第二章第十四話
オールド・トラッフォードでの鮮烈な移籍発表から数日後。
響木蒼生は、イングランドへ旅立つ前の最後の時間を過ごすため、思い出の詰まった函館の地へと戻っていた。
津軽海峡から吹きつける潮風が、函館港の緑地を心地よく撫でていく。
練習グラウンドのベンチ前には、クラブの危機から泥を舐めるようにして這い上がり、ファーストステージ制覇という奇跡を共に掴み取った「ステラマーレ函館」のチームメイトとスタッフたちが集まっていた。
「おいおい、なんだよその格好! 借りてきた猫どころか、借りてきたウサギみたいになってんぞ!」
真っ先に大声を上げて響木の首を豪快に腕で巻き込んだのは、無尽蔵のスタミナで右サイドを駆け抜け続けた原野駿之介だった。
「あ、たた……原野さん、苦しいです……!」
「バカ野郎、お前がプレミアの『赤い悪魔』に移籍なんてなぁ! 嬉しくて寂しくてたまんねえんだよ!」
原野の目には、すでにうっすらと涙が浮かんでいた。
「原野、少し落ち着け。響木の首が折れてしまうだろ」
苦笑しながら二人を制したのは、泥臭い守備で最終ラインを支え続けたキャプテンの門倉鉄馬だった。
門倉は響木の前に立つと、自身の大きな手で響木の肩をしっかりと掴んだ。
「響木。W杯での活躍も素晴らしかったが、俺たちにとってお前はいつまでも、函館の泥にまみれて一緒に戦った最高のエースだ。あっちに行っても、お前らしい冷酷なゴールで世界をビビらせてこい」
「……はい、門倉さん!」
「フフ、響木くん。向こうの綺麗な女性ファンに鼻下伸ばしちゃダメだよ?」
相変わらず女性誌から抜け出してきたような洗練された笑みを浮かべながら近づいてきたのは、背番号10の司令塔・沖瀬司だった。
沖瀬は自分の右足をトントンと叩くと、どこか悪戯っぽく微笑んだ。
「君のあの『死角に消える動き』に一番完璧なパスを出せるのは僕だと思ってたけど……今度はあのイングランドの貴公子様が相手だ。羨ましい限りだね。……でも、君なら向こうでも絶対に最高のストライカーになれる。保証するよ」
「沖瀬さん……ありがとうございます。沖瀬さんのパスがあったから、僕はここまで来られました」
南山、斎間、近江――泥まみれの苦楽を共にしてきた仲間たちが、次々と響木のもとへ寄り添い、背中を叩き、温かい言葉と抱擁を交わしていく。
少し離れた場所でその光景を静かに見守っていたのは、スカウトの伊波だった。
消滅寸前だったクラブの再建のさなか、原石だった響木の異常な「ストライカーとしての素質」を見抜き、函館へ引き入れた張本人である。
伊波はパイプを咥えたまま歩み寄ると、目尻に深いシワを寄せて笑った。
「ヒビキ。俺の見込んだ目に狂いはなかったな。……だが、プレミアリーグはJリーグやW杯以上に削り合いの激しい修羅の国だ。怪我にだけは気をつけるんだぞ」
「はい、伊波さん。僕を見つけてくれて……本当にありがとうございました」
深々と頭を下げる響木に、伊波は照れくさそうに背中をぽんと叩いた。
そして、最後にパイプ椅子から立ち上がったのは、鬼監督・鬼方 陣だった。
厳格な眼差しでたたずむ鬼方監督に、響木は背筋をピンと伸ばして直立不動になる。
鬼方は無言のまま響木の前まで歩み寄ると、腕を組み、冷徹なまでの低い声で言った。
「響木」
「はい!」
「向こうへ行けば、お前はただの『東洋から来た若蔵』として扱われる。周囲からの嫉妬も、激しいマークも、言葉の壁も、すべてが重圧となってしかかるだろう」
鬼方の厳しい視線が、響木の目をじっと射抜く。
「……だが、忘れるな。お前はファーストステージで俺たちの『誠』の旗を背負い、W杯で世界を震わせた男だ。ペナルティエリアの中で、お前より冷酷になれるストライカーなど世界中探しても存在しない。……胸を張って行ってこい」
めったに選手を褒めることのない鬼方監督からの、最大の餞の言葉。
響木の胸に、熱いものが込み上げてきた。
「……はいッ! 鬼方監督、本当にお世話になりました!」
溢れそうになる涙を必死に堪え、深々と頭を下げる響木。
その背中に、チームメイトたちから温かい拍手と歓声が降り注いだ。
ピッチを降りれば、どこまでも控えめで、仲間思いの心優しい青年。
だが、北の港町で育まれた熱い絆と浅葱色の誇りは、確かに彼の血肉となって息づいていた。
函館の空を見上げ、響木蒼生は力強く一歩を踏み出す。
愛する仲間たちと過ごしたあの激闘の日々を胸に――冷酷なる日本の捕食者は、いよいよ世界最高峰の舞台、プレミアリーグへと舞い降りる。




