炭となり、跡形もなく燃え尽きてしまった。
「は、博士! いったいなにを——」
「他人の紹介などどうでもいい。何が書いてあっても評価は変わらん。私は私の目で見定めたこと以外に興味はない。その黄金の瞳、星の魔力を宿したな。それだけでこの研究室にいる資格はある。話を聞いてやろう」
私の心に鋭く刺さるように、その言葉たちが飛んでくる。研究者としてその姿勢はきっと正しいのかもしれない。けれど私は、アベル様がわざわざ書いてくださった紹介状を燃やされたことに、少なからず憤りを感じていた。憤り? ううん、この部屋のドアを叩いたときからずっと感じていた。これは悔しさだ。私は小さく俯いて、ローブの裾を握りしめた。この博士を驚かせて私を認めさせたい、そして紹介状を破り捨てたことを謝ってほしい。
それは、私が今まであまり経験したことのない、承認欲求という感情だった。
「……話をするよりも、見ていただいた方が早いかと」
言いながら、私は肩から下げた旅鞄から《星詠の書》を取り出す。そして書を開きながら少しだけ目を閉じて、心の中に光を見る。やがてその光が精巧な星の軌道と重なり合い、輝く術式となって私の心を明るく照らす。流れ込んでくる膨大な魔力の奔流。私は目を開き、カエラムを両手で握りしめる。
瞬間、爆発的な星の魔力が黄金の風と共に私から溢れ出した。ローブがはためき、床に散らばっていた羊皮紙が音を立てて部屋を舞う。驚いたシュネーがローブの奥深くへと潜り込んできた。
「おい——なんだこの魔力量は。少し借りてきたなんてものじゃない、恒星の魔力そのものを宿しているのか。なんて馬鹿げた魔法だ。もういいやめろ。それ以上は部屋どころか学院が吹き飛ぶ」
やめろ、という博士の声が耳に届いて、ようやく私ははっとする。こんな狭い部屋で光の魔法を使おうとするなんて、私は一体何を考えていたのだろう。全身から溢れ出る魔力が、荒れ狂うように吹き荒んでいる。私はその魔力を抑え込もうとカエラムへと意識を集中したが、そこで私は冷や汗が背中を伝うのを感じた。
光の魔法を解き放つ、つまりこの身に宿した星の魔力を全て使い切り、いつもの魔力欠乏状態になる以外に、この圧倒的な光を閉じる方法を知らなかった。
「ま、窓を開けてください! はやく!」
焦った私の声を聞いて何かを察した博士が、窓を塞いでいた棚を蹴飛ばした。激しい音を立てながら舞い上がる埃を気にも止めず、長年閉められていたその窓が解き放たれる。その向こうは淡く虹色に輝く学院の防護結界が見え、更にその奥には朱色に染まる空が広がっていた。
その空へ向けて、私はカエラムをまっすぐに構える。
「博士、先に謝罪します、ごめんなさい!」
「うるさい集中しろ間抜け! 私の研究室を消し飛ばすなよ!」
その声が聞こえるよりも早く、私はすべての魔力をカエラムへと注ぎ込み、恒星の描く軌跡を魔術式として心の中に描き出した。
「光の第六魔法、《雪星》!」
全身を貫く反動と衝撃。私は杖を決して逸らさないよう、全力で握りしめる。恒星の宿すその魔力が光の魔法となり、学院の防護結界を瞬く間に突き破った。そして輝く冬の一等星のように、黄昏の空へと一直線に伸びてゆく。私はその光景を、白い息を吐きながら見届けた。やがて、空に満ちた魔力が雪のように静かに降り注ぐ中、私の両手は力を失くしカエラムを手放した。ああ、先に謝罪しておいてよかった。
ごめんなさい博士、私、この魔法を使うとたぶん意識を失うので——。
目を覚ますと、曇り空から柔らかな朝日が差し込んでいるのが見えた。ああ、そう言えばもうすぐ雨季が来る。湿気た空気に交じる珈琲の香りを肺の奥に吸い込んで、ゆっくりと意識が覚醒していく。あれ、けれど、珈琲なんて一体どこから……。
「……あ、思い出して、きた」
頭の奥が冷たくなって、心が急にざわめいてくる。そうだ、思い出してきた。昨日の夕方、私はエテルノア魔法学院を訪れて、アベル様の紹介状にあったレインレース博士の研究室で、博士に紹介状を破られたのがすごく悔しくて、それで、光の魔法を。
「あああ……なんてことを」
思い出しただけで胃が痛くなる。一歩間違えれば、魔法学院の壁に巨大な風穴を開けていたかもしれない。後悔と恥ずかしさで、私はベッドの上でシュネーみたいに丸くなってうめき声をあげた。
