後編
断続的な馬車の揺れに、私は薄く目を開いた。いつの間にか眠ってしまっていたみたい。あんなにひどかった頭痛がすっかり治っている。膝の上では少し毛皮の汚れたシュネーが、丸くなって寝息を立てていた。まだ身体は怠く重たいけれど、治癒魔法の凄さに私は驚くしかなかった。
「起きられましたか。お身体、調子はいかがですか?」
向かいに座った女性が、私に声をかけた。明るく金色に見える髪は腰まで伸び、纏う翠色のローブまでも輝いて見えた。年は私よりも一回り上くらいだろうか。少し垂れた淡い緑色の瞳には、私たちを救った癒やしの光を湛えている。
「すみません、大丈夫です。ただの魔力欠乏なので。あの……」
感謝を伝えるため名前を呼ぼうとして、私はまだ名前を聞いていないことを思い出す。それを察して、女性は優しく笑いかけた。
「……アリア様、無事で何よりです」
「私を、知っているのですか?」
「ええ、もちろんです。王国の英雄、《星詠の魔女》セレネス様のお孫様。あの黒曜の蜘蛛を貫くなんて、とてつもない魔法です」
そう言って、彼女は少し姿勢を正すように座り直した。こちらを向いて、僅かに頭を下げその後まっすぐに私を見る。その瞳の奥に、柔らかく渦巻く緑色の魔力が見える。
「私は元王国魔道士団所属。国王陛下より七色の一つ、《緑》を拝命しました《翠玉の魔女》セフィーリアと申します」
「な、七色の魔女……!」
思わず私は声に出して驚く。七色の魔女、それは、国王陛下に認められた七人の魔女に送られる最強の称号。詳しいことは知らないけれど、かつて私のおばあちゃんも七色の一人だったと聞いたことがある。ろくに魔法も使えない私には雲の上の存在で、この優しそうな女性がその一人だなんてにわかには信じられなかった。
私は無意識に背筋が伸びてしまう。そんな私を、ただセフィーリア様は微笑んで見つめていた。
「セフィーリア様、助けていただいてありがとうございます。……その、アベル様は、無事でしょうか」
この馬車は比較的小さく、私とセフィーリア様しか乗っていない。後ろを着いてくる貴族用の大きな馬車に、意識を失くしたアベル様が運び込まれるのを私は見た。ガリベル様も一緒のはず。あのアベル様の燃えるような体温を思い出して、私は胸が痛くなった。
「無事、という言葉をどう定義するかによります。幸い、命に別状はありません。ただ……」
セフィーリア様は少し俯くように、言葉を迷う。私は強く手を握りしめていた。
「……体内の魔力経路が全て灼けていました。身体の損傷は治癒できても、一度失われた魔力経路を繋ぐことは私にはできません。彼の炎は、その力を失ってしまった。おそらく、今後魔法を使うことはおろか、重い後遺症を抱えることになるでしょう」
「そんな……」
……私の、せいだ。私が、あのとき一撃で仕留めきれていればこんなことにはならなかった。ううん、そもそもあんな計画を立てなければよかった。アベル様の言う通り、二人で森を逃げ出していたら。二人だけで偵察なんて危険ですって最初に断っていれば。
奥歯を噛み締めながら、隣にあるカエラムに視線を落とす。こんなに立派な杖を作ってもらったのに、扱う私があまりにも未熟だった。今は光を失ったこの漆黒の杖が、私には誰も救うことの出来ない無力な棒に思えた。取り返すことのできない後悔だけが頭の中でぐるぐると回って、いつの間にか静かに涙となって頬を伝っていた。震えながら握りしめた私の右手を、そっとセフィーリア様が両手で包み込む。無理に力を込めて握ったせいで、痺れた右手にはもはや感覚がなかった。
「……あまり、自分を責めてはいけません。お二人の命が助かっただけでも奇跡です。よく、生きていてくれました」
その淡い緑色の瞳が、私の心まで見透かすように透明に煌めいて見えた。右手を優しい緑色の光が包み込み、ゆっくりと痺れが取れてゆく。温かなぬくもりが全身を癒やしてゆく。
