中編
夜明け前の真の暗闇の中で、私たちは縫うように森を進んだ。アベル様が聖なる火を灯した松明を掲げながら、常に風下を辿り移動する。私は木々の隙間から見える星々から現在地と進行方向を把握していた。昨日丘の上から見た森の地形を頭の中に広げながら、アベル様との会話を思い出すように記憶を辿る。
「では、あらためて確認しましょう。目指すのは南東にある、風通しのよく枯れ木の多い小さな谷間。そこに、ネクテスを誘い込みます」
私は焚き火に照らされた地面に地図を描きながら説明する。アベル様とシュネーがそれを覗き込んでいる。
「誘き出したネクテスを、アベル様による炎の結界陣で閉じ込めます。火炎に炙られて弱ったところを、私が光の魔法で消し飛ばします」
「言うのは簡単だが、そう上手くはいかんだろう。その谷に無事着いたとして、どうやってネクテスを誘き出す?」
腕を組んで、眉間に皺を寄せながらアベル様が言う。それに、私は懐から星詠の書を取り出して見せた。
「この書を使って、星の魔力と同期します。瞬間的に爆発的な魔力が溢れ出すので、さすがにネクテスも飛んでくるでしょう」
「例のザイオンを倒した力か……では、その谷まで蜘蛛に見つからずに辿り着けるかが鍵だな」
「アベル様、遅延魔法は使えますか?」
当たり前だ、と即座に応えたアベル様に、それならこの焚き火に細工をしましょう、と私は提案した。残りの薪を全て使い、私たちがいなくなった後に遅延魔法で空高く火柱を上げる。
「聖なる火の結界は解けてしまいますが、ネクテスがアベル様の魔力残滓に気を取られているうちに目的の谷まで移動しましょう」
「遅延魔法が発動するまでに見つかったらどうする。また閃光魔法で目眩ましか?」
「そうですね……そのときは覚悟を決めて、その場所を決戦の地にしましょう。私、魔力の流れを読むのは得意なので、ネクテスが近づいてくればすぐに知らせます。その場で結界陣を発動する準備に入ってください」
私たちがそんな会話をしてから四半刻。幸い、まだネクテスがこちらを捉えた気配はない。私たちは一度足を止め息を整えた。東の空が薄明るく、淡い紫色を宿している。その反対、まだ闇の中に星を抱く西の空に、轟音を立てて火柱が立ち昇った。組み込まれた遅延魔法によって、アベル様の魔力が火柱を中心に赤く渦巻いているのが見える。
「無事、発動しましたね」
「ああ、しかし結界が解けた。蜘蛛はどちらを狙うかな」
少し焦りながらも、努めて冷静にアベル様が言う。私たちはフードを深く被り気配を殺して獣道を進んだ。木々をかき分けぬかるみを進みながら、私はカエラムを右手に抱え、森に宿る僅かな魔力の変化も見逃さぬよう集中する。やがて森を覆う黒い魔力が、ほんの僅かに西に逸れた感覚を私は見た。
「アベル様、蜘蛛が囮にかかりました。今のうちに」
「助かったな。走れるな、急ぐぞ」
息を殺して森を進んでいた私たちは、そこから息を切らせて全速力で目的の谷へと走り続けた。もともと運動神経の鈍い私は、すぐに体力の限界に達する。心臓が脈打ち脇腹が痛み、肺が悲鳴を上げそうになるころ、ようやく、私たちはその場所に辿り着いた。
獣道から緩やかに続く坂を下り、小さな谷のようになっている地形。森の中の不規則な木の根の足場と違い、乾燥した固い土。想像した通り枯れ木が多く風通しが良い。火を起こすには最適だった。視界が開けているので死角からいきなり襲われる心配もなく、ネクテスが身を隠す場所もない。私たちは息を切らせて滑り込むように岩の陰に身を伏せた。極限の緊張が解けて、何度も大きく空気を吸い込む。
「はあ、はあ、なんとか、着きました、ね」
「結界陣の準備に入る。座って休んでいろ。警戒を怠るな」
