前編
「セレネス様、こんにちは」
「あら、アベル様。また屋敷を抜け出して、領主様に怒られますよ」
「いいんだよ、貴族なんかなりたくねえもん。俺、セレネス様みたいな魔法使いになりたい」
「まあ。じゃあ今日もアリアと魔法の練習をするのね」
「うん、でもあいつ全然魔法使えないの。あんなのリターじゃん」
「リターでもいいのよ。あの子が魔法を使えなくても私は構わないわ」
「じゃあ誰がセレネス様の光の魔法を受け継ぐんだよ。あいつしかいないのに」
「全ては星が導くわ。ありがとう、アリアの心配をしてくれて」
「心配なんかしてねえよ」
「アベル様、アリアを守ってあげてね。私がいなくなったら、あの子は一人だから」
「……まあ、セレネス様の頼みなら。仕方ねえ」
遠い、遠い記憶を見ている。
おばあちゃんがいて、まだ幼いアベル様がいて。私はそれを、物陰からじっと見ていた。
どうして隠れていたんだろう、あまり思い出せない。
どうして忘れていたんだろう。こんな大切な記憶なのに。
思い出を、全て記憶できたらいいのに。
◇
温かい熱を感じる。これは、火だ。火の爆ぜる音。ゆっくりと遠い記憶から浮上するように、私の意識が目を開ける。赤い、赤い炎。焚き火だ。頭が割れそうに痛い。ゆっくりと身体を起こす。辺りは暗闇に包まれていて、焚き火の灯りだけが世界を照らしている。
「起きたか。身体はどうだ」
焚き火の向こうから、真紅の瞳が私を見ていた。いつもとは違う、少し掠れたような声。ああ、そうだ。アベル様と魔物の偵察に来て、見つかって逃げてきて、追いつかれて、えっと、それから、どうなったんだっけ。
「頭が痛くて……身体は、なんとか」
「そうか。昔からお前は頭痛が多かったな。まあ、無事でよかった」
私は自分の身体を確かめるように、手を何度か握りしめ頭を振った。
「シュネー! よかった、無事で」
ローブの懐から温かい白銀の毛並が顔を出して、私は思わず声を出す。シュネーは私の肩に乗ってそっと顔を擦り寄せ、小さく心配そうな鳴き声を上げた。私は改めて周りを見回す。低い木々に囲まれた、少しだけ開けた空間。星灯りと焚き火だけが闇夜を照らしている。
「アベル様、どうなったのですか。ネクテスは……」
「一帯に聖なる火の結界を張った。夜が明けるまでは身を隠せるだろう」
それからアベル様は、ここに至るまでの経緯を話してくれた。ネクテスの鎌のような前脚が私を貫こうとしたとき、咄嗟にアベル様が火の閃光魔法を放ったらしい。閃光魔法は炎の光を圧縮させ瞬間的に爆発的な光量を生み出す魔法で、私は目の前でそれを直接見てしまい気を失ったという。ネクテスも視力が進化した魔物だけあって、その閃光に怯んで姿を消したらしい。
「……気絶した私をここまで運んでくれたのですね、迷惑をおかけしました」
謝罪する私に、アベル様は首を振る。
「迷惑をかけたのはこっちだ。巻き込んで悪かったな。ただの偵察のつもりだったのだが、どうやら相手が悪すぎた」
「ですが、アベル様一人なら早馬で森を抜けれたかもしれません」
「一人ならそもそも魔物すら見つけられなかった。そんな仮定の話はどうでもいい。馬を失くした今、この森からネクテスに見つからずに抜け出す方法を考えねば……とりあえずは腹ごしらえだ。ほら」
そう言いながら、アベル様は炙った干し肉を私に差し出した。そっか、空腹なんてすっかり忘れていた。私は端を少し千切ってシュネーにあげたあと、その干し肉に齧りつく。しばらく、私たちは無言で火を見つめながらその固い肉を食み続けた。赤く揺らめく炎が顔に影を作り、透明な煙が空へと高く登ってゆく。焚き火が爆ぜて、彼の真紅の瞳に火の粉が明るく反射している。時折風が強く吹き、二人のローブが音を立ててはためいた。
そうして、どれくらい経っただろう。おもむろに、アベル様が呟くように私に話し始めた。
「……リター。俺の兄貴は魔物に殺された。もう顔も思い出せないような昔の話だ。王都の魔道士団に合格したばかりでな、浮かれていたわけじゃないだろうが、街道の巡回中に襲われてあっさり死んでしまったらしい。帰ってきたのはこの真鍮の杖だけだ。俺も魔道士団に入って兄貴の敵を取りたかったが、父上は俺をラムハトから出すつもりはないらしい。まあ、俺が同じように死んでしまっては跡取りがいなくなるからな」