「ありがとう、ございます……あの、ガリベル様とセフィーリア様は、どうしてあの森に……?」
「私はとある理由でラムハトの街を訪れて領主様のお屋敷にいたのですが、ガリベル様のもとに火急の伝書魔鳥が届いたのです。差出人は、カレスに住むノラという女性でした」
「ノラさんが……?」
私は驚いて聞き返してしまう。伝書魔鳥便はそれぞれの町に必ず存在するけれど、超高速で飛ぶその希少性から、一般人が気軽に使えるような値段ではない。
「はい。あなたとアベル様が二人で魔物の偵察に向かったきり帰ってこない、という内容でした。ガリベル様は迷わず私兵の騎士と魔法使いを集め、私も共にすぐにあの森へと発ったのです。夜明け前、巨大な火柱が上がり、南東で巨大な魔力を帯びた大きな光が空へと消えたのを見て、私たちはまだお二人が戦っていると確信したのです。蜘蛛の討伐はお手伝いできませんでしたが、何とか、間に合って本当によかったです」
「そう、だったのですね……ご迷惑をおかけしました。助けてくださって、ありがとうございます」
セフィーリア様は小さく首を振って、微笑みながら私の手をずっと握っていた。けれど、私はまともに顔をあげることもできない。瞬きをするたび、雫が頬を伝って落ちてゆく。
「……アリア様。失ったもの、守れなかったものを悔やむのは大切なことです。けれど、残された光を大切にしてください。アベル様の命は助かりました。カレスの町も救われ、西の街道の封鎖も解かれるでしょう。心の闇を見つめてはいけません。夜に星が輝くように、その中にある光を見てください」
セフィーリア様の言葉が、治癒魔法のように胸の奥に深く染み入ってゆく。それは、幼い頃によく耳にした言葉にどこか似通っていた。私は左手で目を擦りながら、ようやく小さく笑うことが出来た。
「セフィーリア様は、まるで私のおばあちゃんみたいなことを言うのですね」
「ええ。心の中に星を見ろ、ですか?」
その言葉に私は驚き、目を丸くしてセフィーリア様を見つめる。柔らかな風のような、美しい緑色の瞳。春の夜空に光る仔羊座の一等星みたい。そんな呆気に取られた私を見て、彼女は目を細めて笑いかける。
「私は以前、ラムハトにてセレネス様に師事していたのです。ちょうど、今のアリア様くらいの頃でしょうか。……まだこんなに小さいあなたと、お話したこともありますのよ」
「う、嘘でしょう……あの、全く覚えていなくて」
私は驚きと恥ずかしさで戸惑い、なんと答えていいかわからない。膝の上で目を覚ましたシュネーが、セフィーリア様を見て何度か小さく瞬きをする。もしかしたら、シュネーのほうが覚えているかもしれない。そもそも私は、幼い頃の記憶が曖昧なことが多かった。
「いいのです、覚えていなくても。滞在していたのは僅かな期間でした。幼いあなたの記憶に残らないのも当然です。……アリア様をお救いできて、本当によかった」
私たちの会話を包み込むように、朝の光が馬車の中に差し込む。深く暗い夜が明け、朝霧の中に星が消えてゆく。やがて朝日を浴びたカレスの町が、遠くに陽炎のように浮かんでいた。
私はセフィーリア様と話しながら漆黒の杖を胸に抱き、守れなかったものと残されたものを心の中に見つめ続ける。そして朝焼けに染まる空のような、少し裾の焦げた淡い青紫のローブを、私はただ握りしめた。
——『第六章 朝霧の中に。』
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第六章を以て旅路編の完結となります。
次回以降、ついに訪れる王都の物語をお楽しみください。
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