そう言ってアベル様は真鍮杖を握りしめて飛び出してゆく。枯れ葉を踏みしめる音と、風が通り抜ける音だけが聞こえてくる。私は懐から星詠の書を取り出した。心配そうに顔を出したシュネーを少し撫でて、大丈夫だよ、頑張るね、と小さく呟く。私は両手でカエラムのシャフトを強く握りしめた。
しばらくして、アベル様が短く呪文を唱える声が聞こえた。結界陣の準備が整った合図だ。私は痛む脚を堪えて立ち上がり、息を大きく吸って、書を開いた。
「リター、やれるか」
「はい。ネクテスを誘い出します」
心の中に星を見る。星詠の書が淡く光を放ち出す。眩く輝く一等星が完璧な秩序を抱いて運行し、円運動となって魔術式を描いてゆく。私は軽く足を開いて、まっすぐに杖を構えた。青白色の魔法石がその輝きを増してゆく。
いま、私の魔力が、星の魔力と同調する。
「——カエラム、力を貸して」
瞬間、大気が震えるような暴風と共に、私の身体から魔力が溢れ出した。ああ、今ならわかる。私の瞳と同じ、黄金色に輝く星の魔力。この森を覆う黒い粘ついた魔力を全て吹き飛ばすような、圧倒的で純粋な魔力の奔流。気を抜くと、持っている杖ごと私も吹き飛ばされそうになる。
「なんて魔力だ、信じられん……」
アベル様が呟く声が聞こえる。けれど同時に、この場所へと恐ろしい速さで近づく存在を私は察知する。まるで光を拒絶する闇のように蠢くそれは、やがて轟音となり地響きとなり、音にならない咆哮と共に、私たちの前に再び姿を現した。
《黒曜糸》ネクテス。闇に浮かぶ八つの燃える瞳は、まるで夜空に浮かぶ血の星座だ。甲殻に覆われた八本の足は、そこから生えた毛が敏感に魔力の流れを読み取っている。鋭い鎌のような前脚が鉛色に輝き、粘黒色の魔力を反射して全てを切り裂こうとしているようだった。
「アベル様!」
ネクテスの頭部に散らばる八つの瞳全てが、私を捉えて離さない。この溢れ出る黄金色の魔力を、脅威と認めたのがわかった。坂の上に現れたネクテスは一瞬だけ動きを止め私をじっと見た後、音もなく地を滑るような速さで、一直線に私を目掛けてきた。
「俺を無視するとはいい度胸だな。結び閉じよ――《炎の結界陣》」
ネクテスはアベル様に目もくれず谷の奥にいる私へと迫る。瞬間、視界の端でアベル様がその真鍮の杖を地へと突き刺した。巨大な魔法陣が辺り一帯に浮かび上がり、赤く朝焼けのように光り輝く。温度が上昇していくのがわかる。炎の魔力に気づいたネクテスが、その歩みを止めた。
——しかし、ネクテスが炎に包まれることはなかった。
「馬鹿な! 陣は確かに発動しているぞ!」
「これは……あの蜘蛛の魔力が、アベル様の術式を侵食している……?」
私の瞳が、ネクテスの身体から溢れる黒粘質の魔力を捉える。それは、確かに発動しているはずの炎の結界陣の術式にべったりと絡みついていた。本来なら業炎が結界の中を燃やし尽くすはずなのに、これでは不完全なまま結界が閉じてしまう。
「くそっ、だから蜘蛛は嫌いなんだ。リター、作戦は失敗だ逃げるぞ」
「駄目です、この見通しではあの瞳からは逃げられません。アベル様、離れて。このまま光の魔法で吹き飛ばします」
「リター!」
私は自身に溢れる黄金色の魔力を全て杖に集中する。膨大な星の魔力が、カエラムの魔法石へと渦を巻きながら集まってゆく。私は手袋をつけた右手でしっかりと杖を握りしめ、今度は大丈夫だからね、と自分に言い聞かせた。息を吐く。魔法石に宿った冬の星の魔力に、白い吐息が霧散する。
「——光の第六魔法《雪星》!」
瞬間、カエラムの先端から、黄金の光が迸る。反動で飛ばされないよう杖を強く握る。その光は黒い魔力を消す飛ばすように全てを飲み込みながらネクテスへと迫り、その巨大な闇すらも飲み込もうとする。
巨大な魔力衝突の衝撃で辺りの枯れ木は吹き飛び、砂埃が舞い上がる。暴力的な爆発音に耳が何も聞こえない。私は両腕で顔を守りながら、ネクテスの二つの前脚がへし折れて光に飲まれる瞬間を見た。
