第二章第十六話
季節は深まり、秋の冷気が函館の街を包み始めていた。
ステラマーレ函館のクラブハウスの食堂には、朝の練習を終えた選手たちがテレビの前に人山を築いていた。画面に映し出されているのは、昨夜放送された欧州サッカーのハイライト番組だ。
『……イングランド・プレミアリーグ第5節! 途中出場の日本人ストライカー、響木蒼生が鮮烈なジャンピングダイレクトボレーを叩き込み、夢の劇場オールド・トラッフォードを爆発させました!』
画面の中で、あの「貴公子」に抱き上げられ、大歓声の中で照れくさそうにはにかむ背番号9の姿が映し出される。
「うおおおっ! 見たか今のボレー!? あいつ、マンチェスターでも本当に決めやがったぞ!!」
原野駿之介がパイプ椅子を鳴らして立ち上がり、テレビ画面を指さして叫んだ。
「すっげえなぁ……あの「貴公子」のクロスを、函館でやってた時とまったく同じテンポで合わせてやがる!」
「相変わらず、一番美味しいところに影みたいに現れるね」
食堂の隅でコーヒーカップを手にしていた背番号10、沖瀬司が優しく目を細めた。
「でも、少しフォームが変わったかな。向こうの荒い芝と強いフィジカルに対応するために、軸足を置く位置をわずかに低くしている。……あの子なりに、向こうの環境に必死で順応しようとしてるんだね」
「フン……相変わらずピッチを離れると借りてきた猫みたいな顔をしてるがな」
腕を組みながら画面を見つめていたキャプテンの門倉鉄馬が、口元を緩めた。
「だが、あの眼光は本物だ。函館で泥にまみれていた頃と何一つ変わっていない。どこへ行こうと、響木は響木だ」
食堂の入口では、スカウトの伊波がパイプの煙をくゆらせながら、満足そうに目を細めていた。隣に立つ鬼方陣監督は、何も言わずにただ腕を組み、画面の響木をじっと見つめている。
「……鬼方さん。あいつ、向こうの名将にもう認められたみたいですよ」
伊波の問いかけに、鬼方監督は視線を画面に向けたまま、静かに口を開いた。
「認めさせたのではない。あいつが自らの足で勝ち取ったのだ。……ペナルティエリアの中で生きるストライカーに、言葉も国籍も関係ない。ただ『ゴール』という結果だけがすべての世界だ。……あいつは今、自分が最も輝ける場所で戦っている」
鬼方監督の言葉に、周囲の選手たちが一斉に頷く。
北の港町で育まれた熱い絆は、遠く離れたマンチェスターの地に届き、確かに仲間たちの胸を熱く焦がしていた。
第2幕:冷酷な捕食者の「本当の理由」
数日後。マンチェスター、オールド・トラッフォードのプレスルーム。
現地の大手スポーツ紙やTV局の取材陣が集まる中、練習を終えた響木蒼生が通訳とともに姿を現した。
デビュー戦での鮮烈なゴール以降、現地のメディアは「東洋から来た異能のストライカー」に強い関心を寄せていた。
矢継ぎ早に浴びせられる英語の質問。通訳を介して言葉を聞く響木は、やはりどこか照れくさそうに頭を掻き、猫背ぎみにマイクに向かった。
「ミスター・ヒビキ! 日本でヒーローとなり、W杯でも得点王となった君が、なぜ激しい削り合いの続くプレミアリーグ……そしてこの厳しいクラブへの移籍を選んだんだ?」
ベテラン記者の鋭い問いかけに、響木は一瞬だけ視線を落とし、言葉を選ぶように静かに語り始めた。
「……ワールドカップを経験して、僕の中でサッカーの価値観が完全に変わってしまったんです」
静まり返るプレスルーム。響木の真摯な声が響く。
「アルゼンチンやイングランド、オランダ、ブラジル……世界トップクラスの選手たちとピッチで戦ったとき、恐怖よりも先に『こんなに恐ろしくて、こんなに素晴らしい世界があるのか』という強烈な衝撃を受けました。ボールひとつで世界が繋がり、一瞬の判断ミスが命取りになる……そんな『ひとつ上の世界』の匂いを肌で知ってしまったんです」
響木はまっすぐに記者を見つめた。その瞳には、ピッチ上で見せる捕食者の光が宿っていた。
「日本に戻れば、温かい仲間もいて、居心地の良い環境がありました。でも……W杯が終わった後、どうしてもあの極限のヒリヒリした感覚が忘れられなかった。ここでは、僕に完璧なクロスを上げてくれる最高のチームメイトたちがいて、同時に毎週のように、僕を本気で叩き潰しに来る世界最高のCBたちと対戦できる」
響木は照れくさそうに、けれど誇らしげに微笑んだ。
「最高のチームメイトと、最高の対戦相手と、毎週真剣勝負ができる。フットボーラーとして、これ以上に魅力的で幸せな場所はありません。だから僕は、言葉が分からなくても、どんなに厳しい環境であっても、このクラブで挑戦したいと強く思ったんです」
通訳がその言葉を英語で伝え終えると、プレスルーム内に心地よい静寂が広がった。
それまで「東洋から来た大人しい青年」として見ていた現地記者たちの顔から、懐疑的な色が完全に消えていた。そこにいたのは、フットボールの本質を愛し、より高みを目指して修羅の国へと飛び込んできた、一人の純粋で冷酷な「ストライカー」だった。
「サンキュー、ミスター・ヒビキ。最高の答えだ」
質問をしたベテラン記者が温かい笑みを浮かべて拍手を送ると、記者席全体から自然と大きな拍手が湧き起こった。
取材を終え、プレスルームを後にする響木。
廊下の窓からは、雨上がりのマンチェスターの空と、美しく緑に輝くオールド・トラッフォードのピッチが見下ろせた。
最高の仲間と、最高のライバルたちが待つ、極限の戦場。
響木蒼生はスパイクの紐を固く結び直し、次なる激闘へと向かって静かに歩み出した。




