第二章第九話
1998年、フランス。決勝トーナメント1回戦の舞台、パリのパルク・デ・プランス。
ノックアウトステージという一発勝負の極限状態の中、日本代表を待ち受けていたのは過酷な「誤算」だった。グループHを首位で勝ち上がった日本だったが、別グループで優勝候補のイングランド代表がまさかの2位通過。16強の初戦から、蹴球の発祥国であり「サッカーの母国」と呼ばれる巨大な壁と激突することになったのだ。
スタジアムを埋め尽くす白いユニフォームの大歓声。
対峙するイングランド代表の陣容はまさに豪華絢爛だった。右サイドに鎮座するのは、世界中のファンを魅了する精緻なキックを放つ右足の「貴公子」。
そして前線で圧倒的な威圧感を放つのは、圧倒的なフィジカルと強烈な勝負強さを兼ね備えたキャプテンの怪物FWだ。
「ビビる必要はない。母国だろうが何だろうが、俺たちのサッカーで叩き潰す」
絶対的エースのトップ下が低く言い放ち、チームに喝を入れる。
だが、前半18分。世界の真の恐ろしさが日本を襲う。
ハーフウェーラインを越えた右サイド深く。ボールを持った貴公子が、予備動作のまったく無い美しいフォームから右足を振り抜いた。
綺麗な弧を描いて放たれたアーリークロス。球種、スピード、落ちる位置――すべてが計算し尽くされた悪魔的な一球が、日本のCB陣の頭上を越えてペナルティエリア中央へ届く。
そこへ跳躍したのが、イングランドの主将であり怪物FWだった。
日本のDFをパワフルな体躯で完璧に抑え込み、強烈なヘディングシュートをゴールネットへ叩き込む。
1 - 0。
たった一本のクロスと、たった一度のヘディング。あまりにも完璧で理不尽な先制撃に、スタジアムが爆発的な大歓声に揺れた。
しかし、日本も黙ってはいない。
前半35分、左利きのボランチが相手のしつこいマークをかわしてスルーパスを送る。
イングランドのCB陣が一瞬ラインを上げたその死角。影のように滑り込んだのは、背番号9――響木蒼生だった。
飛び出してきた相手GKの位置を冷静に見極め、ワンタッチで右足を一閃。ボールはGKの脇を抜け、ゴール左隅へと吸い込まれた。
1 - 1。
響木の冷酷なまでのポジション取りから生まれた同点ゴール。両者一歩も譲らぬまま、前半が終了する。
後半、イングランドが勝負に出た。
後半12分、ベンチから投入されたのは、後に「神童」と呼ばれることになる18歳の快速FWだった。
その爆発的なスプリント能力は、投入直後から異彩を放つ。後半22分、中盤からのスルーパスに反応した18歳の神童が、驚異的な加速で日本の最終ラインをあっさりと置き去りにし、勝ち越しゴールを奪い去った。
1 - 2。
絶望的なスピードの差を見せつけられ、意気消沈しかける日本。だが、響木の眼光だけは冷たく研ぎ澄まされていた。
後半32分。
絶対的エースのトップ下が、相手二人を引きつけて出した絶妙な浮き球のパス。
ペナルティエリア内、混戦の中でルーズボールとなった瞬間、いち早くその落下点へ入ったのは響木だった。相手CBが身体を寄せにくるより早く、響木は右足でダイレクトボレーを放つ。
ドスッという重い音とともに放たれたシュートがサイドネットに刺さり、再び同点(2 - 2)。
怒涛の展開。時間は刻一刻と過ぎ、延長戦突入が誰もの頭をよぎった後半44分。
運命の瞬間が訪れる。
自陣での泥臭い奪取から、絶対的エースのトップ下へ。彼が溜めを作り、前線へ長いグラウンダーのパスを送る。
イングランドのCB陣が疲労で足が一瞬止まったその「空白」。
響木は誰よりも早くその死角へと走り込んでいた。
トラップを一切しない、ダイレクトシュート。
球軌道は弧を描き、必死に手を伸ばす相手GKの指先を抜けて、ネットの天井へ力強く突き刺さった。
「ゴーッッール!! 勝ち越し!! 響木蒼生! 初戦のアルゼンチン戦に続く、圧巻の今大会2度目のハットトリック!! サッカーの母国イングランドを粉砕する、土壇場の勝ち越しゴール!!」
実況の絶叫とともに、タイムアップのホイッスルが三度鳴り響いた。
3 - 2。
奇跡の撃破。日本代表がサッカーの母国・イングランドを下し、見身を粉にして掴み取ったベスト8(準々決勝)進出の瞬間だった。
歓喜に沸く日本の選手たち。その一角で、響木は力尽きたように芝生に膝をつき、肩で息を突いていた。
そこへ、一人の男が歩み寄ってくる。
白いユニフォームを纏うイングランドの「貴公子」だった。
彼は汗を拭いながら響木の目の前に屈み込み、自分のユニフォームを脱ぐと、手に持っていたそれを響木へと差し出した。
"Great movement, Mr. Hibiki. I'd love to play with a striker like you... Why don't you come to my club after the tournament? I want you to turn my crosses into goals with your volley."
(素晴らしい動きだったよ、ミスター・ヒビキ。君のようなストライカーとプレイできたら最高だ。……どうだ? 大会が終わったら、僕のいるクラブへ来ないか? 僕のクロスを、君のそのボレーでゴールにしてほしい)
世界中のフットボーラーが夢見る最高峰のクラブへの、熱烈なスカウトの言葉。
しかし――ピッチ上での冷酷な捕食者からいつもの控えめな青年に戻っていた響木は、差し出されたユニフォームを受け取りつつ、完全に目を丸くして固まっていた。
(えっ……えっと、なんて言ってるんだ……? 『グレート』……? 『クラブ』……?)
英語がさっぱり分からない響木には、目の前の世界的スーパースターが早口のネイティブな英語で何を情熱的に語りかけているのか、さっぱり理解できていなかった。自分を褒めてくれているのか、あるいはユニフォーム交換をしてほしいだけなのかすら怪しい状態である。
「あ、あの……サンキュー……? ユニフォーム、センキュー……です……」
恐縮しきった様子でペコペコと頭を下げ、ぎこちない英語と日本語混じりでユニフォームを受け取る響木。
そんな言葉の壁すら気づいていないかのような素朴で大人しい青年の反応に、貴公子はスカウトを好意的に受け止められたと思ったのか、満足そうに爽やかな笑みを浮かべて響木の肩を軽く叩いた。
母国イングランドを退け、世界を震撼させ続ける日本の浅葱色のエース。本人が全く無自覚なまま、その規格外の才能は世界最高峰の名門クラブのスカウトの網に、しっかりと捉えられていた。