「……嘘、でしょう」
けれど、届かなかった。ネクテスの振りかざした両脚の鎌が、折れながらも光の第六魔法を切り裂いていた。
光を浴びたネクテスは全身からどす黒い体液を零して大地に染みを作りながらも、その燃える瞳は明確な殺意を持って私を見ている。背筋が凍りつく。光の魔法を放った反動で身体が言うことを聞かない。ネクテスが頭をもたげ、その凶悪な顎を開くのが見えた。
「————っあ!」
叫び声を上げようとして、全く声にならなかった。突如襲った衝撃で頭が揺れて朦朧とする。左半身が全く身動き取れない。何とか首を動かして目を開ける。
黒曜のように禍々しい蜘蛛の糸が、私を木に拘束していた。咄嗟に左手に握った杖ごと、完全に樹木と一体にされている。
「リター! 目を閉じろ!」
視界の端で、アベル様の赤い姿が動くのが見えた。私はその言葉通り強く目を閉じる。瞬間、瞼を焦がすような眩しさが世界を焼き尽くした。強く目を閉じていても視界が染まって見える。これは、アベル様の閃光魔法だ。数秒後、ようやく私は薄く瞳を開ける。私を捉えようとしていたネクテスが、僅かに距離を取っているのが見えた。けれど逃げ出す素振りはない。アベル様はそのすぐ近くで、結界陣の術式に突き刺さった真鍮の杖を握りしめていた。どうしよう、助けないと。かろうじて右腕は動く。けれど杖が使えない。アベル様がその真鍮の杖を抜き放ち、そこに自分の手を添えるのが見えた。彼の真紅の瞳が、一瞬、こちらを見た気がする。何をする気なんだろう。ネクテスはもはや私しか見ていない。逃げて、今のうちに逃げてください。ネクテスが私を見ているうちに、アベル様ならきっと逃げられる。
「……リター、俺の前で死ぬことは許さん。結び閉じ、永劫に燃えよ――《劫火の結界陣》」
私の耳にその言葉が届くと同時に、爆音と共に世界が炎に包まれた。
「そんな、まさか」
劫火の炎が、絡みついていた黒い魔力を飲み込んでゆく。その中心にいるネクテスの甲殻を焦がし、傷跡を灼き、暴れて吐き出した黒曜の糸すら全て燃やし尽くしてゆく。辺りには黒い体液の焦げる悪臭が立ち込めていた。
術者の魔力尽きるまで消えることのない、最上位の火属性結界魔法、《劫火の結界陣》。アベル様は、それを、地に手を付けて発動させた。杖を使わなかった。ああ、なんてこと。私は焦りで呼吸が浅くなる。
アベル様は、自分自身を媒介にして魔法を発動させている。いまこの瞬間にも、体内を巡る魔力が炎となって全身を焼くような、想像を絶する苦痛に襲われているはず。はやく、はやく助け出さないと。術者の命まで全て燃え尽きてしまう。
私はほんの僅か瞳を閉じて、焦る呼吸を押さえつけ、再び星の魔力と同調した。こんな混沌とした状況でさえ、星の運行という完璧な秩序は、常に心の中にある。胸元にある星詠の書が明るく光を放つのがわかる。黄金色の瞳を開く。耐え難い魔力の奔流に、全身が悲鳴を上げる。けれど、そんなのどうだってよかった。私は歯を食いしばり、その全ての魔力を右手の魔導手袋に集中する。力じゃなくて魔力で動かせ、というグラールさんの言葉を思い出す。
いまこの時だけは、私の右手は星の魔力を宿した右手となる。
「ぐうううう!」
青白色に輝く手袋で、私は自身を拘束する黒曜の糸を掴む。そして、溢れる魔力全てを込めて思い切り引きちぎった。糸の残滓が輝きながら炎を反射して宙を舞う。その全てが遅延した時間の中にいるように緩慢に見えた。ああ、ザイオンの時と同じだ。時が、引き伸ばされている。私は解放された杖を両手で真っ直ぐに構え、ネクテスの頭部へと向ける。今度は失敗しない。確実に仕留める。書の知識が頭の中に流れ込んでくる。第六魔法では届かなかった。必要なのはもっと鋭く、ネクテスの甲殻を貫く光だ。私は春の空に燦然と輝く青白色の星を心に見る。星座たちを導き、朝の霧の中に消えてゆくその星の名を心に灯す。溢れる星の魔力全てが、魔法石へと集束してゆく。大気が震え、炎に巻かれたネクテスの八つの瞳が、突き刺すような鋭さでこちらを見ている。