「起きたか。いったいどれだけ迷惑をかけるんだお前は。おい、私がわかるか」
驚いて身体を起こし、声がした方を振り向く。ここは、どこだろう。清潔感のある白い部屋だ。かと言って、病院のように消毒液の匂いが満ちているわけでもない。私が振り向いたその先、白い衝立から覗き込むように私を見ていたその女性は、目が合うと溜息を付いて隣の壁に背を預けた。
「……レインレース博士。その、申し訳ありませんでした」
「それはなんだ、何に対する謝罪だ。私の研究室をめちゃくちゃにしたことか。それとも、馬鹿げた魔法で学院の防護障壁に穴を開けたことか。おかげで私は朝から学長にお呼び出しだ。ああ、気絶してこの私に医務室まで運ばせた件もあるな。あとは、そうだな」
私がやらかしたことを一つずつ指摘されるたびに、私は自分が一回り小さくなっていくのを感じる。きっと最後にはラムハトの麦粒くらい小さくなっているだろう。こんなに恥ずかしい思いをするのは初めてだった。顔が青くなった後に信じられないくらい赤くなっている。もういっそこのまま明星のように沈んでしまいたかった。
「はぁ。しかしまあ、お前が持つ魔法の希少性に比べれば全ては些事だとも言える。アリアと言ったな。私のもとへ来た目的は何だ」
「それは……その、王立図書館で調べ物をしたいのです。本来であれば王都に着いてすぐ伺うべきだったのですが、恥ずかしいことにスリにあって無一文に……」
「はあ? お前は幸せ野兎か馬鹿者。それで私に泣きついて来たということか。それにしては不遜だったな」
その言い方はあまりにもアベル様そっくりで、思わず私はあの赤い瞳を思い出す。あの自信満々な態度は、もしかしたら博士から受け継がれたものだったのだろうか。
「ごめんなさい博士、言い訳も何もありません……アベル様を馬鹿にされたみたいで悔しくて、私を認めてほしいという思いが逸ってしまいました」
私はベッドの上で何度も頭を下げる。足元で丸くなっていたシュネーが頭を上げて、私を慰めるように小さく鳴いた。
「その馬鹿正直なところは長所でもあり弱点にもなる。特に王都のような場所ではな。アリア、取引をしよう。私の研究に協力しろ。そうすれば私の権限で学院の空き部屋を貸してやる。空いた時間は好きなだけ王立図書館でもどこでも行くといい」
一瞬、何を提案されたのか理解できなかった。何度か瞬きをして、シュネーの頭を幾度か撫でつけることでようやく博士の言葉が心の中に落ちてゆく。
「それはつまり、私を認めてくださったということですか?」
「話が飛躍しているな。研究するに値する価値があると判断した、という意味でなら認めたと言えよう。王国をどれだけ駆けずり回っても、あれほどの光の魔法を扱える者はおらんだろう」
その言葉に、私は思わずシュネーを抱きしめそうになる。ラムハトで、孤独に星を見ながら使えない魔法を練習していた日々を思い出す。誰にも魔法使いと認められなかった私が、王都の魔法学院で自分の魔法を認められる。それはなんて信じられない出来事だろう。昨日、降って湧いたような承認欲求が霧散していくのがわかる。ああ、今すぐラナに会いたい。そして、あの毎日は無駄なんかじゃなかったよ、と抱きつきたかった。
「ありがとうございます博士。その言葉だけでも、私はここに来た価値がありました。どうか、私に王都での居場所をください。研究への協力なんて、いくらでもします」
私の言葉に、博士はこちらを見ながらゆっくりと頷いた。
「交渉成立だな。起きれるようになったら私の部屋に来い。お前が散らかした部屋の片付けが最初の仕事だ」
そう言い残して、用は済んだとばかりに白衣を翻して博士は去っていった。私は再び自分のやらかしてしまったことを後悔して頭痛がする。シュネーが肩に飛び乗ってきて、ふわりとした尻尾で私の頬に優しく触れた。
そうだ、ようやくここまで来たんだ。学院での生活基盤がしっかり固まりさえすれば、王立図書館で厄災と青の魔女について調べることができる。私は昨日の後悔を、少しずつ興奮が塗り替えていく感覚を抱く。
それは雨季の迫る紫陽の月。雨雫の香りが満ちる。
◇




