第二章第十八話
1999年5月26日、バルセロナ。カンプ・ノウ。
9万人を超える観客が詰めかけた満員のスタジアムは、異様な緊張感と熱気に包まれていた。
プレミアリーグ優勝、FAカップ制覇。移籍1年目にして圧倒的なゴールラッシュを記録し、プレミアリーグ得点王に輝いた響木蒼生。チームを『トレブル(3冠)』という前人未到の快挙まであと一歩のところへ押し上げた日本のストライカーだったが、この運命の大一番を前に、最悪のアクシデントに見舞われていた。
試合前夜からの高熱と悪寒。満身創痍の体調不良。
「……ボス、出させてください。走れなくても、ペナルティエリアの中なら……!」
控え室で顔を蒼白にしながら訴える響木に、名将は深く厳しい眼差しを向け、静かに首を振った。
「焦るな、ヒビキ。お前の牙が必要になる瞬間は必ず来る。ベンチで準備しておけ」
試合は序盤から、ドイツの絶対王者のクラブのペースで進んだ。
前半6分に直接FKで先制を許すと、重厚な組織守備と力強いフィジカルの前に、赤い悪魔は終始苦しい展開を強強いられる。
時間は刻一刻と過ぎ、後半も残りわずか。スコアは『0 - 1』のまま、ついに表示されたアディショナルタイムは「3分」。
絶体絶命。誰もがドイツの絶対王者のクラブの優勝を確信しかけたその時、ベンチの名将が動いた。
「ヒビキ! 行ってこい! 歴史を変えてこい!」
「……はいッ!!」
ベンチから飛び出し、ジャージを脱ぎ捨てる背番号9。高熱で意識が朦朧とする中、ピッチに踏み出した瞬間、響木の瞳に「捕食者」の冷酷な光が戻った。
後半アディショナルタイム1分。
最後の望みを懸けた左CK。GKまでもが相手ペナルティエリア内になだれ込む混戦。
左からのキックが上がり、相手DFが必死に頭で弾く。そのこぼれ球が、ゴール前の混戦の中にポツリとこぼれた。
誰もが球際に詰め切れない「一瞬のエアポケット」。
そこへ影のように滑り込んでいたのは、響木だった。
「ッ……!」
倒れ込みながら放った、執念の右足シュート。
密集を抜けたボールがネットを揺らした。
『1 - 1』!!
「ゴーッッール!! 入ったアアアッ!! 響木蒼生!! 体調不良を押して投入された日本のエースが、土壇場の土壇場で執念の同点ゴール!! カンプ・ノウが揺れている!!」
興奮に狂喜乱舞するベンチとサポーター。だが、響木の眼光はまだ冷たく研ぎ澄まされていた。ボールを抱え上げると、素早くセンターサークルへと走る。
「まだだ……終わってない……!」
そして、再開直後の後半アディショナルタイム2分30秒。ラストプレイ。
右サイドでボールを受けたのは、あの「貴公子」だった。
相手の疲弊したマークをかわし、右足を一閃。
放たれたのは、この土壇場でも寸分狂わぬ、黄金の軌道を描く右足のクロス。
ドイツの絶対王者のクラブの巨漢CB陣が必死に跳躍する。だが、その頭上を越え、誰もいない死角へと吸い込まれるボール。
そこには、あらかじめ軌道が見えていたかのように落下点へ跳躍する響木の姿があった。
高熱で悲鳴をあげる肉体を極限まで捻り、空中へ身を躍らせる。
必殺の、ジャンピングダイレクトボレー。
ドスッ――!!
乾いた破裂音がカンプ・ノウの空に響き渡る。
完璧に捉えられたボールは、ドイツの絶対王者のクラブのGKの指先を打ち破り、ゴール天井へと激しく突き刺さった。
『2 - 1』!!!
「ゴーッッール!! 逆転!! 逆転ゴール!! 響木蒼生!! わずか2分間での衝撃の2ゴール!! 何という劇的勝利!! これぞカンプ・ノウの奇跡だ―――ッ!!」
直後に打ち鳴らされる、タイムアップの長笛。
『2 - 1』。
奇跡の大逆転劇。
マンチェスター・ユナイテッドが欧州の頂点に立ち、プレミアリーグ、FAカップ、チャンピオンズリーグを制する伝説の『トレブル(3冠)』を達成した瞬間だった。
歓喜に爆発するピッチ上。仲間たちが次々と響木の上に重なり合い、もみくちゃにしていく。
「貴公子」が満面の笑みで響木を抱き上げ、アイルランドの闘将も咆哮しながら背中を強く叩いた。
「ヒビキ! お前は最高のストライカーだ!!」
熱気と大歓声の中、意識が途切れそうになりながらも、響木は空を見上げて照れくさそうにはにかんだ。
ピッチを降りれば、どこまでも控えめで大人しい一人の青年。
しかし今、彼はヨーロッパの頂点で、世界中のフットボールファンが語り継ぐ『カンプ・ノウの奇跡』の絶対的ヒーローとなっていた。