その瞳に宿るのは、恐怖だろうか。
「撃ち貫いて——光の第七魔法、《朝霧の星》」
星の魔力が、解き放たれる。その光は音を置き去りにし、まるで連星のように二重螺旋を描きながら炎の中を突き進む。そのままネクテスの焼け焦げた甲殻を突き破り、八つの赤い凶星を宿す頭部を貫いて、暁の空に長く尾を引く彗星のように青白色の軌跡を描いた。
やがてその光の残光が、朝霧のように辺りに立ち込めてゆく。
ゆっくりと、しかし確実にネクテスの瞳から光が失われてゆく。その魔力が泥のように溶けていくのが見える。燃え盛る炎の中でぼろぼろと甲殻が崩れだし、ついに轟音を立ててネクテスの巨体が地に沈み込んだ。
その姿を、私は膝をつき倒れ込みそうになりながら見届けていた。浅く、何度も呼吸を繰り返す。意識が飛びそうになる。光の魔法と、魔力欠乏による急激な反動。いますぐにこの場で目を閉じて眠ってしまいたい。けれど、私はそれを堪えて立ち上がった。
「アベル様……!」
私は半ば這うようにして彼に近づく。アベル様は握りしめた手を地に着きながら、体内から全身を焼く炎の魔力に抗っている。その体は燃えるように熱く、とても触れることはできなかった。
「もう、終わりました。術を解いてください。アベル様、死んでしまいます……」
果たして、私の声は届いているだろうか。燃え盛る劫火が消える気配はない。どうしよう。考えろ、考えろ。治癒、治癒魔法だ。術式は書で見たことがある。星の魔力を使って治癒魔法を使えば、助けられるかもしれない。私は三たび、星詠の書を開いて星の魔力を自身に宿そうとした。
「くうぅ——」
頭が割れるように痛む。胃が痙攣して吐きそうで、とても杖を握っていられない。垣間見えた星の光が散っていくのがわかる。ああ、もう無理なんだ。心の中に星が見えない。その軌跡を計算できない。目の前で苦しみもがくアベル様を前に、もはや私にそんな余裕はなかった。頭痛も吐き気もどうでもよかった。何もできない、その虚無感だけが涙となって私の瞳からぼろぼろと零れ落ちていた。
「ごめん、なさい……」
やがて、炎がゆっくりと消えていくのがわかった。魔力が尽きたんだ。私は膝をつき、その身体が少しでも冷えるようにと高温の身体を抱きしめることしかできなかった。頬を伝い落ちた涙が、アベル様の身体に触れて蒸発する。ごめんなさい。私には、何もできなかった。助けて、あげられなかった。どうして私は守られてばかりなんだろう。どうして、こんなに無力なんだろう。どうすることもできない。私には、アベル様を救うことができない。
私は、無力だ。
「——《翠玉の風》」
全てを諦めそうになったとき、私の耳に、そんな声が届いた。高く、よく通る女性の声。驚いて目を開けると、緑色の柔らかな魔力が、穏やかな風となって私たちを包みこんでいる。全身の痛みが消えていく。……これは、治癒魔法だ。アベル様の身体から熱が冷めてゆく。
私は突然のことに驚きと安堵で混乱しながら、何が起きたのかを理解しようとした。遠くから聞こえる複数の馬の足音と話し声。坂の上から近づいてくる蹄に、馬上からかけられた、重く心の奥まで響くような男性の声。
「……俺の馬鹿息子は生きているか」
「領主、様——」
私は目を見開く。それは紛れもなく、アベル様の父上、ラムハト領の領主ガリベル様だった。
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