私はその話にどう応えていいかわからず、ただ小さく頷いてその声を聞いていた。アベル様もまた、家族を魔物に奪われていたんだ。大切なものを奪われて、失くして、それでも私たちは生きていかなければならない。毎日何かを失いながら、それでも、こうして生きている。
「俺はいくら憧れても、セレネス様のような偉大な魔法使いにはなれん。お前の大好きなあの鶏小屋の娘も、優れた経営者にはなるかもしれんが貴族にはなれん。貴族は所詮貴族だ。人は自由ではない。自分で決められる人生などありはしない。そう思っていた」
「今は、違うのですか?」
「どうだろうな。お前を見ていると少し、考えが変わった気がする。お前はラムハトで平穏に暮らす日々を捨て、旅に出た。そこにどんな葛藤があったかは知らんが、人生を選択できるということは幸福なことだ」
そうして、またアベル様は口を閉ざした。ただ爆ぜる炎を見つめて、深い思考に潜っているようだった。
「……アベル様。魔物は、どうして人を襲うのでしょう」
「さあな。家畜を捕食する例は多いが、人を食ったという話は聞いたことがない。つまり純粋な殺意があるのだろう」
「そうなのでしょうか……もしかしたら、魔物は怯えているのかもしれません。私たちが魔物を恐れているように、魔物も人を恐れて襲うのかも」
私の言葉を、アベル様は鼻で笑った。
「あれだけ強大な力を持っておいて、こんな虫けらみたいな人を恐れる理由など」
「けれど、魔物を殺すのは、人だけです」
生物の根源は、生存への食欲と死への恐怖だ。魔物にどれだけ知能があるかはわからないけれど、人類を脅威であると認識している可能性はある。
「だからと言って、話し合って和解できるわけなかろう。人を襲う魔物なら殺すしかあるまい」
「それは、そうです。すみません、変なことを言って。……アベル様、あの蜘蛛から逃げられるでしょうか」
私の言葉に、アベル様はじっと火を見つめて考え込む。私も、どうやってネクテスに見つからずにこの森を抜けられるのか、ずっと考えていた。けれど、あの粘つく黒い魔力が森を覆い尽くしているなら、この聖なる火の結界を出た瞬間に私たちはネクテスに見つかる。あの蜘蛛は、狙った獲物を逃すことなんてしない。たとえ森を抜けても追いかけてくるかもしれない。
「……なんとか、私たちでネクテスを討伐できないでしょうか」
「二人だけで、か。お前、その右手であのザイオンを消し飛ばしたような魔法は使えるのか」
私は俯き、自分の右手を見つめる。そこにはグラールさんとノラさんからもらった魔導手袋と、その隣には新しい杖カエラムがある。
「あれ以来使ったことがないので、わかりません。けれどこの杖なら、使える気がします。アベル様、逃げた私たちを追ってネクテスがカレスを襲わないとも限りません。そうなれば、被害は甚大です」
「それは、そうだが……俺まで魔物に殺されたら、残された父上はどうなる。ラムハト領主は息子二人を魔物に差し出した愚か者だと末代までの笑いものだ。いや、そもそも代が途絶えるわけだが」
アベル様が炎に薪をくべる。火の粉が空へ登ってゆく。炎が薪をゆっくりと舐めてゆく。こんな森の奥深くで魔物に狙われているというのに、まるで時がゆっくりと流れているような錯覚。聖なる火が、それを見つめる私の心まで穏やかにしている気がした。
やがて、アベル様が強い光を湛えた瞳で、火の向こうから私をまっすぐに見た。
「……しかし、領主の息子が、領民を危険に晒すわけにはいかぬ。それこそ末代までの笑いものであろう」
そう言ってアベル様は、静かに空を見上げ、そして再び私をまっすぐに見た。真紅の瞳に聖なる火が反射して、その向こうに、私が映り込んでいる。私の金色の瞳もまた、聖なる火を反射しているのだろう。その瞳に映る火が、どうかあの魔物を退ける力になってほしい。私はそう祈らずにはいられなかった。
「リター、化け蜘蛛退治だ」
「はい、アベル様」
私は、その言葉に強く頷いた。
◇




