第二章第十五話
1998年、秋。雨のそぼ降るマンチェスター。
「夢の劇場」の監督室には、威厳と凄みに満ちた一人の老名将がたたずんでいた。
スコットランド出身の伝説的監督である。
グラスゴーの港町で鍛え上げられた鉄の意志と、鋭い洞察力。数々のタイトルを獲得し、「赤い悪魔」の絶対的ボスとして君臨する彼は、デスク越しに目の前の東洋人をじっと見つめていた。
「ヒビキ。……W杯での君のプレイは確かに印象的だった」
重々しいダブついた口調で語りかける名将。
「だが、ここはプレミアリーグだ。激しいフィジカルコンタクトと息もつかせぬプレッシャーが支配する修羅場だ。お前のような華身なストライカーが、DFに叩き潰されて一か月で逃げ帰った例を、俺は山ほど見てきた」
ピッチ外では猫背で控えめな響木は、名将の圧倒的なオーラに思わず身を縮め、通訳を介してペコペコと頭を下げた。
「あ、あの……精一杯、がんばります……」
どこか頼りなさげに答える青年の態度に、名将は一瞬呆れたように息を漏らした。
しかし――その直後、老名将の目が、鋭い肉食獣のように細められた。
(……だが、この目がいい)
静けさの奥に潜む、獲物を追い詰める冷酷な捕食者の色。
「ハッ、口で語る必要はない。俺に認めさせたければ、ピッチの上で『ゴール』という結果だけを示せ」
名将は短く言い捨てると、デスクの上の書類に視線を戻した。
そして迎えた、プレミアリーグ第5節。
オールド・トラッフォードでの一戦。
雨で濡れた芝生が黒く光る中、7万人を超す超満員のサポーターがスタンドを赤く染め上げていた。
ベンチスタートとなった響木は、ピッチ上で繰り広げられる激闘を食い入るように見つめていた。目にも留まらぬ攻防、肉体と肉体が激突するドゴッという鈍い音。JリーグやW杯とも異なる、極限の荒々しさがそこにはあった。
後半25分。スコアは『0 - 1』。
1点を追う展開の中、ベンチの老名将が立ち上がり、響木の背中を強く叩いた。
「ヒビキ、準備しろ。……お前の牙を見せてこい」
「はいッ!」
ベンチからピッチへ足を踏み入れる背番号9。
場内アナウンスで響木の名が読み上げられると、スタンドからは期待と、まだ見ぬ東洋人ストライカーに対するほんのわずかな疑念が混ざり合った、複雑な歓声が湧き上がった。
だが、ピッチ中央に立った瞬間。
響木蒼生の表情から、いつものおどおどした気配が完全に消え去った。
世界の巨漢DFたちの位置、芝の濡れ具合、雨の軌道。
すべてをストライカーの冷酷な計算で処理していく。
後半38分。
右サイド深くでボールを持ったのは、あの「貴公子」だった。
激しいプレスを受けながらも、彼は一瞬の隙を見逃さず、右足を一閃する。
放たれたのは、美しい虹を描く黄金のアーリークロス。
プレミア屈指の強さを誇る相手CB陣が、一斉にペナルティエリア中央へ引いて警戒する。
だが、響木はその「強固な防壁」を最初から相手にしていなかった。
相手CBの死角。ラインがほんのわずかに歪んだ、誰も見ていない「空白の地帯」。
そこへ、影のように滑り込んでいたのは響木だった。
「なっ……!?」
相手DFが気付いたときには、すでに手遅れだった。
雨を切り裂いて落ちてくるボール。
響木はバウンドを見極めると、ノーモーションで空中へしなやかに跳躍した。
必殺の、ジャンピングダイレクトボレー。
ドスッ、という重い破裂音。
右足の甲で完璧に捉えられたボールは、弾丸のような軌道を描き、飛び出した相手GKの指先を嘲笑うかのようにゴール右隅の天井ネットへ突き刺さった。
『1 - 1』。
「ゴーッッール!! デビュー戦!! 響木蒼生!! 夢の劇場を狂乱の渦に巻き込む、衝撃の同点ダイレクトボレー!!」
実況の絶叫とともに、7万人のスタジアムが一瞬の静寂の後、爆発した。
「ッッッシャアアアアア!!」
激しい雨の中、普段の大人しさからは想像もつかない雄叫びをあげ、コーナーフラッグへと駆け出す響木。
真っ先に駆け寄ってきた貴公子が響木を豪快に抱き上げ、チームメイトたちが次々とその背中に飛び乗っていく。
プレミアリーグに名を残すことになる、赤い悪魔のホットライン、通称レッドラインが完成した瞬間だった。
タッチライン際。
腕を組んで戦況を見つめていたあの老名将が、不敵な笑みを浮かべて深く頷いた。
「フッ……噂通りの悪魔的な点取り屋だな」
たった一発のボレーシュートで、7万人のサポーターと気高き名将の心を完全に掌握した衝撃のデビュー戦。
試合後、もみくちゃにされていつもの控えめな笑顔で頭を掻く青年の背中に、オールド・トラッフォードの万雷の『ヒビキ』コールが降り注いでいた。




